04 来訪

「せっかく誘ってもらえたのに、本当にごめんなさいでした!」


 放課後である。

『シングダム』において、黒田会長に事情を説明し終えた柚子は、自分の膝に額をぶつけそうな勢いで頭を下げていた。

 それと相対した黒田会長は、もちろん困惑の表情だ。


「いや、家の事情ならしかたないけど……でも、柚子は本当にそれでいいのか?」


「はい! あたしは、きっぱりあきらめることにしました!」


「とにかく頭を上げてくれよ。そこまで気に病むような話じゃないからさ」


 言われた通りに頭を上げた柚子は、とても心配そうに黒田会長の巨体を見上げる。


「でも、いったんオッケーした試合のオファーを断るなんて、『シングダム』や会長さんの立場を悪くすることになっちゃいませんか?」


「ならないならない。今はまだルール調整を進めてる段階だから、出場が確定していたわけでもないんだよ」


「そうですか。それならよかったです」


 柚子は胸もとに手をやって、ほっと安堵の息をついていた。

 その姿を、レオナは横合いから眺めている格好である。


 レオナはスパーの合間であり、いつもの練習着姿だったが、柚子は制服姿のままだった。

 柚子は昨日一睡もしていないとのことで、ずっと皆の練習を見学していたのである。確かに柚子は相変わらず血の気の薄い顔色をしており、昼休みにも普段の半分ぐらいの量しか食事を口にしていなかった。


「だけど、残念だったな。柚子自身が一番楽しみにしてただろうに」


 黒田会長がそう言うと、柚子は「えへへ」と頭をかいた。


「しかたないです。家族が駄目って言ってるのに無理やり出場することはできませんし……いくら覆面をかぶってても、正体がバレたら学園や家のスキャンダルになっちゃいますしね」


 それが、柚子が出場を取りやめる理由だった。

 どうやら柚子の父親が、去年の試合のことをうっかり遊佐文香にもらしてしまったらしい。それで遊佐文香は激怒して、今後いっさい遊佐家の名を貶めるような真似はするな、と柚子を責めたてたのだそうだ。


「どうして格闘技の試合に出ることが、家の名を貶めることになるんすか? なんか納得いかないっすよね!」


 昼休み、レオナや亜森と一緒に事情を聞くことになった咲田桜は、そのように述べながら憤慨していた。

 それに対しても、柚子は「しかたないよ」とさびしげに笑うばかりであった。


「そもそもこんなお嬢様学校の生徒がMMAの興行に参加すること自体が、危なっかしい話だからね。他の父兄にそんな話が伝わったら、大騒ぎになっちゃうでしょ?」


「うーん、そうなんすかねー。……確かにまあ、プロの興行でテレビとかに映っちゃうのは、ちょっとアレかもしんないっすけど」


 そこで咲田桜はいっそう声をひそめながら、柚子のほうに顔を寄せた。


「でも、遊佐先輩のお父さんは学園の理事長なんすよね? 父兄に文句を言われても、何とかならないもんなんすか?」


「ならないよー。というか、学園の評判を気にするなら、父さんが一番慎重になるべき立場だからね。今までが能天気すぎたんだよ」


 すると、向かいの席の亜森も厳しい面持ちで柚子に顔を寄せた。


「だけど、柔術という競技ならば柔道とも大差はない、ということで、遊佐さんも素顔で出場されていたのですよね。そちらの活動も自粛してしまわれるのでしょうか?」


「うん。あたし、いちおう優勝とかしちゃったじゃん? 白帯だから扱いは小さかったけど、けっこうあちこちのサイトに表彰式の画像とかが掲載されてたんだよね。その画像も突きつけられて、さんざん叱られちゃった」


 しかし、そのていどのことで柚子の素性が知られてしまうとは考えにくい。弁財学園で柚子を知る人間がそのようなサイトを目にすることなど、確率的にはきわめて低いはずだった。


「やっぱり納得いかないっすねー。そしたら、あたしとかも出場を禁止されちゃうんすか? あたしも柔術でそれなりの技術を身につけられたら、大会とかで腕試ししたいんすけど」


