ACT.1
01 出発
冬休み初日の、十二月二十三日。
予定通り、『シングダム』の一行は二泊三日の合宿へと旅立つことになった。
といっても、参加するのは女子ジム生の面々、およびたー坊こと蒲生隆也少年のみである。
宿泊地も柚子の家の別荘であり、何も格式張ったものではない。柚子が入門した昨年度から、懇親の意味も兼ねて開催されることになったのだという話であった。
冬休みぐらいはゆっくりしたいものだなあと思いつつ、他には亜森らと初詣に行くぐらいの用事しかないので、さしたる不満はない。また、愉快ならざる経緯で入門することになったレオナとしては、ジムの面々と健全なる関係性を構築するために善処するべきなのだろうとも思う。
そんなわけで、レオナは着替えや日用品を詰め込んだスポーツバッグを片手に、集合場所の『シングダム』に向かうことになった。
集合時間は朝の九時で、十分前行動を心がけていたにも拘わらず、『シングダム』の前では馴染みのメンバーがすでに勢ぞろいしていた。
その中で、可愛らしいダッフルコートを着た柚子がぶんぶんと手を振ってくる。
「わーい、おはよう、九条さん! ……九条さん、だよね?」
「そう見えなかったのなら、幸いです」
他のメンバーも、あらかたきょとんと目を丸くしてしまっている。
レオナにとって唯一悩みの種であったのは、このような私服姿を彼女たちに開示せねばならないことであった。
もしも亜森家で開催されるクリスマスパーティに参加していたら、より深刻に頭を悩ませることになっていただろう。
「その格好は、何なのさ? ガラの悪さをことさらアピールしてどうしようっての?」
そのように発言したのは、この中で一番遠慮のない蜂須賀乃々美である。
まあ、レオナとしてもそれぐらいの誹謗は覚悟の上だ。
レオナのその日の格好は、唐獅子が刺繍されたスカジャンにデニムパンツ、深くかぶったキャップに濃い目のサングラス、というものであった。
だいぶんのびてきた髪はひっつめて帽子の中に隠しているので、クラスメートとばったり出くわしてもなかなかレオナと見分けることは難しいだろう。そのために、かけたくもないサングラスまでかけることになったのだ。
「私だって、好きでこのような姿をさらしているわけではありません 私の着るものは八割がた兄たちのお古なので、冬場にはどうしてもこういう格好になってしまうのです」
「へー、そうだったんだあ? 最近は制服姿しか見てなかったから、ちょっとびっくりしちゃったよー」
無邪気そうに笑いながら、柚子が「んん?」と首を傾げる。
「それじゃあもしかして、あの試合以降、土曜日に稽古に来なくなっちゃったのは、その格好でジムに来たくなかったからなのかな?」
「……そういう余計な洞察力は犬にでも食べさせてあげてください」
「あはは。あたしはかっちょいーと思うよお? 九条さんはスタイルがいいから、何でも似合うねえ」
「うん、レオっちは何気にモデル体形だもんね。もっとガーリーな格好も見てみたいもんだけど」
レオナは溜息を呑み下しつつ、その場のメンバーをぐるりと見回した。
引率者は『シングダム』の指導員でもある景虎明良で、同行するメンバーは遊佐柚子、蜂須賀乃々美、蒲生晴香、蒲生隆也───そして、先月末からジムに復帰した伊達和樹、それにレオナも含めて計七名だ。
『シングダム』には他にもキック部門の女子ジム生が存在したが、けっきょくいつものこのメンバーで早々に定員が埋まってしまったわけである。
(……これが全員、格闘技のジムに通っているメンバーだなんて、通りすがりの人には絶対わからないだろうなあ)
唯一景虎だけは男性のように厳つい風貌をしているものの、残りのメンバーは実に女性らしい魅力にあふれている。いささか目つきに険のある伊達とて、それは例外ではない。
また、彼女たちはきちんとその容貌に見合った服装をしていた。
アーミージャケットの景虎とスタジアムジャンパーの伊達はいくぶん勇ましげに見えなくもなかったが、それ以外はみな女性らしいデザインのコート姿だ。
