epilogue

見果てぬ明日へ

 兄ハルトがとんでもない騒ぎを起こしてから、およそ二週間後───五月の最終日曜日。レオナは『恵比寿AHEAD』という試合会場の控え室で、自分の出番を待ちかまえていた。


『パルテノン』なる格闘技団体の五月興行である。

 一週間ほど前に学校の試験を終えたレオナは、無事にその興行に出場する段と相成ったのだった。


 試合の相手は、名古屋で活動をする新人のアマ選手。MMAの戦績は一勝一敗。キックの戦績は五勝六敗。多彩な蹴り技と首相撲を得意とするストライカーである。

 寝技に関しては穴の多い選手であるので、今のレオナであれば何も恐れることはないと言われている。が、もちろんレオナは慢心することなく、十全に準備を整えて今日という日に臨んだのだった。


「あー、何だか、あたしのほうが緊張してきちゃったな! 負けるわけないとか言われちゃうと、余計にプレッシャーがかかったりしない?」


 セコンド役としてひっついてきた柚子がそのように述べると、かたわらにいた景虎が「こら」とその頭を小突いた。


「セコンド陣が浮き足立ってどうすんのさ? 選手にいらんプレッシャーかけるんじゃないよ」


「あわわ、ごめんなさい! 九条さん、大丈夫?」


「大丈夫です。この時間帯は、あまり緊張を感じることもありませんので」


 すでにオープニングセレモニーを終えて試合の順番を待つ身であるので、レオナも柚子もマスク姿だ。周囲では、同じように出番を待っている男子選手たちがキックミットを蹴ったり精神集中したりしている。


 さして広くもない控え室には、空調設備でも御しきれない熱気と汗のにおい、そして張り詰めた空気が充満している。これが三度目の公式試合となるレオナでも、やはりなかなか慣れるものではなかった。


「今の試合が終わったら移動するからね。もう身体を動かさなくて大丈夫かい?」


「はい。十分に温まっています」


 レオナの試合は第三試合で、現在は第一試合が開始されたところであった。

 モニターでは、男子のアマ選手たちが取っ組み合っている。最初の三試合までが、アマ選手による前座の試合であるのだった。


「……本当だったら、遊佐さんも同じ日に試合だったのですよね」


 レオナがぽつりとつぶやくと、柚子は「えへへ」と恥ずかしそうに笑った。


「まー、次にチャンスがあったら、文香姉さんを説得してみせるよ! 時間さえかければ、わかってもらえると思うんだよねー」


「そのように本音で語り合えるようになっただけ、大きな前進ですものね」


 柚子はまた「えへへ」と笑ってから、レオナのほうに顔を寄せてきた。

 マスクのせいで表情はわからないが、何やら真剣そうな雰囲気である。


「九条さんのほうは、あれから大丈夫? 何もおかしなことにはなってない?」


「はい。母が抗議の電話を入れて以来、何の音沙汰もありません。本人も言っていた通り、数年間は大人しくしているのではないでしょうか」


「そっかー。それならいいんだけど。……でも、数年後には、また来ちゃうんだね?」


「大丈夫ですよ。そのときは、また丁重にお帰り願うだけです」


 柚子はたいそう心配げな様子であったが、レオナはあまり気にしていなかった。

 父親が兄たちが素っ頓狂なことをしでかすのは、もう天災のようなものなのだ。被害が拡散しないように用心しつつ、それに怯えて生きていく気など、レオナは毛頭なかったのである。


(……あたしがこんな試合に出てるって知ったら、あいつらはどんな顔をするんだろうな)


