02 元日の朝
翌朝───新年の朝である。
午前八時に目覚まし時計のアラームで目覚めたレオナと柚子は、おせち料理の朝食とお雑煮の昼食を済ませた後、亜森紫乃との約束を果たすために家を出発した。
待ち合わせ場所は、代々木八幡という駅である。
東京に越してきてから、およそ五ヶ月。先日の合宿を除けば、レオナは遊佐邸のある千駄ヶ谷ぐらいにしか足をのばしたこともない。あとは学校のある西荻窪からジムのある中野までが、レオナのささやかなる活動範囲であったのだ。
然して、元日における都内の電車の混雑っぷりといったら、それはもう空前にして絶後のものであった。
自宅のある高円寺から待ち合わせ場所の代々木八幡までは、一回の乗り換えでせいぜい二十分ていどの道のりだ。これならば、千駄ヶ谷までの距離とも大差はない。が、これが本当に正月なのかと自分の認識を疑いたくなるぐらい、電車内は混み合っていた。
「どうして正月なのに、こんなに混雑しているのですか?」
「正月だからこそ、こんなに混雑してるんじゃない?」
満員電車で押し潰されそうになりながら、柚子はそのように答えてくれた。
「いやー、あたしも正月に電車を使うのはかなりひさびさなんだけど、これはなかなか殺人的な混みっぷりだねー」
そのように述べながら、それでも柚子は楽しげであった。
しかしレオナは楽しいどころの話ではない。そもそもレオナは如何なる時でも他者の間合いに踏み込むべからずという無茶な教えを幼年時から叩き込まれていたため、人混みが苦手なのである。
もちろん真っ当な生活を送っていたらそんな教えを守れるわけもないが、手の届く範囲に見知らぬ人間が存在する空間というのは、今でも苦手なままであった。対人センサーが針を振り切って、むやみに精神を圧迫されてしまう感覚───などと説明したところで、きっと余人にはなかなか伝わらないのだろう。
「……大丈夫、九条さん? 何だか顔色が悪いみたいだけど」
「はい。すべては馬鹿な父親のせいです」
そうして目的の駅に到着する頃には、レオナの精神力ゲージも赤色寸前のところまで減退してしまっていた。
それでも待ち合わせに遅れることはできなかったので、人混みをかき分けながら改札の外を目指す。現在は午後の一時五十分であり、約束の時間にはあと十分を残すばかりであった。
「あ、亜森さんだ! おーい、こっちだよー!」
「明けましておめでとうございます、九条さん、遊佐さん」
「おめでとうございます」と反射的に応じてから、レオナはきょとんと目を丸くしてしまった。
およそ一週間ぶりに再会したクラス委員長は、何と晴れ着姿であったのである。
振袖の柄は、水仙であろうか。紫を基調とした落ち着きのある色合いであったが、新年らしい華やかさもきっちりと備わっている。肩には藤色のショールを羽織り、手にはちりめん柄の小さなバッグ、足もとは白足袋と黒い草履だ。気品のある亜森の容姿をいっそう際立たせるような、それは凛然たる和装の姿であった。
なおかつ、普段は飾り気のない黒髪も綺麗に結いあげられて、花の留め具で飾られている。おまけにトレードマークの黒縁眼鏡を外してしまっていたため、亜森はまるで別人のように見えてしまった。
「……どうされたのですか、九条さん?」
「あ、いえ、和装だとは思っていなかったもので……とてもお似合いです」
「ありがとうございます。九条さんも、素敵なコートですね?」
「でしょー? これはあたしが見立ててあげたんだよ!」
とたんに柚子が文字通り首を突っ込んできたので、亜森は「そうですか」と声のトーンを落としてしまう。
が、レオナがフォローするまでもなく、柚子は自力で立て直した。
「でも、ほんとに綺麗だねー、亜森さん! 今日はコンタクトなの?」
「はい。和装で眼鏡をかけることは母が許してくれませんので」
「すっごく似合ってるよ! 綺麗だなー、羨ましいなー」
にぱっと笑う柚子に対して、亜森はむっつりと黙り込んでしまう。こういうときの柚子の笑顔にはひとかけらの邪念もないので、むしろ見る者のほうが困惑させられてしまうものなのである。
「でも、この人混みだと大変そうだね。帯とか崩れちゃわない?」
