02 スパーリング
「スパーリングは三分二ラウンドで、最初のラウンドはパンチのみ、次のラウンドはキックも織り交ぜて、という内容になります。それで全員のスパーが終わったら、今度は男子のみ首相撲のスパーを二分一ラウンドで執り行います」
説明係の試験官が、そのように述べていた。
リングは二つあるので、二組ずつ同時に行われるらしい。女子選手は、三名とも同じリングに集められた。
「軽い階級から始めるからね。山里さん、蜂須賀さん、石田さんの順番で、アトム級のお二人は原口選手が、ミニフライ級の石田さんは横尾選手がお相手するよ」
こちらの試験官は、年配の男性であった。ずんぐりとした体型で、なかなか愛嬌のある顔立ちをしている。
「大事なのは勝敗じゃなく、きちんと基礎技術を身につけているかってところだから、あんまりムキにならないようにね。でも、受験生のみんなは相手をノックアウトするぐらいのつもりで、本気でかかってかまわないよ」
受験生も相手のプロ選手も、全員がヘッドガードとシンガードとニーパッドをつけている。それでグローブは馬鹿のように大きい十六オンスなのだから、普通はそうそうKO勝ちなど狙えるものではなかった。
(相手が雑魚ならともかく、まがりなりにもプロ選手なわけだしな)
乃々美は本日の試験において、このスパーリングを何よりの楽しみとしていた。
理由は言うまでもないだろう。同じ階級のプロの女子選手と、初めてまともに手合わせを願えるからである。
『シングダム』にもキックのプロ選手は多数存在する。が、それは全員が男子選手であり、みんな何階級も重い相手ばかりであるのだ。技を磨くのにはうってつけであっても、やはり同階級の人間を相手にするのとは勝手が異なるはずであった。
(原口選手って、たしかアトム級のランキング五位だよな。パンチが主体の、インファイターだったっけ)
『G・ストリーム』の興業はCS放送で放映されているので、乃々美は全試合をチェックしている。特に自分が所属する予定でいるアトム級の試合は、すべて録画をして保存していた。
(二ケタの選手が登録してるって言っても、半分ぐらいは素人みたいな選手ばっかりだもんな。でも、上位五名はみんなそれなりの実力者だったから、こいつはありがたいや)
その原口選手は、にこにこと笑いながら乃々美たちのほうを見ていた。
アトム級のリミットは四十六・二六キログラム以下なので、原口選手もそれほど大柄な選手ではない。しかし、乃々美や山里リンに比べれば、いくぶんがっしりしているように感じられた。
十六歳の乃々美たちとは骨格の出来が違うという面もあるだろうし、それに、試合ではないので平常体重のままなのだろう。目測では、五十キロ近くもありそうな感じであった。
(ま、こいつはあくまでテストなんだ。本気でやりあうのは公式試合を待つとして、お手並みを拝見させてもらおう)
乃々美がそのように考えている間に、原口選手はリング上に上がっていた。
「それじゃあ、受験番号八番、山里リンさん。スパーリングの準備をして」
「は、はい!」
山里リンは上ずった声をあげながら、危なっかしい足取りでリングの上に上がっていった。
やっぱりメンタルに難があるのだろうか。シャドーの試験のときよりも緊張している様子である。
(そういえば、コーチも連れずにひとりぼっちみたいだしな。『ロムパット・ジム』とか聞いたことないけど、どこのどういうジムなんだろう)
ともあれ、七分後には出番が回ってきてしまうので、乃々美はウォーミングアップした身体が冷えてしまわないよう、少し身体を動かしておくことにした。
その間に、どこかから持ち出されたゴングが打ち鳴らされる。
二つのリングで、二つのスパーが開始された。
「あっ」と石田碧が小さく声をあげる。
