04 決着
「レオナ、動きは悪くなかったヨ。ちょっとペースをかき乱されただけネ」
一分間のインターバルである。
椅子に座ったレオナに向かって、トンチャイは笑顔でアドヴァイスをしてくれていた。
マスク姿の柚子は、首の裏に氷のうをあてがいながら、ペットボトルの水を飲ませてくれている。
「アリースィ選手、スタンドはアメリカン・カラテだったネ。カポエラみたいな技も使ってたけど、アレは気にすることないヨ。ハイキック、バックスピンキック、全部モーションが大きいから、レオナには見切れるはずネ」
「そうなのでしょうか。おたがいアウトボクシングのスタイルであるのに、間合いの取り合いで完封されてしまった心地なのですが」
精神的な消耗はともかく、スタミナはそれほどロスしていなかったので、レオナも冷静に言葉を返すことができた。
そんなレオナに、トンチャイはにっこりと微笑みかけてくる。
「そんなことないヨ。アリースィ選手、寝技は一流だけど、立ち技は二流ネ。あんなの、間合いとかおかまいなしで足を振り回してるだけヨ」
「はあ……」
「でも、その大胆な動きで、レオナは混乱させられてるネ。アリースィ選手がスキだらけなの、レオナは気づいてた?」
「スキですか? うーん、私にはロクに撃ち返すこともできませんでしたが」
「アリースィ選手も、カウンターだけは警戒してるからネ。でも、もしもレオナが強引に組みついてたら、簡単に上を取れてたと思うヨ?」
レオナの大腿筋をタオルごしにマッサージしながら、トンチャイはそう言った。
「レオナは動きが丁寧で、しかも自分から組もうとしなかったから、うまく反撃できなかったんだヨ。アリースィ選手、組み技のディフェンスを捨ててるから、あんなに大胆に動けるんだヨ」
「組み技のディフェンスを捨てている、ですか」
「ウン。下になっても寝技なら負けない自信があるんだヨ。だから、打撃のカウンターだけを気をつけて、ガンガン攻め込んできてるんだネ。アキラやユズコだったら、きっと三回ぐらいテイクダウンを取れてるヨ」
「ですが、仮に私がテイクダウンを取れたところで、それが勝利につながるのでしょうか?」
「それは無理だネ。さっきみたいに下から攻められたら、ピンチになるのはレオナのほうネ」
ならば、どうせよというのだろうか。
インターバルは、終了も間近である。
しかしトンチャイは、のんびり笑ったままであった。
「レオナは考えすぎるタイプだからネ。それは長所でもあるんだけど、この試合では裏目に出てるヨ。もっと乱暴に攻め込むほうが、チャンスは増えるだろうネ」
「ええ? ですが、相手の組みつきには警戒するべきですよね?」
「もちろん。でも、それは練習の通りに対処するしかないネ。組まれることから逃げてたら、きっと勝てないヨ。乱暴に攻撃して、組み技はディフェンスする。グラウンドに引き込まれたら、何としてでも立ち上がる。この半年間で頑張ってきたことを、試合で出すだけネ」
そのとき、『セコンドアウト』のアナウンスが響きわたってきた。
トンチャイは身を起こし、レオナにぐっと拳を突き出してくる。
「乱暴な攻撃。あとは、練習通り。それで駄目なら、またアドヴァイスを送るヨ」
「……了解いたしました」
柚子の差し出したマウスピースをくわえて、レオナも立ち上がる。
すると、柚子も拳を突きだしてきた。
「あたしもトンチャイに賛成! 九条さんは戸惑ってるみたいだけど、立ち技だったら絶対に九条さんのほうが上だから! 石狩さんとの練習試合のときほど、あたしは全然ハラハラしないもん!」
「……あの、カメラがそばにないからといって、あまり本名を連呼しないでいただけますか?」
「あ、ごめん! 頑張ってね、マスクド=シングダム!」
何とも脱力した心地で、レオナは第二ラウンドを迎えることになった。
アリースィ選手のほうに張りついていたカメラクルーも、レフェリーに急かされてケージを出ていく。会場には、熱気と歓声が渦を巻いていた。
ホーンが鳴り、「ファイト!」とレフェリーが腕を振り下ろす。
アリースィ選手は第一ラウンドと同じスタイルで、軽快にステップを踏んでいた。
(石狩エマほど立ち技は達者じゃない、か。そりゃそうだよな)
慎重に距離を取りながら、レオナはそう考えた。