「どうということはありません。手直しの仕方は習っていますので」
「へー、すっごいなあ! ね、綺麗だね、九条さん?」
「はい」とレオナも心から賛同することができた。
思わず見とれてしまいそうになるほど、亜森は綺麗で魅力的だった。
いっぽうのレオナは、柚子が見立ててくれた藍色のコート姿である。
膝にかかるぐらい丈が長く、デザインはとてもシンプルだ。このコート単品では渋すぎる、という柚子の助言のもと、首にはカラフルなマフラーを巻いている。
この格好が自分に似合っているかどうかはレオナにも判別することはできなかったが、ともあれ亜森に不良めいたスカジャン姿を見られずに済んだのは僥倖であった。
「……今日は髪を下ろされているのですね」
と、亜森に呼びかけられたので、「ええ」とうなずいてみせる。
「普段のおさげはこの格好に似合わないと母や遊佐さんに言われてしまったもので……おかしいですか?」
「いえ、素敵だと思います。とても大人めいて見えます」
「ねー? すらっとしてて、ほんとにモデルみたい! 九条さんも学校とは別人みたいだよね?」
柚子に口をはさまれて、亜森は不承不承の様子で「はい」と応じる。
意見が合うときは合わないときよりも盛り上がりに欠けてしまう両者であった。
「それでは、出発しましょうか。普段であれば五分ほどの距離ですが、元日ともなれば倍以上の時間がかかってしまうでしょうから」
「そうだね、出発しよー! ……ところで、これから向かうのは何て名前の神社だったっけ? あまり聞き覚えのない名前だったけど」
「駅名と同じ名前ですよ。代々木八幡宮です」
そのようにのたまう亜森を先頭に、人間で満たされた街路へと足を踏み出す。
混雑の度合いは、駅の中と大差がない。うかうかしていると、小柄な柚子などは人混みに埋没してしまいそうだった。
「……東京の神社というのは、どこもこのように混み合っているのですか?」
「どうでしょうね。わたしはあまり他の神社に出向いたこともありませんので。……でも、すぐそばの明治神宮と比べたら、まだしも空いているはずです。あちらは元日だけで百万人以上も参拝客が訪れて、お参りするのに数時間もかかるという話ですから」
「ひゃ、ひゃくまんにんですか」
それは想像を絶する人数であった。
レオナなどは、耳にしただけで頭がくらくらしてしまう。
亜森はよどみなく歩を進めながら、そんなレオナの顔をじっと見つめてきた。
「……やはり初詣などにお誘いしたのはご迷惑だったでしょうか?」
「いえ、郷に入っては郷に従えと言いますから」
人混みから与えられる圧迫感に苦しめられつつ、レオナは首を振ってみせる。
「それに、クラスの友人と初詣に行くというのは初めての体験なので、とても嬉しいです」
「……そうですか」と亜森は口もとをほころばせた。
亜森のほうこそ、普段より格段に大人めいているように見える。そういえば彼女は茶道部でもあるはずであったし、和装に慣れた女性というのはとても素敵なものなのだなという感慨をレオナは抱かされることになった。
そうして十分ばかりも歩くと、ようやく神社の入口である石の階段が見えてきた。
それを上がったところに白い鳥居があり、その先はまた行列ができてしまっている。
それでも街路よりは人口密度も緩和されたし、緑が多いためか空気も澄んでいる。左右を亜森と柚子にはさまれた格好で、レオナはようやく人心地をつくことができた。
あとはひたすら人の列に沿って進み、最後のほうで茅の輪と呼ばれる巨大な輪をくぐれば、もう拝殿だ。
(こんなにきっちりお参りをするなんて、人生初かもしれないな)
そのように思いながら、レオナは賽銭箱に五円玉を投じた。
年末年始の神社などは荒くれ者の巣窟であったので、中学に上がったぐらいからは近づきもしなかったのだ。初詣に誘ってもらえて嬉しかったというのは、レオナにとってまじりけのない本心であった。
こっそり見てみると、柚子も亜森も神妙な面持ちで拝殿を拝んでいる。
何やら無性に温かいものを胸中に感じながら、レオナもそれにならって両手を合わせた。
