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ミニマムガール!

     -1-


 蜂須賀乃々美がその娘と初めて出会ったのは、夏休みが終わって二日目のことだった。


 九条レオナという、奇妙な娘である。

 ジム生の遊佐柚子と同じクラスであるという話であったから、乃々美とも同い年の高校一年生ということになる。


 むやみやたらと背の高い娘であった。

 乃々美よりも頭ひとつ分は大きいので、百七十センチは余裕で超えているだろう。


 しかも、ただ長身というだけではなく、手足が長くてモデルのようにすらりとした体格をしている。

 また、切れ長の目が印象的で、鼻が高く、実に凛然とした面持ちをしている。

 中途半端にのびた髪をおさげにしているのが少し野暮ったいが、そんなものを帳消しにできるぐらいには眉目が整っていた。


 その身に纏っているのは、都内でも有名なお嬢様学校の制服だ。

 お行儀よく前にそろえた手で平たい黒革の鞄を下げている姿が、実にかしこまって見える。


 そんな九条レオナという娘と相対するなり、乃々美は(……気に食わない女だな)と思ってしまっていた。


 この娘が、スパーリングのルールを無視して伊達を病院送りにしてしまったのだ。

 が、そんな前情報がなくとも、乃々美はこの娘が気に食わなくてしかたがなかった。


 何故、と問われてもわからない。

 つんと取りすましたその表情も、やたらと光の強い目も、妙に礼儀正しいその立ち居振る舞いも、何もかもが気に食わないのだ。


 それにこの娘は、どことはなしに胡散臭かった。

 口調なんかは丁寧すぎるぐらい丁寧だし、喋る内容も理路整然としている。わざわざ自分から『シングダム』に出向いてくるぐらいだから、伊達との一件も反省しているし、きちんと筋を通そうという真っ直ぐな気性も備えているのだろう。


 それでいて、この娘は胡散臭かった。

 どこか、挙動がちぐはぐなのである。


 そんな胡散臭い人間であるくせに、乃々美たちのことを奇妙な動物でも見るような目で見ている。その不思議そうな、ちょっと困惑しているような目つきが、乃々美には何より気に食わないのかもしれなかった。