ゴングが打ち鳴らされるなり、山里リン選手がものすごい勢いでコーナーを飛び出したのだ。
遠い距離から、ぶんぶんとグローブを振り回している。
相手の原口選手は頭部をガードで固めつつ、サイドステップで逃げようとした。
グローブの隙間から覗くその顔は、うっすらと苦笑している。がむしゃらに過ぎる山里リンの猛攻は、確かに苦笑を誘う行いであった。
(あんなんじゃ、三分ももちっこない。スタミナが尽きたところで逆襲されて、それこそKOでもくらいそうだな)
それぐらい、山里リンの攻撃は荒々しすぎた。
一ラウンド目はパンチ限定であるので、ぶんぶんと横殴りに拳をふるっている。ハンドスピードはなかなかのものであるが、すべてを両腕でブロックされているために、何のダメージも与えられてはいない。
しかし、原口選手がどれほど軽妙にステップを踏もうとも、山里リンは追撃の手をゆるめなかった。
距離が空かないので、その拳はすべて原口選手の腕に当たっている。下手に反撃を考えると顔面に当たってしまいそうなので、原口選手は亀の状態で逃げ回るしかなかった。
「ひっどいなあ。プロテストを受けるには、ちょっと早かったみたいだね」
乃々美のかたわらで、石田碧もそのように言い捨てていた。チェシャ猫のように笑っている顔が容易に想像できる声音である。
しかし、その内に様相が変わり始めていた。
十秒、二十秒、三十秒、と時間が過ぎていっても、山里リンの猛攻が止まらないのである。
いや、むしろその攻撃は時間を重ねるごとに、鋭さと勢いを増していっているようにすら感じられた。
最初は無茶苦茶な乱打であったのに、だんだんとフックやアッパーやストレートの形になってきている。相手の動きに合わせてステップを踏みつつ、きちんと拳に体重が乗り始めているようだった。
そうして一分ぐらいが経過すると、会場にいる人間の大半が目を奪われてしまっていた。
これほどの時間をひたすら攻撃し続けるというのは、ちょっと尋常な話ではなかったのである。
しかも、このスパーで使われているのは、十六オンスのグローブだ。
一オンスはおよそ二十八グラムであるので、十六オンスならば四百五十グラム近くにまで及ぶ。それほど重たいグローブを両手につけて、一分以上も休まずに拳をふるい続けるというのは、頭で考える以上に過酷な作業であるはずだった。
原口選手の両腕は、いつしか真っ赤になってしまっている。
それでも反撃できないぐらい、山里リンの攻撃は荒々しく、容赦がなかった。
しかも、その猛攻にだんだんと的確さまでもが上乗せされてしまっている。
そもそも、プロ選手がどれほどステップを踏んでも距離を空けられないというのも、普通の話ではなかった。
「おいおい、どうなってんの? まさか、ラウンドが終わるまでこれが続くってわけじゃあ───」
石田碧が呆れた様子でつぶやいたとき、事態が一変した。
山里リンのボディアッパーが、原口選手の腹部をえぐったのである。
それで、原口選手は体勢を崩すことになった。
そこに、大ぶりの左フックが襲いかかった。
巨大なグローブに包まれた左拳が、原口選手の右腕を叩く。
原口選手の右腕が弾かれた。
固いガードに隙間が生じる。
そこに今度は、真下から右拳が振り上げられた。
右のショートアッパーである。
原口選手の下顎を、大きなグローブが撃ち抜いた。
これ以上ないぐらいのクリーンヒットであった。
結果───原口選手は背中からマットに倒れ込み、それで昏倒することになった。
「は、原口、大丈夫か!?」
試験官の男性が、顔色をなくしてリングに飛び上がった。
山里リンは、ファイティングポーズのまま、肩で息をしている。
原口選手は、完全に意識を失ってしまっていた。
どうやらダウンをした際に、マットで後頭部を打ってしまったらしい。ヘッドガードをしていても脳震盪をまぬがれないぐらい、勢いよくダウンをしてしまったのだ。