(……今年はどうか、なるべく平穏な一年でありますように)
去年の正月には望みようもなかった望みである。
しかし、これだけ殺伐とした十六年間を歩んできたのだから、そろそろ平穏な生活を望んだってバチは当たらないだろう。少しぐらいの騒がしさは許容するので度を越さないようにひとつよろしく、とレオナは初めてまみえる神様に頭を下げておくことにした。
そうしてお参りを済ませた後は、柚子の提案でおみくじを引いた。
これもまた、レオナには数年ぶりの体験であった。
ちなみにその結果は、亜森が大吉、レオナが吉、言いだしっぺの柚子が大凶であった。
「…………」
「そんなに落ち込まないでください。結んで帰ればチャラですよ」
「本当にチャラなのかなー? 朝からのウキウキした気持ちがいっぺんで吹っ飛んじゃったんだけど!」
「それなら、私のと交換してあげましょうか?」
「おみくじを交換するなんて、そんなのは非常識です!」
慌てた様子で亜森が声をあげてきたので、レオナはきょとんとしてしまった。
「はい、今のはもちろん冗談です。遊佐さんの凶運を肩代わりするつもりは毛頭ありません」
「追い打ちかけないでってば! いいもんねー、運気ぐらいは自分で引き寄せてみせるから!」
ぷりぷりと怒りながら、柚子は木の枝におみくじを結びつける。
あとはレオナと亜森が家族のためにお守りを買って、この一大イベントもひとまず終了である。
「さて、この後はどうしよっか? 屋台も出てるけどなかなかの行列だし、どっかでお茶してく?」
「お茶ですか。保護者の同伴もなしに飲食店などへ立ち寄るのもどうかと思いますが……」
「え? それじゃあこれで帰っちゃうの?」
柚子に真正面から問われてしまい、亜森はきゅっと眉をひそめる。
「帰るとまでは言っていません。もう少し静かなところで、その、お話しでもしていきませんか?」
「そうですね。人混みでなければ、私はどこでも───」
と、レオナが応じかけたとき、その人混みをかきわけるようにして三名の若者たちが接近してきた。
すかさず臨戦の気持ちになりかけて、ここは荒くれ者であふれかえる地元の神社ではないのだと自分を抑制する。が、その若者たちは妙に浮ついた笑みを浮かべながら、真っ直ぐレオナたちのほうに近づいてきた。
「ねえ、そっちも三人なの? よかったら車で移動しない?」
妙に甘ったるい猫なで声であった。
大学生風の若い男たちである。べつだん不良がかってはいないが、その内の二名は酒が入っているようだ。とろんと眠たげな目つきをしている。
「お断りします。行きましょう、お二人とも」
亜森は普段よりもくっきりとして見える目を冷たく光らせつつ、実に優雅な仕草できびすを返そうとした。
その進行方向に、ダウンジャケットを着た茶髪の若者が立ちふさがる。
「着物、すっごく似合ってるね? 俺、着物美人に弱いんだあ」
「あなたの趣味嗜好などわたしには関係ありません。そこを通していただけますか?」
「そんな固いこと言うなよお。せっかく三人同士なんだから、ちょっと海のほうにでも───」
と、若者の手が亜森の肩にのばされようとした。
それよりも早く、レオナはその若者の手首をとらえることができた。
「断りもなしに異性の身体に触れるのは失礼ではないですか?」
「何だよお、自分だって俺にさわってるじゃんかあ」
酒くさい息を吐きながら、その若者はなおもへらへらと笑っていた。
レオナの手の中で、その筋肉は弛緩しきっている。やっぱり荒事に発展させるつもりなど、この若者たちには毛頭ないのだろう。むろんレオナの側だって、路上の喧嘩などには一切手を染めないと心に誓っている。
が、それならそれで、このつかんだ手をどうすればいいのか。試しに相手をにらみつけてみても、まったく効果は見られない。荒事などとはまったく無縁で、なおかつ酒気まで帯びている人間には、眼力による威嚇も通用しないらしい。
(どうしよう。亜森さんの前で荒っぽい声なんてあげたくないし……亜森さんは草履だから、走って逃げるのも難しそうだよな)
しまりのない若者の笑顔を注視しながら、レオナは必死に考えを巡らせた。
