ACT.2 三船仁美

01 フィスト・ジム立川支部

 三月の第三木曜日。

 三船仁美が普段通りに『フィスト・ジム立川支部』の入り口をくぐり、更衣室のほうに足を向けると、トレーニングルームのほうから何やら騒乱の気配が伝わってきた。


 もちろん『フィスト・ジム』は格闘技のジムであるのだから、賑やかなのが当然である。しかしそのとき三船仁美の耳に届いてきたのは、明らかに誰かと誰かが言い争っているような気配であった。


 おそるおそるトレーニングルームを覗き込むと、見慣れた二人がサンドバッグのかたわらで取っ組み合っていた。

 先輩選手の、服部円と石田碧である。

 取っ組み合っているというよりは、逃げようとしている石田碧を服部円がとっつかまえて、その場に組み伏せようとしているような様子であった。


 他のジム生は、知らんぷりをして練習を続けている。

 ただ一人、石田碧の妹である石田葵が呆れたような顔で微笑みながら、静かに二人の乱行を見守っていた。


「あ、あのぅ……どうかしたんですかぁ?」


 三船仁美が呼びかけると、服部円が「ああン?」と振り返ってきた。

 普段通りの、おっかない顔つきである。男のように短くした髪を金色に脱色しており、眉はほとんどすりきれてしまっている。それで骨格も男のように図太いものだから、彼女はこのジムに所属する女子選手の中でも一番の強面であった。


 性格も、その外見を裏切る類いのものではない。とりあえず、三船仁美はこのジムに入門して以来、彼女が笑ったところをほとんど目にしたことがなかった。


「どうかしたって、見りゃわかんでしょ? 何をしてるように見えるっての?」


「ええと、あのぅ……碧さんが、MMAに転向したんですか……?」


 石田葵が、ぷっとふきだした。

 服部円は、ますます不機嫌そうな顔になってしまう。


「これがグラップリングの稽古にでも見えるってのかよ? あたしは、この馬鹿をシメてんだよ!」


「どうしてあたしがあんたにシメられなきゃならないのさ! てか、あたしのほうが先輩で年上なんですケド!」


「うっさいよ。馬鹿をしめるのに年齢なんて関係あるか」


 そのように言いながら、服部円は石田碧の小さな身体をぐいぐいと揺さぶった。身長で九センチ、体重で十キロもの体格差が存在する両者であるのだ。しかも服部円は骨太の体格をしていたため、小柄な石田碧にはいっそうあらがうすべもないようだった。


「やかましいね。いつまで騒いでるのさ? いくらフリータイムだからって、トレーニングする気のない人間は邪魔になるだけだよ」


 と、奥側のマットでストレッチをしていた竜崎ニーナが、苦笑まじりの表情で近づいてくる。


「あんたたちが犬猿の仲なのはわかってるけど、こんなおめでたい日にまでもめることはないでしょうに。いったい何をもめてるのよ、マドカ?」


「こいつがあんまり馬鹿なことを言ってるからシメてるんですよ。竜崎さんからも、何か言ってやってください」


 服部円は怒った顔で言いながら、石田碧の身体を突き飛ばした。

 石田碧はサンドバッグに抱きつくことによって転倒を回避してから、金切り声でわめきたてる。


「なんであんたに馬鹿呼ばわりされなきゃいけないのさ! あたしは階級を変えようかなーって言っただけじゃん! 部門の違うあんたにあれこれ指図される筋合いはないんだけど!」


「階級を変える? プロテストの合格通知を受けた矢先に、どうしてまた?」


 不思議そうに、竜崎ニーナが問うた。

 三船仁美は三船仁美で、ついに合格の通知がきたのかと内心で息を呑む。石田碧は、前の日曜日に『G・ネットワーク』というキックボクシング団体のプロテストを受けていたのだ。

 石田碧はサンドバッグに抱きついたまま、子供のように唇をとがらせた。


「……だって、アトム級に厄介そうなやつらがいるんだもん。あいつらがミニフライ級にまでしゃしゃってきたら、あたしの存在がかき消されちゃうじゃん? だから、あたしはウェイトを上げてフライ級に転向しようかなーって……」


