04 交錯

「お前と母さんが家を出たのは、七月の終わり頃だったから……かれこれ九ヶ月ぐらいになるのか。元気そうで何よりだよ」


 救急病院の玄関口。レオナが無言のままでいると、ハルトはいっそう楽しげに口もとをほころばせた。


「お前、またちょっと背がのびたか? こりゃあマサキは、一生かかってもお前を追い抜けそうにないな」


 マサキというのは、下の兄の名前であった。

 レオナは全身に広がっていく怒気を何とか抑えつけながら、ハルトののんびりとした笑顔をにらみつけてみせた。


「とりあえず、場所を移すか。こんなところじゃ、人目をひいてしかたがないもんな。……どこかに入って、茶でも飲むか?」


「……あんたと仲良く茶を飲む気になんてなれないね」


「じゃ、少し歩くか。あっちのほうに、公園があったみたいだぞ」


 ハルトはレオナに背を向けて、てくてくと歩き始めた。

 一見は、無防備な後ろ姿である。

 しかし、レオナがあと二歩ばかりも間合いを詰めたら、すかさずこちらに向きなおってくることだろう。背中に目でもついているのかというぐらい、余人の接近には敏感なハルトであるのだ。


 土曜日の昼前である。通りには、それなりの人間が歩いている。

 それらの人々ともなるべく接近しないようなルートを辿りながら、ハルトは無言で歩き続けた。


 数分後、小さな公園が見えてくる。

 すべり台と砂場と、よく名前のわからない遊具がぽつんと配置された、ごく小さな公園であった。

 砂場には何故かネットが掛けられており、遊んでいる子供の姿もない。都心の真ん中でありながら、実にさびれた風情であった。


「こんな小さな公園じゃ遊び甲斐もないよな。東京の子供たちってのは、いったいどこで遊んでるんだろう」


 そんな愚にもつかない台詞を吐きながら、ハルトはベンチに腰を下ろした。

 レオナは十分な間合いを取りつつ、その正面に立ちはだかってみせる。


「何だよ、座らないのか?」


 それは小さなベンチであったので、座ればおたがいの間合いに入ることになる。

 よってレオナは、無言でハルトをにらみ続けた。


 最後に顔をあわせてから九ヶ月以上は経っていたが、ハルトは何ひとつ変わっていなかった。

 顔の形はやや面長で、目鼻立ちはくっきりしており、ケンカ空手の門下生とは思えないほど涼やかな風貌をしている。髪はこざっぱりと短くしており、身につけているのは何の変哲もないTシャツとカーゴパンツだ。


 身長は百八十一センチで、羽柴家においては一番の長身であった。

 体重は七十五キロ前後で、手足が長く、スタイルがいいために、あまりごつい印象はない。Tシャツの袖からのびる腕もすっきりと引きしまっており、『シングダム』に通う男子ジム生ほど筋肉が目立ったりもしていなかった。