「今日はわざわざありがとうね。もうしばらくしたら会長も戻ってくると思うけど、どうするね? 事務所で待っててくれるなら、お茶ぐらい出すよ?」


 景虎がそのように呼びかけると、その娘は首を横に振ってから、毅然と言った。


「いえ、これで失礼します。会長さんには、お詫びの言葉など不要と伝えていただければ幸いです。……このたびは、本当に申し訳ありませんでした」


 そうして九条レオナは『シングダム』を出ていった。

 後に残されたのは、伊達を除くいつもの女子ジム生と、晴香の娘である隆也だ。


「なーんか不思議な娘さんだったね。でも、悪いコではないんじゃない?」


 いつも通りのやわらかい笑顔で、晴香はそう言った。

 晴香や景虎があの娘に対して好意的であるように感じられるのも、乃々美の反感に火を注いだ。


「ふん、あんな胡散臭いやつ、僕は嫌いだよ。隆也もそう思うでしょ?」


 まだ小学一年生である隆也は、目をぱちくりとさせながら可愛らしく小首を傾げた。


「まだあったばかりなので、よくわかりません。ののっちはあのおんなのひと、きらいなんですか?」


「ああ、嫌いだね。大ッ嫌いだよ」


「あんた、これだけ実績を積んでも、まだ身長コンプレックスが治ってないんだね」


 と、景虎が苦笑しながらそのようなことを言ってきた。

「そんなの関係ないし」と乃々美は眉を吊り上げる。


「絶対あいつは、裏があるよ。どうせロクでもないやつに決まってる」


「うん、きっと見た目通りの人間ではないんだろうね。でも、隠されてる本性が悪人とは限らないじゃないか?」


「ふん! 悪人じゃなかったら、本性を隠す必要なんてないはずじゃん」


「そうでもないよ。世間では、あんたみたいに思ったことを全部表に出しちまう人間のほうが珍しいぐらいなんだからさ」


 乃々美は小さく舌打ちをして、ずっとだんまりを決め込んでいる柚子のほうを振り返った。


「遊佐、もうわけのわからない人間をこのジムに連れてこないでよ? ここは遊び場じゃないんだから」


「うん」と柚子は力なくうなずく。

 その悄然とした姿が、乃々美をますます苛立たせた。


 が、乃々美の苛立ちがピークに達するのは、それから数十分後のことであった。

 こともあろうに九条レオナが舞い戻ってきて、『シングダム』に入門させてほしい、などと言い出してきたのだ。


 会長の黒田がそれを快諾したことによって、乃々美は目がくらむほどの苛立ちを覚えることになった。


     -2-


「どしたの、蜂須賀さん? 何だか機嫌が悪いみたいだね?」


 翌日の、学校である。

 乃々美が自分の席でぼけっと頬杖をついていると、クラスメートの山田理沙がそのように呼びかけてきた。

 そちらをちらりと見やってから、乃々美は「別に」と言い返す。


「別にってことないでしょ。見るからに不機嫌そうじゃん。……まあ、蜂須賀さんはいつでも不機嫌そうだけどさー」


 この山田理沙は、クラスで一番頻繁に声をかけてくる相手であった。

 特別に仲がいいわけではない。単にこの娘がクラスで一番好奇心が旺盛で、なおかつ物好きである、というだけのことだ。


「ジムのほうで何かあったの? 強力なライバルでも出現しちゃったとか?」


「……あんなやつ、ライバルなんかにはなりゃしないよ。ただでさえ種目も階級も違うんだし」


「あー、やっぱりジムがらみで何かあったんだ? 蜂須賀さんがそこまでぷんすかするのって、そっち方面でしかありえないもんねー」


 そんな風に言いながら、山田理沙は前の席に腰を下ろし、乃々美の顔を覗き込んできた。


「よかったら何でも相談に乗るよー? 誰かとケンカしちゃったとか?」


「そんなんじゃないよ。ただ、気に食わない女が入門してきただけさ」


「ふーん? また新しい女の人が入門してきたんだ? 世の中には格闘技をやろうなんて考える女の人がそんなに存在するもんなんだねー」


 べつだん乃々美を挑発する風でもなく、山田理沙はそのように述べた。

 ムエタイのアマチュア世界王座を保持している乃々美は、当然のように学校内において変人の認定を受けている。その中で、この山田理沙はまだしも乃々美の経歴を気にしていないほうの人間であった。


「でも、入門してきたばかりなら、悪い人とも限らないじゃん。案外、いいお友達になれるかもよ?」


「冗談じゃないね。あんな胡散臭いやつ、こっちのほうが願い下げさ」


「あはは。蜂須賀さんは人を見る目が厳しいからなー。もっと心を広く持ったほうが、人生楽しくなると思うよー?」


 乃々美はそっぽを向き、横目で相手の顔をにらみ返す。

 山田理沙はもう一度笑ってから、席を立った。


「今日さ、みんなで買い物に行くんだ。よかったら、蜂須賀さんも行かない?」


「……放課後は、トレーニング」


「そっかー。それじゃあまた時間のあるときによろしくね」


 山田理沙が立ち去っていったので、乃々美は小さく息をついてから、また窓の外へと視線を飛ばした。

 彼女からこのような誘いを受けるのは初めてのことではなかったが、きっと実現することはないだろう。乃々美は週六で『シングダム』に通っていたし、唯一の閉館日である日曜日も、たいていは自分の試合であったり、他の選手の試合を手伝ったり、試合を観戦に行ったりで潰れてしまっているのだ。


 だけどそれで、乃々美には何の不満もありはしなかった。

 自分にとって一番大事なのは格闘技であり、それ以外のことは基本的にどうでもいい。格闘技選手としての活動期間はごく限られているのだから、余計なことに時間を割くゆとりはなかった。


 ジムに行けば気心の知れた仲間がいるし、余所のジムにだって知人は多い。中には蒲生晴香のように友人と呼べるぐらい心を通い合わせることのかなった人間もいるのだから、孤独感に苛まれることもない。乃々美はこれでも、人並み以上に充足した人生を送っているつもりであった。


 アマチュアの世界王座は獲得できたのだから、次の舞台はプロのリングだ。

 キックボクシングにはボクシングのように世界共通のプロライセンスというものが存在しないので、来年の春になって十六歳になったら、とりあえずは国内で一番大きな連盟のプロ試験を受けようと考えている。


 それでプロ選手としての実績を積んだら、いよいよ世界を目指すのだ。

 世界に乱立するムエタイおよびキックボクシング団体の、いくつの世界王座を獲得できるか。乃々美の目標は、そこにしかなかった。


 そんなのは夢物語だと笑う者もいる。

 逆に、そのような行為にどんな意味があるのかと疑問視する者もいる。


 ボクシングほど権威の確立されていないムエタイやキックボクシングの世界王座というものに、いったいどれだけの価値があるのか。そんなことは、当の乃々美にだって理解しきれてはいなかった。


 ましてや乃々美は、女子選手である。

 権威の確立されていない競技の中の、さらに歴史の浅い女子部門の選手であったのだ。


(女子の場合は、キックどころかボクシングで世界を獲ったって、食べていけるかはわかんないんだもんな)


 わりと最近、女子ボクシングの世界三階級制覇王者というアメリカの選手がMMAに転向し、そこでも王座を獲得することになった。

 その際に、「ついに長年の苦労が報われた」と評する記者がいた。

 女子選手がボクシングの世界でどれだけ活躍しても、それに見合う富や栄光を手中にすることはかなわない、ということだ。

 いわんやキックボクシングにおいてをや、である。


 ちなみにMMA、総合格闘技という競技は、キックボクシングよりもさらに歴史の浅い競技であるにも拘わらず、ショービジネスとしてはしっかり確立されている。

 むろん、日本国内においての扱いはキックやムエタイと同程度であるが、世界においてはその限りではない。世界最大の大手団体はラスベガスのグランド・ガーデン・アリーナを常打ちの会場としており、そこでの世界王座を獲得すれば、巨万の富をも得ることが可能なのだ。


 だけど、そのようなことも乃々美には関係がなかった。

 乃々美が魅了されたのは、MMAでもボクシングでもなく、ムエタイでありキックボクシングであったのだ。


 乃々美がムエタイを習い始めたのは、九歳の頃だった。

 それから六年間、乃々美はすべての情熱をトレーニングに費やし続け、ついにアマチュア世界王者の座を獲得できたのだ。


 今さらこの生き方を変えられはしないし、また、変えるつもりもない。

 どうしてもと親が懇願するので高校には進学したが、卒業後にはアルバイトでもして食いつなぎ、とにかく目標に向かって邁進する心づもりである。


 そんな人間がごくありふれているとは思えないので、変人扱いされることにはなれている。

 が───あの九条レオナという娘の目つきは、そんな乃々美にも腹立たしく思えてならなかったのだった。


(どうして僕があんなやつに、珍獣でも見るような目つきで見られなくちゃならないんだよ)