「それで、マドカが怒りだしたってわけね。オッケーオッケー、確かにマドカが怒り狂いそうな負け犬宣言だね、それは」


「まだ負けてないもん! 負ける前に、戦場を移すの! せめて戦略的撤退って言ってくれない?」


 竜崎ニーナは溜息をつきながら、服部円の分厚い肩にぽんと手を置いた。


「マドカ、あんたの気持ちはわかったけどさ、ミドリのおバカ発言にいちいちカリカリすることはないよ。それをたしなめるのは、会長やコーチたちの役割でしょ」


「でも、竜崎さん───!」


「相手がミドリだから笑い事で済んでるけど、あんたは軽率な行動を控えなきゃいけない立場でしょ? 会長やあたしはあんたのことを信用してるんだから、それを裏切らないでね?」


 服部円は頭をがりがりとかきむしってから、ものすごく不本意そうに「押忍」と答えた。

 服部円は中学柔道で実績を残した選手でありながら、進学先の柔道部で暴力事件を起こし、中途退学をした身の上だった。よって、そののちに入門したこの『フィスト・ジム立川支部』においても、会長たちには揉め事を起こさないようにと厳命されているのだった。


「ったく、服部は短気なんだからさー! いちいち他人事に首を突っ込まないでくれる? こっちはあんたと違って、ちゃんと考えた上で発言してるんだよ!」


 そうして服部円が静かになると、石田碧がここぞとばかりに騒ぎたてた。

 竜崎ニーナはそちらを振り返り、「お黙りなさいな」とたしなめる。


「あんたはあんたで、ちゃんと考えたが聞いて呆れるよ。プロテストを合格するなり階級を変更したいなんて、そんなおバカな話が通るとでも思ってんの?」


「えー? だけど別に、規定違反ではないでしょ?」


「違反じゃなくても、運営側に理由を通達する必要はあるでしょ? 成長期で体格が変わったとかならともかく、下の選手が怖いから階級を変えたいなんて、そんなみっともないことを伝えられると思う?」


「……だからそれは、まるっとオブラートに包んでさあ……」


「そんな真似を、会長やコーチが許すとでも?」


 笑顔で追撃する竜崎ニーナに、石田碧は「えーん!」と芝居がかった泣き声をあげる。


「だってほんとに、あいつら厄介なんだもん! プロテストでプロ選手をぶちのめすようなやつが二人もいたんだよ!? あんなやつら、公式戦で戦いたくなーい!」


「あはは」と笑い声をあげたのは、妹の石田葵であった。

 石田碧は泣き真似をやめて、十センチ以上も大きな妹の顔をにらみあげる。


「笑い事じゃないんだよ! だいたい、葵も悪いんじゃん! 大事なプロテストの直前に腹なんて壊してさあ! 二人一緒にデビューできたらそれだけで話題になれたのに、あんたのせいでハードルが上がっちゃったんだよ!」


「うん、だけど、二人でそれぞれの階級の王座を目指すってのは、最初からの目標だったでしょ?」


「だから! その目標のサマタゲになりそうなやつらが出張ってきたから、あたしは焦ってんの!」


 石田碧と石田葵は、双子の姉妹なのである。それで身長はまったく異なるが、顔立ちはそっくりであるし、髪型までをも意識的に統一している。それで彼女たちは、双子の姉妹という特異性を売りにして、格闘技界における注目を集めようと画策していたのだった。


「まったく、志が高いんだか低いんだかわかんないね。あんたたちだったら、ダブル戴冠も夢じゃないだろうけどさ」


 竜崎ニーナは苦笑しながら石田碧に近づき、その頭を大きな手の平でかき回した。


「とにかく、その厄介な連中ってのはアトム級なんでしょ? その連中だってそうそう階級を上げたりはしないだろうから、その前にタイトルをかっさらっちゃえばいいじゃないの。そうしたら、今度は堂々と上の階級のタイトルを目指せるじゃない?」