「まいったなあ。そりゃあノックアウトを狙うぐらいの気持ちで、とは言ったけどさあ……」
試験官の男性は、いくぶん恨めしげに山里リンの顔を見上げた。
まだファイティングポーズを取ったまま、山里リンは「すいません……」と言葉を返している。
「む、無我夢中だったので……わたし、失格ですか?」
「いや、ルール内で相手をKOした受験生を失格にはできないけどさ」
その後、待機していたドクターが呼び寄せられ、原口選手は無事に蘇生した。
が、きょとんとした顔で周囲をきょろきょろと見回している。
「あれ、スパーの最中でしたよね? えーと、今は何ラウンド目でしたっけ?」
「駄目だな、こりゃ。お前、ちょっと休んどけ。病院に連絡を入れておくから」
完全に意識を失う脳震盪は、危険である。病院で精密検査を受け、数週間はトレーニングを休まされる羽目になるだろう。
原口選手はまだ事態を理解しきれていない様子のまま、別のジム生に抱えられてリングを下りていった。
「ううん、どうしたもんかなあ。試験の途中なのにスパーリングパートナーがリタイアしちまったよ」
「す、す、すみません! あの、わたしはいったいどうしたら……」
「とりあえず、山里さんもリングを下りてくれ。他の試験官と今後のことを協議するから」
そういうわけで、山里リンもすごすごとリングを下りてきた。
汗だくで、小さく肩を上下させている山里リンに、「あんた、無茶苦茶だねー」と石田碧が声をかける。
「ムキになるなって言われてたのに、どうしてあんな無茶をするのさ? そんなにいいカッコがしたかったの?」
「そ、そういうわけではありません。わたし、余所のジムでスパーをするのも初めてだったので……」
「ふん。プロ選手をKOしていい気分なのかもしれないけどさー、先輩選手にあんなことしたら、きっと上の連中に目をつけられるよ? プロにあがってもあれこれ面倒なことになるんだろうなー」
意地が悪いとしか言い様のない石田碧の言い様に、山里リンは泣きべそのような顔になってしまった。
小さく溜息をついてから、乃々美は横から口をはさむことにする。
「あんた、ものすごいスタミナだね。一分以上も攻めっぱなしだったじゃん」
すると山里リンは乃々美のほうを振り返り、泣き笑いのような表情を浮かべた。
「はい、わたし、スタミナぐらいしか取り柄がないので……」
「そんなことないでしょ。左フックから右アッパーのコンビネーションはお見事だったよ。そもそも原口選手は最初っから最後まで射程の外に逃げられなかったんだから、フットワークだってプロ級ってことさ」
「い、いえそんな、滅相もない……」
「メッソウモナイって、そんな言葉を使うジョシコーセーは初めて見たなあ」
にやにやと笑いながら、石田碧がそのようにまぜっかえした。
乃々美は約二名ほど、そのような言葉を使う女子高生に心当たりがある。
そんな風に考えたところで、試験官の男性がこちらに近づいてきた。
「とりあえず、残りのスパーは横尾選手にお願いすることにしたよ。蜂須賀さんと石田さんの試験を先に済ませて、その後に山里さんには第二ラウンドの分だけスパーをしてもらうから」
「は、はい、わかりました! あの、本当に申し訳ありませんでした……」
「何も悪いことをしたわけじゃないんだから、謝る必要はないよ。ただ、もう少し冷静に試験を受けられるよう、頭を冷やしておいてもらえるかな」
試験官の男性も、どちらかというと呆れ気味であるように感じられた。受験生がKO勝ちするにしても、やはりその内容が型破りに過ぎたのだろう。
「それじゃあ、蜂須賀さんは準備をよろしくね。あっちのリングの二戦目に合わせて、スパーを開始するから」
「はい」
すでにけっこうな時間が経過していたので、それほど待たされることはなかった。
