03 開幕

 そうして時間は流れすぎ、開幕式は五分押しで開始されることになった。

 時刻は、午後の四時三十五分。客席には千名を超えるであろう観客が詰めかけて、会場内を熱気で満たしている。


 開幕式のシステムも、『シングダム』の興業と大きな変わりはなかった。

 一人ずつ名前を呼ばれて、試合舞台へと足を進める。ただし、ケージの中には入らずに、金網を取り囲む格好で立ち並んでいく。

 総勢二十名の選手が立ち並ぶと、観客たちは歓声と拍手でそれを歓迎してくれた。


 その後は控え室に戻り、身体を温めながらの待機である。

 すでに着替えは済ませており、試合衣装の上からあらためてトレーニングウェアを纏っている。防具の装着にはまだ早かったので、オープンフィンガーグローブだけを着けて、レオナは少しキックミットを叩かせていただいた。


 前回と同じく、控え室にはモニターが設置されていたので、そこで他選手の試合模様を拝見させていただくこともできた。

 前回との相違点は、試合前にいちいち録画された映像が流される点である。


 内容は、出場選手の練習風景やインタビュー、それに過去の試合映像のダイジェストなどだ。会場には大きなスクリーンが設置されているので、そこでも同じものが流されているはずであるし、また、後日CSのスポーツチャンネルで放映される際にも、同じ演出が為されるのだという話であった。


 こういう映像を、業界用語で「煽り∨」と呼ぶらしい。

 試合を観戦する人々に選手たちのこまかな情報を事前に伝えて、より楽しんでもらうのが目的であるとのことであった。


 たとえば、その選手はどういう経歴を持っているのか。ベテランなのか、新人なのか。王座獲得歴はあるのか、他の競技で実績はあるのか。相手選手と因縁などは存在するのか。年齢はいくつで、どういうタイプのファイターであり、どういう思想で格闘技に取り組んでいるのか───そういったことを知らしめることで、人々の関心や期待感を煽ろうという演出であるのだ。


「ショービジネスの観点からすると、こういう演出は大事なもんなんだよ。特に、テレビ放映でしか格闘技を観ないような人間にとっては、この煽りVや実況の解説の面白さってのが、試合内容と同じぐらい大事になってくるはずだ」


 黒田会長は、そのように述べていた。


「ただし、ライトな客層とコアな客層だと、ウケるネタってのが少しばかりズレちまうんだけどな。その辺りのところは、まあ痛し痒しってところだ」


 ともあれ、レオナや景虎も二週間ほど前にこの煽りVというものを収録するために、取材陣を『シングダム』に招き入れていた。


 もっともレオナは、素性を明かすことのできない身だ。

 なので、レオナは覆面をかぶった状態でひたすら稽古に励み、そのさまだけを撮影されることになった。インタビューも、黒田会長が代理でつとめてくれたのである。


『彼女は地方のとある道場で、ひたすら立ち技の鍛錬に励んでいたんだよ。なかなか近代MMAでは珍しいファイトスタイルなんで、アリースィ選手とも面白い試合ができるはずだ』


