05 会見
「あなたは昨年の二学期、弁財女子学園に転入されたそうですね、九条レオナさん」
車が発進してしばらくすると、遊佐文香はそのように口火を切った。
二人は後部座席に並んで座している。車の型はセダンであったが、詰め込めばもう二人ほど座れそうなぐらい車内は広々としていた。
「編入試験では見事な成績を残されたそうですし、その後も学年二位の座を保持されているそうですね。おまけに体育の成績まで優秀だなんて……本当に素晴らしいと思います」
「そのような情報が、少々調べたていどで判明してしまうものなのですね」
なるべく敵意が外側にあふれないように気をつけながら、レオナはそのように反問してみせた。
人間一人分のスペースを空けて座した遊佐文香は、口もとに手をやってころころと笑い声をたてる。
「お気を悪くされましたか? でも、わたしは本当に感心しているのです。聞けば、九条さんが以前に通われていたのは、決して学業が優秀とも言えない公立校であったというお話ですし……きっと現在のような学力を身につけるには、血のにじむようなご苦労が必要であったのでしょうね」
「……そのようなお話をするために、わざわざ家の前で待ち伏せをされていたのですか?」
「ええ。まずはおたがいの理解を深めるべきだと思いましたので」
このような会話でどう理解が深まるというのか、レオナにはさっぱりわからなかった。
「何がどうでもかまいませんが、この車はいったいどこに向かっているのでしょう? 私はそれほど暇な身体ではないのですが」
「お話が終わればご自宅までお送りしますので、ご心配なく。……それでは、本題に入りましょうか」
人形のように微笑みながら、遊佐文香はそう言った。
「九条レオナさん。あなたのご実家は空手の道場というものを経営されていたそうですね。それが理由で、現在も格闘技のジムというものに通われているのですか?」
「……だったら、何だというんです?」
「そうですね……あなたは、学業に専念されるべきではないでしょうか?」
レオナは無言で相手の笑顔を見つめ続けた。
背筋をのばし、膝の上で手の平を重ねた体勢で、遊佐文香は静かに微笑み続けている。
「あの亜森さんと学年首位を争う成績というのは、本当に素晴らしいものだと思います。その学業の妨げになるような行為はつつしむべきだと思うのですが……いかがでしょう?」
「いかがも何も、私はジムに通いながら、現在の成績を保持しているのですよ。今さらジムを辞める理由はありません」
「ですが、弁財女子学園の生徒として守るべき風紀というものがあるでしょう?」
「風紀にはそぐわないかもしれませんが、校則を違反していることにはならないはずですよね」
それはかつて柚子が学校長に述べた台詞であった。
遊佐文香の表情はぴくりとも動かない。まるで笑顔をたたえた仮面でもかぶっているかのようである。
「それならば、あなたがたはどうして覆面などをかぶって試合に出場されているのでしょう? 何も恥じることがないならば、素性を隠す必要もないのではないでしょうか?」
「……私が試合に出場しているということは、校長先生からお聞きになったのですか?」
「校長先生にも、多少ながら時間を作っていただくことになりました」
何だかレオナは、目に見えない大蛇にでもからみつかれているような感覚であった。
その奇怪な感覚にあらがうべく、レオナは語調を強めてみせる。
「失礼ながら、それは話が逆なのではないでしょうか? 私たちは、無用な騒ぎを引き起こさないようにと素性を隠すことにしたのです。格闘技の試合に出ることを恥と考えているのは、私たちではなく学園の側なのだと思います」
レオナはともかく、柚子にとってはそれが真実であるはずだった。学園と、そして家族に文句を言われないように、柚子は素性を隠して試合に出場することを決めたのである。
遊佐文香は「そうですね……」とわずかに目を細めた。
「ですが、そういった事情もひっくるめて、あなたがたは自重するべきなのではないでしょうか? 弁財女子学園に在籍しているからには、その風紀を守る義務も発生すると思うのですが」
「その義務を果たすために素性を隠しているのだと考えていただけませんか?」
「素性を隠してまで、どうしてそのような行為に及ぶ必要があるのでしょう?」
「それは……楽しいからです。スポーツに打ち込むことが間違った行為だとは思いません」
「スポーツであれば、学園にも多数の部活動が存在するでしょう?」