いよいよ乃々美の出番である。
しかし相手は、アトム級ではなくミニフライ級の選手になってしまった。
階級としては十一月に対戦した石田碧と同階級であるが、本日の横尾選手は平常体重だ。おそらく、五十キロを優に超えているだろう。
(これじゃあけっきょく、ハンディキャップマッチじゃん)
乃々美の体重は、四十四・五キロだ。アトム級でも減量の必要がないウェイトなのである。本日の横尾選手とは、五、六キロぐらいの体重差となってしまった。
なおかつ身長は百六十センチぐらいありそうなので、乃々美よりも十センチぐらいは大きい。まごうことなき、ハンディキャップマッチである。
(別に、相手がどれだけ大きくても、かまいやしないけどさ……)
しかしこれでは、目新しさが微塵もない。普段、『シングダム』で男子選手を相手にするのと大差のない様相だ。
なおかつ、最初から全力でいかない限り、満足な結果を得ることは難しそうであった。
軽量級において、五キロもの体重差というのは、相当なハンデなのだ。とにかく攻撃の重さが異なるので、一発でもクリーンヒットをもらえば、それが致命傷になりかねない。
しかたなしに、乃々美はいつもの戦法を取ることにした。
足を使って、相手の間合いから逃げるのだ。
たとえどのような体格差であっても、機動性においては誰にも負けるつもりはなかった。
(だけど、キックが封印されたら、攻撃の当てようがないんだよな)
そのように思いながら、乃々美はひたすらステップを踏み続けた。
さすがにプロ選手らしく、横尾選手も鋭い踏み込みを見せてくる。何度かは、頭部をガードした腕を叩かれることになった。
(晴香より二階級も下なのに、晴香と同じぐらい攻撃も重そうだな)
しかし、ステップワークに関しては、晴香のほうがまさっているかもしれない。晴香とて、元はプロの選手であったのだ。
(この人もインファイターなのかな。うかつに攻撃したら、カウンターをくらいそうだ)
そんなわけで、乃々美はろくに手を出せないまま、第一ラウンド終了のゴングを聞くことになった。
土台、これだけ体格差のある相手とまともなパンチ勝負などできるはずがないのである。しかも乃々美は、パンチよりもキックに比重を置くムエタイ流のファイトスタイルであったのだ。
一分間のインターバルで、乃々美は呼吸を整える。
傍目には余裕でこなしているように見えるかもしれないが、プロ選手を相手に三分間のスパーをこなしたのだから、相応にスタミナを消費させられていた。
(ま、第二ラウンドでいいところを見せれば、試験に落ちることはないだろ)
乃々美は最後に大きく息を吸い、それを吐きながら、気合いを入れなおした。
そこに、「第二ラウンドです」の声と、ゴングの音が鳴り響く。
乃々美は平常心でリングの中央に進み出た。
横尾選手も、それなりに真剣な面持ちで前進してくる。
あちらはきっと、無理に乃々美を叩きのめそうとは考えず、ディフェンスを中心に組み立ててくるだろう。目的は、あくまで乃々美の力量を測ることなのである。
その、プロ選手のディフェンスをこじ開けて、効果的な攻撃を叩き込んでみせる。それが乃々美の目標であった。
十分に相手から間合いを取りつつ、アウトサイドにステップを踏む。
横尾選手は第一ラウンドと同じように、牽制の左ジャブを放ってきた。
乃々美も距離を測るために、何回か右ジャブを繰り出した。
相手はオーソドックスでこちらはサウスポーであるため、おたがいが前に出した左拳と右拳が軽く接触する。
もう半歩で、乃々美の蹴りの間合いだ。
乃々美はアウトサイドに回りつつ、右のアウトローを放ってみた。
間合いは遠かったが、横尾選手は左足を上げ、綺麗にカットをする。乃々美の足の甲が、軽く相手の膝上に当たった。
(一ラウンド目より、ガードが固いな。引き込んでみるか)
乃々美は右ジャブを放ちながら、じわりと斜め後方に引き下がった。
横尾選手は、同じ間合いを保とうと、身体の向きを修正しつつ、前進してくる。
そこで乃々美は、一気に踏み込んだ。
右の前足でしっかりとマットを踏み、かかとを上げ、左足を振り上げる。
一番得意な、左のミドルキックである。
横尾選手は、虚をつかれた様子で身を引こうとした。
その右脇腹に、乃々美の左ミドルが突き刺さった。
左のすねが、肝臓に直撃した。
この当たりなら、防具の有無など関係なかった。
横尾選手はマットに両膝をつき、うめき声をあげながらマウスピースを吐き出した。
「しゅ、終了終了! 横尾、大丈夫か!?」
また試験官の男性がリングに飛び上がってくる。
横尾選手はぐにゃりとマットに横たわり、右脇腹を抱えて悶絶し始めた。
クリーンヒットすぎて、呼吸ができていないのかもしれない。
「うわ、駄目だな、こりゃ。ドクター、もういっぺんお願いします!」
白衣の男性が、慌てて階段を駆け上がってくる。
乃々美はニュートラルコーナーまで引き下がり、試験官の指示を待つことにした。
そこに、リング下から石田碧がわめきたててくる。
「ちょっと! あたしの試験はこれからなのに、何てことしてくれんのさ!」
「何がだよ。相手をKOするぐらいの気持ちでって言ってたじゃん」
「あーもう! だからあんたと一緒にプロテストなんて嫌だったんだよ!」
そうして横尾選手もリタイアすることになり、石田碧の試験と山里リンの第二ラウンドは、雑用係として働いていた『ホワイトタイガー・ジム』の男子選手が急遽つとめることに相成ったのだった。
◇◆◇
その後は、大きな波乱もなくプロテストは終了することになった。
まあ、残されていた課目はミット蹴りと筋力テストであったので、波乱の起きようもなかっただろう。また、筋力テストというのも腕立て伏せと腹筋を五十回ずつこなすだけのものであったので、それをやりとげられない受験生が存在するはずもなかった。
「えー、みなさん本日はお疲れさまでした。試験の結果は一週間以内に各ジムへと通達されますので、それまでお待ちください。無事に合格された方にはプロライセンスが発行されますので、今後は一緒に『G・ネットワーク』を盛り上げていっていただきたいと思います」
試験官の代表者が、最後にそのような挨拶を述べていた。
「そして、『G・ネットワーク』においては五月から新人王トーナメントが開催されます。これは今期のプロテスト合格者にも出場資格が与えられますので、そちらにもふるって参戦をお願いいたします。……それでは各自、お忘れ物のないように」
「お疲れさまでした!」と受験生たちも一礼する。
これにて、解散である。
乃々美は着替えをする前に、ずっと壁際でテストの様子を見守ってくれていたトンチャイに声をかけておくことにした。
「退屈だったでしょ。ようやく終わったよ」
「お疲れさま、ノノミ。絶対合格だから、心配はいらないヨ」
「別に、心配なんてしてないけど」
「うん、これでノノミもたくさん試合ができるネ。今日はお祝いだヨ。けっこう時間がかかっちゃったから、急いで帰ろうか」
今日はジムも休館日なので、夜はトンチャイの働いているタイ料理店で食事をする予定になっているのだ。参加者は、黒田会長と晴香と隆也であった。
「でも、ユズコたちには声をかけなかったんだよネ? 本当によかったのかな?」
「あいつらは、追い込み期間の真っ最中じゃん。日曜ぐらいはしっかり休まないと身体がもたないでしょ」
乃々美はひとつ肩をすくめてみせてから、身をひるがえした。
「それじゃあ、着替えてくるね。どっかで適当に待っててよ」
「うん、入り口のところで待ってるヨ」