石狩エマは、フィジカルにおいても気迫においても一級品であった。アリースィ選手も素晴らしいバネを有していたが、身長でも体重でも石狩エマのほうがまさっていたし、骨格だってしっかりしているだろう。そこはやっぱり北米人の血が関係しているのだろうか。
そして技術の面においても、石狩エマはキックボクサーであったのだから、立ち技に限って言えば上をいっているように思われる。仮にこれがキックの試合であるならば、レオナだってもっと大胆に攻め込めているはずであった。
(乱暴に攻めろってのは、そういうことか)
レオナはどうしても、理詰めで試合を進めようとしている。ゆえに、アリースィ選手の組みつきを警戒せずにはいられないのである。
この際にあっても、その警戒心を完全に捨て去るわけにはいかないだろう。服部選手のとき以上に、寝技勝負に持ち込まれてしまったら、レオナに勝ち目は薄くなってしまうのだ。
(だけど、アリースィ選手が一番得意にしているのは、柔術なんだ)
レオナは、黒田会長のアドヴァイスも思い出していた。
柔術家というのは寝技巧者であるが、必ずしも組み技巧者ではない、という言葉だ。
「立ち技が得意ならストライカー、寝技が得意ならグラップラー。最近では、ここに組み技の得意なレスラーってのも追加されてるんだよ。文字通り、組み技に一番長けているのは、レスリングの練習をやり込んだ人間ってことだな」
黒田会長は、そのように言っていた。
柔術においてはグラウンドに持ち込むにあたって、タックルや組みつきという技術が必須なわけではない。相手の道衣をつかんでなしくずし的に寝技に持ち込めば済むのだから、そこまでタックルなどの技術を磨く必要がないのである。
「いっぽう、レスリングってのはいかに相手を組み伏せるかを競う競技だ。北米では特にレスリングの経験者が多いから、MMAでも存分にその技術が活かされてるんだよ。立ち技の習得にはボクシングかムエタイ、組み技の習得にはレスリング、寝技の習得には柔術ってのが、まあMMAの王道になるわけだな」
もちろんアリースィ選手だって、MMAの試合を行うにあたって、組み技の修練は積んできているだろう。
しかし彼女は、レオナと同じく十六歳であるのだ。
幼少時から取り組んできた寝技においてはスペシャリストであっても、組み技においてはそうではない、ということだ。
(最後にくらったタックルは、ちょうどあたしが焦って動こうとしたタイミングだったもんな。いつでもあれぐらい見事にタックルを仕掛けられるんだったら、他の場面でも使うチャンスはあったはずだ)
理論武装は完了した。
レオナは大きく息をつき、新たな覚悟をもってアリースィ選手に向かい合う。
踏み込むと、とたんにバックスピンキックが飛んできた。
なるべく身体はそらさずに、レオナは後方に引き下がる。
風圧が、マスクの生地ごしに感じられた。
(こうやってぶんぶん足を振り回してくるのも、あたしに近づかれたくないからなんだな)
レオナは組みつきを警戒して、距離を取ろうとしていた。
あちらは至近距離での乱打戦を警戒して、距離を取ろうとしているのかもしれない。
そうして遠距離から大技を繰り出しつつ、ここぞというときに寝技に引き込む───それが向こうの基本戦略なのかもしれなかった。
(よし)
レオナは半歩ほど踏み込み、今度はこちらが遠い間合いから足を振り上げた。
前側の左足で繰り出すフックキック、鎌刈である。
アリースィ選手も、バックステップでそれをかわした。
レオナは蹴り足をそのまま踏み込んで、フリッカージャブで追撃する。
アリースィ選手の頬に、グローブがかすめた。
アリースィ選手は、素早くアウトサイドに回り込んでくる。
(乱暴にね)
レオナはスイッチをして、右のミドルハイを叩きつけた。
アリースィ選手は腕を上げたが、もとより狙っていたのは肩口だ。足の甲がアリースィ選手の左肩にヒットして、そこそこの衝撃が走り抜けた。
進路をふさがれたアリースィ選手は、逆側にステップを踏む。
レオナはすかさず左構えに戻り、フリッカーを射出した。
頭部をガードしたアリースィ選手の前腕に、ばしんと右の拳が当たる。
すると、前足からの前蹴りが飛んできた。
間合いが近かったので、バックステップしても完全にはかわしきれない。相手の上足底が、みぞおちのすぐ脇に軽くめり込んだ。