「でも、私たちが習っているMMAの部活動は存在しません」
レオナは、いよいようんざりしてきてしまった。
「あの、こんな言い争いは不毛ではないですか? 私と遊佐さん――遊佐柚子さんは、校長先生と話し合い、許される範囲の中で、MMAの選手としての活動を続けてきたつもりです。それを一生徒に過ぎないあなたにとやかく言われる筋合いはないと思います」
「そうですね。でも、ご存じでしょうけれど、わたしの父は学園の理事長をつとめているのです」
「それなら理事長にお頼みして、学園の校則を改正してもらえばいいのではないですか?」
半ば勢いで、レオナはそのように述べたててしまった。
しかしそれは、レオナの本心でもある。柚子の行動に文句をつけることができるのは、学園の理事長であり柚子の父親である人物ただ一人であるはずだった。
「……それこそ公私混同ではないでしょうか? たとえ理事長といえども、家族の行動を制限するために校則を改正することなど、許されるはずがありません」
「それなら、あなたが私の行動に干渉する権利もないはずです」
「……だけどわたしは、弁財女子学園の生徒である前に、柚子さんの姉でもあるのですよね」
そのように述べてから、遊佐文香は切なげに吐息をついた。
実際の心情はわからない。あくまで、切なげな仕草に見えるというだけのことだ。
「わたしは、柚子さんが心配なのです。あなたが転入してきて以来、柚子さんの行動に抑制がきかなくなっているように思えてしまいますので」
「……それはどういう意味でしょう?」
「あなたが転入されてすぐに、柚子さんは格闘技の試合などというものに出場してしまいました。その後、柚子さんは三回ほどあなたの家に宿泊されていますね? それは、これまでの柚子さんからはとうてい考えられないような行動なのです」
「何か誤解があるようですね。彼女は私と出会う前から、大会への出場を決めておられたようですよ。それに、私の家に宿泊したというのは───親しい友人同士であれば、何もおかしな話ではないでしょう?」
「そのお言葉からして、おたがいの認識に大きな齟齬があるのだと思われます。少なくとも、わたしの家では成人もしていない身で友人のお宅に宿泊することなど、決して普通とはされていないのです」
遊佐文香は、すがるような目つきになっていた。
レオナは何か微妙な違和感を感じて、口を閉ざすことにする。
「このような物言いをするのは気が引けるのですが……きっと九条さんの常識とわたしたちの常識には、どこかに隔たりがあるのでしょう。九条さんにとっては当然と思える行動が、他の家庭においては当然でない、ということもありえるのです」
「それはもちろん、そうなのかもしれませんが……」
「九条さんはきっと、自由な気風のご家庭で育たれたのでしょう。でも、わたしや柚子さんはそうではありません。あまり自分たちを卑下するような言葉は使いたくないのですが……わたしたちは、言わば温室育ちなのです。そんな柚子さんが、なんの用心もなく外の世界に触れてしまうというのは、とても危険なことではないでしょうか?」
「…………」
「決して九条さんのご家庭の気風を否定しているわけではありません。でも、そういった知識や経験のない柚子さんが、もしも道を踏み外してしまったらと考えると……わたしは気が気でないのです」
違和感の正体が、ようやくわかった。
遊佐文香は、レオナが遊佐家のお家事情を知らない、という前提で話しているのである。
そういえば、それは遊佐家の最大の禁忌であったのだ。柚子の父親が不貞を働いていたことも、その末に柚子が生まれたということも、兄や姉とは半分しか血が繋がっていないということも───少なくとも、弁財女子学園の関係者に語ることは決して許されていなかったのだった。
(あっぶねー! 何でもかんでも知りつくしてるような顔をしてるから、てっきりそれぐらいのことはわかってるのかと思ってた。よく考えれば、遊佐さんがそんな話をこいつに言えるわけがないんだよな)
つまり遊佐文香は、最初から「柚子とは仲のよい姉妹である」という体裁で語っていたのだ。
彼女が柚子を疎んじていることも、柚子が彼女を恐れていることも、九条レオナはいっさい知らない───ゆえに、妹の身を案じる姉、というものを演じているわけである。
その認識は、レオナをいっそう不快な心地にさせた。
(……で、こいつはけっきょくどういう理由で、あたしにまでちょっかいをかけてきたんだ?)
