03 チームメイト

「お疲れさま。これ以上ないぐらいのKO勝ちだったね」


 試合の舞台から退場するなり、竜崎ニーナがタオルを手に笑いかけてきた。

 それを受け取り、顔の汗をぬぐいながら、三船仁美は「あ、ありがとうございます」と頭を下げてみせる。


「あ、相手の選手は調子が悪かったみたいです。あたしって、運がいいですね」


「うん? ヒトミは十一月の試合でもそんなこと言ってたよね。あのときはおたがい緊張でガチガチで、今日はおたがいリラックスしてて、どっちも五分の条件だったでしょ。それで勝利をもぎ取れたんだから、どっちの試合もヒトミの実力だよ」


「い、いえ、決してそんなことは……」


「うっさいなあ。謙虚も度が過ぎると嫌味だよ」


 足もとからは、服部円のささくれだった声が飛んでくる。


「運だけでKO勝ちができるかよ? しかも相手は一階級上の選手だったってのにさ。そもそもあんたに実力がついてなかったら、そいつはコーチ陣や竜崎さんの指導がまずかったって意味になるんだよ?」


「い、いえ、決してそんなつもりじゃあ……竜崎さん、どうもすみません……」


「どうしてKO勝ちした後輩ジム生に頭を下げられなきゃいけないのさ。あんたはもっと自分に自信を持つべきだね」


 竜崎ニーナは苦笑して、三船仁美の汗に濡れた頭を小突いてきた。


「ヒトミは二試合連続で、ノーダメージで勝つことができたんだよ? それで最初は一本勝ちで、今日はKO勝ち。キャリア一年半の高校一年生としては、胸を張っていい戦績なんじゃないの?」


「は、はい。だけど……」


「だけどじゃなくってさ。たぶん余所のジムの人間からすれば、とんでもない新人選手が出てきたと思われてるはずだよ。同じ階級の選手なんて、戦々恐々さ。そもそも軽量級の女子の試合でノックアウトなんて、めったにあることじゃないんだからね」


 そのように述べてから、竜崎ニーナは肩をすくめた。


「ま、試合の直後にこんな話をしてもしかたがないか。とにかく、おめでとさん。コーチたちに報告するのが楽しみだね」


「は、はい。ありがとうございました」


 三船仁美はもう一度頭を下げてから、グローブや防具を外すことにした。

 なんというか、ちょっとしたスパーを終えたぐらいの感覚であり、公式戦に勝利できたという実感がわいてこなかったのだ。三分以上も戦いながら、ほとんど相手の攻撃が自分の身に触れなかったため、余計にそのように思えてしまうのかもしれなかった。


 いっぽう、相手の飯草選手はセコンド陣に担がれて、姿を消してしまっている。最後のダウンでは意識を飛ばされてしまったようなので、救護室に運び込まれたのかもしれない。何にせよ、KOで負けた選手は何ヶ月か公式戦に出場できなくなってしまうはずだった。


(きっともともと体調が悪かったんだろうな。なんか、悪いことしちゃったな……)


 そんな風に考えていると、後ろからTシャツの裾をくいくいと引っ張られた。

 振り返ると、ジャージのフードを下ろした遊佐柚子が輝く瞳で自分を見つめていた。


「三船さん、お疲れさまでした! KO、すごかったです!」


 それだけ囁いて、ぴゅーっと姿を消してしまう。

 わけもわからず立ちつくしていると、服部円が「何だありゃ」と言い捨てた。


「あれであたしにバレてないつもりなのかね。ったく、『シングダム』にはロクなやつがいねえや」


 服部円はこれから、遊佐柚子の同門選手と対戦するのだ。だから服部円に気づかれないよう、こっそり祝辞を述べに来た。……と、いうことであるらしかった。


「さ、お次はマドカの番だね。みんなで勝って、美味しいお酒を飲もうじゃないか」


「あたしらは未成年だから、酔っぱらえるのは竜崎さんだけですけどね」


 服部円は立ち上がると、口もとにふてぶてしい笑みを浮かべた。

 目には、火のような光が浮かんでいる。公式戦に臨むとき、彼女はいつもこのような目つきになるのだ。


(対戦相手がこんな目つきをしてたら、それだけであたしは腰が引けちゃいそうだな……)