(痛くねー)
お返しに、レオナも足を振り上げた。
奥足を垂直に振り上げて下顎を狙う、孤月だ。
マウスピースをしていれば、これをくらっても前歯を失うことにはならないだろう。
アリースィ選手は素晴らしい反射速度で後方に逃げた。
しかしその顔から、余裕の色が消えている。
その様子に力を得て、レオナはそのまま蹴り足を踏み込んだ。
フリッカーでたたみ込むのだ。
そのとき、アリースィ選手も踏み込んできた。
その手が、下方にのばされている。
レオナの前足を狙った、片足タックルだ。
レオナは慌てて前足を引いた。
だが、かわしきれずに両手で抱え込まれてしまう。
レオナは両手で相手の肩を押さえ、一本足で後方に逃げた。
やがて、がしゃんと背中が金網にぶち当たる。
ようやく壁レスリングの出番だ。
レオナは金網に体重を預けながら、渾身の力で相手の頭を下方に圧迫した。
アリースィ選手は、すでに両膝をついている。
逆の足までつかまれてしまわないよう、レオナは大きく股を開いていた。
レオナの右足を抱えたまま、アリースィ選手は動かない。
次はどうしようと考えている様子だ。
その思考がまとまる前にと、レオナは力まかせに右足をひっこ抜いた。
そうしてアリースィ選手の身体を突き飛ばすようにして、横合いに逃げる。
わあっと歓声が轟いた。
まだ金網ぎわで膝をついているアリースィ選手から距離を取り、レオナは息をつく。
(今のタックルは、全然怖くなかった。きっとあたしの追撃を受けるのを嫌がって、苦しまぎれに組みついてきたんだ)
そして金網ぎわの攻防においても、景虎のような重圧感はなかった。
動きに、迷いが感じられる。少なくとも、寝技の攻防で味わわされた迫力は微塵もなかった。
アリースィ選手は不本意そうな面持ちで立ち上がり、また軽妙なステップでケージの中央に進み出てくる。
(それでも、スタイルは変えないか。上等だ)
レオナは、遠い間合いからサイドキックを放ってみせた。
アリースィ選手は、後方に引き下がる。
サイドにステップを踏めていない。真っ直ぐの後方だ。
レオナはそのまま前進し、追い打ちのフリッカージャブを放った。
またガードした前腕に拳が当たる。
アリースィ選手はどんどん引き下がる。
やっぱり左右に回り込もうとはしない。
今の攻防でスタミナが尽きてきたのだろうか。足もとが少しぎこちない。
レオナはフリッカーに前足の蹴りを織り交ぜながら、アリースィ選手を追い詰めていった。
過去、試合においてここまで自分が一方的に攻撃を仕掛けた記憶はなかった。
ついにアリースィ選手の背後に金網が迫る。
そこまで追い込んだら、KOを狙った重い攻撃を繰り出してもいいかもしれない。
レオナは神経を研ぎ澄ました。
その瞬間、思いもよらぬスピードでアリースィ選手の身体が眼前に迫ってきた。
右の拳が、ロケット弾のように襲いかかってくる。
素の状態であれば、まともにそれをくらっていたかもしれなかった。
紙一重で頭を動かし、重心も後方にずらす。
左頬にくらってしまったが、脳震盪を誘発されるほどではなかった。
アリースィ選手は、何事もなかったかのようにアウトサイドへと逃げていく。
その表情には、また若干の余裕が戻ってしまっていた。
(今のは、金網を蹴って反動をつけたのか)
レオナがやろうと思っていたことを先にやられてしまった。
そしてどうやら、アリースィ選手はその攻撃を繰り出すために、わざと真っ直ぐ後方に逃げていたようだった。
(つまり、まだまだ全然元気ってこったな)
レオナの想像を裏付けるかのごとく、アリースィ選手はまた遠い間合いからハイキックを放ってくる。
それをかわしてからレオナは攻勢に転じようかと考えたが、アリースィ選手の動きはそこで終わらなかった。
蹴り足を下ろすなり、今度は軸足を切り替えてバックスピンキック、さらにはサイドキックである。
最後のサイドキックだけは虚をつかれて、腹の真ん中にくらってしまった。
乱れた呼吸を整えながら、相手のインサイドへと回り込む。
アリースィ選手は、後方に逃げようとしていた。
その腹に、左のミドルキックを放つ。