 テレビカメラの前で、黒田会長はそのようにコメントをしていた。そのさまも、レオナの試合の直前に流されるはずであった。


 そうして控え室のモニターでは、煽りVと試合模様が交互に写し出され───ついに第三試合、景虎の出番であった。


「ううう。ドキドキするなー。トラさん、頑張れー」


 他の選手たちの耳をはばかり、柚子は小声でモニターに声援を送っている。

 レオナもウォーミングアップの手を休めて、柚子の隣に陣取らせていただいた。


 景虎は、モニターの中で不敵に微笑んでいる。

 聞くところによると、試合直前に笑顔を見せる選手というのは、それほど多くないらしい。対戦相手の本郷選手も、口をへの字にして静かに闘志を燃えさからせていた。


 試合開始の合図と同時に、景虎は勢いよく前に飛び出す。

 景虎には珍しい、先制攻撃であった。

 本郷選手も虚をつかれたのか、いくぶん泡をくった様子で迎え撃つ。


 至近距離での乱打戦であった。

 ストライカーであるはずの本郷選手が圧倒され、引き下がっている。

 景虎は手を休めず、本郷選手を金網ぎわにまで追い詰めた。


「あっ!」と柚子が大きな声をあげる。

 相手の右アッパーが、景虎の下顎を撃ち抜いたのだ。

 しかし距離が詰まりすぎていたためか、景虎は怯まずに拳をふるい続ける。


 ついに本郷選手の背中が、金網にまで到達した。

 それと同時に、景虎は右腕をコンパクトにスイングさせた。

 右の肘が、本郷選手のこめかみにぶち当たる。

 がごっという重い音色が聞こえてきそうなほどの、強烈な一撃であった。


 本郷選手は前屈みになり、頭を抱え込んでしまう。

 すると、景虎はそれよりも身を低くして、がら空きの胴体へと組みついた。


 腰を引かれて、本郷選手は尻もちをつく。

 景虎は中腰になり、相手にのしかかりながら、容赦なく拳をあびせ続けた。

 景虎の身体と金網にはさまれて、本郷選手は動くこともできない。頭を抱え込み、ただ暴風雨のような攻撃に耐えるのみである。


 相手が戦意を喪失したと見て、景虎は右腕をことさら大きく振りかぶった。

 その腕を、レフェリーが横合いからひっつかむ。

 そうしてレフェリーは、逆の手を頭上で大きく振った。

 試合終了の合図である。


 景虎は身を起こし、本郷選手は力なく崩れ落ちる。

 歓声が爆発した。


 試合時間は、一ラウンド一分四十八秒。

 秒殺とまではいかないが、非の打ちどころのない勝利であった。


 柚子はこらえきれずに「やったー!」と跳び上がり、レオナに抱きついてきた。

 余所のジムの選手やコーチ陣は、そんな覆面少女の姿を微笑ましく思ってくれたのか、笑顔で拍手をしてくれていた。


「トラさん、おめでとーございます! 最初から最後まで圧倒してましたね!」


 やがて景虎が黒田会長らとともに戻ってくると、柚子はさらなる喜びの声をあげた。

 試合衣装の姿で頭にタオルをひっかけた景虎は、「ああ」とにこやかに笑い返してくる。


「ただ、二、三発いいパンチをもらっちまったからね。祝勝会で酒が許されるのか、ちょいとひやひやしてるところだよ」


「お前らしくもなく、ハイリスクな攻めだったな。終盤にくらったアッパーは、ちょっとやばかったぞ?」


 黒田会長は、いささか苦笑気味の表情である。

 そちらに向けて、景虎は肩をすくめていた。


「相手が雰囲気に呑まれてるのがわかったからね。先手必勝だと思ったのさ。やっぱベテランでも、ケージに慣れてないと身体が縮こまっちまうもんなんだろうね」


「ああ。それに本郷選手は、肘有りの試合も初めてだったはずだからな。こめかみに一発いいのをくらって、それでいっそう怯んだんだろう」


「ふふん。こっちは前々からトンチャイに肘打ちを習ってたんだ。あんな付け焼刃のディフェンスで防がれてたまるかい」


 言いながら、景虎はトンチャイのほうに手をのばした。

 トンチャイはにこにこと笑いながら、その手にハイタッチをする。


「さ、カズとあたしは結果を出せた。プレッシャーをかけるわけじゃないけど、期待してるよ、くじょ……いや、黒ライオンさん」


「はい。全力を尽くします」


 レオナは晴ればれとした気持ちで自分の出番を待つことができた。

 何から何までうまく行きすぎて、少し不安になってくるぐらいである。


 一ヶ月半という短い期間で可能な限り、技を練磨することはできた。

 また、MMAのトータルのキャリアも、ついに七ヶ月に及ぼうとしている。

 減量も成功し、体調は万全だ。

 伊達や景虎が勝利したことによって、精神的にも安定している。

 十一月の試合のときとは比べものにならないほどの、至極すこやかな心境であった。


(これであっさり負けちゃったら、さぞかし悔しい気持ちになるんだろうけどな。そればっかりは今さらどうこうできるもんでもないし、人事は尽くしたんだから、どんな結果でも受け入れるだけさ)