レオナは気持ちを引き締めなおして、あらためて遊佐文香と向かい合った。
「あの、遊佐文香さん。確かにあなたが心配される気持ちもわかりますが、わたしもそこまで非常識な人間ではないつもりです。決して妹さんを悪い道に引きずり込んだりはしません」
「……ですが、柚子さんを宿泊させるのは非常識ではない、と考えておられたのですよね? 先日などは、右腕を怪我しているにも拘らず、何日も外泊することになり……わたしなどは、居ても立ってもいられませんでした」
嘘をつけ、とレオナは発作的な怒りにとらわれてしまう。
そもそもこの薄情な姉は、柚子が負傷していたことすら知らなかったのではないだろうか? それとも、それぐらいのことは柚子の離れで働いているヘルパーとやらから聞いていたのだろうか?
(そもそも遊佐さんが外泊したことなんて、父親とヘルパーぐらいしか知らないはずだもんな。そのどっちかが、この馬鹿姉貴に情報を流したってことだ)
レオナが暴れそうになる心を必死に自制していると、遊佐文香はさらに言葉を重ねてきた。
「柚子さんはあまり人づきあいが得意なほうではないので、転入生である九条さんと仲良くなれたことで、浮かれてしまっているのだと思います。でも、今年はクラスも別々に分かれたそうですし……おたがいが身をつつしめば、適度な距離感でおつきあいを続けることも可能になるのではないでしょうか?」
「……適度な距離感を保つために、私に『シングダム』を辞めろと仰るのですか?」
「ええ。そのように野蛮な競技を続けることはあなたのためにもなりませんし、学業に専念すれば学年首位の座を獲得することも可能になるかもしれません。文武両道は素晴らしいことですが、それならば学園の部活動でも十分なはずでしょう?」
レオナは胸もとに手をやって、惑乱する気持ちを落ち着けてから言葉を返した。
「さきほどと同じ言葉になりますが、あなたにそこまで干渉されるいわれはありません。私は学園の規定の範囲内で、今後もMMAの選手として活動を続けていくつもりです」
「そうですか……」と遊佐文香は目を伏せた。
「それはとても残念ですが……九条さんの自由意思に干渉する権利など、わたしにはありません。それではどうかくれぐれも、学園の名誉を傷つけないように細心の注意をお払いください」
そのように述べてから、遊佐文香は前方に向き直った。
「お話は終わりました。九条レオナさんのご自宅に戻ってください」
運転手は「はい」と低く応じて、ハンドルを切った。
窓の外を見てみると、どこかで見たような光景が流れすぎている。どうやらレオナの住むマンションを中心に、ぐるぐると周回していたようだ。
「九条さんは、弁財女子学園に転入するために、多大な苦労をされてきたのでしょう? どうかその苦労を無駄にしないようにお気をつけください」
「ええ、そのつもりです」
「……そういえば、九条さんが通われていた若宮高等学校というのは、学区外の学校であったそうですね。そのようにご自宅から遠い学校に進学されたのには、何か理由でもあったのでしょうか?」
「特別な理由はありません。ただ、通学できる範囲内で、一番自分に適していると思った学校を選んだまでです」
「そうですか。お二人のお兄様は地元の高校に通われていたそうなので、そちらを回避した結果なのかと思ってしまいました」
正面を向いたまま、遊佐文香はそう言った。
レオナはうなじの辺りの毛が、ちりちりと逆だっていくのを感じる。
「これは小耳にはさんだお話なのですが……九条さんのお兄様がたは、どちらも暴力事件を起こして学校を退学されたそうですね」
「……そんな話が、小耳にはさまるものなのですか?」
「ええ。しかも下のお兄様は、鑑別所というところに送られる寸前であったとか」
「…………」
「決して自分を正当化するつもりはありませんが……弁財女子学園に生徒をお預けしているご家庭であれば、誰もが九条さんとのおつきあいには慎重にならざるを得ないと考えるのではないでしょうか」
「そうなのかもしれませんね。クラスメートの家庭の内情をそこまで調べあげようとする人がどれぐらい存在するのかはわかりませんが」
レオナは激情を抑えつけながら、そのように答えておいた。
正面を向いたまま、遊佐文香はうっすらと笑っている。
「あなたは強いお人ですね。そうであるからこそ、柚子さんはあなたに惹かれてしまったのでしょうか」