「そんなにうまくいったら苦労はないよー。他人事だと思って、気楽に言ってくれちゃってさー」


 ぼやきながらも、石田碧は大人しくなっていた。

 部門は違えど、彼女も竜崎ニーナには全幅の信頼を置いているのだ。


「とにかく、今は目の前の目標に集中しなさいな。新人王トーナメントは五月からなんでしょ? まずはそこで結果を出しなさい」


「……はーい」


「ほら、アオイもマドカも自分の練習! ……ヒトミなんて、まだ着替えてもないじゃないの」


「あ、す、すみません。いま着替えてきます……」


 そのように言ってから、三船仁美はおどおどと石田碧を見た。


「あ、あの、碧さん、プロテスト、合格してたんですね。その……お、おめでとうございます」


「はーい、ありがとさん」


 石田碧は、小バエでも払うような手つきで手を振った。

 やはり、このような流れで祝辞などを届けるべきではなかったのだろう。三船仁美は赤面しながら、更衣室に駆け込むことになった。


 更衣室は、無人である。私立の高校に通う三船仁美はもう試験休みになっていたので、昼下がりの早い時間からジムを訪れることができたのだ。

 底冷えのする更衣室でロッカーに荷物を詰め込みながら、三船仁美はふっと息をつく。


(すごいなぁ。碧さんも、とうとうプロなのか……それで来週には服部さんも査定試合だし、半年後には葵さんのプロテストだし……そうなったら、今度はあたしがたった一人のアマ選手になっちゃうんだなぁ……)


 そのように考えると、三船仁美の胸には寂寥感にも似た感覚が吹きすぎていった。

『フィスト・ジム立川支部』には、他にも数名の女子選手が存在する。しかしそれらはダイエットやフィットネスが目的で通っているライトな会員であり、公式試合にまで取り組んでいるのはさきほどあの場にいた五名がすべてであったのだった。


 その中でも、一番の新参は三船仁美である。年齢は十六歳の高校一年生で、キャリアは一年半にしか達していない。その間、出場した公式試合は十一月の『ヴァリー・オブ・シングダム』というイベントのみであった。


 来週には静岡で二度目の公式戦が控えているが、きっと勝つことはできないだろう。対戦相手が見つからなかったために、その日は一つ上の階級で試合をすることになったのだ。ウェイトを絞らなくて済むのは幸いであったが、そんな条件でいい結果が残せるとはとうてい思えなかった。


(同じ階級の選手が相手でもあんなに苦労したのに、それより重い相手になんて勝てるわけがないよ……)


 のろのろと着替えを進めながら、三船仁美はそのように考えた。

 その脳裏に浮かぶのは、十一月に対戦した遊佐柚子という奇妙な少女の姿である。


 本名を知ったのは、つい先月のことであった。彼女は千葉で行われた柔術の大会に出場しており、竜崎ニーナや服部円の付き添いで同行した三船仁美は、そこで初めて素顔の彼女と対面することになったのだ。


 あれは、とても奇妙な少女であった。

 奇妙というか、格闘技の選手とは思えないような容姿をした少女であった。


 黄色みを帯びた不思議な色合いの髪をしており、ウサギのように目が大きかった。色が白くて、ちまちましていて、顔立ちなどはびっくりするぐらい可愛らしかった。おまけにスタイルもよいようであったし、あれならアイドルとして活動できるのではないかというぐらい、彼女は魅力的な少女であったのだった。


 そんな彼女が、柔術の大会では優勝を果たしていた。

 あまつさえ、一番軽い階級の選手であったにも拘わらず無差別級にまで出場し、決勝戦では服部円と激闘を繰り広げることになったのだ。

 結果は彼女の惜敗であったが、一歩間違えば勝敗はひっくり返っていただろう。三角締めを掛けられた服部円はタップをする寸前であり、ぎりぎり時間切れで救われたのだ。


 服部円の実力は、三船仁美が誰よりもわきまえていた。まだ柔術においては白帯であったが、彼女は柔道の黒帯で全国クラスの実力者であったのだ。しかもこのジムでは三船仁美よりも古くからMMAを学んでおり、来週にはもうプロへの昇格が検討されるほどの試合が組まれていた。


 そんな服部円を、遊佐柚子はあと一歩というところまで追い込んだのだ。

 きっと自分と対戦したときは、体調でも悪かったのだろう。あるいはあちらも初めての公式戦であったため、場の雰囲気に呑まれていたのかもしれない。それは三船仁美も同様であったから、おたがいわけもわからぬ内に混戦となり、そのドサクサで自分が勝利を拾えたのだとしか思えなかった。


(みんな、すごいなぁ……あたしなんて、一生かかっても誰にも追いつけないんだろうなぁ……)


 というよりも、自分は何のために格闘技などを続けているのか。

 ともすれば、三船仁美はそんな思いにとらわれてしまっていた。


 ジムに入門したきっかけは、友人に誘われたことだった。

 同じ学校のクラスメートに、一緒に入門しようと勧誘されてしまったのだ。


 どうして自分が誘われたのかは、わからない。きっと他のクラスメートよりもヒマそうに見えたか、あるいは引き立て役で選ばれたのだろうと思う。そのクラスメートは、このジムに在籍している男子選手とお近づきになりたくて、入門をしたいのだなどと述べていたのだった。


