ACT.2
01 予期せぬオファー、再び
「いやあ、何だか壮観だなあ!」
黒田会長がそんな風に陽気な声をあげたのは、四月も下旬に差しかかった頃───咲田桜が初めて『シングダム』を訪れた日から一週間後の、自由練習時間においてのことだった。
トレーニングルームには、いつものメンバーが顔をそろえている。その中には、ついに『シングダム』への入門を果たした咲田桜の姿もあった。彼女は数日がかりで両親を説得し、今週の頭から練習に参加し始めたのである。
そんな咲田桜は景虎につきっきりで講習を受けており、残りの四人は寝技の乱取りスパーを三本回し終えたところであった。壁にもたれて水分補給をしていたレオナは、ちょうど自分が一番近いところに陣取っていたので、満面の笑みをたたえている黒田会長に声をかけてみた。
「あの、何が壮観なのですか? 咲田さんが増えた以外は、普段通りの光景だと思いますが」
「いやあ、だけど、アリースィも含めれば、MMA部門の女子選手ももう六人だろう? それが感慨深くってさ」
確かにまあ、ひと月前には総勢四人であったのだから、それを考えれば一・五倍に増えたことになる。
「だいたい、二年前の夏まではトラ一人だったし、去年の夏までは三人だったんだぞ? それを思うと、やっぱり感慨深いよ」
「そうですね。一年足らずで二人も後輩が増えるとは思いませんでした。……まあ、アリースィさんを後輩と呼んでいいものかは疑問なところですが」
「うんうん。しかも全員が、プロに負けないぐらい練習熱心なんだからな。これは、ものすごいことなんだよ。たぶん日本中のジムを巡ったって、こんなにMMAの女子選手に恵まれたところはないはずだよ」
そういう話は、レオナもこれまでに何度か聞いていた。身近なところでも、『フィスト・ジム立川支部』では三名こっきり、『横須賀クルーザー・ジム』においては0名なのである。キックや柔術に比べると、MMAの女子の選手層というのは、まだまだ薄弱であるのだという話であった。
「アメリカなんかでは女子選手の活躍が目立ってきて、最近ではメインイベントに抜擢されるぐらいなんだけどな。まあ、日本でもこれまで以上に盛り上がっていくことを期待させてもらおう」
そのように述べてから、黒田会長は伊達のほうに視線を転じた。
全員汗だくでへたばっているが、伊達の消耗は特に著しい。スポーツタオルを頭からかぶり、マットに両手をついてぜいぜいとあえぐその姿は、ちょっと鬼気迫るものがあった。
「カズ、ウェイトの調整がキツそうだな。オーバーワークやケガには気をつけろよ?」
伊達は背中を上下させつつ、ぐっとサムズアップした。
黒田会長は、でっぷりとせり出た腹の上で腕を組む。
「『フィスト』の全日本選手権は九月だよな。その前に、一回か二回は新しい階級で試合を試してみたかったんだが……ま、早くて六月ってところかな」
「そうっすね……つうか、できれば喋らせないでもらえます?」
「おお、悪い悪い。ウェイトの調整はトンチャイと相談しながら、慎重にな」
そうして黒田会長は、部屋の奥にあるリングのほうにと視線を転じた。
そちらでは、トンチャイに指導を受けながら、乃々美と晴香がスパーをしている。
「あっちも気合が入ってるな。来月の新人戦に向けて、準備は万端ってところか」
「景虎さんも、ちょうどその頃に試合があるのですよね?」
「ああ、『NEXT』からまたオファーがあってな。前回の豪快な勝ちっぷりの恩恵だろう。……というか、九条さんやアリースィにも出場オファーはあったんだけどな」
しかしそれは、どちらも断ることになった。何故ならば、それはプロ選手としてのオファーであったからである。
プロテストというものの存在しないMMAではあるが、それでもレオナていどの経歴でそんなオファーを受けることになってしまうのかと、いささかならず呆れることになったのだった。
「『NEXT』ってのは、話題性を一番に考えてる団体だからな。男子のほうでも、高校生なんかをばんばんプロデビューさせてるんだよ。……まあもちろん、九条さんよりはアマの試合でキャリアを積んでる連中ばかりだけどな」