他の受験生たちも、ぞろぞろと更衣室に向かっている。その流れに身をまかせて歩いていると、ふいに横合いから「おい」と呼びかけられた。
「お疲れさん。結果発表が楽しみだな」
沼上宏太である。
試験が終わって緊張が解けたのか、さきほどまでよりもゆるんだ顔つきをしていた。
「結果なんて、わかりきってるじゃん。まさか、自信がないの?」
「そんなことないけどさ。それでも、結果が出るのは楽しみだろ」
「僕が楽しみにしてるのは試合だよ。あんたは新人王トーナメントに参加すんの?」
「そりゃもちろん! 新人王トーナメントは三勝以下の選手しか出場できないんだから、来年にはもう出場できないだろうしな!」
自信があるのやらないのやら、いまひとつわかりにくい少年である。
しかしまあ、彼がどのような人間であろうとも、乃々美には関係のない話であった。
「それじゃあね。僕、急いでるから」
「あ、待てよ! あのさ、えーっと……ちょ、ちょっとこっちに来てくれよ」
通路の端まで招き寄せられて、乃々美は首を傾げることになった。
「何? 話があるなら、手短にね」
「ああ、うん……お前さ、ケータイは持ってる?」
「持ってない。ロッカーに置いてきた」
「あ、いや、そういう意味じゃなくって……ケータイ持ってるなら、連絡先を交換しないか?」
乃々美はもう一度首を傾げることになった。
「何で?」
「いや、何でってことはないだろ? 連絡先がわかれば、その、色々と便利じゃん」
「おたがいのジム同士で連絡は取り合えてるんだから、別に必要ないんじゃない? そもそも、年末の冬合宿ぐらいしか用事はないんだし」
「そんなことないだろ。これからは、同じ団体の所属選手なんだし……」
「男子と女子は別々の興業なんだから、関係ないじゃん」
「いや、だから……お、俺は俺個人として、お前と連絡が取りたいんだよ!」
乃々美はもう一度、「何で?」と問うてみた。
沼上宏太は、むやみに顔を赤くしてしまっている。
「べ、別に深い意味はねえよ! でも、せっかく知り合いになれたんだから、連絡ぐらい取り合ってもいいだろ?」
乃々美はしばし考えてから、「いや、やめとく」と答えてみせた。
「何でだよ! ……俺のこと、嫌いなのか?」
「嫌いじゃないけど、めんどくさい」
「めんどくさいって、お前……」
沼上宏太は、ぐったりと壁にもたれてしまった。
そこに、また横合いから「あの……」と声をかけられる。
「お、お話の最中にすいません。今ちょっといいですか?」
それは、山里リンであった。
すでにトレーニングウェアから私服に着替えて、大きなバッグを肩に掛けている。髪が短いので、ぱっと見には男の子みたいに見えた。
「は、蜂須賀さん、今日はお疲れさまでした。あの、蜂須賀さんのスパーリングとかミット打ち、すごかったです!」
「……あんただって、十分にすごいと思うけど。何せプロ選手を病院送りにしちゃったんだからね」
「あ、あれは無我夢中なだけだったので……きちんとしたルールの試合だったら、あんな結果にはならなかったはずです」
「そうかな。あんたはキックも使えたほうが実力を発揮できそうだけど」
男子選手とのスパーリングやミット打ちにおいて、この少女は実に多彩な蹴り技を披露していたのである。むしろ、パンチが苦手であるために、最初のスパーでは気負いすぎたのではないかと思えるほどであった。
「とりあえず、試合で当たる日を楽しみにしてるよ。あんたは新人王トーナメントにエントリーするの?」
「わ、わたしはそれ以前にプロテストに受かるかもわからないので……」
「プロ選手をKOできる人間を不合格にはしないでしょ。その後の試験でも問題はなかったし」
「……合格できたら、とても嬉しいです。そうしたら、わたしもトーナメントに参加させてもらいたいと思います」
そう言って、山里リンは口もとをほころばせた。