 そんなことを考えながら、レオナはトンチャイの指示で防具を着用することにした。

 トレーニングウェアの下だけを脱ぎ、シンガードとニーパッドを着用する。

 覆面の紐も柚子に締めなおしてもらい、また少しだけキックミットを蹴る。体温も心拍数もほどよい加減で上昇し、どこにも問題は見当たらなかった。


 そうして数十分が経過し、第四試合から第六試合までが消化され、ついにレオナの出番である。

 トンチャイや柚子と入場扉の裏で待機しながら、レオナは静かに時が満ちるのを待った。


 今ごろ会場のスクリーンでは、二人分の煽りVが流されているのだろう。

 細く開かれた扉からは、熱気とざわめきがゆるゆると流れ込んできている。


「九条さん、頑張ってね?」


 最後に柚子が、そのように呼びかけてきた。

 覆面姿の、珍奇な姿である。レオナと同様に、フードも深くかぶったままだ。

 その小さな身体を、レオナはぎゅっと抱きすくめてみせた。


「わ、な、何かな?」


「他意はありません。ただの気分です」


 柚子の身体を解放したとき、スタッフの手によって扉が開かれた。

 前回と同じく、晴香の選んでくれた勇ましい入場曲が流れている。


 レオナは自然な足取りで、花道に足を踏み出した。

 熱気と歓声が、物理的な圧力をともなって押し寄せてくる。

 十一月のあの時と、同じ感覚だ。

 照明の落とされた客席に赤や青の光が乱舞し、視覚までもが圧せられる。


 レオナはゆっくりと、花道を歩いた。

 ようやく平常とは異なる感覚が、じわじわと背筋をのぼってくる。


 この感覚は、何であろうか。

 不安なのか期待なのか、もっと違う何かなのか。十一月の試合の直後、ふらふらになって花道を歩いていたときに味わわされた感覚と同質のものであるように感じられた。


(そう、こいつが何なのかを、あたしは知りたいんだよ)