 そこで、A面における第三試合の終了が告げられた。

 あちらは第一試合から判定までもつれこむことが多かったのか、ずいぶんB面より進行が遅れていたようだ。


「行っておいで。一ラウンドしかないから、出し惜しみはなしだよ」


「押忍」


 服部円は肩を怒らせながら、試合舞台へと歩を進めた。

 もっと声の届けやすい場所にと竜崎ニーナが移動を始めたので、三船仁美もそれについていく。同門の男子選手たちは別の面で試合を進めているようで、姿が見当たらなかった。


「さて、相手の実力はどんなもんだろうね。あたしもあの選手の試合をきちんと見るのは初めてなんだよ」


 そんな風につぶやく竜崎ニーナとともに、三船仁美も相手選手の姿を注視した。

『シングダム』所属の、伊達和樹選手。身長は百六十センチていどで、規定体重は五十六・七キログラム。年齢は、服部円より一歳年長の十八歳で、戦績は───たしか、二勝一敗であったはずだ。


 MMAのキャリアは服部円より短く、むしろ三船仁美と同じていどであるという話であったが、その代わりに『武魂会』というグローブ空手のキャリアが三年ばかりもあるらしい。

 その『武魂会』という団体は『G・ネットワーク』と提携していたので、そのアマチュア大会においては石田姉妹とニアミスしていたのだった。


「昔はあっちももっと体重が軽かったから、同じトーナメントにエントリーしたりもしてたんだよね。残念ながら、あたしが二回戦で敗退しちゃったから、対戦することはできなかったけどさ」


 そのように述べていたのは、妹の石田葵のほうだった。彼女は伊達よりも一歳年長で、階級は五十三キロ前後である。


「その頃の印象としては、パンチよりも蹴り技が得意そうだったね。アマの試合なのにKOを連発して、決勝戦まで進出してたよ」


「その代償として、膝にダメージが蓄積したのかね。蹴り技ってのは、出すほうにもダメージが溜まるもんだからさ」


 竜崎ニーナは、そのように評していた。

 伊達選手は昨年の春先から、膝を壊して公式戦から身を引いていたのである。十一月のイベントも、練習中にその怪我が再発し、『マスクド・シングダム』こと九条レオナを代役に立てる結果となったのだった。


(つまり、公式戦は一年以上ぶりってことだよね。それなら、勝負勘ってやつもずいぶん鈍ってるんじゃないのかな……)


 しかし、試合舞台で服部円と向かい合った伊達選手は、実に堂々としたたたずまいであった。

 やっぱりこうして並べて見てみると、ずいぶん体格に差異がある。身長はほとんど変わらないのに、伊達選手のほうはすらりとしていて、服部円のほうが肉厚に見えるのだ。


 背中と肩幅が広い分、服部円のほうがリーチでまさっているだろう。というか、彼女は腕自体も長いので、十センチ以上も身長差のある九条レオナにすらリーチでは負けていなかったのだ。

 しかしその分、コンパスにはなかなかの差があるようだった。伊達選手のほうが明らかに腰が高くて、足が長い。同じ身長と体重でもここまで体格が変わることもある、という見本みたいな両者であった。


(でも、腰が高いんだったらそのぶん重心が不安定で、テイクダウンも取られやすいはずだよね)


 三船仁美は何とか服部円に有利な点を見出そうと躍起になっていた。

 これはプロへの昇格の査定試合と見込まれていたし、服部円はずっとそれを目標にしてトレーニングに打ち込んできた。それに、ライバルと目されているジムの選手に連敗を喫するのは、何としてでも避けたいところであろう。柔術の大会ではやはり『シングダム』の所属である遊佐柚子にあわやというところまで追い詰められてしまったのだから、なおさらであった。


 そんな三船仁美の焦燥も余所に、「始め!」の声が告げられる。

 両者がファイティングポーズを取り、距離を探り合った。

 どちらもケレン味のない、MMAの基本姿勢だ。どうやら変則的なのは、九条レオナの専売特許であるようだった。


 まずは伊達選手が、鋭い左のインローを射出した。

 服部円は足をあげて対処したが、いくぶん勢いに負けて身体を流されていた。

 いかにも痛そうなローキックである。

 さすがにグローブ空手の出身だけあって、石田姉妹に負けないぐらいフォームも整っている。


 服部円は左ジャブを何発か放ったが、まだ間合いの外だった。

 伊達選手はアウトサイドに回り込み、左のローで迎撃する。

 また痛そうな音が響いた。


「りゅ、竜崎さん、伊達選手が靭帯を痛めたのは、たしか左膝でしたよね?」


「うん。でも、怪我が再発してから半年は経ってるし、さすがに完治してるんじゃないのかね。……というか、それを確かめるために、おもいきり撃ち込んでるようにも見えるよ」


 かつて大怪我をした足でおもいきり蹴りを撃ち込むというのは、いったいどのような気分なのだろう。

 三船仁美は防具の詰まったバッグを抱え込みながら、祈るような気持ちで試合を見守った。


 やがて一分を過ぎたあたりで、服部円が前に出る。

 おそらくギアを入れ替えたのだろう。前へ前へと攻めるのが、彼女のファイトスタイルであるのだ。


 左右のフックが、伊達選手に襲いかかる。

 それもまた、彼女の得意な戦法であった。

 前に出るといっても、やみくもに前進するわけではない。きちんと左右へのステップも使い、反撃をくらわないように細心の注意を払いながら、猛攻を仕掛けている。伊達選手はローや前蹴りでその突進を食い止めようとしていたが、攻撃の圧力にはずいぶんな差があるようだった。


 服部円は柔道の出身であったが、打撃技の習得に多くの時間を割いていたのだ。だから、柔術のほうはいまだに白帯なのである。

 組み技や寝技には、最初からそれなりの技術と自信を有している。それゆえに、素人であった打撃技の習得に力を入れ、苦手な部分を潰す形で、自分のファイトスタイルを構築しようとしているのだった。


 現状、戦績は四勝二敗である。

 その内の、三つの試合はフックによるKO勝利であった。

 寝技に引き込まれても、そうそう不利になることはない。そういう自信が、積極的な攻めの姿勢につながるのだろう。


 伊達選手は服部円の猛攻に圧倒されて、場外線の外へと押し出された。

 レフェリーが試合を止め、伊達選手に口頭注意を与える。

 これが重なれば、エスケープ行為の反則で減点だ。


 両者は中央に引き戻されて、粛々と試合が再開される。

 再開されても、服部円の猛攻は止まらなかった。


「い、いい感じですね。服部さんはスタミナもすごいし、これなら最後まで押し切れるんじゃないですか?」


「まだ試合時間は半分も残ってるんだから、何とも言えないよ。それに、ダテ選手もここで折れるような選手じゃないだろうし」


 竜崎ニーナの言う通り、伊達選手の動きにも変化が生じた。

 左右へのステップが多くなり、服部円の猛攻を巧く受け流している。そして、迎撃するのにキックではなくパンチを使い始めていた。


 蹴りを放つには足を止める必要があるが、パンチであれば移動中に撃つこともできる。それはそれで高等なテクニックなのであろうが、伊達選手は見事にそれをこなしていた。


 しかも、リーチでは服部円のほうが有利であるはずなのに、伊達選手のほうが多く攻撃を当て始めている。

 服部円のフックに対して、伊達選手はジャブとストレートで迎え撃っているのだ。横から殴りつけるフックよりも、ストレート系の真っ直ぐの攻撃のほうが、射程距離は長い。それで、リーチ差が相殺されてしまっているようだった。


 逃げながらの攻撃であるから、破壊力はそれほどでもないだろう。

 しかし、手数でまされば、判定において有利である。それが心配になるぐらいには、ヒット数に差が出てきてしまっていた。


「マドカ、振りが大きいよ! 小さく当てていこう!」


 竜崎ニーナがアドヴァイスを送ったが、戦況は変わらなかった。

 ショートフックに、ボディフック、それにアッパーまで織り交ぜても、なかなか攻撃が当たらない。さすがにスタンド状態における伊達選手のフットワークは見事なものであった。


「ふむ。普段のマドカだったら、ここらでタックルに切り替えるはずなんだけどね。やっぱり集中できてないのかな」


「え? で、でも、いつも以上のすごい攻撃ですよ?」


「当たらなくっちゃ、意味はないさ。まるきり闘牛とマタドールじゃないか」


 竜崎ニーナがそのように述べた瞬間、信じ難いことが起きた。

 伊達選手が服部円の右フックをかいくぐり、両足タックルでマットに押し倒してしまったのである。

 審判が腕を上げ、テイクダウンによる印象点の加算を表明した。


「ちぇっ、やりたいことを先にやられちゃったよ。いくら相手がストライカーだって、それぐらいは警戒しとかないと」


 服部円はかろうじて相手の右足を両足ではさみこみ、ハーフガードの体勢を維持していた。

 伊達選手は服部円の上にのしかかりながら、肩で大きく息をしている。


「相手は疲れてるよ! 休んでないで、すぐに対応!」


 服部円は腰を切って、相手の身体を突き放そうと試みた。

 伊達選手は、なんとかその動きにくらいついていっている。ストライカーである彼女は、そこまで寝技が得手ではないはずだ。


 しかし、十一月の試合においては、同じストライカーである九条レオナが、寝技で服部円に勝利を収めたのである。

 なおかつ、三船仁美とて、グラップラーと称されていた遊佐柚子を寝技で下している。いかに打撃技が主体のストライカーでも、寝技をおろそかにして試合に勝つことはかなわないのだ。


 服部円を組み伏せながら、伊達選手は右足を抜こうと苦心していた。

 グラウンド状態における打撃技が禁止されているアマチュアの試合においては、もっと有利なポジションを取らないと攻撃につなげにくいし、また、ポイントも入らないのだ。


 伊達選手は上体を起こし、服部円の右腿に手をかけた。

 その一瞬の隙をついて、服部円はおもいきりブリッジをした。

 伊達選手がバランスを崩し、マットに左手をつく。

 そこで服部円は相手の腰を蹴るようにして突き放し、すかさず立ち上がった。

 片膝をついたまま荒い息をついている伊達選手に、審判が「スタンド」と命じる。


「立っちゃったか。マドカだったら、寝技で逆転できただろうに」


「で、でも、伊達選手はスタミナ切れです。きっと勝てますよ」


 竜崎ニーナは、何も答えなかった。

 残り時間は、一分弱である。


 服部円は、最前までと変わらぬ勢いで猛攻を仕掛けた。

 いっぽう伊達選手は、明らかに鈍った動きでサイドに回り込もうとする。

 ガードに徹して、反撃もしてこない。まだ判定勝ちを確信できるほどのポイント差ではないはずだから、明らかにガス欠を起こしているのだ。


(きっと勝てる。一発でもクリーンヒットさせれば、少なくともダウンぐらいは奪えるはずだし!)