 年齢は、今年で二十二歳になるはずだった。

 レオナとは、五歳差である。

 その若さで、この兄は羽柴塾において二番目の実力者であるのだった。


「とりあえず、元気そうでよかったよ。身体のほうも、そんなになまってはいないみたいだな」


 白い歯をこぼしながら、ハルトはそう言った。


「まあ、お前のことだから、修練を怠ったりはしないだろうと思ってたけどさ。むしろ、以前より筋肉がついたように見えるな」


「……そんな下らないことより、先に話すことがあるでしょ?」


 怒りに声が震えてしまわないように気をつけながら、レオナはそんな風に応じてみせた。

 ハルトは、きょとんと目を丸くしている。


「話すことって? 親父やマサキだったら、元気にやってるぞ」


「そんな話、なおさら興味はねえよ。あんたは、どうしてタケをあんな目にあわせたんだ?」


「ああ、そのことか。……そりゃあ、タケが病院にでも担ぎ込まれれば、お前が姿を現すと思ったからさ」


 レオナは一瞬で、我を失いそうになってしまった。

 しかし何とか自制して、歯の間から言葉を絞りだす。


「そんな……そんな下らない理由で、タケをあんな目にあわせたってのか?」


「あいつはああ見えて、こうと決めたら引かないところがあるからな。あれぐらいしか、お前を捜す手段を思いつけなかったんだよ」


「だからって! あそこまで痛めつける必要があったのかよ! あいつは顔面と膝を骨折しちまってたんだぞ!?」


 思わずレオナが声を荒らげてしまうと、ハルトは「そうか」と息をついた。


「確かに、そこまでやるつもりはなかったよ。というか、あいつだったら手加減はいらないと思ったんだよな。なんだかんだ、技をかわすのは上手いやつだったからさ」


「あんた……!」


「あいつはこっちにきて、ずいぶん鈍ったみたいだ。まあ、あんな下らないジムに通ってたら、それが当然だな」


 レオナの中で、また激烈な怒りの炎が燃えあがった。

 それでも奇跡的に、抑制することはできた。

 ハルトはひとつ首を振ってから、またレオナに笑顔を向けてくる。


「だからやっぱり、俺はこっちに来て正解だったと思ってるよ。いちおうは黒帯だったタケが、あの有り様なんだからな。どれだけ時間をかけて積み上げてきたものでも、ちょっと修練を怠れば、それは簡単に失われてしまうものなんだよ」


「…………」


「本当は、一年ぐらい様子を見ようと思ってたんだ。お前が頭を冷やすのに、それぐらいの時間は必要かと思ってな。でも、やっぱり心配になっちまったから、こうして親父の反対を押し切ってお前に会いに来たんだよ、レオナ」


「……頭を冷やすって何の話だよ? あんたはいったい、何のためにこんなところまで出向いてきたってんだ?」


 もう半ば予想はついていたが、レオナはそんな風に問うてみた。

 するとハルトは、レオナが予想していた通りの言葉を口にした。


「それはもちろん、お前を迎えに来たんだよ。俺と一緒に帰ろう、レオナ」


「…………」


「お前はいちおう女だからな。たまには反抗したくなる気持ちもわかる。でも、もう十分だろう? お前は羽柴塾を離れるべきじゃなかったんだ」


「……どうしてあたしが、あんなイカレた道場を離れるべきじゃないんだよ?」


「それは、お前ほど才能のある人間はいないからさ。お前は羽柴塾のこれからを背負っていく人間なんだ」


 レオナは大きく息をついてから、あらためてハルトの笑顔をにらみ返した。


「ふざけたことを抜かしてんじゃねえよ。あたしは羽柴塾の人間として生きることにうんざりしたんだって説明しただろ? あんただって、それには納得してたはずじゃねえか?」


「納得なんてしてないさ。ただ、頭を冷やす時間が必要だなと思っただけだ」


「だったら、もう一度言ってやる。あんな道場に戻るのは、まっぴらごめんだね」


「しかたのないやつだな。俺は、お前こそが羽柴塾の三代目当主に相応しい人間だと言ってるんだぞ?」


 レオナは目のくらむほどの怒りを覚えながら、同時に呆れ果てることになった。


「寝言は寝て言えよ。道場を継ぐのは、長男のあんただろ? そんなもん、のしをつけてあんたにくれてやるよ」


「違うな。羽柴塾の当主を継ぐべきは、その時代の一番強い人間であるべきなんだ」


「だから、それがあんたのことだろ!? あたしなんて、せいぜいあんたから三本に一本しか取ることはできなかったじゃねえか!」


「これだけ体格と経験の差があって、三本に一本も取れることが、お前の強さの証なんだよ。マサキなんて、俺から五本に一本も取れればいいほうだっただろう? あいつはお前より背は低いけど、体格はしっかりしてるし、お前より二年も長く修練を積んでいるのにな」


 そう言って、ハルトはわずかに身を乗り出してきた。


「それだけじゃない。今のお前はきっと、十六歳の頃の俺より強いんだ。だとしたら、お前のほうが才能の面で俺を上回っている確率は高い。いつか俺の強さが頭打ちになったとき、お前は俺よりも強くなる───俺には、そんな風に思えてならないんだよ」