 決して嫌な感覚ではない。

 ただ、正体がわからないので、少しだけ不安な気持ちにもなってしまう。試合に対する不安ではなく、未知なる何かに対する不安だ。


 足の裏が、わずかに床から浮いているような感じがした。

 試合前に、これはまずいのではないだろうか。

 だけど今は、とにかく舞台に向かうしかなかった。


 客席の間の花道を通過したところで、スタッフに右手側へと導かれる。

 そちらに向かうと、ルールミーティングで指導をしていたレフェリーの一人が金網の外側に立っていた。

 今回は、ここでボディチェックを受けるのだ。


 レオナはフードをはねのけて、トレーニングウェアを脱ぎ捨てた。

 歓声の圧力が増したように感じられたが、その感覚も遠かった。

 パーカーを柚子に手渡し、レフェリーの前に立つ。


 まずは、頭をさわられた。

 覆面の中に異物を隠していないかの確認である。

 それからグローブの状態と爪の状態、マウスピースの有無を確認され、足もとの防具も確認される。

 最後に口頭で、女性用の局部の防具を装着しているかを問われた。

 それにうなずくと、ケージの入り口を指し示される。


 レオナは柚子やトンチャイと目を見交わしてから、入場口の短い階段を目指した。

 セコンド陣は、インターバルでしか入場を許されない。レオナは一人で階段を踏み越え、金網の内側へと乗り込んだ。


 試合舞台は、明るいスポットで照らされている。

 そこで待ち受けていたのは、この試合を担当するレフェリーと、リングアナウンサー、そして大きなカメラを抱えたクルーたちである。


 遠慮のない距離から、撮影をされた。

 背後のスクリーンでは、レオナの姿が大写しにされていることだろう。


 足もとには、まだ若干の浮遊感が残されている。

 どうしよう、と考えたすえ、レオナはおもいきりジャンプしてみた。

 柚子の部屋で観た試合映像で、そのように振る舞っている選手が何名かいたのを思い出したのだ。


 両膝を曲げて真上に跳び上がり、着地の際に、おもいきりマットを踏みつける。

 浮遊感が、少し飛散した気がした。

 レオナはカメラから遠ざかり、虚空に蹴りを放ってみる。

 裏回し蹴り、羽柴塾の鎌刈である。これならば、服部選手との試合でもお披露目したので、手の内を明かすことにはならないだろう。


 身体は、過不足なく動いてくれた。

 ぼやけていた視覚や聴覚が、だんだんと明瞭になってくる。

 あらためて、歓声がものすごかった。


 レオナは首を左右に動かしてから、背中を金網でバウンドさせる。

 すると、すぐ背後から柚子の声が聞こえてきた。


「大丈夫? 何だか落ち着かないみたいだけど」


 振り返ると、金網のすぐ外から柚子がレオナを見つめていた。

 レオナはそちらに「はい」とうなずいてみせる。


「どうも身体を動かさずにはいられないのです。ひょっとしたら、緊張しているのかもしれませんね」


「そっかー。でも、九条さんだったら大丈夫だよ! あたしもここから応援してるからね!」


 そんな柚子の声に、リングアナウンサーのアナウンスがかぶさった。


『赤コーナーより、アリースィ・ジルベルト選手の入場です!』


 歓声が、さらに勢いを増す。

 スポットに照らされた花道に、アリースィ選手の姿が出現した。


 ルーカス・ジルベルト杯のときと同じように、黒の柔術衣を纏っている。

 その背後に続くのは、父親と見知らぬ日本人男性だ。


 アリースィ選手は意気揚々と花道を突き進んできた。

 スクリーンを見てみると、笑顔で観客に手を振り返している。

 試合前とは思えぬような、にこやかなる表情である。


 アリースィ選手も金網の外で足を止め、脱いだ柔術衣を父親に手渡した。

 その下から現れたのは、白を基調にしたハーフトップとハーフスパッツである。

 手にはもちろんオープンフィンガーグローブ、足もとにはシンガードとニーパッドを装着しており、セミロングの髪は根もとからこまかく編み込まれていた。


 そうしてボディチェックを済ませたのち、小走りでケージの中に飛び込んでくる。

 さらにアリースィ選手は、両手を振りながらサイドステップで八角形の舞台上を一周した。


 腕をのばせば届きそうな距離で、レオナの前を通りすぎていく。

 その際に、アリースィ選手は首をねじ曲げてレオナにウインクを送ってきた。


 アリースィ選手のための入場曲が、フェードアウトされていく。

 後に残された歓声の中を、リングアナウンサーが強引に割り込んだ。


『第七試合、スペシャルマッチ! 五分二ラウンド、特別ルールによる女子フライ級の試合を開始いたします!』


『シングダム』や『フィスト』ではバンタム級に制定されているこのウェイトも、『NEXT』においてはフライ級と定められていた。これは、男子選手と規格を統一しているためであるらしい。


『青コーナー、百七十四・五センチ、五十六・五キログラム、シングダム所属───マスクド=シングダム!』


 やはり手を上げたりするのは性にあわなかったので、レオナはぺこりと一礼してみせた。

 観客のボルテージは、上がる一方である。


『赤コーナー、百六十八・二センチ、五十五・八キログラム、ルーカス・ジルベルト柔術アカデミー所属───アリースィ・ジルベルト!』


 さらに歓声が暴風雨のようにうねりをあげる。

 アリースィ選手は、いまだに父親の柔術道場に籍を置いていた。余所のジムに移籍はせず、出稽古でMMAの修練を積んでいるのだろう。


 アリースィ選手は、両手を振って観客の声援に応えている。

 楽しくて楽しくてたまらないといった表情である。


『両者、中央へ』


 レフェリーの指示で、中央に向かう。

 本日のレフェリーはヘッドマイクを装備していないため、背後からリングアナウンサーが手持ちのマイクを差し出してフォローしていた。


『グラウンド状態における打撃攻撃は禁止。肘打ち、顔面への膝蹴り、膝を正面から蹴る攻撃、金網をつかむ行為も禁止。反則行為に対しては、その度合いによって口頭注意、警告と減点、あるいは失格負けを課しますので、十分に注意してください』


 そんな説明も、アリースィ選手はにこにこと笑いながら聞いている。

 レフェリーは厳しい表情をしたまま『グローブを合わせて』と続けた。


 アリースィ選手は、両方の拳を差し出してくる。

 レオナはそれに、グローブのクッション部分をちょこんとぶつけてみせた。


『フェンスまで下がって』


 レオナはアリースィ選手の姿をとらえたまま、バックステップで引き下がる。

 横目で見ると、柚子とトンチャイはエプロンサイドに当たる外枠から降りて、肩から上だけを金網の向こうに覗かせていた。


 カメラクルーたちが舞台から退散し、扉が閉められ、掛金がかけられる。

 それを見届けてから、レフェリーは「ファイト!」と肉声で試合の開始を告げた。


 大歓声の中、レオナは乱戦の型を取る。

 それが完成するかどうかというタイミングで、アリースィ選手が跳びかかってきた。


(何っ!?)