 三船仁美は、どくどくと心臓が暴れているのを自覚していた。

 自分の試合のときよりも、気持ちをかき乱されてしまっている。服部円の苦労が報われてほしいと、三船仁美は心から切望した。


「残り、三十秒!」


 反対の側から、『シングダム』のセコンド陣が声を張り上げていた。

 伊達選手が、場外線まで追い込まれる。

 服部円は、右腕を振り上げた。

 一番得意な、打ち下ろしのオーバーフックだ。


 が───そうして服部円の身体が大きく開いた瞬間、伊達選手が再びのタックルを仕掛けていた。

 その手が服部円の両膝を抱え込み、ねじるようにしてマットに押し倒す。

 今度は、サイドポジションになってしまっていた。


 服部円は、強引に背を向けて、立ち上がろうとする。

 その背に、伊達選手がのしかかった。

 長い両足が胴体をからめ取り、右腕が首に回される。

 バックチョークの体勢である。

 九条レオナが、服部円を仕留めた技だ。


 服部円は、両手で相手の右腕をつかんでいた。

 すると伊達選手は、逆の腕を咽喉もとにすべり込ませようと画策する。

 その攻防がしばらく繰り返された後、試合の終了が告げられた。


「やれやれ」と竜崎ニーナが溜息をつく中、両者は審判の指示でのろのろと身を起こした。


「は、判定ですね。いったいどっちが勝ったんでしょうか?」


「どうだろうね。ルール改正前の採点方式だったら、二回のテイクダウンとバックグラブのキープで大差の判定負けだろうけど」


 数年前までは、アマチュアMMAにおいても柔術のような採点方式が採用されていた。いかに有効な打撃を当てたか、いかに有効なポジションをキープできたか、なるべくデジタルな視点で勝敗を決めていたのだ。


 しかし現在は、アマでもプロの試合のように、全体的な印象を重視して判定を下すようになっていた。

 焦点とされるのは、ダメージの有無と、いかに効果的な攻撃を出せたか、いかに試合のペースを握れたか、の三点だ。

 それならば、スタンド状態において果敢に攻撃を仕掛け続けた服部円にも、一縷の望みが残されるはずだった。


 しかし、二名の副審は、どちらもが伊達選手を支持していた。

 なおかつ主審も伊達選手にポイントを入れ、3対0で服部円は敗北を喫してしまった。


 まばらな拍手をあびながら、服部円がこちらに戻ってくる。

 対面からは、遊佐柚子が「やったー!」とはしゃぐ声が聞こえていた。


「残念だったね。気合いが裏目に出ちゃったか」


 服部円は、無言のままタオルを受け取った。

 最後の攻防で体力を使いきったのだろう。分厚い肩が大きく上下している。


「地力では負けてなかったよ。ちょっとした判断ミスが勝敗を分けたんだと思う。地元に帰ったら、反省会だね」


「押忍。……着替えてきます」


「あ、そ、それならわたしも───」


 と、三船仁美は服部円の背中を追いかけようとしたが、竜崎ニーナに止められてしまった。


「ヒトミはちょっと我慢してくれる? 人目があると、マドカは爆発できないからさ」


「ば、爆発?」


「そ。試合に負けた後は、しばらく姿を隠しちゃうんだよ。どっかで泣くかわめくかしないと、悔しさを抑えきれないんだろうね」


 三船仁美は唇を噛み、試合場の向こう側へと視線を飛ばした。

 遊佐柚子が、汗だくの伊達和樹に抱きついて、何か怒鳴られている。遠目にも、実に幸福そうな光景であった。


「……わたしも悔しいです。服部さんは、あんなに練習を頑張ってたのに……」


「向こうの選手も同じぐらい頑張ってたんだろうね。そうとでも思わないとやりきれないし、対戦相手にも敬意を払わないとさ」


「……どうしてでしょう? 服部さんは、わたしなんかよりずっと頑張ってきたのに……なんだか納得がいきません」


 竜崎ニーナは、小首を傾げながら三船仁美の顔を覗き込んできた。

 三船仁美は、首にかけていたタオルで慌てて顔をぬぐう。


「ヒトミ、泣いてるの? 人の勝ち負けであんたがそこまで取り乱すなんて、珍しいね」


「だって……十一月のときは、服部さんも元気そうだったから……」


「ああ、あのときだけは、マドカもあっけらかんとしてたね。今日みたいに不完全燃焼じゃなかったから、負けて悔いなしって心境だったのかも」


 竜崎ニーナは笑いながら、三船仁美の頭を小突いてきた。


「ま、これをバネにして頑張るしかないさ。マドカだってまだ十七歳なんだから、何も焦るような時期じゃないよ」


「はい……」


「それとね、『わたしなんか』って言い方は、もうやめておきな。ヒトミだって、マドカに負けないぐらい頑張ってきたでしょ? チームメイトが弱気な発言をするのは、やっぱり聞いてて悲しい気持ちになるもんだよ」


 三船仁美は驚いて、竜崎ニーナの顔を見上げた。


「わ、わたしたちって、チームメイトなんでしょうか?」


「うん? チームメイトでもジム仲間でも何でもいいけどさ。試合に勝つっていう同じ目的のために同じ場所で頑張ってるんだから、仲間であることに違いはないでしょ。おたがい、力を貸し合ってるんだしさ」


「で、でも、みなさんはともかく、わたしなんて力を借りるばっかりで……」


 竜崎ニーナは、今度は不思議そうな目つきでまじまじと三船仁美を見つめてきた。


「どうやら本気で言ってるみたいだね。ミドリとアオイがヒトミの取り合いをしてることにも気づいてなかったのかな?」


「と、取り合いですか?」


「うん。ヒトミはリーチもあるし技術もしっかりしてるし、それで体重はあの二人の中間ぐらいだから、スパーの相手にはちょうどいいのよ。最近はこの試合のためにアオイとのスパーを増やしてたから、ミドリなんかはいじけてたんだよ?」


「はあ……」


「スタンドに限った技術だったら、いまやマドカを追い抜きそうな勢いだもんね。今後はマドカも含めて三人がかりの争奪戦になるんじゃないのかなあ」


「な、何を言ってるんですか? わたしが服部さんを追い抜くだなんて、そんな馬鹿な話は───」


「ヒトミがマドカに勝てないのは、単純にウェイトの差でしょ。平常体重だと十キロ近くは差があるんだから、それが当たり前さ。純粋にテクニックだけを競ったら、今でもマドカと五分なんじゃないのかな」


 三船仁美は、言葉を失ってしまった。

 竜崎ニーナは、優雅に肩などすくめている。


「ま、打撃技のキャリアはマドカもヒトミも大差ないんだから、何も不思議な話じゃないさ。マドカは柔道でつちかったフィジカルが強みだけど、ヒトミのほうは天性のセンスだね。ちょっと目端のきく記者だったら、天才少女現るとか言って記事にしてくれてもいいぐらいだと思うけど」


「りゅ、竜崎さん、わたしをからかっているんですか?」


「だから、なんにも誇張はしてないっての。立ち技の専門家でアマの大会を荒らしまくってきたアオイとミドリが、キャリア一年半のヒトミを対等の存在に見てるんだよ? これが天才じゃなきゃ何だってのさ」


 竜崎ニーナは笑いながら、三船仁美の頭をぐしゃぐしゃにかき回してきた。


「立ち技で苦労をしてきたあたしにしてみりゃ、嫉妬したくなるぐらいの才能さ。ま、あんたはまだプロがどうこうとかは視野に入ってないんだろうし、たったの十六歳なんだから、今まで通りに楽しく続けていればいいよ。……それで、マドカたちに力を貸してあげな」


 やっぱり返す言葉を見つけられずに、三船仁美は竜崎ニーナの顔を見つめ続けた。

 浅黒い顔に力強い笑みを浮かべながら、竜崎ニーナは最後にぽんと頭を叩いてくる。


「それじゃあ、男子連中の応援に回ろうか。マドカが戻ってきたら、ヒトミも着替えておいで。……身体を冷やしそうだったら、あたしの上着を貸してあげようか?」


「い、いえ、大丈夫です!」


 竜崎ニーナは、笑顔のまま身をひるがえした。

 そのすらりとした背中を追いかけながら、三船仁美は胸の奥深いところに何かの萌芽が生じていることを感じていた。

 まだその正体はわからない。だけど今は、無性に服部円や石田姉妹の顔が見たかった。

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