 あの娘は、空手道場の家に生まれついたのだという。

 それで、物心つく前から空手の稽古に没頭させられ、不本意きわまりない人生を歩むことを余儀なくされたのだそうだ。


 だけど乃々美は、九条レオナの心情を理解することができなかった。

 もちろん、好きで始めたものでないなら、本人にとっては苦痛でしかないだろう。羽柴塾というのは日本中の空手連盟から関係を断絶された道場であるという話であったから、そんな場所に生まれついても得るものはなかったのかもしれない。


 しかし、それで格闘技というものにうんざりさせられたのなら、大人しく身を引いておけばいいではないか。

 どうしてわざわざ畑違いのMMAを習おうなどと思ったのか、その心情が乃々美には理解できない。


 ゆえに、こうして丸一日が経過しても、乃々美の胸中には九条レオナという不可解な娘に対する不満と反感がぐるぐると渦巻いてしまっているのだった。


                ◇◆◇


 放課後、『シングダム』に出向くと、トレーニングルームには景虎の姿しかなかった。

 あんまり無駄口を叩く気分でもなかったので、乃々美は更衣室に直行する。

 鍵がかかっていたのでノックをすると、「ちょっと待ってねー」という声が響き、それからTシャツ姿の晴香が顔を出してきた。


「いらっしゃーい。あれ、今日も不機嫌そうなお顔だね」


 乃々美は無言のまま更衣室に踏み込み、一番奥側のロッカーに手を掛けた。窮屈な制服を脱ぎ捨てて、持参した練習用のタンクトップに首を通す。


「あの九条さんってコね、無事に入会の手続きが進んでるみたいよ。今日から練習に参加するんじゃないのかな」


「……ふーん」


「まあ、カズっちの一件があるから手放しで歓迎はできないだろうけどさ。キックじゃなくってMMAのほうに入門するんだから、放っておけばいいと思うよ?」


 練習用のハーフパンツに足を通しながら、晴香は笑いかけてきた。


「で、またののっちがあれこれ文句をつけちゃうと、トラさんや会長なんかが苦しい立場になっちゃうから、不満や愚痴はみんなのいないところで、あたしにだけ言いなね?」


「……どうして晴香たちは、そんな普通にあいつのことを受け入れられるの? あんなの、見るからに胡散臭いじゃん」


「んー? そりゃまあおかしな経緯になっちゃったけど、入門したいって言ってる人間を拒む理由はないんじゃない? 実際、どういう人間なのかも全然わかんないんだしさ」


 誰も彼もが同じようなことを言うのだな、と乃々美はいっそうささくれた気分になる。


「まあ、話してみればいいコかもしれないし。気長に見守ってあげればいいんじゃないかなあ」


 そんな風に言いながら、晴香は乃々美の頭に手をかけてきた。

 もともと三つ編みにしておいた長い髪を、やわらかい手つきでくるくると結いあげてくれる。


「ののっちなんかは、よっぽど馬の合う相手じゃないと仲良くできないもんね? せっかく同い年なんだから、ゆずっちなんかとももっと仲良くすればいいのに」


「……あいつはいっつもへらへらしてるくせに、何かあるとウジウジするから、めんどくさい」


「うーん、ののっちはこのジムで年上に囲まれて育ってきたから、同い年のコが子供っぽく見えちゃうのかな」


 笑いながら、晴香はぽんと頭を叩いてきた。


「ま、あたしは我が道を行くののっちが好きだからさ。無理に仲良くしろとは言わないけど、波風だけは立てないようにね?」


「そんな台詞はあいつのほうに聞かせてやればいいよ」


 そうして練習を開始してすぐに、当の九条レオナが柚子をともなってやってきた。

 乃々美は無視して晴香と一緒に自主トレーニングに励んでいたが、すぐに黙ってはいられなくなった。こともあろうに、九条レオナは十一月の対抗戦に参加したい、などと言い出して、乃々美の神経を逆なでしてきたのである。


「そんな話は、了承できないね」


 さしもの景虎も、厳しい指導員としての眼差しでその馬鹿げた提案を一蹴してくれた。

 が、九条レオナは引き下がらず、自分の実力を見てから決めてほしいなどと言いたててきたのだった。


(本当に何なんだよ、こいつは)


 ジムの所属選手を負傷させたあげく、その代理をつとめたいだなんて、どれだけ面の皮が厚かったらそのようなことを言い出せるのだろうか。


 しかし九条レオナは、何やら必死であるように見えた。

 それでけっきょく、景虎も柚子とのスパーリングを了承することになってしまったのだが───その結果は、惨憺たるものであった。空手の出身であるという九条レオナは、寝技に関して完全な素人だったのである。


(ふん、いい気味だ)


 先日は伊達を投げ飛ばそうとした、という話であったが、しょせん立ち技と寝技では勝手が違いすぎる。空手の黒帯だろうが何だろうが、打撃技を禁じられたルールで何ができようはずもなかった。