「当然でしょう。グラウンド状態で打撃あり、というルールなのですから、もう少し安全性を考慮するべきだと思います」
もっともレオナは、安全性を重んじてオファーを断ったわけではない。プロ選手として活動すれば、マスコミの注目度も格段にはねあがると黒田会長や景虎に忠告されたため、すみやかに事態させていただいたのである。
それに、弁財女子学園の関係者だって、そんな真似を許すはずがない。公式試合のもたらす昂揚感というものに興味や価値を見いだしたレオナではあるものの、現在の生活を引き換えにするわけにはいかなかった。
なお、アリースィのほうは「れんしゅうにしゅうちゅうしたいから」という理由で、あっさり断ってしまったらしい。
もともとは日本でプロデビューするために来日したはずであるのに、レオナと対戦したことによって、完全に方針が変更されてしまったのだ。現在のアリースィの目標は、「十八歳になるまでに自分のファイトスタイルを確立させること」なのだという話であった。
十八歳になれば、MMAの本場である北米においてもプロデビューすることができる。それまでの二年弱は、ひたすら技の練磨に費やしたいのだそうだ。
むろん、試合の経験というものも、技の練磨には繋がるだろう。しかしアリースィは、「柔術かアマMMAの試合しか出ない」と公言していた。自分だけプロデビューしてしまうとレオナとの再戦も見込めなくなってしまう、という考えがその言葉の裏には隠されているようだった。
「で、アリースィも夏にはブラジルかどこかで柔術の大会があるんじゃなかったか?」
黒田会長が問うと、アリースィは笑顔で「うん」とうなずいた。
「じゅうじゅつのせかいせんしゅけんがあるよ。それだけはぜったいにでなさいってパーイにいわれてるよ。ちょうどいいから、いっかいかえってビザをしんせいしなおすの」
「みんなすごいなー。あたしなんて、運がよくても試合は半年以上も先だもんなー」
と、今度は柚子が声をあげた。
黒田会長が、けげんそうにそちらを振り向く。
「半年以上って、そいつは『ヴァリー・オブ・シングダム』のことか? 確かにMMAのほうはそれまで機会はないかもしれないが、柔術の大会だったら、いくらでもあると思うぞ」
「はい。だけどやっぱり、MMAの試合が待ち遠しいんですよね! 打撃の練習も頑張ってるし、せっかくのコスチュームもタンスで眠ったままだし!」
そのように述べてから、柚子は「えへ」と微笑んだ。
「でも、九条さんと違って、あたしにオファーなんか来るわけないですもんね。九条さんぐらいの実力者じゃなかったら、そもそもアマチュアの選手にオファーなんて来ないんだろうし」
「私はそんな、大したものではないですよ。遊佐さんだって、服部選手をあと一歩のところまで追い詰めたじゃないですか。それに、プロのMMA選手にだって勝利していますし───」
「だってあれは、柔術の試合だもん。打撃ありだったら、服部選手や井森選手にかないっこないよー」
「だけどそれは、階級だって違うわけですし……」
柚子はきょとんと目を丸くしてから、いささか慌てた様子でレオナに取りすがってきた。
「ごめんね、九条さん! ひょっとしたら、ひがんでるみたいに聞こえちゃった? そういうわけじゃないから、気にしないでね!」
「ああ、はい……」
「みんな試合が決まってたりオファーをもらってたりで、ちょっと羨ましくなっちゃっただけなの! ……あとまあ、咲田さんみたいな強力なライバルも入門してきちゃったからさ」
「咲田さん? それこそ、遊佐さんの相手ではないじゃないですか」
「そんなことないよ。たぶん今でも、MMAのルールだったら咲田さんに負けちゃうぐらいなんだろうし。……あ、これはひがんでるんじゃなくて、冷静な分析ね? 咲田さんは柔道のキャリアもあって、体力面とかはばっちりだし、あたしと違って打撃のセンスもありあまってるから、差が出て当然だと思うんだよね」
「サクラ、ユズコよりおもいしね。たいじゅうがいっしょだったら、ユズコはまけないとおもうよ」
アリースィが口をはさんでくると、柚子は笑顔で「うん、そうかもね」とうなずいた。