 軟弱なスポーツにうつつを抜かしている、と嘆き悲しむだろうか。

 あるいは、やはり武の心を失っていなかったのだな、と喜ぶだろうか。


 何にせよ、今のところはそれを父親たちに打ち明ける気はなかった。

 レオナたちは離ればなれになってから、まだ九ヶ月ていどしか経っていない。複雑にもつれあった感情を解きほぐすには、年単位の時間が必要となることだろう。


 それに、現在はまだ、レオナ自身が自分の心情をはっきり把握できていないのだ。

 どうしてスポーツとしての格闘技に取り組んでいるのか───どうしてこの行為が楽しく感じられて、熱中することができているのか。それを言葉ではっきり説明することができるようになるまでは、父親たちとの相互理解など望めるはずもなかった。


 ただ、これを楽しいと感じ、熱中していることに、もはや疑いはない。

 そうでなければ、試験期間と重なっているこの時期に、わざわざ試合に出ようなどとは考えられなかったことだろう。


 日々のトレーニングにしても、また然りだ。家の仕事に学校の勉強で、ひまな時間などはどこにもない。それでも何とか時間をひねり出して、過酷なトレーニングを自分に強いている。楽しくなければ、このような生活を何ヶ月も続けられるわけはなかった。


 柚子を筆頭に、ジムのみんなのことも大好きだ。

 大好きな人たちと一緒だから楽しいのか。それとも、同じことに熱中できる相手であるから好ましく思えるのか。そのようなことも、今となっては判断がつかない。ニワトリとタマゴのどちらが先であるにせよ、レオナは柚子たちと現在の生活が大事でならなかったのだった。


(……もしも遊佐さんに『シングダム』への入門をすすめられていなかったら、あたしはどうなってたんだろうな)


 レオナは、ぼんやりとそのようなことを考えた。

 仮に、レオナが柚子と出会っていなかったら───あるいは、出会っていても親しく口をきくような関係になっていなかったら───きっとレオナは、ひたすら勉強と家事にいそしんでいたことだろう。


 それでも亜森とは、仲良くなれていたかもしれない。

 しかしそれは、自分の本性を隠した上でのつきあいだ。たとえば亜森の誘いに乗って茶道部に入部したり一緒に試験勉強に取り組んでいたとしても、自分の素性を打ち明ける気持ちにはとうていなれなかったに違いない。むしろ、今よりも頑なにそれを押し隠そうと腐心していたのではないだろうか。


 そんな生活が楽しいと思えるかどうか、今のレオナにはまったく判断がつかなかった。

 もちろん現在でも、素性を打ち明けぬままつきあいを続けている級友はたくさんいる。が、そこには一抹の罪悪感や物足りなさがつきまとっていたし、本当の意味では友達と呼べないのではないか、という思いもあった。


 柚子と亜森と、それに『シングダム』のメンバーたち。彼女たちとのつきあいがあるからこそ、自分は鬱屈も破綻もせずに生きていけているのではないか───レオナには、そのように思えてならなかったのだった。


(それじゃあ、もしもそんな鬱屈した状態で、ハルトに帰ってこいと言われていたら……あたしは、どうしていたんだろう?)