その瞬間、耳をつんざくような音色が神聖なる境内に響き渡った。
亜森がカバンから取り出した防犯ブザーを作動させたのである。
周囲にひしめいていた人々が、ぎょっとした様子で振り返る。
レオナも内心では大いに驚かされつつ、若者の手首を突き放すことにした。
バランスを失った若者はぺたりと尻もちをつき、残りの二名は耳もとを押さえながら後ずさっている。
「まったく、礼を失した方たちですね」
そのようにつぶやきながら、亜森は防犯ブザーを停止させた。
そうして何事もなかったかのようにレオナたちを振り返る。
「さ、それでは行きましょう」
「あ、は、はい」
慌てて駆け寄ってこようとする巫女さんや警備員たちを尻目に、レオナたちは足速にその場から離脱した。
鳥居をくぐり、石段を下りながら、柚子が「あー、びっくりした!」と声をあげる。
「すっごい奇襲攻撃だったね! いきなりの胴回し回転蹴りみたい!」
「そのたとえはよくわかりませんが、言葉の通じない相手に会話を試みるのは時間と労力の無駄でしょう」
しれっとした顔で亜森はそのように述べる。
「九条さんにご迷惑をかける前に、行動に移すべきでした。本当に申し訳ありません」
「いえ、私もどうしたものかと頭を悩ませていたので助かりました。あの手の輩にはとても有効な手段だったと思います」
「あはは。神様とかがびっくりしてなきゃいいけどね!」
柚子も無邪気に笑っているので、レオナもほっと息をつくことができた。
路上での乱闘騒ぎなど、現在のレオナにはもっとも回避したい条項である。それでもレオナには、武力以外でああいう輩を撃退するすべがない。そういう意味では、亜森の見せた手際などは手放しで賞賛したいぐらいであった。
(アレがいわゆるナンパってやつか。まったく、タチが悪いや。一人だったら走って逃げられるけど、連れがいたんじゃそれも無理だもんな)
そうであるからこそ、これまでのレオナはいっそう人を遠ざけるような生を送らざるを得なかったのだ。
だけど今後は、真っ当で人間らしい人生を送りたいと願っている。ならば、こういう際にどうふるまうべきかも色々と模索しておかなければならないようだった。
(でも、今日のはあたしが原因じゃないよな。この二人と一緒にいるときは、なおさらああいう輩に気をつけなきゃ)
そのように考えながら街路まで出て人混みにまぎれると、先頭をゆく亜森があらためて振り返ってきた。
「それでは、この後はどうしましょう? 代々木公園にでも向かいますか?」
「そうですね。……それともいっそ、私の家などはどうでしょう?」
レオナの提案に、亜森の目がかっと見開かれる。
「……正月早々にお邪魔するというのは、あまりに礼を失しているように思えてしまうのですが……」
「うちの母親なら大丈夫です。どのみち遊佐さんは私の家に寄らなくてはなりませんものね?」
レオナはそろりと左ジャブを打つような気持ちで言葉を放ってみた。
柚子は「そーそー」と笑顔でうなずいている。
「九条さんの家に荷物を置きっぱなしだもんね。お母さんにもきちんと挨拶をしなきゃだし!」
「……荷物? 挨拶?」
「うん! 実は昨日、九条さんのおうちにお泊りさせてもらっちゃったんだー」
柚子はあっけらかんと笑いながら言い、亜森はいっそう目を見開いた。
この案件は今日の内に打ち明けておこうとあらかじめ取り決めていたのだが、レオナとしてはやっぱり亜森の心情を慮らずにはいられなかった。
「亜森さんも誘うべきか、九条さんと話し合ったんだけどね。亜森さんのおうちはすっごく厳しいって評判だったから、大晦日にお泊り会とかは無理かなーって結論になったんだよ」
「…………」
「で、参加できないなら知らないままのほうがいいのかな? って思っちゃったの。あたしだったら、モヤモヤしたまま年を越すのはいやだなーって思えたから。……それって、気を回しすぎだったかなあ?」
「いえ……確かに遊佐さんの仰る通り、大晦日に外泊することなどわたしには許されなかったと思います」
そのように答えながら、亜森は見開かれていた目をゆっくり細めていった。
そうしてすべての感情を押し隠しつつ、レオナのほうに向きなおってくる。