 それにこの柚子だって、とりたてて格闘技の才能などは持ち合わせていなかったが、『シングダム』で一年以上もトレーニングを積んできた身であるのだ。

 とりわけ柚子は寝技のほうを得意にしている選手であったので、わずか三分間の制限時間で小気味いいぐらいポンポンとサブミッションを極めることができた。


 これなら、代理出場などという馬鹿げた提案も無事に流れるはずであった。

 が───最後の十数秒で、その場にいる者は全員息を呑むことになった。


 柚子のタックルをかろうじて回避した九条レオナが、いきなり鋭さを増した動きで相手にのしかかり、フェイスロックを極めてしまったのである。


 それはまるで、手負いの獣が最後の力を振り絞ったかのような動きであった。

 景虎がストップをかけていなかったら、今度は正規のルール内で柚子が病院送りになっていたかもしれない。

 寝技などとは無縁な乃々美でさえ、見ているだけで背筋に粟が生じてしまった。


「ふうん、そいつは是非、俺も見てみたかったもんだなあ」


 二時間後、景虎から報告を受けた黒田は呑気そうに笑いながら、そのように述べていた。

 で、けっきょく九条レオナの申し出は「保留」という形で収まってしまったのである。


     -3-


 それから数日間、乃々美は悶々とした気持ちで日々を過ごすことになった。


 もっとも、九条レオナの存在は思っていた以上に乃々美には関わってこなかった。とにかくあの娘は寝技のディフェンスを磨く必要があったので、キック部門の乃々美とは接点がなかったのである。


 練習には、毎日顔を出している。

 が、四時から七時までの自由練習時間はずっと景虎や柚子と取っ組み合っているし、講習がキックの曜日は、七時以降も同じ面子と自由練習に取り組んでいた。


 MMAや柔術の講習の日は、立場が逆転する。九条レオナは黒田や景虎たちの指導で基本練習に励み、乃々美はジムの隅っこでサンドバッグを蹴る。毎日がその繰り返しであった。


 その数日間で、晴香や景虎はすっかりこの問題児と打ち解けた様子であるが、むろんのこと、乃々美は必要最低限の口しかきいていなかった。

 だから、その姿が視界に入ることは多くても、確執が深まる要因はない。特にこの時期はジム生の大半が『ヴァリー・オブ・シングダム』に向けて熱意を燃やしていたので、九条レオナの存在が取り沙汰されることも少なかった。


 そうであるにも拘わらず、乃々美は胸中に煩悶を抱えていた。

 九条レオナの出場が認められようと認められまいと、基本のところで自分には関係がない。自分は自分の試合に集中するだけだ。相手は二階級も上の選手で、国内のキックやグローブ空手の大会で三冠を手にしており、年明けにはプロデビューする予定であるという。乃々美にしても、決して油断できる相手ではなかった。


 だから乃々美も集中して練習に取り組んでいるつもりでいるのだが、どうにも九条レオナの存在が気にかかってしまう。

 接点がなくとも、視界に入るだけで気分を害されてしまっているのだろうか?

 あの日以降、伊達がまったく姿を見せず、黒田以外には連絡もよこしてこないことが、その不愉快さに拍車をかけてしまっているのだろうか?

 それも外れてはいないのかもしれなかったが、それだけが要因のすべてであるとは思えなかった。


 竹千代武士という男が入門を願い出てきたのは、そんなさなかのことであった。


「どうしてあんたがこんなところにいるんだよ!」


 これまでの丁寧すぎる態度をかなぐり捨てて、九条レオナはそのようにわめきたてていた。

 あげく、顔をあわせるなり、その竹千代という男に殴りかかったのだ。


 それは、格段に鋭い正拳突きであった。

 練習時とは比べ物にならないほどの、気合のこもった一撃だ。

 それを見て、乃々美はいっそう胸が重苦しくなるのを感じた。

 理由はわからない。ただ、この娘と初めて顔をあわせたときぐらい、腹の中が煮えてしまった。


 その衝動のかりたてるままに、乃々美は騒ぎの場へと近づいていく。

 が、それよりも早く、景虎がその場を取りなしてしまった。


「どえらい剣幕だったねえ。……素性は聞いてなかったけど、この坊やは九条さんの知り合いだったのかい?」


「……はい。羽柴塾の門下生だった人間です」


 そのように答える九条レオナは、一転して暗い面持ちになってしまっていた。

 さきほどの剣幕が嘘のようだ。


「あの、できれば今の一幕は記憶から抹消していただけるとありがたいです」


 そんな風に言い捨てて、九条レオナはしょんぼりとうつむいた。

 まるで小さな子供みたいな仕草だ。

 さっきの荒っぽい態度よりも、乃々美はその悄然とした姿にこそ、驚かされてしまった。


 そして、体内に満ちた激情が行き場をなくして、ぐるぐると駆け巡っていくのを感じる。

 叱りつけようとしたら先に謝罪をされてしまった、とでもいうかのような心境だ。


 まったくわけがわからない。

 九条レオナという人間もわからなかったし、自分自身の気持ちもわからなかった。


 自分はどうしてこの娘の挙動に一喜一憂してしまっているのか。

 どうしてこんな風に、自分とは直接関わりのない事柄でまで、心をかき乱されてしまっているのか。

 それが、わからなかった。


 そうしてその後は、九条レオナたちのクラスメートであるという人間まで現れて、事態はいっそうわけのわからないことになってしまった。


     -4-


(要するに、お嬢様学校の生徒が格闘技のイベントなんかに出るのはけしからんって話だったのかな)


 翌日。

 中野の駅から『シングダム』に向かいながら、乃々美はやっぱり苛立っていた。


 どうしてこうも、次から次へと腹の立つ出来事が巻き起こるのか。頭をかきむしりたいほどであった。


 柚子はきちんと学校の許可を取って『ヴァリー・オブ・シングダム』への出場を決めたのだと主張していた。それだったら、どうして他人にあれこれ指図されなければならないのか。そんなことを指図できるのは、百歩譲って親ぐらいだろうと思う。


 だけどあの連中は、弁財学園というちょっと風変わりな学校の生徒だった。

 弁財学園というのは、ずばぬけた学力を持っているか、親がよほどの資産家か、あるいは名家の血筋ででもない限り、入学することは決して許されないという、実に前時代的な存在であったのだ。乃々美とて、昨年に入門した柚子が弁財学園の生徒なのだと聞かされたときは、たいそう驚かされたものだった。