しかしレオナは、納得がいかない。体重が同程度なら柚子が勝つ、ということは、現状だと柚子が負けてしまう、という結論になってしまうからだ。
しかし実際、咲田桜の動きは素人離れしていた。まだ入門して数日なので目に見える変化というものは少ないが、キック・ルールのマス・スパーを試みたところ、パワーと勢いでもって柚子を圧倒していたのである。
両者には、五キロていどの体重差がある。なので、それはしかたのない結果であったのだろう。もともと柚子は打撃技を不得手にしているし、人を殴るという行為に腰が引けているようにも思える。その点、咲田桜は遠慮なく人を殴ることのできる精神的な強靭さをも備え持っていたのだった。
だけどそれでも、レオナは柚子が咲田桜に劣るとは思っていなかった。
キック・ルールでは圧倒されてしまったが、MMAルールなら、きっと柚子が相手の打撃技をかいくぐり、寝技で仕留めることができるはずだ。柚子がこの二年弱でつちかってきた技術が、それほど安いものであるはずはなかった。
(やっぱりMMAの公式試合で勝った経験がないから、自信を持つことができないのかな)
レオナがそんな風に考えていると、柚子がまた腕にからみついてきた。
「ねー、やっぱり何か怒ってる? あやまるから、機嫌をなおしてよー」
「いえ、別に怒ったりなどはしていませんが」
「そうなのー? でも、眉間にしわが寄ってるよー?」
と、テーピングの巻かれた指先でレオナの眉間をつついてくる。
「怒ってませんってば。ちょっと考え事をしていただけです」
「えー、ほんとにー?」
「……手前らな、汗だくでイチャイチャしてんじゃねえよ。そういうのは見えねえとこでやれ」
とがった声で言いながら、伊達がおもむろに立ち上がる。
「さ、休憩はもう十分だろ。お次は立ち技のスパーだな。とっとと準備をしやがれ、ガキども」
「おいおい、無理をするんじゃないぞ、カズ。……っと、電話か。おおい、トラ、こっちの連中もよろしく頼むぞ!」
黒田会長は携帯端末を握りしめて、トレーニングルームから出ていってしまった。
それと入れ替えで、疲労困憊の咲田桜を引き連れた景虎が近づいてくる。
「立ち技のスパーかい? それじゃあ、あたしらもまぜてもらおうか」
「いいっすね! 是非お願いします!」
寝技の集中練習でへろへろになりながら、咲田桜も身を乗り出してくる。どうやら彼女は、グラップリングよりも打撃技の修練に興味が強いようだった。
「ただし、全身フル装備のマス・スパーだよ。リングは埋まってるから、マットでね」
各自、おたがいを手伝いながら、防具を装着していく。ヘッドガード、シンガード、ニーパッド、拳用のサポーター、そしてボクシンググローブである。グローブは、景虎の指示で十四オンスに統一された。
「総当たりで一人につき五ラウンドか。まずはひと回しして様子を見よう」
「押忍! あたしの相手は誰っすか!?」
「そうだねえ。……咲田さんは柚子にお願いしようか。あたしはカズで、九条さんはアリースィだ」
いきなりアリースィか、とレオナは気を引きしめることになった。
やはりこの中で、一番動きのつかみづらいのは、アリースィであるのだ。
「一ラウンドは三分、インターバルは三十秒だからね。準備はいいかい?」
各ペアはマットの上で散開し、景虎は壁際に設置されたタイマーをセットする。
「それじゃあ、スタート」
景虎の声と同時に、アリースィは半身の体勢で大きくステップを踏み始める。
色々なファイトスタイルを模索している彼女であるが、やはり基本は大技主体のトリッキーなアウトボクシングであった。
レオナもまた、フリッカージャブと蹴り技を主体にしたアウトボクシングである。この二人でスパーをすると、他の人々よりも移動範囲が広くなるのが常であった。
(でも、毎回遠くから蹴り合うばかりじゃ、芸がないよな)
レオナはそのように思い、ステップを踏むのをやめてみた。
左半身を相手に向けた姿勢のまま、ぴたりと動きを止めてみせる。
意識の集中は、ほどほどだ。これはあくまで、マス・スパーなのである。ダウンやKOに結びつくような本気の攻撃は仕掛けない、というのが『シングダム』におけるマス・スパーのルールであった。