 あんまり気は進まなかったが、強く断る理由も見当たらなかったので、三船仁美はその勧誘に乗っかってしまった。

 その後、友人のほうは色恋のほうが上手くいかなかったため、ひと月きっかりで退会してしまっていた。何せ当時は中学三年生であったので、お目当ての選手にも相手にされなかったのだろう。それ以降、三船仁美は彼女と口をきいていなかったし、高校は別となったので消息もわからなくなっていた。


 それ以降も、三船仁美はこのジムに通い続けていた。

 高校は推薦をもらえたので、受験勉強もほとんど必要はなかった。中学三年の夏から今日までの一年半、三船仁美は飽きることなくこのジムに通い続けたのだった。


 確たる目的などは、何もない。

 ただ、ひさびさに身体を動かすのが、ぼんやりと楽しかったぐらいだ。

 小学生の頃はミニバスケのチームに入っており、中学でも一年間だけはバスケ部に在籍していたが、部活内の人間関係に倦み果てて退部してしまった。こんなに身体を動かすのは、それ以来のことだった。


 それでわかったのは、自分には個人競技が向いているらしい、ということだった。

 このジムには、わずらわしい人間関係というものが存在しない。いまだにみんながどういう人間であるのか把握しきれてはいなかったが、嫌いな人間は一人もいなかった。服部円はおっかなかったし、石田碧は素っ頓狂に過ぎたが、同じ場にいることは苦にならなかった。なおかつ、竜崎ニーナや石田葵などはとても気さくで頼り甲斐もあったので、学校の部活などよりもよっぽど居心地がいいとさえ感じることができた。


 だから三船仁美は、確たる目的もないままに、『フィスト・ジム立川支部』に通い続けている。

 十一月のイベントで五対五の対抗戦などに引っ張り出されたときは胃の縮む思いであったが、不相応な責任を負わされることはなかった。石田碧の「あんたには期待なんてしてないから」という言葉さえもが、三船仁美にはありがたかった。


 試合においては、勝つも負けるも本人の責任だ。

 むろん、面倒を見てくれたコーチや先輩たちに対する申し訳なさなどは生じてしまうが、それでも団体競技における責任感とは比較にもならなかった。また、好きになれない相手をチームメイトと呼ばなくてはならない苦悩とも無縁でいられた。そうだからこそ、この場はこんなにも居心地がいいのだろうと思う。


(……碧さんがバスケのチームメイトとかだったら、おたがいにものすごいストレスになってただろうからなぁ)


 そのように考えたところで、ようやく着替えが終了した。

 タオルとドリンクをバッグに詰めて、更衣室を出る。


 トレーニングルームでは、十数名のジム生たちが自主練習に取り組んでいる。全員がプロ選手か、あるいはプロを目指す熱心なジム生たちだ。

 三船仁美はいかにも場違いであったが、試合まではもう十日を切っているので、追い込みトレーニングも佳境に差し掛かっていた。今日も夜まで、ジムの隅っこで自主練習に取り組ませてもらうつもりでいた。


「遅かったね。ウォーミングアップが終わったらこっちにまざりなよ、ヒトミ」


「あ、はい、すみません」


 MMA用のマットの上では、竜崎ニーナと服部円、そして数名の男子選手が自主練習に取り組んでいた。

 服部円は一回りも大きな男子選手と取っ組み合っており、竜崎ニーナはそれにアドヴァイスを与えていたところであったようだった。


 竜崎ニーナは二十六歳。キャリア六年のプロ選手である。

 プロのキャリアは六年であるが、アマチュアとしての活動期間は相当に長いらしい。彼女はもともと北米に住んでおり、そちらでも柔術やアマチュアMMAの試合に出場していたのだという話であった。


 黒人である父親の血を受け継いで、肌はほとんど褐色に近く、髪は自然にウェーブがかっている。百六十八センチという長身で、平常体重は六十五キロ。一見すらりとして見えるが、当然のこと、全身にしっかりと筋肉がついている。柔術の腕前は紫帯で、MMAにおいても寝技を得意とする、彼女は名うてのグラップラーであった。