特に乃々美は、長い黒髪をさらりと自然に垂らしているので、柚子以上に小さくほっそりとした体格と相まって、なかなかの可憐さである。可憐でないのは、じとっとした目つきと仏頂面ぐらいだ。
やはりこの中で一番可愛げのない風体になってしまっているのは自分なのだなということを再確認してから、レオナはスポーツバッグを抱えなおした。
「あの、なるべく人目につきたくないので、できれば早々に出発しませんか?」
「そうだね。それじゃあ、適当に乗っておくれ」
建物の前には、一台の大きなワゴン車が横付けされていた。
これは、『シングダム』の公用車であるらしい。
下っ端のレオナと柚子が最後部の座席に、乃々美と晴香と隆也少年が二列目に、景虎が運転席、伊達が助手席にそれぞれ収まる。
「道が混んでても、せいぜい二時間ていどで到着できるだろ。昼食は、目的地の近くで適当に済ませちまおう」
景虎の運転で、ワゴン車は軽やかに公道へと滑り出た。
以前は運送会社で働いていたという景虎であるので、運転はよどみない。まずは高速道路の入口を目指して、ワゴン車はすいすいと道を進んでいった。
「昼には向こうに着けるだろうから、ちょいと休んだら夜までみっちりトレーニングだよ? で、夕食を食べたら勉強会で、腹ごなしにまた少し動いてから就寝だ」
「それで明日は昼から練習試合、夜はクリスマスパーティですよね?」
至福の表情で柚子が身を乗り出すと、景虎はハンドルを切りながら「ああ」とうなずいた。
「去年もお世話になった『横須賀クルーザー・ジム』に連絡をつけてあるよ。できるだけキャリアとウェイトが合うような相手をみつくろってくれるって言ってたから、まあ期待してな」
「楽しみだなー! 去年は試合とかじゃなくて、合同練習だけでしたもんね?」
「そうだね。この前のイベントの映像を送ったら、向こうのコーチも面白がってくれたみたいでさ。だからこれも、みんながあの日の試合を立派につとめあげた成果ってことだね」
そのように答える景虎の声も、どこか弾んでいるように聞こえる。
「ただ、あちらさんはキックと柔術がメインだから、試合をするにしてもMMAじゃなくそっちのルールになると思う。苦手なほうに当たっちまったら、胸を借りるつもりで頑張りな」
これはMMA部門のレオナと柚子に向けられた言葉なのだろう。復帰したての伊達はまだ試合を行えるようなコンディションではない。
「うー、楽しみ楽しみ! 練習試合だったら観客もいないし、九条さんも思うぞんぶん素顔でスパークできるもんね?」
「そうですね」
「あり? どうしたの? もしかしたら、もう酔っちゃった?」
「いえ。なるべく人目につかないよう、身をひそめているだけです。対向車にクラスメートが乗っていないとも限りませんから」
「そんなでかい図体をいくら縮こまらせても意味ないじゃん。鬱陶しいから堂々としてなよ」
これはもちろん柚子ではなく乃々美の発言である。
前の座席の背もたれの上に、乃々美の目から上だけがひょっこりと覗いている。
するとその隣から、晴香の顔もにょっきり生えた。
「だけど、年頃の女の子なのにお兄さんのお下がりしか服がないなんて、ちょっと気の毒だよね。サイズが合えば、あたしの着なくなったアウターでもプレゼントするんだけどなあ」
「……私は無理を言って私立の学校に入れてもらったので、服をねだることなんてできません。それに、ジムの月謝まで母を頼ってしまっているのですから」
「でも、この夏までは地元で公立の学校に通ってたんでしょ? それなのに、服はそれしか持ってないの?」
「あの頃は───べつだんこの姿でも問題はなかったので」
というか、女の子らしい衣服などは、無用の長物でしかありえなかった。ひらひらした服やスカートなど、路上の喧嘩では邪魔にしかならない。中学や高校だって、レオナは半分がたジャージで通っていたぐらいであったのだ。
「それじゃあ今では、レオっちも問題ありと思ってるんだ? レオっちのママさん的には、どういう考えをお持ちなのかな?」