アリースィは、いつもの感じで大きく踏み込んでくる。
見る限り、狙っているのは奥足からの蹴り技であった。
彼女の性格上、きっとローではないだろうと信じながら、レオナもまた足を踏み出す。それと同時に、垂らしていた右腕でフリッカージャブを繰り出してみせた。
アリースィの攻撃は、右ミドルだ。
それが脇腹に届く前に、右拳で相手の顔を撃つことができた。
右足を振り上げかけていたアリースィは、バランスを崩して後ろざまに倒れてしまう。ダウンではなく、スリップである。
「いたーい! はなにおもいきりあたったよ!」
「申し訳ありません。カウンターになった分、ちょっと勢いが増してしまいましたね」
アリースィは立ち上がると、レオナのほうにぐっと顔を近づけてきた。
「ねえ、いまのはまぐれあたり? それとも、ねらいどおりのこうげきだった?」
「それはまあ、いちおう狙い通りではありましたが」
「……これってマス・スパーだよね?」
「はい。ですから、力半分の攻撃です」
「うー」とアリースィは小さく地団駄を踏んだ。いつも朗らかな彼女には珍しい仕草である。
「ぜつみょうなタイミングのカウンターで、よけようがなかったよ? ちからはんぶんで、あんなこうげきができるの?」
「私はタイミングを計るのが信条ですからね。まあ、今のは脱力していたのが余計に功を奏したのかなと思います」
これで真剣に意識を研ぎすましていたのならばマス・スパーの定義から外れてしまうだろうが、そちらの面でもレオナは脱力していた。よって今のは正真正銘、力半分の攻撃であり、アリースィにごねられる筋合いもないはずだった。
「あえて言うなら、アリースィさんともかなりスパーを積んでいるので、攻撃のパターンやタイミングが読めるようになってきた、といったところでしょうか。アリースィさんの攻撃はフォームもダイナミックですから、割合にタイミングをつかみやすいのですよ」
「…………」
「あ、もちろん本気のスパーや試合だったら、攻撃力やスピードもはねあがるので、こんなに簡単にはいかないと思います。マス・スパーだし、攻撃をくらってもかまわない、という姿勢で臨んでいたから、私もうまく脱力することができたのでしょう」
「なんだか、なぐさめられてるみたいだよ! もうわかったから、つづきをやろうよ!」
言いざまに、アリースィは鋭い動きで後ずさった。
レオナもすかさず半身になって、応戦の準備を整える。
アリースィは、アウトサイドに回り始めた。
レオナは最低限の動きで、身体の向きだけを変えていく。
今度の攻撃は、何だろう。
アリースィは熱が入れば入るほど、大きな技を仕掛けてくる傾向にある。となると、今度はハイキック───それも、バックスピンキックあたりであろうか。
レオナは油断なく、アリースィの前足をチェックした。
アリースィはバックスピンキックを放つ際、踏み込んだ前足の爪先が内側に向くクセがついている。その角度で、ただのキックかバックスピンかを見分けられるはずだった。
レオナは、ひたすら脱力をして待つ。
サイドステップを踏んでいたアリースィが、上手いタイミングで前側に踏み込んできた。
爪先の角度は───内側だ。
レオナは念のために頭部をガードしつつ、おもいきり腰を落とした。読みが外れてミドルキックか膝蹴りであったとしても、これならば重いダメージを避けられるはずだった。
屈んだレオナの前に、アリースィの背中が見える。
やはりバックスピンのハイキックであったのだ。
頭の上をアリースィの右足が通過していくのを待ってから、レオナは身を起こし、右拳を繰り出した。再びの、フリッカージャブである。
アリースィの右足がマットに戻る寸前に、レオナの右拳はその頬を撃つことができた。その結果として、アリースィは再びひっくり返ることになった。
アリースィはむくりと半身を起こすと、今度は座ったまま地団駄を踏む。
「うー! いまのは!? あてずっぽう? ねらったとおり?」
「ですから、マス・スパーだとあなたの攻撃は読みやすいのです。どうせパンチではないだろうと思うと、攻撃の種類も限られますしね」