「よし、時間だね。一分間、休憩」


 竜崎ニーナの呼び声とともに、服部円はマットで大の字になった。

 金色に脱色した短い髪も、図太い身体も、汗だくである。男子選手と取っ組み合っていれば、それが当然だ。

 それを見下ろしながら、竜崎ニーナは苦笑を浮かべていた。


「マドカ、またポジショニングが雑になってたよ。男相手に力まかせで挑んでかなうわけがないでしょ? もっと丁寧にいかないと、グラウンドで上は取れないよ」


「……押忍」


「どうにも集中力が散漫だね。そんなにミドリのことが気になるの?」


「……関係ないですよ、あんな馬鹿女」


「あたしもおバカだとは思うけどさ、どういうスタンスで競技に取り組むかなんて、人それぞれでしょ? あれはあれで、面白い考え方じゃないか」


 マットの上で寝そべったまま、服部円は竜崎ニーナをにらみつけた。


「……強い相手から逃げるために階級を変えるなんて、いったい何が面白いんですか?」


「面白いじゃない? だって、下の階級の選手にびびって、上の階級に逃げ込もうとしてるんだよ? 普通はちょっとでも有利になるようにウェイトを絞るもんなのに、その逆をいこうとしてるんだもん。なかなか当たり前の頭じゃ考えつかないよね」


「……やっぱり、ただの馬鹿じゃないですか」


 服部円は身を起こし、ドリンクボトルに手をのばした。

 竜崎ニーナは、外国人っぽい仕草で肩をすくめている。


「まあ、それだけアトム級の新人選手に危機感を抱かされたってことなんだろうね。あのコの嗅覚はなかなかのもんだから、本能的に勝てないって感じちゃったのかもしれない。それならそれで、階級を変更するってのもまんざら悪い話ではないさ」


「あいつには、プライドってもんがないんですかね」


「プライドの置き場所が、普通の人間とは違ってるんじゃない? 何が普通かなんて、あたしにもわからないけどさ」


 そのように言いながら、竜崎ニーナは服部円のもとに屈み込んだ。


「だけどまあ、マドカの気持ちはよくわかるよ。……実はあたしも、階級を変えようと思ってたんだよね。上の階級じゃなく、下の階級にさ」


「え?」


「今の階級じゃあ、あたしの力は世界に通用しない。だから、階級を下げようと思ったんだよ。……でも、去年の試合でアキラに負け越しちゃったからさ。これで階級を下げたら、あいつから逃げることになっちゃうでしょ? だから、もうしばらくは今の階級に留まろうって思いなおしたわけ」


「それが普通の考えっすよ。竜崎さんの考えなら、あたしだって理解できます」


「そう? だけど、今の階級じゃ結果は残せないって考え方は、ミドリと一緒でしょ? だから、半分ぐらいはミドリの気持ちもわかるんだよね。上の階級に移ろうって考えは理解できないけど」


 そう言って、竜崎ニーナはくすくすと笑った。


「何にせよ、アキラを倒せない力量じゃあ、階級を下げたって結果は残せないだろうからね。まずはアキラやこの階級の選手を相手に結果を残してから、階級の変更を考える。選手としての寿命が尽きる前に結果を出せるかどうか、いよいよ崖っぷちってところだね」


「……それで階級を落としたら、あたしと同じ階級になるわけですね」


 服部円はタオルで頭をかき回しながら、ふてぶてしく笑った。


「そんなの、想像もしてませんでした。竜崎さんと公式戦で当たるかもなんて、想像しただけでにやけてきちゃいますよ」


「マドカはその前に、プロに昇格しないとね。ぐずぐずしてたら、あたしは北米に飛んでっちゃうよ?」


 至近距離で見つめ合いながら、二人は楽しそうに笑い合っていた。

 やがて、竜崎ニーナが三船仁美のほうに向きなおってくる。


「さて、ヒトミのウォーミングアップはまだかかりそうかな? あんただって、追い込みの真っ最中なんだからね。地獄のドリルが待ちかまえてるから、さっさと済ましちゃいな」


「は、はい!」


 三船仁美は慌ててストレッチを再開する。

 やっぱりみんな、自分には計り知れないものを見据えて、格闘技というものに取り組んでいるのだ。そんな思いを新たにさせられながら、三船仁美は彼女たちの熱気が伝染してしまったかのように、奇妙な感覚を胸の奥底に抱えることになってしまった。

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