「…………」


「もちろん、いつまで経ってもお前の力が俺を上回らないようだったら、当主の座は俺が受け継ぐ。その結果が出るまで、お前は羽柴塾で修練を───」


「いいかげんにしやがれ、この馬鹿兄貴!」


 レオナはついに、怒声を爆発させてしまった。

 公園に他の人間がいなかったのは幸いである。


「相変わらず、人の話を聞かない野郎だな! あたしはな、そんなもんにいっさい興味はないって言ってるんだよ! 道場が嫌で家を出たのに、当主がどうした才能がこうしたって……ああもう、うんざりだ! そんな馬鹿げた理由でこっちに出向いてきたんなら、タケの治療費だけ置いてとっとと帰りやがれ!」


「何をいきなり怒ってるんだよ。俺の言葉に、何かおかしいところでもあるか?」


「一から十まで全部おかしいよ! あたしは絶対に、あんな道場には戻らない! ケンカの才能なんて、くそくらえだ! そんなもん、あのイカレた町に住んでない限り、何の役にも立たねえだろうがよ!」


「それはお前の考え違いだ。俺たちは、ケンカに勝つために強さを求めているわけじゃない。個としての強さを追い求める過程で、目の前に立ちはだかる敵を退けているだけだろう?」


「俺たちとか一緒くたにするんじゃねえ! あたしはそんなご大層な理念にこれっぽっちも共感できないから、家を出たんだよ!」


 レオナは全身の血が沸騰するような感覚を覚えながら、さらに言いつのった。


「あたしはもう、羽柴塾の人間ってだけでケンカをふっかけられるような人生はまっぴらなんだ! それでも痛い目にはあいたくなかったから、いやいや稽古を続けてただけなんだよ! あんたには、どうしてそれがわからないんだ!?」


「俺だって、何のために修練を積んでいるのか見失いかけたことぐらいはある。でも、そんな迷いも時間さえ過ぎれば───」


「違うんだよ! あたしは、あんたたちとは違うんだ」


 怒りとは異なる激情が、腹の底からせりあがってくる。

 それに耐えながら、レオナは言った。


「もしもあたしが男だったら、あんたや親父の言うことに納得できたかもしれねえな。でも、駄目なんだ。あたしには、あんたたちと同じように考えることができないんだ。あんたたちが大事に思ってることを、あたしにはまったく大事だと思うことができないんだよ」


「そんなことはない。お前だって、羽柴の人間なんだ。親父の子供なんだ」


「あたしはもう羽柴レオナじゃない、九条レオナだ。九条レオナとして生きることが、今のあたしにとっては一番の幸福なんだ。……なんとかそれをわかってくれよ、兄貴」


 レオナの胸にあふれかえっているのは、悲哀の念だった。

 レオナだって、この理解しがたい兄に情愛を抱いていないわけではない。しかし、どうしても、その心情を理解したり共感したりすることができないのだ。このハルトだけではなく、父親も、下の兄も───本当は、紗栄子と一緒にみんなで同じ人生を歩むことができたら、どれほど幸福であったろうと思う。


 だけどやっぱり、それはかなわぬ夢想であるのだった。

 父や兄たちがもっとも大事に思っていることを、レオナや紗栄子は大事だと思うことができない。もっとも重要で、彼らの根幹を支えているその一点だけが、レオナと紗栄子には許容できなかったのだった。


(世間の常識なんて笑い飛ばして、あんたたちと一緒に馬鹿騒ぎできていれば、それはそれで楽しい人生だったんだろうよ)


 しかし、レオナは駄目だった。

 路上で無法者にケンカをふっかけられることも、それを返り討ちにすることも、まったく楽しいとは思えなかった。自分の強さを誇る気持ちにもなれなかった。どうして自分がこんな人生を歩まなければならないのか、それが苦痛でしかたがなかった。普通の家に生まれ育って、普通の人間と友達になることができたら、どれほど幸福であったか───そんな風に思い悩まなかった日はなかったのである。


「そうか……お前の言い分はわかったよ、レオナ」


 とても静かな声で言いながら、ハルトは立ち上がった。

 レオナは、ハッとして後ずさる。

 ハルトはとても悲しげな表情を浮かべて、レオナを見つめていた。


「俺じゃあお前を説得できないみたいだな。……とても残念だ」


「待て。それ以上、近づくなよ。あんた、あたしをどうするつもりだ?」


「最初に言った通りだよ。お前を家に連れ帰る。説得は、親父やマサキに任せるしかないだろう」


 ハルトが、一歩だけ近づいてきた。

 背筋に冷や汗を感じながら、レオナは二歩後ずさる。


「親父は、あんたがこっちに来ることに反対してたんだろ? それなのに、説得ってどういうこったよ?」


「親父だって、お前には戻ってきてほしいと思ってるんだよ。ただ、俺より気が長いってだけでさ。それでもお前を連れ帰れば、説得ぐらいはしてくれるだろう」


「ふざけんな! 誰が何と言おうと、あたしは家には戻らないよ!」


「でも、三回に二回は俺が勝てるからな」


 同じ表情をたたえたまま、ハルトの目の色が変わった気がした。

 むろん、そんなのは錯覚だ。しかし、ハルトがレオナを制圧するために意識を研ぎ澄ましていることは間違いなかった。


「やめろよ! あたしはもう、道端のケンカなんて卒業したんだ!」


「だったら、黙って俺に殴られるだけだな」


 ハルトが、ふわりと腰を落とした。

 それだけで、レオナの全身に緊張が走り抜ける。


「やめろって言ってんだろ! あたしはタケと違うぞ! 警察沙汰になって、困るのはあんただろ!?」


「どうやって警察に伝えるんだ? 走ったって、俺のほうが速いぞ」


「……あたしを気絶させて、無理やり運ぶ気か? こんな真昼間から、そんな真似できるわけねえだろ!」


「駐車場に、俺の車をとめてあるんだ。馬鹿みたいに金はかかるけど、電車で来なくて正解だったよ」


 ならばそれは、最初から荒事に発展する可能性も考慮していたということなのだろう。

 レオナは、さまざまな感情に胸をかき乱されることになった。


「それで家に連れ帰って、その後はどうするんだよ? あたしをロープで縛って監禁でもするつもりか? あたしは絶対、あんたたちの言いなりになんかならねえからな」


「別に縛ったりするつもりはないが、納得してもらえるまで説得を続けるよ」


「だから、絶対に納得なんてしないって言ってるだろ! どう言ったら、わかってくれるんだよ!」


「……それは、こっちの台詞だよ」


 ハルトはわずかに腰を落としているだけで、拳を固めてさえいない。

 しかし、レオナがどのように動いても、それに反応して最善の動きを見せることだろう。たとえ背を向けて逃げだしても、五メートルも行かぬ内に追いつかれるのは目に見えていた。


(本当に、話が通じねえ……だから、こいつは嫌なんだ!)