だが、間合いが遠いので当たらないのはわかっている。レオナはそのまま蹴り足を踏み込んで、左の正拳突きを放った。普通の空手で言う、追い突きの格好だ。
アリースィ選手は頭を振ってかわし、そのまま横回転した。
真っ直ぐにのばされた右腕が横合いから迫ってくる。バックハンドブローである。
レオナは臆せず、踏み込んだ。
アリースィ選手の前腕が、顔面にぶち当たる。
目の奥に火花を感じながら、レオナはやみくもに左拳を繰り出した。
ボディアッパー、というか、胴体のどこかに当たればいい、という攻撃であった。
乱暴な攻撃に徹してみよう、と思ったのだ。
レオナのグローブに包まれた左拳は、横合いからアリースィ選手の脇腹をえぐっていた。
右半身をこちらに向けていたので、かなりレバーに近かったかもしれない。
ぐふっとアリースィ選手がおかしな息をもらす音を聞いた気がした。
それでもアリースィ選手は倒れずに、レオナから遠ざかっていく。
余力はあったので、レオナはさらに一歩踏み込み、右足を振り上げた。
今のボディアッパーが効いたのか、アリースィ選手は腹を守っている。
その腕より上側、胸と腹の真ん中を狙って、レオナは中足を叩きつける。
少し体勢は崩れたが、MMA流のミドルキックだ。
間合いが遠かったので、ほどほどの感触しか得られなかった。
それでもアリースィ選手は、後方に倒れ込んでいた。
また寝技に誘っているのかと思い、レオナは引き下がる。
レフェリーから「ブレイク!」の声があがった。
金網の外からは、「二分半経過! 残り半分!」という柚子の声が聞こえてくる。
第二ラウンドが始まってから、時間経過の声を聞いたのは初めてのことであった。
我を見失っていたわけではない。歓声がすごすぎて、セコンドの声も届きにくい状態であったのだ。
(だけど、いい感じだ。この調子で攻め込んでいければ、試合が終わる前に最善の一手を───)
レオナがそんな風に考えている間に、アリースィ選手がゆらりと立ち上がった。
それと相対した瞬間、奇妙な感覚が背筋を走り抜けていく。
アリースィ選手の様子が一変していた。
もうその顔には楽しげな表情も残っておらず、完全な無表情になってしまっている。
体勢も、ほとんど真正面を向いた前傾姿勢だ。
そして何より、その目つきが変貌していた。
あんなに明るくきらめいていた瞳が、すべての感情をなくしてレオナを見つめている。
それは光のない、ぽっかりと空いた空洞のような目つきであった。
(何だよ、まさか───)
すかさず乱戦の型を取りながら、レオナは戦慄していた。
(まさか、ここからが本気だってのか?)
レオナの思いもよそに、アリースィ選手はじわじわと接近してきた。
ほとんど中腰のフォームである。レスリングや、それこそ柔術の試合を思わせるスタイルだ。
両手は前方に突き出して、指先を十匹の虫みたいに蠢かせている。
足はすり足で、レオナの左手側に回り込もうとしている。
(そんなに頭を下げてたら、ミドルでも顔面に届いちまうぞ?)
そうも思う。
そうも思うが、レオナはこの試合が始まってから一番の緊張感を強いられていた。
一歩踏み込めば、レオナの間合いである。蹴りでも拳でも好きな攻撃を撃ち込むことができるだろう。
しかし、もしその初撃をかわされてしまったら───まず間違いなく、アリースィ選手に組みつかれる。それはもう、ほとんど決定事項であるように感じられた。
もちろん組みつかれたって、グラウンドに引きずり込まれる前に逃げればいいのだ。トンチャイも、恐れることはないと言ってくれていた。
それでも、手が出ない。
じりじりと接近してくるアリースィ選手から、同じ距離だけ逃げてしまう。
「タックルだけ気をつけて! 怯むことないヨ!」
大歓声の向こうから、トンチャイの声も聞こえてくる。
レオナは金網ぎわまで追い込まれないよう、サークリングで距離を取り続けてきた。
そのとき、アリースィ選手の左拳がふわりと飛んできた。
いや、拳ではない。指を開いている。軽く広げた手の平で、レオナの右膝に触れてこようとしてきたのだ。
レオナはカウンターの攻撃を繰り出すこともできず、おもいきり後方に下がってしまった。
まるで鎌首をもたげた毒蛇と相対しているかのような心地であった。
(こいつ……打撃の攻防をいっさい捨てて、柔術だけをやろうとしてやがるのか?)