「さあ。私にはわかりません」
「かえすがえすも残念です。もしも昨年、あなたと柚子さんが同じクラスになっていなければ、柚子さんの日常が脅かされることもなかったのでしょうけれども」
周囲の光景は、いよいよ見慣れたものになってきていた。
もういくらも待つことなく、マンションの前に到着することだろう。レオナはその前に、一言だけ言っておかずにはいられなかった。
「遊佐文香さん。あなたはどうして、遊佐柚子さんに試合を辞退させたのですか? ジムの会長さんは素性が露見しないように手を尽くすと約束してくれましたので、家や学園に迷惑をかけるような事態にはならなかったと思います。いくら姉妹とはいえ、そこまで干渉してしまうのは本当に正しい行動なのでしょうか?」
「はい。わたしは正しいと信じています。これもすべては、柚子さんを思ってのことなのです」
そうして遊佐文香は、首だけをレオナのほうに向けてきた。
白い顔に、仮面のような微笑みがこびりついている。
「遊佐家の人間には遊佐家の人間に相応しい振る舞いというものがあるのです。わたしは今後もそれに従っていくつもりですし……柚子さんにも、従っていただくつもりです」
車が、音もなく停車した。
タクシーのように、レオナの側の扉が開く。
レオナはこっそりと拳を握りしめながら、最後に遊佐文香の笑顔をねめつけた。
「柚子さんは、すでにあなたの言葉に従っています。これ以上、彼女を苦しめるようなことはないでしょうね?」
「どうでしょう? 柚子さんがどのように思うかまでは、わたしにもわかりません。でも……あなたのお気持ちを変えることができなかったのですから、今度は柚子さんを説得するしかないでしょうね」
「彼女に、何を言うつもりですか?」
怒鳴り声をあげずに済んだのが、レオナの精一杯の自制心だった。
それを踏みにじるかのように、遊佐文香は楽しそうに目を細める。
「あなたとの交遊を自粛していただきます。『シングダム』というジムに通うのも、今日限りですね」
「……彼女は絶対に、そんな言葉には従いませんよ」
そのように言い捨てて、レオナは車から降りた。
これ以上その笑顔を見ていたら、自分を抑制することもできそうになかった。
車のドアはしずしずと閉まり、それから窓が開けられていく。
見たくもない笑顔が、そこから幽霊のように覗いた。
「それを決めるのはあなたではなく、柚子さんです」
車のドアを蹴らずに済んだのは、ほとんど奇跡のようなものだった。
怒りに震えるレオナを残し、車は発進する。
それと同時に、レオナは逆の方向へと走り始めた。
目指すは、高円寺の駅である。『シングダム』で練習をしているはずの柚子と、一刻も早く合流するつもりだった。
(何がジシュクだ! 遊佐さんが、そんな馬鹿な命令を聞くもんかよ!)
そのように思うが、レオナの心臓は走る前から激しく鼓動を打ってしまっていた。
気を抜くと、足から力が抜けそうになってしまう。何か大事なものを目の前で木っ端微塵にされてしまいそうな、とてつもない危機感がレオナの胸には満ちてしまっていた。
(あの馬鹿姉貴より先に遊佐さんと会って、話を聞かせてやれば、少しは心の準備ができるはずだ)
都心は道路が混雑しているので、電車でも分が悪いことはないだろう。レオナはそのように自分に言い聞かせて、人目もはばからずに全力で駆けた。
しかし、レオナの苦労は報われなかった。
汗だくで『シングダム』に駆け込んでいくと、すでにそこに柚子の姿はなかったのだった。
「どうしたんだい、九条さん? そんなに血相を変えて、何かあったのかい?」
咲田桜に稽古をつけていたらしい景虎が、びっくりした様子でこちらに向きなおる。
壁に手をつき、ぜいぜいと息をつきながら、レオナは「遊佐さんは……?」と問うてみせた。
「柚子だったら、ついさっき帰っちまったよ。事務所のほうに、家族から電話が入ってさ。なんだかずいぶん慌ててる様子だったけど……また何か厄介事なのかい?」
レオナは「畜生!」とわめきながら、壁に拳を打ちつけた。
壁には防音用の分厚い樹脂が張られていたので、拳を痛めることはなかった。
しかし───レオナはけっきょく、また後手を踏むことになってしまったのだった。
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