 危ういところで、レオナは両腕を交差させた。

 胸もとを守ったその両腕に、アリースィ選手の右膝が突き刺さってくる。


 アリースィ選手は試合の開始と同時に舞台の上を走り抜けて、その勢いのままに飛び膝蹴りをくらわしてきたのである。

 レオナにそれを防がれると、アリースィ選手は軽やかなステップで後方に下がっていった。


(ずいぶん強引だな。油断してなきゃ、くらうはずもないけど)


 しかし、両方の腕がびりびりと痺れてしまっていた。

 威嚇や牽制でなく、全力を込めた飛び膝蹴りであったのだ。普通であれば、カウンターを恐れてこんな真似はできないところであった。


(ま、向こうはMMAの初試合なわけだし、そうやって自分の緊張をほぐそうとしてるのかな)


 レオナは平常心で、あらためて乱戦の型を取ってみせた。

 右の手足を前に出した、サウスポーのスタイルだ。身体は半身にして、右腕はだらりと下げ、左拳は腰にためつつ、膝でリズムを取る。


 そんなレオナの正面で、アリースィ選手も同じようなフォームを取っていた。

 構えはオーソドックスで、左の手足を前に出している。身体はほぼ横向きで、背筋はのばしつつ腰を落としており、両腕はともに下げている。足の幅はレオナよりも広く、肩幅よりもさらに十五センチは開いた格好だ。


 そんなレオナとよく似たフォームで、アリースィ選手はぴょんぴょんと跳ねるようにリズムを取っていた。

 これは少しばかり、意想外の事態である。


(これって、あたしと一緒でアウトボクシングのスタイルってことだよな。グラップラーで、そんなのアリなのか?)


 レオナは立ち技を得意とするストライカーである。それで身長に秀でているので、相手から距離を取り、遠距離から攻撃を叩き込むこのスタイルを基本のものとした。


 しかし、寝技を得意とするグラップラーであれば、普通はこのような体勢は取らないだろう。もっと相手に組みつきやすいように、前屈み気味の姿勢を取るのがセオリーであるはずだ。


(いや、だけど、この娘の親父さんは、わりと上体を起こしてたっけ)


 二十年前の映像を思い出す。

 彼女の父親、ルーカス・ジルベルトは、背筋をのばした体勢で相手と向き合っていた。それで前蹴りやパンチで牽制しつつ、一気に姿勢を低くして相手に組みつくのを得意にしているようだった。


 しかしそんなルーカス・ジルベルトでも、このように半身の姿勢は取っていなかったはずだ。

 身体の側面を相手に向けた体勢では、なかなか容易に組みつけるものではない。柚子の部屋で観賞した数々の試合でも、このようなスタイルで試合をするのはテコンドーやアメリカン・カラテを基調にしたストライカーばかりである印象であった。


(そういうスタイルはアメリカ人に多かったよな。アメリカ在住のこの娘だったら、そりゃあそういうスタイルを身につけてもおかしくはないけれど……)


 レオナがそのように分析している間も、アリースィ選手は軽やかにステップを踏んでいた。

 前後と左右にせわしなく動き、一秒として同じ場所に留まっていない。

 そして、その面は相変わらず楽しくてたまらなそうな表情を浮かべていた。


(まさか付け焼刃であたしのスタイルを真似してるわけじゃないよな。ちょっと小手調べしてみるか)


 リーチもコンパスも上背の分、レオナがまさっているのだ。油断をしなければ、遠距離からの攻撃をくらうことはないだろう。


 そのように考えながら、レオナが足を踏み出した瞬間、アリースィ選手の身体が旋回した。

 横合いから、左足が飛んでくる。

 いきなりの上段後ろ回し蹴り、バックスピンキックである。


 今度は手で受けず、レオナは身体をのけぞらした。

 まだまだ間合いは遠かったので、軽くスウェーするだけで回避することができた。


 そうして気づけば、アリースィ選手はまた間合いの外でステップを踏んでいる。

 大技の二連発に、会場内は沸いていた。


(蹴りのスピードは大したもんだけど、こんな間合いじゃ当たりゃしないよな)


 気を取りなおして、レオナは前進した。

 アリースィ選手は、ひゅるひゅると逃げていく。

 アウトサイドの方向であったので、レオナも角度を修正しながら、さらに前進する。

 するとアリースィ選手はスイッチをして、今度はインサイドに回り込んできた。

 しかしまだ攻撃の届く距離ではない。

 レオナはめげずに、アリースィ選手を追いかけた。


 すると今度は、鋭い左のローキックが飛んできた。

 奥足からの、アウトローだ。

 レオナはわずかに右足を浮かせて、衝撃を受け流す。

 おたがいの足に装着した防具がぶつかりあい、パアンッと小気味のよい音色が響いた。


 ダメージはない。

 スピードは素晴らしいが、服部選手に比べれば軽い攻撃だ。

 が、それでまたアリースィ選手に距離を取られてしまっていた。


(何であたしが追いかけなきゃいけないんだよ。ちょっと下がって出方をうかがってみるか)