たまには先輩ぶってもいいのだろうかと考えながら、レオナはさらにつけ加えてみた。
「アリースィさん、あなたはやっぱり、もう少しパンチの技術を学ぶべきではないでしょうか? そうしてこそ、蹴り技の有用性が増すものと思われます」
「ゆうようせいってわかんないよ!」
「ああ、ええと……パンチのフェイントがあったほうが、キックもより当たりやすくなる、ということです」
「……そんなのわかってるけど、レオナがあいてだと、パンチがとどかなそうなんだもん」
「でも、他の方々を相手にするときでも、アリースィさんはジャブやフックをほとんど使わないでしょう? いくら遠距離で戦うスタイルだとしても───いえ、遠距離で戦いたいなら、いっそうジャブなどは有効だと思うのですが」
「…………」
「まあ、どのようなスタイルを目指すかは各人の自由なのでしょうけれどね。でも、あなたがプロ選手を目指しているなら───」
そこでレオナは、思わず息を呑んでしまった。
座り込んだアリースィの頭ごしに、柚子と咲田桜の姿が見えたのだ。
咲田桜が、大ぶりのフックをぶんぶんと振り回して、柚子を追い詰めている。それはいつも通りの光景であったのだが───柚子がその場に踏み留まり、真っ直ぐに右拳を突き出すと、それが絶妙なタイミングで相手の鼻っ柱を殴打したのだった。
「うにゃあ!」とかいうわめき声をあげながら、咲田桜がひっくり返る。
すぐそばで拳を交わしていた景虎と伊達も、思わず動きを止めてしまっていた。
「あいててて……目の中で星がチカチカしてるっすよー。これってマス・スパーだったんじゃないんすかー?」
「ターコ。手前のほうこそ力まかせでガンガン突っ込んでたじゃねえか。その勢いがカウンターで返ってきたんだよ」
「そうだねえ。どっちかっていうと、今のはあんたのほうを注意したいぐらいだったよ」
「あにゃ!? そうだったんすか!? 遊佐先輩、どうもごめんなさいです!」
「う、ううん。こっちこそ、ごめんね?」
柚子のほうは、何だか呆然としてしまっているようだった。
それもそのはずで───おそらく柚子は、レオナの知る限りでは初めてスパーで相手からダウンを奪ったことになるのである。
マス・スパーでダウンを奪うのは御法度であるが、景虎たちの言う通り、今のは咲田桜のほうが熱くなってしまったゆえのアクシデントなのであろう。柚子はスパーで力加減を忘れるようなタイプではないし、そもそも今の攻撃には、ほとんど力など込められていないように見えた。相手の猛攻に隙間が見えたので、そこにちょこんと拳を当てたぐらいの感覚であったに違いない。
「柚子もフォームはできあがってきてるからね。きちんと当てれば、そりゃあそれ相応のダメージを与えられるさ。その調子で、フォームやタイミングに集中して続けてみな」
「は、はい!」
「咲田さんも、肩の力を抜いてな。あんたの場合、力を抜いたほうが絶対に破壊力もスピードも増すんだから。力を入れるのはインパクトの瞬間だけで、なるべくやわらかい動きを心がけてみな」
「了解っす! 遊佐先輩、もう一本お願いします!」
咲田桜が、勢いよく立ち上がる。
そのとき、入り口のほうから黒田会長が速足で近づいてきた。
「あ、スパーの最中だったか。ちょいと話があったんだが……まあいいや。区切りのいいところで休憩を入れてくれ」
「何だい? まだ五ラウンドの一ラウンド目なんだけどね」
「いいよいいよ。乃々美たちのほうを見てるから、そいつが終わったら声をかけてくれ」
ということで、マス・スパーは継続されることになった。
その後はアクシデントが起きることもなく、粛々と時間は過ぎ去っていく。三分五ラウンドで、インターバルは三十秒。およそ十七分ほどが経過して、過酷なマス・スパーは終了した。
「今日は柚子と九条さんが絶好調だったね。特に柚子、引くときと攻めるときの見極めが格段によくなってたよ」
「あ、ありがとうございます!」
「体格の違うあたしらに攻撃を当てるのは大変だろうけど、同じ階級の相手だったら、かなりいいセンいくんじゃないのかね。乃々美や晴香の手が空くようだったら、後で相手をしてもらいな」
「はい!」
確かに、MMA部門の女子選手は、柚子を除くと全員が身長百六十センチオーバーであるのだ。百五十一センチの柚子が苦労をするのは自明の理である。
「さて。会長、こっちは一区切りついたよ。いったい何のお話なんだい?」
「おお、お疲れさん。話があるのは九条さんと柚子なんだけどな。まあ、休憩しながら聞いてくれ」
言われるまでもなく、体力を絞り尽くしたレオナたちはマットの上でだらしなく身体を休めていた。
それを見下ろしながら、黒田会長は「えーっとな」と説明し始めた。
「ちょいと急な話なんだが、二人に試合のオファーがあったんだ」
「え?」と柚子が目を丸くする。
「し、試合のオファーって、あたしにもですか? 九条さんだけじゃなくって?」
「ああ。日時は五月の最終日曜日。もう期間が一ヶ月ちょいしかないんだよな。場所は『恵比寿AHEAD』で、『パルテノン』のイベントだよ」
その言葉に、がぶがぶと水分補給していた景虎が「へえ」と反応した。
「あの『パルテノン』が、二人も女子選手を呼ぼうってのかい? しかもそいつは、もちろんアマ・ルールなんだろ?」
「ああ。女子選手ってのは数が少ない上に各団体に散らばってるから、『パルテノン』では滅多に試合を組まれることもなかったんだ。でも、今後はなるべく女子の試合にも力を入れていきたいっていう方針らしい。その一環で、柚子たちにオファーをくれたようだよ」
「ふ、覆面をかぶったままでいいんですよね?」
「いや、覆面をかぶってもらわないと困るぐらいだろう。ぶっちゃけ、あちらさんは実績よりも話題性を見込んでオファーをくれたんだろうからさ」
そのように述べてから、黒田会長はにっこり笑った。
「だけど、あちらさんの思惑なんて、何も気にする必要はない。物珍しい客寄せパンダで終わるかどうかは、柚子たちの頑張り次第だろうからな」
柚子はものすごい勢いでレオナを振り返ってきた。
期待で、瞳がきらきらと輝いている。
しかしレオナは、そのありがたいお話を無条件で喜べる立場でもなかった。
「ええと、そのようなオファーをいただくのは光栄な限りなのですが……五月の終わりって、ちょうど中間試験じゃありませんでしたっけ?」
「中間試験! 九条さんは、試合と試験のどっちが大事なの!?」
「ごめんなさい。この際は、どちらかというと試験のほうです」
すると、反対の側からは咲田桜までもが顔を寄せてきた。
「たしか中間試験は、その週の前半で終わるはずっすよ! それなら心置きなく試合に挑めるじゃないっすか!」
「いえ、それだと試験の期間と追い込みトレーニングの期間が完全にかぶってしまいます。その過酷さは、去年の十一月にさんざん味わわされているのですよ」
「えーっ!? それじゃあ九条さんは、このオファーを断っちゃうの!?」
柚子は必死の面持ちでレオナに取りすがってくる。
すると景虎が、「こらこら」と苦笑まじりの声をあげた。
「学生の本分は学業だろ? 自分の意思で出場を決める分にはかまわないけど、他人にまで無理強いするもんじゃないよ。ましてや九条さんは、家の家事まで受け持ってるって話なんだからさ」
「そ、それはもちろんそうですけど……」
柚子はこれ以上ないぐらい眉尻を下げて、そのまましょんぼりとうつむいてしまった。
叱られた子犬がぺたりと耳を下げたような仕草というか……何なら、ウサギが大きな耳を下げてしまったような仕草である。
きっと本物のウサギはどんなに叱られてもそんな仕草を見せたりはしないのだろうなと頭の片隅で考えつつ、レオナは嘆息してみせた。
「わかりました。なんとか調整してみます」
柚子は、がばっと顔をあげた。
その顔に、見る見る幸福そうな表情が広がっていく。
その姿を見て、景虎はまた苦笑した。
「九条さん、あんた……甘いねえ」
「はい。自覚はしています」
柚子は「わーい!」と大きな声をあげながら、レオナの首ったまにかじりついてきた。
逆の側では、咲田桜が「やっほー!」と声をあげている。
こうしてレオナは、昨年と同じ苦労を再び背負い込むことが決定されたのだった。
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