トンチャイとよく似た、穏やかな笑い方だ。
「それであの、蜂須賀さんに、お願いしたいことがあるんですけど……」
「何?」
「わ、わたしと連絡先を交換してもらえませんか?」
乃々美は「いいよ」と答えてみせた。
とたんに沼上宏太が「何でだよ!」と大声をあげる。
「お前、態度が全然違うじゃんか! 俺にはあれこれ文句をつけてきたくせに!」
「うっさいなあ。だったら文句をつけられないように身をつつしみなよ」
まだ何かわめこうとする沼上宏太を黙殺し、乃々美は山里リンに向きなおった。
「ケータイ、更衣室なんだよね。ここで待ってるか、一緒に来てくれる?」
「あ、それじゃあ、一緒に行きます」
「うん」
そうして乃々美は、山里リンとともに女子更衣室へと足を向けた。
それから、ふっと思いたって、沼上宏太にも声をかけておくことにする。
「それじゃあね。また年末に」
「おい! 今はまだ三月だぞ!」
「だって、それまで顔をあわせることはなさそうじゃん。他の連中にもよろしくね」
これで心残りもなく、乃々美は帰り支度に取りかかることができた。
そんな乃々美に、山里リンが心配げな声をかけてくる。
「あ、あの、大丈夫なんですか? なんだか、怒ってるみたいでしたけど……」
「いいよ。あいつ、めんどくさいから」
階級どころか性別も異なる選手に、乃々美は関心の持ちようもなかった。
しかし、山里リンは階級も性別も同一である。彼女が新人王トーナメントに参加するならば───いや、『G・ストリーム』で活動を行うなら、今後も何度となく顔をあわせるはずであった。
(こいつは絶対、上にのぼってくる選手だろうしな)
はっきり言って、この山里リンは原口選手よりも格上なのではないかと思えるほどであった。
むろん、きちんとしたルールの公式試合であるならば、今日のような結果にはならなかったかもしれない。しかし、ランキング五位の原口選手よりも、乃々美はこの山里リンに強く興味をひかれることになったのである。
そんなことを考えながら、乃々美は女子更衣室に足を踏み入れた。
ドアを閉め、カーテンを引き開けると、そこでは下着姿の石田碧がスポーツバッグからスカートを引っ張り出そうとしている最中であった。
「何だ、あんたたち、けっきょくつるむことにしたの?」
「別に、そういうわけじゃないけど」
「ふん! 何がどうでもかまわないけどさ! 今日はよくも、大事なプロテストをひっかき回してくれたね!」
そのように述べながら、石田碧は下着姿のまま、二人の前に立ちはだかってきた。
「あんたたち、ここで一言だけ言わせてもらうよ!」
「でっかい声だなあ。何の話か知らないけど、先に服を着たら?」
「うっさい! 大事な話なんだから、黙って聞け!」
そうして石田碧は、びしりと指先を突きつけてきた。
「あんたたちは、絶対にアトム級から出てくるんじゃないよ! ミニフライ級はあたしのもんなんだから! デビュー前にプロ選手をKOするようなやつらは近づいてこないでくださいお願いします!」
「……あんた、自分で言ってて情けなくならないの?」
「ならない!」
乃々美は深々と溜息をついてみせた。
その隣で、山里リンは少しオロオロしてしまっている。
「あの……なるべく希望にそえるように気をつけますけど、もしも身長とかがのびてミニフライ級に転向することになっちゃったら、ごめんなさい」
「やだー! あんな突貫ラッシュの相手はしたくないー!」
石田碧は悲嘆の雄叫びをあげることになった。
同じ選手でもここまで感想は異なるものなのか、と乃々美は内心でひとりごちる。
乃々美としては、一刻も早く山里リンと公式試合でぶつかってみたいものだと思ってやまなかったのだった。
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