 レオナは後方にステップを踏んだ。

 とたんに、アリースィ選手が詰め寄ってくる。

 角度は、ややアウト寄りだ。

 これなら手を出せる、と思い、レオナは下げていた右腕でフリッカージャブを繰り出した。

 しかし、ウェービングでかわされてしまう。


 瞬間、ぞくりと悪寒が走った。

 自分の感覚を信じて、レオナはまた身体をのけぞらせる。

 鼻先を、アリースィ選手の左の爪先が走り抜けていった。

 中間距離からの、ハイキックである。


 レオナは体勢を戻し、さらにフリッカーを繰り出そうとした。

 しかし、アリースィ選手のほうが早かった。

 右のジャブが、ぱしんとレオナの鼻を打つ。


 レオナは下がり、前蹴りを打とうとした。

 だが、アリースィ選手のジャブが連続で飛んできた。

 今度はかろうじてかわし、前足の前蹴りを放つ。

 アリースィ選手はアウトサイドに逃げていた。


 自分の攻撃を仕掛けた後、もうその場にいないのだ。ステップワークは、伊達や服部選手に劣るものではなかった。

 そうしてわずかに距離ができると、ためらいなくハイキックを飛ばしてくる。

 レオナは三たび、スウェーバックでアリースィ選手の攻撃を回避した。


「レオナ、スウェーは危ないヨ! いつかタックルが来るからネ!」


 遠くのほうから、トンチャイの声が聞こえてきた。

 レオナはただでさえ背筋をのばしているので、身体をのけぞらせるとますます組みつきに対応することが難しくなってしまうのだ。

 だが、いかにスピード重視の攻撃とはいえ、ハイキックなどという大技を顔面で受けてしまうわけにもいかなかった。


(距離が取れないなら、腕で頭をガードするべきか)


 そのようにも思ったが、最後のハイキックをかわされるなり、アリースィ選手も後方に下がっていた。

 あちらのセコンド陣も、何やらアドヴァイスを送っている。ポルトガル語らしいので内容は聞き取れないが、深追いするなとでも言っているのだろうか。


(こいつはけっきょく、何をしたいんだ?)


 ステップワークが見事であるので、レオナの攻撃はなかなか当たらない。しかしあちらも大技が主体なので、まだローとジャブを一発ずつもらったのみであった。

 で、どちらも軽い攻撃であったので、レオナにはダメージも残っていない。

 これを繰り返していれば、いずれ大技も当てられるという見込みなのだろうか。


(いや、だけど、こいつはいまだに柔術の道場に籍を置いてるんだ。一番の得意技は寝技のはずだろ)


 これほどまでに相手の意図が読めないのは不気味であった。

 服部選手や石川エマを相手にしていたときには感じなかった感覚が、じわじわと背中のあたりに広がっていく。

 それはある種の、もどかしさにも似ていた。


(とにかく、攻めよう。スタンド状態の穴を見つけるんだ)


 意を決し、レオナは踏み込んだ。

 たちまちアリースィ選手が、ぐるりと旋回する。性懲りもなく、バックスピンキックである。

 レオナはまた身体をのけぞらしてしまい、その間にアリースィ選手は逃げていく。


「二分経過! 残り三分!」


 柚子の声が響きわたった。

 あっという間の二分間だ。

 ダメージもスタミナのロスもない代わりに、活路が見いだせない。


 レオナは、アリースィ選手を追いかけた。

 すると今度は、バックハンドブローが飛んできた。

 しかし間合いが遠いため、足を止めるだけで届かない。


(ぐるぐる回んな! 扇風機かよ!)


 アリースィ選手がインサイドに逃げようとしていたので、レオナはすかさず左の蹴りを叩き込んだ。

 この数ヶ月で修練を重ねた、MMA流のミドルハイである。

 狙うは、相手の肩口だ。


 アリースィ選手は、スウェーバックでそれをかわした。

 狙ったのが肩口であるので、レオナ以上に身体をのけぞらせている。

 それだけ大きく体勢を乱せば、次のアクションまで猶予ができる。

 足を戻した後、レオナはフリッカージャブを繰り出した。

 が、予想の地点にアリースィ選手の頭部は戻ってこなかった。

 アリースィ選手はそのまま後方に倒れ込んでしまったのである。


(なに?)