 むろん、素直に帰っていたとは思えない。レオナはもう以前の生活には絶対に戻りたくないと考えていたし、紗栄子との生活もかけがえのないものであると強く感じていたのだ。


 だけどそれでも、今よりは大きく心を揺さぶられていたかもしれない。

 本当に自分の判断は正しかったのかと、大いに悩まされていたかもしれない。

 そんな風に思えてしまうほど、「柚子たちに出会っていなかった世界」というのは、レオナにとって無味乾燥に感じられてしまうのだった。


「……九条さん、大丈夫?」


 と、思わぬ至近距離から柚子の声が聞こえてくる。

 顔をあげると、白と金色のマスクがほとんど鼻先に迫っていた。


「何がですか? 顔が近いですよ、遊佐さん」


「だって、あたしが目の前にいるのに知らんぷりなんだもん。マスクで目もとが見えないから、寝ちゃったのかと思ったよー」


 そのとき、どこからか可愛らしい電子音が聞こえてきた。

 ジャージのポケットから携帯端末を取り出した柚子が、「わあ」と華やいだ声をあげる。


「トビーさんたちがやっと到着したって! ぎりぎり間に合ったねー!」


 本日は『横須賀クルーザー・ジム』所属のプロ選手も出場するので、飛川たちも来場する予定であったのだ。

 柚子が端末の画面を突きつけてきたので見てみると、そこにはとてもたくさんの人々がひしめいている画像が表示されていた。


 晴香に乃々美に隆也少年、飛川美月に石狩エマに───それに、沼上宏太まで顔をそろえている。『シングダム』と『横須賀クルーザー・ジム』の混成部隊だ。

 さらに柚子が端末を操作すると、お次は亜森と咲田桜、伊達と竹千代、そしてアリースィが並んでいる画像が表示された。


「客席のほうも賑やかそうだねー! 亜森さん、大丈夫かなあ?」


「咲田さんがいれば大丈夫でしょう。……まあ、あの二人だけで会話をしているところはあまり想像がつかないのですが」


「あはは、確かにね!」


 すると、再びメッセージを受信する音色が響いた。

 端末を操作して、柚子がまた「あは」と笑い声をもらす。


「トビーさんからメッセージ! 『応援してます。頑張ってください』だって! あとね、『負けたら笑ってやっかんな』って書いてあるけど、これはきっと石狩さんだね!」


「そうでしょうね。数ヶ月ぶりだというのに、とんだご挨拶です」


 しかし、石狩エマにも試合を観られるのかと思うと、いっそう身の引き締まる思いである。

 携帯端末をポケットに戻しながら、柚子の口もとはまだ微笑んでいた。


「なんだか、ワクワクしてきたね! 緊張が解けて、楽しくなってきちゃったよ!」


「ええ。私も楽しいです」


 レオナがそのように答えたとき、モニターを見つめていた景虎が「さて」と声をあげた。


「どうやら第一試合は時間切れの判定待ちだ。あたしらは、入場口に移動しようかい」


「はーい、了解です!」


 元気に声をあげる柚子とともに、立ち上がる。

 控え室を出ると、眼下に試合会場が見えた。


 今は試合が終わったばかりであるので、リングにのみスポットが当てられて、客席は暗い。

 試合はあまり盛り上がらなかったようで、会場には雑然としたざわめきが満ちている。


 しかし、新たな選手の入場となれば、そこにはまたさまざまな色合いの照明が駆け巡り、大音量の入場曲と、人々の歓声が吹き荒れることだろう。

 それを想像するだけで、レオナの背中には心地好い緊張感が走り抜けていった。


 路上のケンカは、楽しいと思えない。

 だが、リング上の試合は楽しいと思える。


 自分が楽しいと思うことを、友人や、仲間や、見も知らぬ人々までもが、同じように楽しんで、夢中になってくれる。それがレオナに、またとない昂揚と幸福感をもたらしてくれるのだった。


(……遊佐さんと出会っていなければ、こんな気分も一生味わえなかったわけだ)


 そして、レオナが羽柴塾で鍛錬していなければ、柚子に入門をすすめられることもなかっただろう。

 あの頃の経験があるからこそ、今がある。

 ならば、苦悩に満ちみちていた十数年間も、今の幸福感を得るために必要な因子であった、ということなのではないだろうか。


 薄暗い通路を歩きながら、レオナはかたわらの柚子を振り返った。

 雑用係の柚子は肩から小さなショルダーバッグを掛けて、弾むように歩いている。


 レオナに劣らず、柚子は幸福そうに見えた。

 たとえマスクをかぶっていても、レオナがそれを見間違えることはなかった。


「ん? どうかした?」


 レオナの視線に気づいた柚子が、振り返ってくる。

 その珍妙なマスクごしに柚子の目もとを見つめながら、「いえ、別に」とレオナは答えてみせた。


 数年先は、どのような人生が待っているかわからない。

 ただ、今この瞬間、レオナはまぎれもなく満ち足りていた。

 そんな幸福感を噛みしめながら、レオナは光と歓声にあふれたリングを目指して歩き続けた。

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