 だからきっと、弁財学園においてはあの亜森とかいう黒縁眼鏡の娘よりも、九条レオナや柚子のほうこそが異端児であるのだろう。

 けっきょく昨日の段階では問題が片付かず、学園の校長をまじえて再度正否を定める、という話になってしまっていた。


(あの九条ってやつは、これで出場をあきらめるのかな)


 そんな風に考えると、余計に胸がむかむかしてしまう。

 九条レオナの出場には反対していたが、こんな横槍で話が立ち消えるのは、何か間違っている気がしてならなかった。


(こんなんで出場をあきらめるぐらいなら、いっそ『シングダム』をやめちまえばいいんだ)


 そんな風に思いながら、乃々美はガラスの扉をくぐった。

 無人の受付で名前を記入し、ずかずかとジムの敷地にあがりこむ。

 そうして、意味もなく呼吸を整えてから、トレーニングルームの扉をそっと引き開けると───キッズクラスのジム生が練習に励んでいるさなか、スペースの隅っこで車座になっている九条レオナたちの姿が見えた。


 何とはなしにほっと息をつき、更衣室で着替えを済ませる。

 晴香はキッズクラスの講習を手伝っていたので、乃々美は逆側の隅っこで自主練習に取り組むことにした。


 九条レオナのもとに集っているのはいつものメンバー、柚子と景虎と、それに新米の竹千代だ。

 寝技用のマットの上に陣取って、何やら和やかに語らっている様子である。

 ときおり竹千代が立ち上がって、技の解説をするように突きや蹴りを放っていたが、それ以上の動きは見られない。


 そうこうしている内にキッズクラスの講習は終わり、晴香と隆也が乃々美のほうに近づいてきた。


「や、ののっち。今日は遅い到着だったね」


「ん。なんか文化祭の準備とかで、居残りさせられちゃったんだよね」


「あー、もうそんな季節かあ。ののっちのクラスは何すんの?」


「どーでもいいよ。どうせ本番には参加しないし」


 文化祭の当日は、男子選手のキックの試合があったので、その雑用を手伝う約束をしていたのだ。


「ののっちらしいなあ。ま、いいや。たー坊が今日のおさらいをしたいっていうんだけどさ、ちょっとののっちもフォームを見てあげてくれない?」


「うん、いいよ」


 三人でサンドバッグのほうに移動する。

 その間も、九条レオナたちはまだ隅っこのほうで語らっていた。

 練習のスペースは空いたのに、まだ実戦には取りかからないらしい。


 そうして隆也のミドルキックのフォームを矯正し、キックミットに移行しても、まだ彼らが動こうとしなかったので、乃々美はついに業を煮やしてしまった。


「……ちょっと外れるね」と晴香たちに言い置いて、乃々美は大股にそちらへと近づいていった。


「自由時間だから何をしても勝手だけどさ、そんな風にくっちゃべってるだけで何か身につくわけ?」


 景虎たちは、きょとんとした面持ちで乃々美を見上げてきた。

 九条レオナも、同様の表情である。

 それで乃々美は、いっそう苛々としてしまう。


「あんた、今でも対抗戦に出ようって考えは捨ててないんでしょ? だったら口より先に身体を動かしなよ」


 それともまさか、柚子ともども興行への参加をあきらめてしまったのだろうか。

 乃々美の苛立ちも知らぬげに、柚子は小首を傾げている。


「ののちゃんは、九条さんが対抗戦に出場するのは反対してなかったっけ? いつの間に応援する側に変わったの?」


「応援なんざしてないよ! ……ただ、そこの空手オンナよりあの眼鏡オンナのほうが余計にムカつくってだけのことだよ」


 乃々美がどれだけいきりたっても、その場にいる者たちはずっときょとんとしていた。乃々美が何に苛立っているのか、まったく理解できていないのだろう。


 が、理解できていないのは乃々美のほうも同様であった。

 ただ、むやみに腹の中が煮えてしまうのである。


「そっかー。何にせよ、ののちゃんが味方になってくれるなら嬉しいなあ」


「味方になんてなってないって言ってんでしょ! あんたたちの学校にはロクな人間がいないね、あんたたちも含めて!」


 八つ当たり気味にわめいてから、乃々美はその連中に背を向けた。

 すると、柚子が後ろから追いかけてきた。


「ののちゃん、ひさびさにスパーしよう! 肘だけ禁止のムエタイルールね!」


「あんたみたいなへたっぴとスパーしても、こっちは練習にならないんだよ!」


 だけどまあ、乃々美もおもいきり身体を動かしたい気分であった。

 立ち技の不得手な柚子では役者不足だが、サンドバッグを蹴るよりは鬱憤も晴れるだろう。


「よーし、それじゃあお願いします!」


 防具を装着し、リングの上で柚子と向かい合う。

 柚子は乃々美より三センチばかりも大きいだけであったし、ウェイトも数キロしか変わらない。両者の実力差を考えれば、ハンデにもならない数字であった。


 柚子はステップを踏みながら、無難に左ジャブを打ってくる。

 フォームは綺麗だが、スピードもキレもない。これでは威嚇にも牽制にもならないだろう。


 それをわからせるために、乃々美は正面から奥足のミドルを蹴ってやった。

「うわ!」とそれを両腕で受けた柚子が、勢いに負けて後ろによろめく。


「遊佐の相手ってサウスポーじゃないんでしょ? だったら僕とスパーしても意味なくない?」


「そんなことないよ! ののちゃんのスピードについていけるようになったら、誰も怖くないもん!」


「そんなの、何年かかるんだよ」


 乃々美は溜息をつき、サウスポーからオーソドックスにスイッチしてみせた。