 それでもレオナは、ハルトと拳を交える気持ちにはなれなかった。『シングダム』の門下生として、決して私闘などには興じない───それがレオナの決意であったのだ。


「あたしをさらったりしたら、絶対に母さんが通報するぞ! 親権は母さんにあるんだから、あんたたちは誘拐犯になっちまうんだぞ!?」


「お前が自分の意思で家に留まると決めてくれれば、何も面倒なことにはならないさ」


「……あたしは絶対に、今の気持ちを変えたりはしない。これだけ言っても、まだわかってくれないのかよ?」


「だったら、俺たちを誘拐犯として逮捕させるんだな。そうすれば、お前は自由の身だ」


 ハルトの右足が、空気も乱さずに一歩だけ踏み込んできた。

 瞬間的に、レオナは右腕で腹部を守る。

 その前腕に、強烈な衝撃が突き刺さってきた。

 前腕を通過して、腹の奥にまで重いものが走り抜けていく。右腕で防御していなければ、その一撃で悶絶させられていたことだろう。


 ハルトが奥足で、前蹴りを放ってきたのだ。

 レオナは身を屈めて、息の塊を吐き出すことになった。


「さすがだな。やっぱり、タケとは地力が違うよ」


 ハルトは一瞬でもとの姿勢に戻っていた。

 レオナが後方に押し出された分、間合いも元と同じぐらいに開いている。攻撃をするには、一歩だけでも踏み込む必要のある間合いだった。


「だけど、以前のお前だったら、一発ぐらいは反撃してきたはずだよな。やっぱり、いくらかは鈍ってるのか」


「ふざけんな……道端のケンカは卒業したって言ってんだろ」


 ずきずきと疼く右腕で腹部を抱え込んだまま、レオナは言葉を振り絞った。


「あんたは、無抵抗の人間をいたぶってるんだ。何が個の強さを追い求めるだよ。こんなの、あんたたちが馬鹿にしてる町のチンピラと同じやり口だ」


「俺には、目的があるからな。俺を止めたいなら、言葉じゃなく力と技で止めてみろ」


「そんなの、まっぴらだね」


 レオナは身を起こして、右腕をだらりと下げてみせた。


「もういいよ。そんなに誘拐犯になりたいなら、好きにしな。でも、あんたも親父も小兄ちいにいも捕まっちまったら、いったい羽柴塾はどうなるんだろうね」


「……まだ口ゲンカを続けるつもりなのか? 防御しないと、タケと同じ目にあうことになるぞ」


「そしたら、傷害罪もプラスだね。どこに出しても恥ずかしくない犯罪者だ」


 レオナは大きく腕を広げて、ハルトの前に無防備な身体をさらしてみせた。


「それが世間のルールってやつなんだよ! あんたたちのルールは、あんたたちの地元でしか通用しない! あんたたちは、自分らがどれだけ世間からズレてるか、きちんと自覚するべきだね!」


「…………」


「さあ、あたしを殴って気絶させて、無理やり家に連れ帰ってみなよ! 明日には、警察が踏み込んでくるだろうからさ! そうしたら、あんたの大好きな羽柴塾ももうおしまいだ! じいちゃんと親父が作りあげた羽柴塾を、あんたが潰すんだ! あんたは今、それだけのことをしでかしてるんだよ!」


 ハルトは、動こうとしなかった。

 ただしその眼光は、まだ研ぎ澄まされたままである。

 その右手の指先は、拳を握るべきか迷うように、かすかに震えている。


 そのとき、信じ難いことが起きた。

 横合いから、「九条さん!」という聞き覚えのある声が聞こえてきたのだ。


 レオナは愕然と立ちすくみ、ハルトは音もなく後ずさった。

 それでまた開いた間合いの中に、小さな人影が飛び込んでくる。

 ふわふわとした黄色っぽい髪の毛が、レオナの鼻先で揺れていた。


「ゆ、遊佐さん……どうしてこんなところにいるのですか?」


「タケくんから連絡をもらったの! 姐さんが大ピンチなんですって!」


 柚子はレオナに背を向けた体勢で、ハルトとの間に立ちはだかっていた。

 さきほどのレオナと同じように両腕を広げて、小さな身体をせいいっぱい大きくしている。


「病院の玄関口から、九条さんたちの姿が見えたんだって! それできっと近所の公園にでも移動するだろうから何とかしてほしいって言われたんだよ!」


「じ、事情はわかりました。だけどとにかく、私から離れてください。その人は、危険なんです」


「わかってるよ! 移動中に、タケくんが電話で全部事情を話してくれたから! タケくんをあんな目にあわせたのも、九条さんのお兄さんだったんだってね!」


 よく見ると、柚子はラッシュガードにハーフのスパッツというトレーニングウェア姿であった。すでに『シングダム』で練習中であった柚子は、そんな格好で中野からここまで駆けつけてきたのだろう。


 しかし、いくら中野と高円寺が電車でひと駅であっても、あまりに到着が早すぎるのではないか───と、レオナが半ば呆然とそのように考えたとき、さらなる気配が公園の入り口から接近してきた。


「こら、柚子、一人で勝手に飛び出すんじゃないよ」


「本当だよー。どうなることかと、ひやひやしちゃったじゃん」


「……そいつが九条の兄弟だったんだね」


 口々に言いながら、その気配の主たちがレオナを取り囲んでいく。

 それはいずれもトレーニングウェアに身を包んだ、『シングダム』の女子メンバーたちであった。


 景虎、晴香、乃々美、伊達───それに、アリースィや咲田桜までそろっている。

 この思いもよらない乱入に、レオナは心から驚くことになった。


「み、みなさん、いったいどうして───?」


「タケくんは、ジムのほうに電話を入れてくれたんだよ。だからあたしが、会長の車を借りて、ここまですっとばしてきたのさ」


 レオナの右手側に立ちはだかった景虎が、にやりと笑いかけてくる。


「その後は、柚子の携帯でタケくんにかけなおしてね。車をすっとばしてる間に、ここ数日の話をみんな聞かせてもらったよ」


「……タケが襲われたってだけで驚きだってのに、まさかその犯人がアンタの兄貴とはね。事情を聞いても、さっぱりわけがわかんねえよ」


 不機嫌の極みにある声で言い捨てたのは、伊達である。

 その隣で、アリースィだけはいつもの感じでにこやかに微笑んでいる。


「おととい、わたしはやすんでたから、レオナのおにいさんをみてなかったんだよね。やっぱりレオナのおにいさんも、とってもつよそうだね」


 その言葉で、レオナは慌ててハルトのほうに視線を転じた。

 さきほどよりもさらに後退した位置で、ハルトは頭をかいていた。

 その面に特別な表情はなく、張り詰めていた気配は完全に消失している。


「ええと……話から察するに、あなたがたはタケと同じジムに通っている方々のようだね。何人か、見覚えのある顔もいるようだし」


「ああ、あたしもあんたのことは覚えてるよ。タケくんには東京で知り合ったお友達だって聞いてたのに、すっかり騙されてたよ」


「それで、どうしてあなたがたがこんな場所に? レオナとはどういうご関係なのかな?」


「友達です!」と大きな声で答えたのは、柚子であった。

「友達」と復唱しつつ、ハルトは柚子の肩ごしにレオナを見つめてくる。


「すごいな。お前に同性の友達ができるなんて初めてじゃないか、レオナ?」


「う、うるせえよ!」


 言うまでもなく、今この場で一番動揺しているのはレオナであるようだった。

 まったく想定していなかった柚子たちの乱入に、すっかり気持ちがかき乱されてしまっている。


「九条さん家の複雑な家庭環境については、あたしらも聞かされてるよ」


「それでさっきは、ケンカでも始めそうな雰囲気でしたよね。いったいあなたは、こんなところでレオっちと何をしてたんですか?」


「はん! 何にせよ、タケを襲ったのはこいつなんだろ? どうでもいいから警察に突き出しちまおうぜ」


「ちょ、ちょっと待ってください、みなさん。これは、私と兄の問題ですので───」


 と、レオナが慌てて声をあげると、ハルトがふいにくすくすと笑い始めた。


「さっきから、その喋り方は何なんだよ、レオナ? まるで学芸会みたいだな」


「う、うるせえな! こっちにはこっちの事情があるんだよ!」


 すると今度は、左手側から咲田桜が「ほえー」と声をあげてきた。


「九条先輩って、そんな喋り方もできるんすね。なんか、それはそれでかっちょいいっす」


「混乱するから、あなたは黙っていてください! ……ああもう、どうしたらいいんだよ!」


「あたしらに隠し事なんてするから、そういう面倒なことになるんだよ、九条さん」


 景虎が、笑いを含んだ声でそのように述べてきた。


「ま、あたしも人のプライバシーにズカズカ踏み込むのは流儀じゃないんだけどさ。タケくんがやられてる以上、黙ってはいられないね。九条さんのお兄さんとやら、おとなしく警察に出頭する気はあるのかい?」


「タケが被害届でも出しているなら、大人しく従うよ。自首したほうが、まだしも罪は軽いだろうからね」


 うっすらと笑いながら、ハルトは肩をすくめていた。

 いぶかしそうな顔をする景虎に、レオナは「無理ですよ」と呼びかけてみせる。


「彼は絶対に被害届を出したりはしません。馬鹿ですから」


「ふん。そいつは、羽柴塾って道場に義理立てしてるのかい? 確かに、馬鹿な話だねえ」


 景虎はたくましい腕を胸の前で組むと、ハルトの姿をじろりとにらみつけた。


「ま、タケくんがそれでいいなら、あたしが口出しすることじゃないさ。ただし、九条さんに手を出そうってんなら、あたしらが黙っちゃいないよ」


「何故かな?」とハルトは小首を傾げる。


「九条さんは、あたしらの大事な仲間だからだよ! わかったら、とっとと消え失せな!」


 景虎がこれほどの大声をあげるのは、初めてのことであった。

 その隣で、晴香は携帯端末を顔の横にかざしている。


「もっとも、あたしたちはケンカなんてできない身ですから。あなたが何か不審な動きを見せたら、遠慮なく通報させていただきますよ」


「ふむ。格闘技のジムに通っているのに、ケンカはできないのか」


「格闘技のジムに通っているからこそ、ですよ。あなたの通っている羽柴塾という道場は、そうではないらしいですけど」


「確かにな。これだけ人数がいて、心がまえができているのは一人だけか」


 ハルトの視線の先にいるのは、アリースィであった。

 思わずそちらに目をやったレオナは、ギクリとしてしまう。自然体で立ちつくしながら、アリースィは獲物を狙う黒豹のような目つきになっていたのだ。


「ちょ、ちょっと、アリースィさん? 路上のケンカはご法度ですよ?」


「わかってるよ。でも、あいてがむかってきたら、せいとうぼうえいでしょ? けいさつがくるまでは、みをまもらないといけないしね」


 そういえば、ジルベルト柔術の根幹も護身術であるのだった。

 ハルトは、いよいよ楽しげに目を細めている。


「まいったな。レオナと君がそろっているだけで、俺に勝ち目はありそうにない。……レオナ、ひょっとしたら、お前もタケと一緒にあのジムに通っているのか?」


「……だったら、何だってんだよ?」


「驚いたよ。あれは、スポーツとしての格闘技のジムだろう? まさかお前が、そんなもんに興味を示すとはなあ」


「それだけあんたは、あたしのことをわかってないってことだよ! ……まあ、あたしだって、自分のことを全然わかってなかったけどさ」


 ハルトはカーゴパンツのポケットに両手を差し込むと、また笑った。


「お前を説得するのも、力ずくで連れ帰るのも、どっちも無理みたいだ。あーあ、けっきょくは親父が正しかったってことか」


「おい! 言っておくけど、何年たってもあたしは羽柴塾に戻ったりはしないよ!」


「それはまた数年後に聞かせてもらうよ。それまでは、俺も自分を磨くことだけに集中するとしよう」


 そんなような言葉を残して、ハルトはあっさりと身をひるがえした。

 これだけのことをしでかして、みんなに非難の目を向けられながら、反省する様子も未練を残す様子も見せない。最後にちらりとレオナを見たときも、その横顔には微笑みがたたえられていた。


 たぶんハルトは、このまま真っ直ぐ自分の家に帰るのだろう。

 ハルトとは、そういう人間であるのだ。

 レオナは全身から力が抜けていくような思いであった。

 するとそこに、柚子が至近距離から飛びついてきた。


「九条さん、大丈夫!? どこも殴られたりしてない!?」


「ええ、殴られてはいませんね。危うく蹴られそうにはなりましたが」


 柚子の小さな身体を一回ぎゅっと抱きすくめてから、レオナはその場にいる全員を見回していった。


「あの、みなさん……ご迷惑をおかけしてしまい、本当に申し訳ありませんでした。それと……私なんかのために駆けつけてくださり、どうもありがとうございます」


「まったくだよ」と、景虎は笑顔でレオナの頭を小突いてきた。

 伊達は無言で、レオナの背中を叩いてくる。

 晴香は、ほっとした顔で微笑んでいた。

 乃々美は、仏頂面で肩をすくめている。

 アリースィは、にこにこと笑っている。

 咲田桜は、「んふふ」とおかしな声をあげていた。


「それじゃあ、駐車違反のキップを切られる前に、あたしらも帰ろうかね。柚子、タケくんに電話をいれておいてあげな」


「はーい!」と応じつつ、柚子はレオナにしがみついたままである。

 そのやわらかい髪に鼻先をうずめながら、レオナはハルトが最後に見せた笑みの意味を考えていた。


 あれは、レオナの変化を喜んでいたのか、悲しんでいたのか───どちらとも判別はつかなかったが、ただ、妙に幼い頃の記憶を刺激される、懐かしい笑顔だった。


(いつの日か───)


 いつの日か、レオナと兄たちはおたがいの生き方を尊重し合い、また気兼ねなく笑い合うことができるようになるのだろうか。

 そんなことをぼんやり考えながら、レオナは自分の居場所に戻るために足を踏み出した。

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