「咲田さんが出場する分には問題ないはすだよ。校長先生だって、柔術の試合に出ることは認めてくれたんだからさ」


「それなら、どうして遊佐先輩は自粛しなくちゃいけないんすか?」


「あたしはほら、怒ってるのが家族だから。一個人の家庭の事情ってやつだよ」


 そんな具合に、昼休みの話し合いは終わってしまったのだった。

 黒田会長も、そのときの咲田桜と大差ない表情で「うーん」と太い首をひねっている。


「確かに、名門進学校の生徒がMMAで活躍したりしたら、大きな話題にはなるだろうと思うよ。でも、アマチュアの選手ならそんな騒ぎもたかが知れてるし、俺だってマスコミ連中にはそれなりに顔がきくからさ。今後も正体がバレるようなことには、絶対ならないと思うぞ?」


「はい。そういう話は、建前ですから。要するに文香姉さんは、あたしが好き勝手にやってるのが許せないだけなんです」


 そう言って、柚子は切なげに微笑んだ。


「父さんがあたしに甘いもんだから、よけいに腹が立っちゃうんでしょうね。あたしもそれで調子に乗っちゃってた部分があるから、しかたありません」


「いや、しかたないって言ってもなあ……」


「いいんですよ。『シングダム』を辞めろ、とまでは言われなかったんですから」


 柚子はしっかりと頭をもたげて、黒田会長の顔を真っ直ぐ見つめながら、そう言った。


「さすがにそこまで言われたら、あたしも身の振り方を考えちゃいますけどね。試合に出るなっていう話だけなら、何とか我慢できます。今は練習に集中して、いつか家族に文句を言われないような立場になったら、あらためて試合のことを考えたいと思います」


「家族に文句を言われない立場って、どういう状況のことなんだ?」


「それはだから、家を出て自立できたらってことですよ。あたしもあと二年で卒業ですから、そうしたら進学はしないで、働こうと思ってます」


 そうして柚子は、普段通りの朗らかさで微笑んだ。


「二年なんて、あっという間でしょう? もともとあたしなんて実力が足りてなかったんだから、その間に腕を磨きます! 働いて、自分のお金で一人暮らしをできるようになったら、もう文香姉さんにも文句は言わせませんよ」


「そうか。自分でそう決めたんなら、俺も何も文句はないよ」


 黒田会長も、目を細めて微笑した。


「お前もたくましくなったなあ、柚子。入門してきた頃とは、まるで別人だ」


「そりゃあ『シングダム』で鍛えられましたから!」


 そうして柚子は、また深々と頭を下げた。


「それじゃあ、今日は帰ります。しっかり休んで体調を整えて、また明日から練習に参加させてもらいますから、どうぞよろしくお願いします!」


「うん、気をつけてな」


 柚子は、レオナたちのほうにも顔を向けてきた。

 その顔には、やはり柚子らしい笑みが浮かべられている。


「みんなも、また明日! 色々と心配かけちゃってごめんなさいでした! 練習、頑張ってくださいね!」


 レオナ、景虎、伊達、アリースィ、咲田桜の五名は、それぞれの流儀にのっとって挨拶を返した。

 そうして柚子がトレーニングルームを出ていくと、伊達が「ちっ」と舌を鳴らす。


「何だよ、サバサバした顔しやがって。可愛げのねえ野郎だな」


「あはは。やっぱりカズキは、ユズコにたよってほしいんだね」


「そんなじゃねえって言ってんだろうが! 本気でぶっとばすぞ!」


「だけど、えらいっすよね、遊佐先輩は。もっと子供っぽい人なのかと思ってたから、見直したっす」


 咲田桜やアリースィなどは、おおむね好意的に柚子の言葉や態度を受け止めているようだった。

 そんな中、レオナが顔を上げてみると、壁際に立っていた景虎は仏頂面をしていた。


「確かに柚子は立派だよ。だけどあたしは、気に入らないね」


「……何が気に入らないのですか?」


「そりゃあもちろん、文香とかいう姉貴のことだよ。親御さんが許していることを、姉貴の反対であきらめなくちゃいけないなんて、そいつはあんまり普通の話じゃないだろう」


「……そうですね。私も同じことを考えていました」


 それがレオナの本心であった。

 柚子はこれ以上ないぐらい毅然と振る舞っているが、遊佐文香の言い分にはどうしても納得がいかない。学園や家のことなど建前で、ただ柚子が勝手に振る舞うのが気に食わないだけ、と聞かされれば、なおさらのことだった。


(余所の家で子供を作ったり、そいつを自分の家に招いたりしたのは親父さんの責任だろうよ。そんな話で、どうして遊佐さんが苦しい思いをしなくちゃならないんだ?)


 根底にあるのは、そういう思いだった。

 遊佐文香が憤慨する気持ちは、よくわかる。レオナだって、自分の父親が同じ真似をしていたら激怒するだろう。妻帯者が身辺の整理もせずに余所の女性と深い関係に陥ることなど、どのような理由をつけたって許されるとは思えなかった。


 しかし、それで責められるべきは、父親であるはずだ。

 父親の不実の証である柚子の存在が目障りだという心情は、まだ理解できる。だが、そうだからといって、柚子を好きなように責めていいという道理はない。レオナには、そのように思えてならなかった。


「あれー? ゆずっち、もう帰っちゃったの? もっとおしゃべりしたかったなあ」


 と、奥のほうで練習をしていた晴香と乃々美もこちらに近づいてきた。

 二人とも、黒田会長が来る前に一通りの事情は聞かされていたのだ。


「ゆずっち、ほんとに残念だったよね。どうにかできないもんなのかなあ?」


「どうにもできないっしょ。本人がどうにかしようと思ってないならさ」


 タオルで顔をふきながら、乃々美はぶっきらぼうに言い捨てた。

 そちらを振り返ったアリースィが、にっこりと笑う。


「ノノミも、ユズコにたよられないのが、さびしいの?」


「別に。僕は伊達ほど過保護じゃないし」


「誰が過保護だこの野郎!」


「僕だって、家族の反対を押し切ってプロになったんだ。自分でどうにかしようと思わなかったら、外野が騒いだって何にもならないよ」


「ノノミはクールだね。わたし、そういうところ、すきだよ」


「ふん。あんたに好かれたって嬉しくもないけど」


 確かに乃々美は、普段通りのたたずまいであった。ぶっきらぼうなのも、いつものことだ。

 しかし、その目にぶすぶすと何かがくすぶっているように感じられるのは、レオナの気のせいであっただろうか。乃々美とて、伊達に劣らず直情的なタイプであるはずだった。


(そりゃあ遊佐さんがこんなことになって、いつも通りなわけはないよな)


 レオナが見る限り、完全に普段通りであるのはアリースィと咲田桜の二名のみだった。その他のメンバーは、レオナ以上に柚子とのつきあいは長いのである。


 景虎は、彼女らしくもなく不機嫌そうな様子だった。

 伊達は、普段以上に不機嫌そうだった。

 晴香は、とても気がかりそうな面持ちをしている。

 乃々美は、さきほど感じた通りの有り様だ。


 柚子は突如として訪れた苦境にもめげず、懸命に頑張っている。それはそれとして、柚子がどうしてそんな苦境に陥らなければならないのか───と、みんなそれぞれ胸を痛めているのだろう。


 試合のオファーが来たと告げられたときの喜びようや、柔術の大会で勝利できたときの幸福そうな笑顔───そんなものを思い出すたびに、レオナの胸もじくじくと痛んだ。柚子はこれから、二年間もそういった喜びから遠ざからなくてはならないのである。


(でも、当の遊佐さんがもう決めちゃったことなんだもんな……)


 レオナは、深々と溜息をついた。

 すると、まだその場に居残っていた黒田会長が声をかけてきた。


「なあ、九条さん。九条さんのほうは、このまま話を進めちまっても大丈夫なのかな?」


「え? あ、『パルテノン』という団体からのオファーについてのお話のことでしょうか?」


「うん、もちろん」


 レオナは、大いに思い悩むことになってしまった。


「私の側は、問題ないかと思いますが……でも、遊佐さんが辞退したというのに、私だけがそのオファーを受けるというのは……」


「なに言ってんだよ。ガキのお遊びじゃねえんだぞ?」


 と、隣に座っていた伊達が平手打ちを繰り出してきた。

 レオナは慌てて、その攻撃をスウェーでかわす。


「断りてえなら、自分の意思で断れよ。柚子をダシにするんじゃねえ」


「私だって、出場したいとは思っています。でも……」


「九条さん。そこであんたまで断っちまったら、柚子はいっそう自分を責めることになっちまうんじゃないかねえ?」


 景虎が、そのように口をはさんできた。


「九条さんの気持ちもよくわかるけどさ。ただ、どうすることが一番自分と柚子のためになるか、そこんところをよく考えた上で結論を出しておくれよ」


「……景虎さんは、母のようなことを言うのですね」


「おっかさんかい? そんな風に言われたのは初めてだね」


 景虎は苦笑を浮かべつつ、レオナの目で膝を折った。


「ねえ、九条さん。あんたも新参っちゃ新参だけど、柚子にとっては一番の友達なんだろうと思う。どうか、あの娘のことをしっかり支えてやっておくれよ」


「はい。私も力を惜しむつもりはありません。……ただ、何をどうすればいいのかわからなくって……」


「今まで通りでいいんだよ。あんたがそばにいるだけで、柚子は元気になれるだろうからさ」


 本当にそうなのだろうか。

 昨晩からレオナの胸に渦巻いているのは、無力感に他ならないように思えた。大事な友人が苦境に陥ったとき、自分はどのように振る舞うべきなのか、それがレオナにはまったくわからないのである。


(こんなことなら、あたし自身に牙を剥いてくれたほうが百倍も楽だ。あのクソ姉貴、いっそあたしに因縁でもふっかけてくれればいいのにな)


 レオナは、そのように考えていた。

 そのときは、まさかそれが実現するなどとは想像だにしていなかったのである。


 遊佐文香がレオナに牙を剥いてきたのは、それから二日後───柚子も練習に参加するようになって、表面上は普段通りの平穏さを取り戻してからのことだった。


                ◇◆◇


 その日の放課後、レオナは一人で帰路を辿っていた。

 レオナが『シングダム』の練習に参加するのは、およそ週に四、五日ほどである。柚子は相変わらず週六の頻度で通っていたが、家の仕事を任されているレオナはそうして折り合いをつけているのだった。


 試合が近づけば、レオナもまた週六で『シングダム』に通うことになる。それにまた、練習時間を後半にずらして、プロ練習に参加することになるだろう。その場合は、学校からいったん家に帰宅して、家事を済ませてからジムに向かい、練習後に勉強をして就寝することになる。それは、想像しただけで溜息の出るようなスケジュールであった。


 しかしその反面、こういった平常時はもう大した疲弊を感じずにいる。こうして週に二、三回練習を休むだけで、体力的にはかなり楽であるし、日常品の買い出しや家の掃除に割り振る時間も容易に確保することができるのだ。けっきょく学校と家事と練習と勉強に忙殺されている状況に変わりはないものの、他に趣味を持たないレオナには苦痛になるような生活でもなかった。


(今日は柔術のレッスン日だよな。氏家コーチとは仲良しだから、少しでも遊佐さんの気が晴れればいいけど)


 そのようなことを考えながら、レオナは歩道を歩いていた。

 自宅のマンションは、もう目と鼻の先だ。今日は買い出しの用事もなかったので、帰宅したらまずフロとトイレの掃除に取りかかる予定でいた。


(今度の日曜日、遊佐さんを遊びにでも誘ってみようかな。それとも、そんな気分じゃないのかな。……いつも通りに振る舞えばいいって言われても、あたしにはよくわかんないよ)


 溜息をこらえつつ、レオナはマンションに入ろうとした。

 すると、路肩に寄せられていた黒い車のドアが開けられた。


 少し近い距離であったため、レオナは反射的に間合いを取ってしまう。

 そうして車のほうを振り返ったレオナは、激しく息を呑むことになった。

 その高級そうな外車の後部座席から、遊佐文香が姿を現したのである。


「失礼します。九条レオナさんですね? 少々お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」


「あなたは……遊佐さんのお姉さんですよね。どうしてあなたがこのような場所にいるのですか?」


「あなたに、お話があったのです」


 遊佐文香は前のほうで両手を合わせて、お行儀よく立っていた。

 彼女もまた、制服姿のままである。

 その色素の薄い面には、やはり人形じみた微笑がたたえられていた。


「あなたが私に、どのようなお話があるというのです? そもそも、どうして私の名前をご存じなのですか?」


「あなたのことは、少々調べさせていただきました。旧姓、羽柴レオナさん……あなたはなかなかユニークな経歴をお持ちのようですね」


 レオナの心臓が、おかしな感じにバウンドした。

 少々調べたぐらいでは、レオナの旧姓を知ることなどできるはずはない。最低でも、学校に提出した身上調書などを目にする必要があるはずだった。


「よかったら、こちらにどうぞ。このような場所で立ち話というのも何ですし……誰の耳も気にせずにお話できたほうが、きっとおたがいにとって望ましいでしょう?」


 そんな言葉を言い残して、遊佐文香はまた車の中に戻っていった。

 レオナはこっそり唇を噛み、腹の底に煮えたつ反感と不審の念をねじ伏せてから、その後を追うことにした。

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