 ヘッドガードの下で、柚子はきょとんと目を丸くする。


「ののちゃんってオーソドックスでもいけたっけ? 今まで見た覚えがないんだけど」


「ハンデだよ。悔しかったら、一発でも入れてみな」


 この柚子という娘は、ヘッドガードをしていてもすぐに顔を切ったり腫らしたりしてしまうのである。すぐに筋なども痛めてしまうし、元来的に身体が虚弱なのだろう。


 だけど、乃々美にとっては同じジムに通う仲間だ。

 自分とスパーをするならば、少しでも何かをつかみ取ってほしいと思う。


「よーし!」と柚子が突進してくる。

 乃々美はアウトサイドに逃げ、不慣れな左ジャブでそれを迎撃してみせた。


「動きが雑すぎ。そんなんじゃハンデの意味がないよ」


 柚子はうなずき、また丁寧にジャブを突いてきた。

 それをいなしつつ、乃々美は柚子の肩ごしにリングの向こう側を見た。

 ようやく九条レオナが立ち上がり、竹千代とスパーを始めたのだ。


 いや、スパーというよりは、空手の組手というべきだろうか。

 どちらも防具やグローブを着用しようとはせず、マットの上で無造作に向かい合っている。


(いったい何を始めるつもりなんだか)


 乃々美のそんな思いは、次の瞬間に吹き飛ばされることになった。

 乃々美は、度肝を抜かれてしまったのだ。

 九条レオナの鋭い身のこなしに、である。


 防具もつけずに組手を始めた二人は、容赦なく拳や蹴りを繰り出した。

 どちらも尋常な身のこなしではない。空手というよりは、中国拳法の演舞を見ているような心地であった。

 それぐらい、両名の動きはなめらかでよどみがなく、そして美しかったのだ。


 近い間合いで、正拳突きや前蹴りを繰り出す。攻撃するのは主に九条レオナのほうで、竹千代はそれをかわしつつ、ときおり合いの手を打つように攻撃を放つだけだ。


 決してスピードのある動きではない。

 しかし、ぞっとするほどなめらかな動きであった。

 どちらの動きも、リズムが読めない。いきなりふわりと手や足が動き、相手の急所に吸い込まれていく。それをまた、絶妙なタイミングで防御している。もしかしたら、最初から決まっている動きをおたがいになぞっているだけなのではないか───そんな風に思えてしまうほど、二人の動きは正確であり、精密であった。


 そんな攻防がしばらく続いた後、ついに九条レオナの前蹴りが竹千代の腹を撃ち抜いた。

「うぐっ」とうめき声をあげて、竹千代はうずくまる。


「若干、水月から外れましたね。これでもダウンぐらいは奪えると思えますが」


 九条レオナの落ち着き払った声が、リングの上にまでうっすらと聞こえてきた。

 その声と言葉にまた逆鱗を撫でさすられて、乃々美は思わず手加減を忘れたローキックを柚子の足に叩き込んでしまった。


「あいててて……なんかスキだらけに見えたんだけど、やっぱりののちゃんにはかなわないやあ」


 マットにへたり込んだ柚子が、呑気そうに声をあげている。

 それには答えず、乃々美はリングから飛び降りた。


「ちょっと! 今のは何なのさ!」


 九条レオナが、いぶかしそうに振り返った。

 竹千代と景虎も、こちらに向きなおる。


「今のは、羽柴塾の組手です。MMAでは反則とされている技を禁じ手にした、限定組手ですが」


「これはこれで気が抜けないし、それにやっぱり距離感が変わってきますね。あんまり近づくと出せる技がなくなっちゃいますし」


「そんなことは、どうでもいいんだよ!」


 我知らず、声が大きくなってしまう。


「あんた、普段の練習と全然動きが違うじゃんか! ジムの稽古では手を抜いてたっての!?」


「いえ、決してそういうわけではありません。ただ、ジムのトレーニングでは羽柴塾の技を使う機会もありませんでしたので」


 いまだビギナークラスの身である九条レオナは、正式なスパーというものをしたことがない。自由時間には思うぞんぶん取っ組み合っていたが、それらはいずれも寝技限定のグラップリング・ルールというやつだった。


 が、MMAの講習では、打撃技の練習だって存在する。

 スパーリングでなくとも、サンドバッグやキックミットを相手にしている姿は、これまでに何度もさらしていたのだ。


「このジムで習うのは、これまであまり縁のなかった回し蹴りの類いですから、ずいぶん勝手が違うのですよ」


「それじゃあ、パンチのほうはどうなのさ! あんな気合のこもったパンチを、これまでに一度だって見せたことがある!?」


「突き技ですか。それもやっぱり、勝手が違うのですよね」


 言いながら、九条レオナは乃々美のほうに突き出してきた拳をぎゅうっと握り込んだ。

 これ以上ないぐらい拳が小さく収縮し、そして拳の前面が真っ平らになっている。この娘は、空手の稽古で完全に拳頭が平たく潰れてしまっているのだ。


「羽柴塾では、これぐらい強く拳を握るのがセオリーなのです。バンテージやグローブをはめてしまうと、それが邪魔になって拳を握り込めませんし、拳をうまく握れないと、その他の力加減も微妙に狂ってきてしまうのですよね」


「…………」


「あの、蜂須賀さんは何をそのように怒っておられるのでしょうか?」


 九条レオナは、真っ直ぐに乃々美を見つめ返してきた。

 その顔は普段通りに取りすましていたが、その切れ長の目は───何とか乃々美の真意を汲み取ろうと、必死になっているように感じられた。


(だから、どうして僕がそんな目つきで見られなきゃいけないんだよ!)


 内心でわめきつつ、乃々美は頭をかきむしろうとしたが、ヘッドガードとグローブをつけていたのでそれも難しかった。


「……あんたの習ってきた空手には、前蹴りと正拳突きしか存在しないっての?」


「回し蹴りなら、こう、内から外に回す蹴りがありますが。乱戦の場でもなければ、そうそう使いませんね」


「やっぱり足を腰から上にあげるのは体勢を崩しやすいですからね! だから姐さんは、もっぱら男どもの金的を───」


 九条レオナは無言で掛け蹴りを繰り出した。

 愚かなる竹千代は「ぬわあ」と叫びながら、すんでのところでその攻撃を回避する。


「今、何とか羽柴塾の技をMMAに応用できないか、景虎さんと検討していたんです。目障りであったのなら、謝罪いたします」


 乃々美は反論の言葉を失ってしまう。

 なので、まったく関係のないことを言ってみせた。


「……あんたさあ、何でいつまでもそんな芝居がかった喋り方なの? オラレルだとかイタシマスだとか、そんな言葉を使う高校生は見たことがないんだけど」


「え……それはあの、すでに露呈してしまっている通り、私はこれまで非常に品のない喋り方をしてしまっていたので、頑張って矯正している最中なのです」


 そのように言いながら、九条レオナはうっすらと頬を赤らめた。

 この取りすました娘がそんな風に羞恥の表情を見せるのは、これが初めてのことであった。


「これでも学校では、それほど浮いてはいないのですよ? あの昨日の亜森さんなども、実に綺麗な言葉を使われていますし」


「そんなお嬢様学校の常識なんて知ったこっちゃないよ。そんなに自分の本性をひた隠しにして、疲れないの?」


「たとえ疲れても、自分を嫌いになるよりはマシだと思ったのです」


 九条レオナは肩を落とし、しょんぼりとうつむいてしまった。

 乃々美を落ち着かない気持ちにさせる、あの悄然とした姿だ。

 乃々美は溜息をついてから、物見高そうに押し黙っている景虎のほうに視線を転じた。


「ねえ、あんな組手を眺めてるだけで、いったい何がわかるっての? 片方は普通の選手を使ってスパーでもやらせたほうが、よっぽど見えてくるものはあるんじゃない?」


「うーん、だけど羽柴塾の空手は一撃必殺が信条だっていうからさ。前蹴りや掛け蹴りなんかは防具のない踵や足裏なんかを使うから、ちっとばかり危険だろう? もう少し全容がつかめるまでは様子見しようかなと思ってたのさ」


「だったら、僕が相手をしてあげるよ。あんなスピードのない蹴りだったら、間合いさえ間違えなければまず当たらないし」


「蜂須賀さんがお相手をしてくださるのですか?」


 と、九条レオナが瞳を輝かせる。


「それならば、本当に助かります。蜂須賀さんほど俊敏な動きをされる方でしたら、こちらも心配なく撃ち込めますし」


「うるさいな! やる気があるんだったら、とっとと防具をつけなよ!」


 乃々美はくるりときびすを返した。

 とたんに、柚子とぶつかってしまう。

 いつのまにやらリングを下りていた柚子が、乃々美のすぐ背後に立ちはだかっていたのだ。


「おっと、ごめんね! ののちゃんが九条さんとスパーするの? すっごい楽しみー!」


 その無邪気な笑顔をひとにらみしてから、乃々美はリングへと足を向けた。


(ほんとに何なんだよ、こいつは!)


 乃々美はいっそう九条レオナのことがわからなくなってしまっていた。

 感情を見せない取りすました顔と、男みたいに荒っぽい言動と、子供みたいにしょんぼりした姿と───いったいどれが九条レオナの本性なのだろう。


 それに、格闘技の腕前についてもだ。

 練習中の不抜けた打撃技と、さきほど見せた嘘みたいになめらかな動きと、そして柚子とのスパーでただ一度だけ見せた野生の獣みたいな動きと、どれが九条レオナの本質なのだろうか。


(こうなったら、丸裸にしてでも本性を暴いてやる!)


 憤懣やるかたない思いで乃々美が待ち受けていると、景虎の手によって防具一式を装着させられた九条レオナがいそいそとリングに上がってきた。


「あの、ボクシングローブというのはあまりに重すぎて拳をふるう気持ちにもなれないので、私の側はMMA用のグローブでもよろしいですか?」


「何でもいいよ。どうせ当たらないんだから」


「そうですね。蜂須賀さんにいきなり当てられるのなら、苦労はしません」


 そんなことを言いながら、九条レオナは右足を半歩だけ出してきた。

 身体は正面を向いたまま、両腕もだらりと下げたままだ。

 しかしその切れ長の目には、驚くほど真剣な光が宿っていた。


「それでは、お願いいたします」


 乃々美はぞくぞくとした感覚が背筋を走っていくのを感じた。

 手加減をしたら、自分のほうがマットに沈められる。何の根拠もないままに、そんな思いを事実として実感することができた。


(ほんとにわけのわかんないやつだな、こいつは)