レオナはようやくその思いに達することができた。
もちろんレオナの側は好きなだけ打撃技を使えるのだから、柔術のような試合になるはずがない。アリースィ選手が打撃技を使ってこないなら、レオナが有利になるばかりである。
しかし、そんな理屈の通じない迫力が、今のアリースィ選手には満ちみちていた。
「四分経過! 残り一分だよ!」
柚子の声が、遠くに聞こえた。
気づけば、一分半も経過している。その間に、両者は相手に指一本触れていないのだ。会場を包んでいた歓声は、いつしかブーイングに変じていた。
(このまま終わったら、よくて引き分け、悪ければ判定負けか)
そのように思いながら、レオナは極限まで神経を研ぎすました。
どのような結果に終わろうとも、全力を尽くさなければ納得がいかなかった。
(いっそ、こっちから誘ってみるか?)
レオナは、その場に足を止めた。
その瞬間、アリースィ選手が凄まじい勢いで足もとに滑り込んできた。
タックルではない。足先からのスライディングである。
アリースィ選手の足先が、レオナの足を狙ってくる。レオナはぎりぎりのところでそれをかわし、横合いに跳びすさった。
アリースィ選手は仰向けに倒れ込んだ体勢で、感情の欠落した目を向けてくる。
もちろんレオナは、その上にのしかかるような愚は犯さなかった。
レフェリーは「スタンド!」の声をあげ、アリースィ選手はのろのろと立ち上がる。
(相手の身体に触らずに倒れ込むのは、柔術でも反則のはずだよな。柔術だけにこだわるつもりでもないのか)
つまりアリースィ選手は、自分にとって最善の策を選んでいるだけなのだ。
どんな形でもいいので、寝技に引き込みさえすれば、勝てる。そのための道だけを探っているのだろう。
ブーイングは、ひどくなる一方だ。
それでもアリースィ選手は、変わらぬ様子で間合いを詰めてくる。
(そうだよな。なりふりかまわず、あたしらは最善を尽くすだけだ)
レオナは、ふっと肩の力を抜いた。
瞬間、アリースィ選手の姿がかき消える。
レオナは迷わず、右手側に振り返った。
アリースィ選手の姿が肉迫していた。
その両腕は、レオナの足もとにのばされている。
距離が近すぎた。
この距離では、膝しか当てることはできない。
しかし、顔面への膝蹴りは反則だ。
それを判断すると同時に、レオナは後方に両足を飛ばしていた。
タックルを切る基本動作、バービーである。
アリースィ選手の肩を手で押さえ、下半身を後方に飛ばす。
膝の裏にまで触れかけていたアリースィ選手の指先を、それでかろうじてもぎ離すことができた。
そのままアリースィ選手の身体を突き飛ばし、体勢を立て直す。
しかしアリースィ選手も、凄まじい勢いで身を起こしていた。
そうして今度は、正面から突進してくる。
距離は、少しだけ空いていた。
これなら好きな攻撃で迎え撃つことができる。
だが、アリースィ選手にだってそれはわかりきっているだろう。
それでもアリースィ選手は、真正面からつかみかかってきている。
あちらも極限まで神経を研ぎ澄まし、レオナのカウンターに備えているに違いない。
この攻撃をしのがれたら、今度こそ組みつかれてしまう。
(それなら───!)
レオナは意を決し、奥側の左足を垂直に振り上げた。
胸もとを狙った、前蹴りである。
アリースィ選手は、かまわずに突進してくる。
かわすよりも、間合いを潰して威力を殺そうと考えたのだろう。
レオナは渾身の力で、その胸もとを蹴り抜いた。
しかし、足はのびきっていない。膝の角度は八十度ていどであった。
これでは、ろくなダメージを与えることはできない。
しかし、それでよかった。
アリースィ選手が突進してくることにより、レオナの膝はますます曲げられていく。
その収縮の力を反動として使い、レオナは後方に跳躍した。
アリースィ選手の身体を踏み台にして、後方に跳んだのだ。
同時に右足で床を蹴り、少しでも身体を上方に向かわせる。
そうしてレオナは、右足を後方に繰り出した。
金網の感触が、足裏にめり込む。
すでにそこは、金網ぎわであったのだ。
レオナは金網を蹴り、さらに上方へと舞い上がった。
足もとに、アリースィ選手の顔が見える。
スローモーションのように動く世界の中で、黒い深淵のような瞳が、ちらりとレオナを見上げてきた気がした。
彼女はその卓越した動体視力で、レオナの動きを追うことがかなったのだ。
ただし、目で追うまでが限界であるようだった。
宙を舞いながら、レオナは左足を振り抜いた。
防具に包まれた足の甲が、アリースィ選手の右頬に激突する。
アリースィ選手は、きりもみしながら吹っ飛んだ。
レオナは右足で着地して、かろうじて転倒せずに済んだ。
そこに、破裂音のような音色が響く。
試合終了の合図である。
レフェリーは、緊迫した眼差しでアリースィ選手を見下ろした。
アリースィ選手はうつぶせに倒れ込み、ぴくりとも動こうとはしなかった。
レフェリーは軽く首を振り、それから頭の上で大きく両腕を振った。
歓声が、津波のように沸き起こる。
精魂尽きたレオナは金網にもたれて、最終的な判定を待った。
そのアナウンスがされる前に、ケージの扉が引き開けられて、両陣営のセコンドとドクターがなだれ込んでくる。
「九条さん!」と、覆面姿の柚子が跳びついてきた。
胸もとに頭突きをくらって、レオナは「おふ」と声をもらしてしまう。
そこにようやく、リングアナウンサーの声が響きわたってきた。
『二ラウンド、四分五十九秒! ノックアウトにより、マスクド=シングダム選手の勝利です!』
どうやらレオナの攻撃は時間内であったと認められたらしい。
レオナは金網に後頭部を押しつけながら天を仰ぎ、深々と息をついた。
レフェリーの指示で柚子を引き離され、右腕を高く掲げられる。
歓声が、びりびりと大気を震わせていた。
やがてレフェリーが退くと、柚子があらためて跳びついてくる。
「すごいすごい! 最後のは何て技? 三角蹴り? いや、金網を蹴る前にアリースィ選手を蹴ってたから、四角蹴り?」
「たぶん、そんな技名は存在しないと思います」
柚子に胴体を抱きすくめられながら、レオナは半ば忘我していた。
最後の最後で精神力を使い果たしてしまい、とてつもない脱力感に見舞われてしまっている。
大歓声が、ものすごい重圧である。
服部選手との試合のときよりも凄まじい熱狂っぷりだ。
頭に酸素が通うのを待ちながら、背筋の辺りにむずがゆさを感じる。
レオナは再び、この暴風雨のような祝福を賜ることがかなったのだ。
何だか、信じ難いような心地であった。
夢でも見ているように思考が定まらない。
そこに、アリースィ選手が近づいてきた。
父親に肩を借り、自分ひとりでは歩けぬ様子である。
柚子にしがみつかれたまま、レオナも金網から背中を引きはがした。
「えーと、あの……大丈夫でしたか?」
レオナの間抜けな呼びかけに、アリースィ選手は「うん」とうなずく。
その瞳をまた小鹿のように明るくきらめかせながら、アリースィ選手はへろへろの顔で笑っていた。
「れんしゅう、たりてなかったよ。あなた、つよかった」
そうしてアリースィ選手は、グローブを外されてバンデージだけを巻かれた手をレオナのほうに差しのべてきた。
「わたし、もっとつよくなったら、またしあいをしてくれる?」
「はい、喜んで」
レオナはグローブに包まれたままの手で、アリースィ選手の手を握り返した。
そんな二人の頭上には、まだ怒号のような歓声が渦を巻いている。
二人がともに死力を尽くしたからこそ、このような祝福を受けることができたのだ。
そのように考えたら、レオナは自然とアリースィ選手に笑い返すことができた。
(あたしにはやっぱり、何が何だかちっともわからんけど───)
でも、一つだけはっきりしたことがある。
レオナは、この場を欲していた。
レオナの胸中に燃えあがっているのは、またこの場所に立ちたい───この場所で、誰かと力を試し合いたいという、焼けつくような思いであった。
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