 背中から倒れたアリースィ選手は、焦った様子もなく笑いを含んだ目つきでレオナのことを見上げていた。

 足は開き気味で、膝を曲げている。

 上からのしかかることは可能であるが、この体勢だと胴体を足ではさまれてガードポジションを取られてしまう。寝技巧者を相手に、それは賢い選択とは思えなかった。


 レオナは慎重に、右の側へとステップを踏む。

 するとアリースィ選手も寝そべったまま向きを変えてきた。

 迂闊に近づけば、足を掛けられて転ばされてしまいそうだ。


「レオナ、無理しなくていいヨ! 自分のフィールドでやりあおう!」


 トンチャイの声が聞こえてくる。

 レオナは諦めて、アリースィ選手から距離を取った。

 レフェリーが間に立ち、「スタンド」の声とともにアリースィ選手を立ち上がらせる。


「ファイト!」


 また一からの仕切り直しだ。

 レオナはいざ、足を踏み込んだ。

 するとアリースィ選手が、今度は前方に屈み込んできた。


 タックルかと思い、レオナは足を止める。

 しかし、両者の距離はまだ遠い。


 アリースィ選手は床に右手をつき、そこを支点にして、横合いから足を振り上げてきた。

 もはや技の名称もわからない。腕つき回転蹴りとでも呼びたくなるような、珍妙な技だ。


 間合いが、中途半端であった。

 スウェーをすれば、楽々かわせる。しかしトンチャイのアドヴァイスもあったので、レオナは腕で頭部をガードすることにした。

 それなりの衝撃が、前腕に走り抜ける。

 勢いに押されて、何歩か後退することになった。

 その間隙に、アリースィ選手はもう立ち上がっている。


 さらにアリースィ選手は、前足でサイドキックを放ってきた。

 レオナは踏みとどまり、その攻撃も腕で受ける。


 距離は、ほどほどに詰まっていた。

 何とか攻勢に転じるべく、レオナはフリッカーを放つ。

 しかし、アリースィ選手はまたもや横回転していた。

 レオナの拳は虚空を叩き、アリースィ選手の足が下方から襲ってくる。

 今度はハイではなく、ローだ。

 バックスピンのローキックである。


 レオナは軽く右足を浮かせた。

 防具のないふくらはぎに、アリースィ選手のかかとがめり込む。

 そのまま身体を持っていかれそうであったので、レオナは大きく足をあげて、アリースィ選手の蹴り足を受け流した。


 そうしてレオナが足を戻した頃には、もう間合いの外に逃げられてしまっている。

 アリースィ選手の顔には、こらえようもない微笑がこぼれていた。

 その顔に向かって、フリッカージャブを射出する。

 しかし間合いが遠いために届かない。

 お返しに、右のハイキックが飛んできた。


(今度こそ、カウンターだ!)


 軽く身を引いて、相手の蹴り足をやり過ごす。

 それで前進しようとしたレオナの肩口に、思わぬ衝撃が走り抜けた。


 アリースィ選手の蹴り足が、弧を描いて振り下ろされてきたのだ。

 空手で言うかかと落とし、テコンドーで言うネリチャギであった。


 自分から踏み出してしまったために、けっこう深くもらってしまっている。

 レオナはたまらず引き下がり、鎖骨の無事を確かめずにはいられなかった。


「四分経過! 残り一分!」


 そこに柚子の声が響く。

 驚くほど時間の経過が速かった。


(くそっ! 一発も当てられずに終われるかよ!)


 これでは石狩エマとの練習試合の再現だ。

 どうしてこうも自分は不器用なのだろうと思いながら、レオナは大きく踏み込んだ。

 それと同時に、向こうも踏み込んでいた。


 レオナは、ミドルキックのフォームに入っている。

 その懐に、飛び込まれていた。


(何っ!?)


 ここに来て、アリースィ選手が低空のタックルを仕掛けてきたのだ。

 レオナの対応は、数瞬ほど遅かった。

 すでに膝裏まで手を回されてしまっている。

 相手の頭の位置が低いため、これではフロントチョークも狙えない。


(三歩下がれば、金網だ!)