 そんなことを思いながら、乃々美はマットに足を踏み出した。


     -5-


「蜂須賀さん、最近は機嫌がよさそうだねー?」


 その数日後である。

 休み時間に、また山田理沙が性懲りもなく喋りかけてきた。


「気に食わない新人さんとも仲良くなれたのかな? よかったねー?」


「……勝手なこと言わないでくれる? 別に機嫌もよくないし」


「またまたー。表情はいっつも変わんないけどさ、ジト目のまぶたの下がり加減で、けっこう機嫌のよしあしはバレバレなんだよー?」


 きっと適当なことを言っているのだろう。

 乃々美はぷいっとそっぽを向くことで意思表示してみせた。


「ありゃ、気にさわっちゃった? ごめんごめん。悪気はないから、ゆるしてちょ」


「うっさいなー。なんか僕に用事なの?」


「うん、用事用事! 実はさ、蜂須賀さんにお願いがあるんだー」


 と、また前の席から乃々美の顔を覗き込んでくる。


「今度、蜂須賀さんのジムが格闘技のイベントをやるんでしょ? そのチケットを、二名分取り置きしてくれないかなー?」


「は?」と乃々美は目を丸くしてしまった。


「イベントって、『ヴァリー・オブ・シングダム』のこと? なんでそんなもんが必要なのさ?」


「そりゃあもちろん見に行きたいからに決まってるじゃん。実はうちの兄ちゃん、けっこう格闘技とか好きなんだよね」


 そう言って、山田理沙はにこにこと笑った。


「女の子の試合とかは興味ないみたいなんだけど、そのイベントには好きな選手が出場するみたいでさ。えーと、笹の葉? みたいな名前の人」


「笹川でしょ。うちの男子MMAのエースだよ」


「うん、それそれ! なんかおっきな団体のチャンピオンなんでしょ? すごいよねー」


 笹川は、『パルテノン』という団体のフェザー級王者だ。現在は他団体の王座奪取と海外進出を目指してトレーニングを積んでいる。


「……だけどあんたは格闘技なんて興味ないんでしょ?」


「うん。でもさ、兄ちゃんの好きな選手とあたしのクラスメートが同じ日に試合をするなんて、そうそうないことでしょ? だったら見にいくしかないかなーって」


 そんな風に言いながら、山田理沙は顔を寄せてくる。


「まあ、蜂須賀さんともっとお近づきになりたいって下心もパンパンだけどね。あたしが格闘技に興味を持てるぐらい、かっちょいい試合を期待してるよ?」


 乃々美が言葉を失っている間に、山田理沙は「それじゃあ、よろしくねー」と姿を消してしまった。


 どうしてこう、世の中には本性のつかめない人間が多いのだろうか。

 乃々美は溜息を禁じえなかった。


 そうして無造作に息をすると、右胸のあばらがずきりとうずいてしまう。

 九条レオナの前蹴りをくらってしまった部位だ。

 スパーを始めて三日目にして、乃々美もついにクリーンヒットをもらってしまったのである。


 乃々美の脳裏には「大丈夫ですか!?」と慌てふためく九条レオナの表情がくっきりと残っていた。

 しばらく呼吸もできずにうずくまっていた乃々美に取りすがり、九条レオナは泣きそうな顔になってしまっていた。


「あんた、僕のこと馬鹿にしてんの!? 一回ダウンを取ったぐらいでいい気にならないでよ!」


 乃々美がそのようにわめきたてると、九条レオナは涙目になりながら「申し訳ありません」と頭を下げていた。


「女性を相手に本気の蹴りを当てたのは初めてのことだったので、少し動揺してしまいました。……こんなことでは、伊達さんの代わりなんてとうていつとまりませんね」


「わかってるなら、その顔やめてよ! 言っとくけど、そっちはもう僕から十回ぐらいはダウンをくらってるんだからね!」


「はい。蜂須賀さんの踏み込みの鋭さには本当に驚かされてしまいます」


 一転して、九条レオナは生真面目な顔になっていた。

 本当につかみどころのない娘である。

 あの娘の本性を暴くには、まだまだ長い時間がかかるようだった。


(まったく、どいつもこいつもさ)


 気づくと、乃々美は山田理沙の姿を目で追ってしまっていた。

 山田理沙は、他のクラスメートと楽しげに談笑している。


 彼女の兄が格闘技好きだなどというのは、初耳であった。

『パルテノン』というのは国内で屈指の規模と歴史を持つMMA団体であったはずだが、そもそもMMAという競技がこの国ではマイナーなのだから、好事家でもなければ耳に入ることさえないはずだ。


(本当に僕と仲良くなりたいんだったら、最初からそっち方面で話を広げりゃいいじゃん)


 それとも、クラスメートの気をひくのに兄の存在などをダシにはしたくなかったのだろうか。

 そもそも趣味のあわない相手と交流を深めたいなどとは思わない乃々美なので、山田理沙の気持ちはさっぱり理解できない。


 そんなことを考えていると、山田理沙がいきなり乃々美のほうを振り返り、また元気な足取りで近づいてきた。


「ねえねえ! 今度の日曜日にどこか遊びに行こうって話になったんだけど、蜂須賀さんも一緒に行かない?」


 乃々美はじっとりと相手の顔をにらみ返した。

 山田理沙は、相変わらずの表情でにこにこ笑っている。


「……今度の日曜なら、予定はないけど」


「やったー! それじゃあどこに行きたいか考えておいてね?」


 きっと乃々美が顔を出したって、他のクラスメートは困惑するだけだろう。

 そんなことはわかりきっていたが、どうやらこの山田理沙という娘の本性を暴くには、もっと相手の懐にとびこむしか手段はないようだった。


(まったく、めんどくさいなあ)


 そんなことを思いながら、乃々美は机につっぶして、放課後のトレーニングのためにひと眠りしておくことにした。

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