「事後報告になってしまい申し訳ありません。それで、宿泊が難しいのなら、せめて今日の内に家へお招きできればと考えたのですが───」
「行きます」とレオナの言葉が終わるより早く亜森が言い切った。
「是非おうかがいさせていただきたく思います。九条さんのご自宅は高円寺であったでしょうか?」
「ええ、はい、そうです」
「ならば駅ですね。さっそく向かいましょう」
亜森はしずしずと、ただし二割ほどスピードの増した足取りで駅へと歩を進め始める。
それとはぐれないよう足を急がせながら、レオナは「あの」と呼びかけた。
「やはり、事前に昨日のことはお伝えしておくべきだったでしょうか?」
「いえ。お二人の判断は完全に正しかったと思います。このような気持ちで大晦日から新年を過ごすことになっていたら、きっと家族にも心配をかけることになっていたでしょう」
「……それではやっぱり嫌な気持ちにさせてしまったのですね」
その言葉にも「いえ」という言葉が返される。
「大晦日に外泊することができないのはわたしの家の都合なのですから、九条さんや遊佐さんに不満の感情をぶつけるのは筋違いだと思われます」
「はあ、それはそうかもしれませんが……」
「それに、九条さんがそうして気を使い、わたしなどをご自宅にお招きしてくださったことは、非常に嬉しく思っています。……ただ、元日からお家にお邪魔するというのは、やっぱり気が引けてしまいますが」
「そんなことはありません。母も亜森さんには会いたがっていたので、きっと喜ぶと思います」
その言葉に、亜森は「え?」とまた目を見開いた。
そんなに目をぱちくりさせてコンタクトは大丈夫なのだろうかと、レオナは少し心配になってしまう。
「九条さんは、わたしなどのことをお母様にお話しになられていたのですか?」
「ええ、もちろんです。私にとっては、亜森さんと遊佐さんぐらいしか友人と呼べるような相手はいないのですから」
亜森は軽く唇を噛み、しばらく言葉を探すように沈黙してから、やがて言った。
「……わたしは今でも格闘技というものに否定的な見解を抱いています。そんなわたしの存在などは、九条さんにとってご迷惑にしかならないのではないかと危惧していた面もあったのですが……それは、杞憂でしたか?」
「それは、杞憂です」とレオナはうなずいてみせる。
「私自身、女性が格闘技のトレーニングに励む意味を探りながら取り組んでいる身なのですから、亜森さんのお気持ちはよく理解できているつもりです。その上で、私などにかまってくださる亜森さんの存在を、私はとてもありがたく思っています」
「…………」
「今年度もあと三学期を残すばかりになってしまいましたが、次の学年でも亜森さんと一緒のクラスになれることを私は祈っています」
亜森は亜森らしからぬ子供っぽい微笑を浮かべてから、やがて恥ずかしそうにうつむいてしまった。
ふっと横合いを振り返ると、柚子はにこにこしながら視線を外に向けている。こういう際には、亜森に配慮をすることができる柚子なのである。そうでなかったら、この三人の奇妙な関係性もなかなか持続することは難しかっただろう。
それからは無言で街路を歩き、代々木八幡の駅に到着したところで、ひさかたぶりに柚子が口を開いた。
「あ、そうだ! 九条さんのおうちに戻るんなら、『シングダム』にも寄ってみない?」
「『シングダム』に? でも、明後日までは休館の予定でしょう?」
「うん、だけど必勝祈願っていうかさ、ちょっとお参りしておきたいんだよね。今年一年を頑張るために!」
よくわからない理屈であったが、どうせ他に予定があるわけでもないし、『シングダム』がある中野はマンションの隣の駅だ。亜森も異議を唱えることはなかったので、まずは中野を目指すことにした。
「うーん、練習が休みになって今日で四日目かー。そろそろ身体がうずいてきちゃいそう! どっかにスパーでもできる場所はないもんかねー?」
「それはなかなか難しそうですね。どのような場所でも三が日ぐらいは休んでいそうです」
「やっぱそうだよねー。あー、早くみんなにも会いたいなー」