「母は……もっと女の子らしい服を着たらどうだと言ってくれていますが……」
「だったら何も悩むことないでしょ! そんなところで遠慮されたら、ママさんだって悲しい気持ちになっちゃうと思うよー?」
「で、ですが、私にはどんな服を買ったらいいのかもわかりませんし……」
「そんなの、お友達に相談すればいいだけでしょ」
笑いながら、晴香は柚子のほうに視線を差し向けた。
楽しそうに会話を聞いていた柚子が、ぱあっと顔を輝かせる。
「ショッピング? そんなの、いくらでもご一緒するよ! うわあ、友達とショッピングなんて何年ぶりだろ!」
「……そろいもそろって残念な連中だね」
じっとりとした目つきで乃々美が述べる。
すると、運転席の景虎が笑い声をあげた。
「何を言ってるんだい。この車に乗ってる時点で、亭主持ちの晴香以外はみんな残念だろ。よりにもよって、クリスマスに余所のジムにまで遠征して、人様と取っ組みあおうとしてるんだからさ!」
「残念でも何でもいいですよー。あたし、ものすごく楽しいです!」
そんな風に宣言してから、柚子は「えへへ」とレオナに笑いかけてきた。
そうしてワゴン車は高速道路にまで到達し、残念な御一行をいよいよ合宿の地へと誘っていったのだった。
◇◆◇
「うわ、ずいぶん立派な建物なのですね」
車から降りるなり、レオナはそのように驚きの声をあげてしまった。
東京は中野を離れること、およそ六十キロ。保養地としても知られる鎌倉市の奥まった位置に、その別荘とやらは存在した。
西洋風で、デザインはレトロだがまったく古びたところのない、二階建ての大きな家屋である。建物の前面には芝生の前庭が広がっており、敷地は低めの生垣で囲われている。一個人の別荘というよりは、ペンションとでも呼びたくなるようなたたずまいだ。
「まったく、呆れたもんだよね。こんなでっかい別荘が、何年もほったらかしにされてるっていうんだからさ」
ワゴン車の荷台から自分の荷物を引っ張り出しつつ、乃々美もそのように述べている。
柚子自身は、他人事のように「そうだねー」と笑っていた。
「なんか、税金対策で買っただけみたいなんだよね。知り合いとかに貸すことはあっても、家族で使ったことはほとんどないみたい」
弁財学園においては秘匿されている遊佐家の特殊な家庭事情も、『シングダム』においては明け透けに語られているのだ。
ちなみに柚子と半分だけ血の繋がっている兄や姉は、長期休暇のたびに海外へと旅立ってしまうらしい。
「こちらとしてはありがたいこったよ。無料で借りちまうのが心苦しいぐらいだよね」
「そんなの気にしないでくださいよー。あたしはみんなとお泊りできるだけでウッキウキなんですから!」
ともあれ、まずは搬入作業であった。
各人の荷物のみならず、トレーニングのための器材や行きがけに購入した夕食用の食材などもあるので、なかなかの大荷物だ。
「たー坊、無理しないでいいからね? いっぺんに全部を運ぶ必要はないんだから」
「ん、だいじょうぶ」
と、ジャンパー姿の隆也少年も両手にたくさんの荷物を抱え込み、よちよち歩いている。小学一年生としてもやや小柄な少年であるので、愛くるしいことこの上ない。
「えーと、キッチンはどこだったっけ?」
「こっちでーす。みんなの荷物は、いったんリビングにまとめちゃいましょうか」
建物の内部も、外見に見合った豪壮さであった。
玄関は、ちょっとしたスパーができるぐらい広々としており、その正面には幅広の階段がででんと待ちかまえている。吹き抜きの天井はとても高く、ペンションどころかホテルのような様相だ。
その欄干のついた階段の左右には絨毯敷きの回廊がのびており、壁にはいくつもの扉がうかがえる。一階だけで、二ケタの部屋が備えられている様子である。
キッチンは右手側の回廊の突き当たりにあったので、食材はすべてそちらに運び込む。
誰も暮らしていないというのに、そこには冷蔵庫や炊飯器はもちろん、巨大な調理用オーブンまでもが備えられていた。
「冷蔵庫はコンセントを入れておいてね? 毎月ハウスクリーニングを頼んでるから、衛生面は問題ないはず!」
「あ、トラさん、夕食用のお米は今の内に炊いておいたほうがいいんじゃないかな?」
「それもそうだね。晴香、頼めるかい?」
「あ、よかったら私がやりますよ」
レオナが挙手すると、その場にいる全員の目が集まった。
「……何ですか? 以前から台所をまかされることは多かったので、お米ぐらいなら普通に炊けますよ?」
「ほんとかなあ? 真っ黒焦げにしないでよ?」
「電気炊飯器でそんな器用な真似はできません」
レオナはスカジャンを脱ぎ捨てて、スウェットシャツの袖をまくった。
その間に、食材はしかるべき場所に収納されていく。
「お、なかなかの手際だね。それじゃあ炊事はあたしとレオっちで受け持とうか。トラさんもカズっちもののっちもゆずっちも、ごはん作りでは何の役にも立たないんだよー」
「蒲生さんのお役に立てるのなら、光栄です」
「うん、ほんとに料理は得意そうだね。去年なんか、あたしはほとんどひとりでこの大食らいどもの面倒を見ることになったんだから!」
晴香ににっこりと笑いかけられ、レオナは胸に温かいものが満ちていくのを感じた。
元は格闘技のプロ選手でありながら、外見にも内面にも粗野なところはまったくなく、六歳になる息子を立派に育てあげ、旦那さんとも睦まじい関係を構築しているというこの蒲生晴香という女性は、レオナにとって限りなく理想に近い人物であったのである。
「よし、晴香たちのほうもオッケーかな? それじゃあ柚子、部屋割りはどうするね?」
「片付けがめんどいから、一階で全部済ませちゃいましょうか。たしかツインの客間が三つはあったと思いますし」
となると、車中での座席がそのまま流用できそうであった。
すなわち、景虎と伊達、乃々美と晴香と隆也少年、柚子とレオナ、という部屋割りである。
「それじゃあ、ひとまず部屋に落ち着こうか。着替え込みで十五分休憩な」
客間というのは逆側の回廊にあったので、みんなでぞろぞろと移動する。
扉を開けると、そこには八帖ていどの空間が広がっていた。
ダブルサイズのベッドが左右に並んでおり、奥には巨大なクローゼットが鎮座ましましている。柚子がカーテンを引き開けると、大きな窓からたっぷりと陽光が差し込んできた。
「うーん、ますますテンション上がってきたあ! クラスの友達と小旅行に来てるような感覚まで味わえて、楽しさも倍増だね!」
「そうですね」と答えると、柚子は「あり?」と振り返ってきた。
「ワタシと遊佐サンはおトモダチでしたっけ? ……とかいうドSな発言を覚悟してたんだけど、余計な心配だったかしらん」
「何ですかそれは。私だって、血の通った人間ですよ」
「そんなのは知ってるけど! 同じようなシチュエーションでもう何回もそういう台詞を聞かされてるから、あたしも耐性がついてきちゃったのだよ」
レオナは肩をすくめるだけで、返事をする手間ははぶかせていただいた。
レオナとて、これまではクラスの友人とプライベートで旅行に行くことなど皆無であったのだ───などということは、ことさら伝える必要もないだろう。
「まあいいや! この後は日が暮れるまで地獄のトレーニングだよ? ウキウキしてきちゃうねー?」
「それには断固として、否と答えさせていただきます」
柚子は楽しそうに微笑んでから、引き開けたばかりのカーテンを閉ざした。
「ウキウキしようがしなかろうが、準備を始めないとね! 明日の練習試合では、あたしも絶対に勝ってみせるんだから!」
練習試合ならば、レオナも気負う必要はないだろう。伊達が参加できないのは少しばかり心苦しいところであるが、観客の目を気にする必要もないし、対戦相手は余所の土地の人間だ。入門四ヶ月足らずの新米ジム生なりの試合ができれば、それで満足である。
(ウキウキは言いすぎだけど、まあ楽しくないことはないよな)
そんな風に考えることのできる自分が、レオナは何となくむずがゆかった。
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