 そのように思ったときには、足をすくわれて倒されていた。

 横合いから、アリースィ選手がのしかかっている。横四方、サイドポジションである。


「慌てないでいいヨ! 一本足を戻そう!」


 そんな指示が届いたときには、もうみぞおちに膝を乗せられていた。

 ニーオンザベリーの体勢である。


 遅ればせながら、レオナは意識を集中した。

 残りが一分を切っているならば、まるまる集中して耐えることができる。

 ここで対応を間違えたら、確実にタップを奪われる。そう判断しての行いであった。


 レオナの腹に膝を乗せながら、アリースィ選手は右腕を抱え込もうとしている。

 いかにも腕ひしぎ十字固めを狙ってきそうなポジションであった。


 それと同時に、膝はじわじわとレオナの腹の上を前進しているようにも感じられる。

 このままレオナの胴体を乗り越えて、マウントポジションを取ろうとしているかのようだ。


 皮膚感覚で伝わってくるのは、その二パターンの動きのみであった。

 自分の感覚を信じて、レオナはアリースィ選手の動きに備える。


 腕ひしぎ十字固めか。

 マウントポジションか。

 時間はうんざりするほど、のろのろと過ぎ去っていった。


 やがて、アリースィ選手の膝に力が込められる。

 一息にレオナの胴体をまたぎ越そうと、力を込めた───そんな風に感じられた。

 そのときは、アリースィ選手の体重移動に合わせてブリッジをして、体勢をひっくり返すのだ。

 レオナは全身に力をたわめた。


 次の瞬間、アリースィ選手は背中から床に倒れ込んだ。

 膝の動きはフェイントで、腕ひしぎ十字固めが真の目的であったのだ。


 ブリッジをしかけていたレオナは即座に力のベクトルを切り替えて、アリースィ選手の側に身体をねじり上げた。

 アリースィ選手の倒れ込む勢いを利用して、こちらは起き上がるのだ。

 最大限まで意識を研ぎ澄ましていたために、何とかついていくことができた。


 腕はしっかりとクラッチしたまま、アリースィ選手の上にのしかかる。

 しかし、そのときにはもうアリースィ選手の足が別の動きを見せていた。

 腕ひしぎから三角締めに移行しようとしている。


 よどみのない、水のような動きであった。

 ぶんぶんと無秩序に足を振り回していた人物と同一とは思えないような、精緻で計算しつくされた動きだ。


 その清らかなる流れに半ば呑み込まれつつ、レオナは全力で肘を張っていた。

 もう三角締めの形から逃れるすべはない。あとは残り時間をひたすら耐えることしか考えられなかった。


 アリースィ選手の両足が、レオナの首を右腕ごとからめ取っていく。

 それが致命的な圧迫とならぬよう、レオナは渾身の力で腕を突っ張った。

 こめかみに血管が膨れるのを感じる。

 しかしこれは自分で力んでいるためだ。頸動脈の流れを止められたわけではない。


 こんなにまざまざとした感覚の中で寝技の攻防に取り組むのは、ほとんど初めてのことであった。

 いや、練習中に意識を集中させたときは、ここまでの状態に追い込まれる前に、不利なポジションから脱することができていたのだ。


 氏家コーチも柔術の黒帯であるが、レオナを相手に本気の技を仕掛けてくることはありえない。男子選手の茶帯の先輩はけっこう容赦なくレオナのことをいじめぬいてくれたが、ここまで洗練された動きではなかった。


 と、思考があらぬ方向に傾いてしまい、もしやこれはブラックアウトする前兆なのでは───と、レオナがいささか心配になったとき、どこか遠いところから、プオオオンという破裂音のような音色が響いてきた。

 ラウンドの終了を告げる、ゴングならぬホーンの音である。


 圧迫感が、嘘のように消えていく。

 床に手をついて大きく息を吐いたレオナの鼻先に、にゅうっとアリースィ選手の顔が近づいてくる。


「あなた、すごいね。ぜったい、フィニッシュとおもったのに」


 アリースィ選手は、満面に笑みをたたえていた。

 とっさに言葉を返すこともできないまま、レオナはメッシュ素材の生地ごしにアリースィ選手の顔を見つめ返す。

 すると頭上から、レフェリーの怒声が振ってきた。


「私語はつつしむ! 次は減点を取るよ!」


「はあい」と呑気たらしい言葉を返しつつ、アリースィ選手は笑顔のまま立ち上がった。

 復活してきたレオナの聴覚が、万雷のごとき歓声を伝えてくる。

 誰もがアリースィ選手の素晴らしい試合運びに感服しているようだ。


 ともあれレオナは、ぎりぎりのところで敗北することをまぬがれたようだった。

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