満員電車に揺られている間は、格闘技にまつわる話が主体となった。こういうとき、亜森は言葉少なに「非常識です」「節度を守ってください」と柚子をやりこめるばかりになってしまうが、それはそれで生き生きしているように見えなくもない。
そうして二十分の後、三人は無事に中野駅へと到着した。
やっぱり人通りはそれなりである。これから初詣に繰り出す人々も少なくはないのだろう。それでも駅を離れると、人気は少なくなってくるし、たいていの店は営業を休んでいるので、どことはなしに正月っぽさが感じられなくもない。
「亜森さんは、あたしたちを尾行した日以来の『シングダム』だよね?」
「ええ、そういうことになりますね」
「あのときはほんとにびっくりしちゃったなー。タケくんが入門してきただけでも驚きだったのに、それを亜森さんが覗き見してるんだもん!」
「あのときは、わたしなりに必死だったのです。九条さんがよからぬ道に引きずり込まれてしまうのではないかと心配していたので」
つんとした顔で亜森が言い、柚子は「あはは」と笑い声をあげる。
すると、『シングダム』の入っているマンションがいよいよ見えてきた。
「黒田会長はあのマンションの二階に住んでるんだけど、お正月は実家らしいんだよね。そうじゃなかったら、こっそり鍵を借りちゃうところなんだけどなー」
「会長は、どこのお生まれなのですか?」
「どこだっけ? 熊本とかそっち方面だったはず。トンチャイもタイに帰ってるのかな」
そんなことを言いながら、柚子はジムの入口の前に立った。
ガラスの扉はぴったりと閉ざされて、立て看板の類いもすべて内側にしまわれている。目の高さには休館日の予定表が張りつけられており、当然のこと、人の気配は皆無であった。
(初めてこの場所に立ってから、もう四ヶ月か)
あのときは、柚子のことが鬱陶しくてしかたがなかった。ジムに足を踏み入れると、今度はすぐに伊達と悶着を起こしてしまい、自分はこの先どうなってしまうのだろうと頭を抱え込むことになった。
その翌日には『シングダム』に入門することを決め、さらにその三ヶ月後には覆面をかぶって試合をすることになったのだ。
本当に動乱の日々だったな、とレオナも何やら感慨深くなってしまう。
「よし! お参り完了! それじゃあいよいよ九条さんのおうちに───」
と、そこで柚子の言葉が立ち消えた。
その視線はレオナを通り越し、背後に向けられている。いぶかしく思って後方を振り返ったが、そこには人通りの絶えたアスファルトの道が続いているばかりであった。
「どうしたのですか、遊佐さん?」
「いや、あれって不法投棄か何かかなあ? それとも、誰かの忘れ物?」
柚子はわずかに身を屈め、建物の壁に沿ってそろそろと歩き始めた。
それでレオナもようやく気づいた。『シングダム』の入っているマンションと隣の雑居ビルの間から、何かモスグリーンの物体が覗いていたのである。
「あまり不審な物には近づかないほうがいいですよ? ご時勢がご時勢なのですから」
「そんな危ないものだったら、余計に放ってはおけないよ! 警察でも呼んで撤去してもらわないと!」
大げさだなと思いながら、レオナも柚子の後に続いた。
見えているのは、ポリエステルか何かの生地だ。丸っこく膨らんだ袋状の一部が、街路のほうにぴょこんとはみ出しているのである。いまだ正体はわからないが、薄汚れているのでゴミにしか見えない。
けっきょく亜森もついてきたので、それをかばうような姿勢を取りながら、レオナは薄暗い路地の中を覗き込んだ。
そして、我が目を疑ってしまう。
何とそれは、寝袋であったのだ。
こんな路地裏で寝袋にくるまって、日中からすやすやと寝息をたてている人間がいたのである。
「うわー、これってあのときのあの人じゃん!」
「……はい」とレオナは柚子にうなずき返してみせる。
そこであどけない寝顔をさらしていたのは、栗色の髪と白い肌を持つ長身の少女───『横須賀クルーザー・ジム』所属の石狩エマであったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます