02 女子白帯ガロ級トーナメント
午前の九時半になると、『第六回ルーカス・ジルベルト杯国際柔術大会』の開会式はつつがなく始められることになった。
日本柔術連盟なる団体の役員がマイクを取り、開会の言葉を述べていく。それでレオナはいっそうこの大会についての予備知識を得ることができた。
どうやらこの大会は、八年ほど前に連盟が発足されると同時に開催されるようになったらしい。それで、最初の三年だけは毎年開催され、四年目からは二年ごとの開催となり、本年めでたく六回目の開催と相成ったわけだ。
やはり、日本で開催される柔術の大会としては、指折りの規模であるようである。
白、黒、青の柔術衣を纏った数百名もの選手がずらりと立ち並んだその姿は、壮観という他なかった。
そうして式の最後では、連盟の会長たる人物がマイクを取ることになった。
大会名にも冠されている、ルーカス・ジルベルトなる人物だ。
どうやら日本語はおぼつかないらしく、最初の挨拶以外はポルトガル語となり、それは通訳によって訳された。
なかなか不思議な雰囲気を持つ人物である。
身長は百八十センチに届かないぐらいで、年齢はもう五十代の半ばに達しているようだが、列の外から式の様子を眺めているレオナにも、何かしら感ずるところがあった。
(なるほどね……確かに只者ではないみたいだ)
柚子や景虎から聞いたところによると、この人物は日本における格闘技ブームの立役者の一人なのだという話であった。
もともと日本においては八十年代の後半ぐらいから格闘技ブームの兆しが存在したらしいが、それが本格化して、民放のテレビ局でも頻繁に試合が中継されるようになったのは、九十年代になってからのことである。
それも最初はキックボクシングや空手を核にした立ち技格闘技のブームであり、MMA――当時の言葉で言うところの総合格闘技がもてはやされるようになったのはその数年後、ブラジリアン柔術の選手が招聘されるようになってからのことなのだった。
ブラジリアン柔術においては、もともとバーリトゥードという試合形式が確立されており、それがまず北米において爆発的なブームを生み出したのである。
それがどれぐらい爆発的であったかというと、当時のプロボクシング界がショービジネスとしての市場を荒らされてしまうのではないかと危惧するほどのものであったらしい。
ともあれ、目潰し、噛みつき、金的攻撃の三点しか禁則事項の存在しないバーリトゥードの試合が北米から発信され、それが世界中に衝撃を与えた。
日本においても、それが格闘技ブームの最大の起爆剤となったのだ。
以降、バーリトゥードはスポーツとしての認知を得るためにルールが改正されていき、現在のMMAへと進化していった。日本における総合格闘技もダウン制やエスケープ制というものを排除していき、世界の選手と同じ舞台で闘えるようにルールが整備されていった。
景虎いわく、MMA黎明期のテーマは「いかにブラジリアン柔術を攻略するか」というものであったらしい。
それぐらい、バーリトゥードやMMAにおいて柔術家たちの技量は他競技者の追随を許さなかったのだ。
それと同時に、ブラジリアン柔術という存在に心酔する者も少なくなかった。
そもそも総合格闘技というのは、空手や柔道やレスリングやボクシングといった競技の枠を超えて、一番強い人間は誰であるのか、という理念が根底にあったので、もっともノールールに近いバーリトゥードで無類の強さを発揮するブラジリアン柔術というものに魅了されないわけにもいかなかったのだろう。
その結果として、この日本にも数多くのブラジリアン柔術の道場が誕生することになった。
明治から大正の時代にブラジルへと渡り、独自の進化と発展を遂げた柔術という存在が、この平成の世に返り咲くことになったわけである。
で――このルーカス・ジルベルトという人物は、その格闘技ブームの時代に何度となく日本を訪れ、過酷な試合に勝利をおさめ、そうして柔術の普及に貢献を果たした選手の一人であったのだ。
日本柔術連盟が発足されたのは八年前であるという話であったが、その頃にはもう格闘技ブームも下火になっていた。MMAの試合がテレビで中継されるのは大晦日ぐらいで、それすらもすぐに絶えることになった。実際、レオナがテレビでそのような番組を最後に見かけたのも、十歳ぐらいの頃であったと記憶している。
しかし、ブームは終わっても、柔術やMMAという競技はこの日本にしっかりと根付いたのだ。
むしろブームが終わったからこそ、これは一過性のものではないのだと言い切ることもできるのだろう。
数百名もの異国の同志を前にして、このルーカス・ジルベルトという人物は何を思うのか。伝聞で柔術の歴史を学んだに過ぎないレオナには、想像することさえ難しかった。
「……ああいう一時代を築いた人間っていうのは、やっぱり何かオーラみたいなもんを感じちゃうよね」
同じような思いを抱いていたのか、景虎がそのようなことをつぶやいた。
そうして選手たちを激励するルーカス・ジルベルトの言葉とともに、開会式は無事に終わりを遂げた。
「さ、出陣だ。九条さん、はぐれないようにね?」
「はい」
数百名の選手たちが、試合会場の外側へと散開する。
しばらく出番のない選手は控え室や屋外に向かうようで、それらの人々が通路に押し寄せ、しばらくは身動きも取れなかった。
そののちに、柚子がレオナたちのもとに戻ってきた。
「いよいよですね! うわー、興奮しすぎて頭の血管があやういです!」
「脳卒中なんて起こさないでおくれよ? あと、試合では冷静にね。……今の内に水分を補給しておくかい? ウェイトは余裕があるんだろ?」
「はい! 朝食の後でも四十八キロジャストでした!」
出会った頃には四十六キロ、十一月の試合時には四十七・六キロであった柚子も、ようやく最初の目標である四十八キロに達することができたのだ。
で、本日エントリーしている女子ガロ級のリミットは四十八・五キロであったので、計量でひっかかる心配は微塵もない。
「って、もちろんそいつは道衣こみのウェイトだろうね?」
「はい! 道衣をぎゅーっと抱きしめて体重計に乗りました!」
想像すると、何やら微笑ましい光景である。
などと考えていたら、柚子に満面の笑みを向けられた。
「九条さん! お水をもらえるかな?」
「ああ、はい」
ようやく雑用係たるレオナの出番であった。
景虎から託されていた荷物入れからドリンクボトルを引っ張り出し、柚子へと手渡す。
それをストローでちるちると飲んでから、柚子は「ぷはー!」と大きく息をついた。
「それでは行ってきます! まずはガロ級の四人トーナメント! 全身全霊で頑張ってくるねー!」
「はい。くれぐれも怪我にだけはお気をつけて」
第一試合は六面で同時に行われる。女子ガロ級の白帯たる柚子の試合も、そのひとつに組み込まれていたのである。
柚子が右端手前の舞台へと進んでいくので、レオナたちもそれに合わせて移動する。セコンドやコーチ陣は、舞台の外の板張りのスペースから可能な限りの指示を飛ばすのだ。
マットの手前で体重を確認され、無事にパスした柚子が舞台へと進む。
その向かいに立ったのは、白い柔術衣を着た二十歳ぐらいの女性であった。
柚子よりも五センチほど背が高く、髪は肩にかかるぐらいの長さだ。
やはり四十八・五キロ以下なので、それほど武骨な感じはしない。
「白、ヒロ・イワイ道場、竹山佳美。青、シングダム、遊佐柚子」
黒いシャツに黒いスラックスを着た主審が、通りのよい声でそのように告げる。
ひどく淡々とした進行であった。
「コンバッチ!」
そうして耳慣れないポルトガル語の言葉で、試合の開始が告げられた。
柚子は低く腰を落とし、相手はさらに低くかまえている。前にのばした両腕が、マットに触れそうなほどである。
柔術における試合開始時は、膝さえつかなければどんなに体勢を低くしても許されるのだった。
(実際、変わった競技だよな)
もちろんブラジリアン柔術においても、バーリトゥードやMMAで勝ち抜くための技術と道衣を着た競技柔術とではしっかり区分されている。本日行われているのは、もちろん競技柔術のほうだ。
日本の柔道と根は同じにしているはずであるが、こまかい部分ではだいぶんルールが異なっている。レオナにとっては、そのルールの外枠を把握するだけでもひと苦労なのだった。
まず、柔術においては投げ技による一本というものが存在しない。
なおかつ、押さえ込みによる一本というものも存在しない。
むしろ、押さえ込んだ状態で動きを止めれば警告を受け、しまいには減点されてしまう。
それだけ勝利条件が異なっているのだから、その時点で柔道とは似て異なる競技であるといえるだろう。
要するにブラジリアン柔術というのは、関節技と締め技の技術を競い合う競技であるのだ。
(つまり、柔道とは制圧の概念が違うってことなんだろうな)
何だかするすると試合が開始されてしまったので、レオナは緊張する間もなくそのような雑念にとらわれてしまっていた。
その間にも、柚子と対戦相手は有利な体勢を取ろうと組み手争いに励んでいる。
だが、その体勢の低さからして、相手方にまともに組む気がないことは明白であった。
それを裏付けるように、相手は柚子の左袖をつかむと同時に、滑り込むようにして尻をついた。
相手の道衣に手がかかった瞬間、寝技に持ち込むことが許されるのだ。
柚子はぐっと足を踏ん張り、相手は下から柚子の肩口に足を掛けてくる。
強引に柚子を引きずり倒そうとしているのだ。
「慌てないでいいよ! 相手の足を払って、サイドポジションをいただきな!」
レオナの隣で、景虎ががなっている。
言われた通り、柚子は相手の足を払って、横から相手の上にのしかかった。
しかし、相手も柚子の背中をつかみ、なんとかバックを取ろうとする。
普通のグラップリングであれば悪あがきにもならないが、道衣をつかむことが許されていると、これだけでも柚子の動きは制限されてしまうのだ。
しばらくは、相手の道衣をつかみあって有利なポジションを取ろうという動きが続けられる。
(これで相手を殴っちゃいけないっていうんだから、焦れったくてしかたがないよ)
だが、柚子の真剣な顔を見ている内に、ようやくレオナも大事な友人の試合を見守っているのだという実感がわいてきた。
少しずつ相手の身体がマットに押し潰されていき、柚子の右膝がじわじわと腹の上に乗っていく。
それで膝が完全に乗ればニーオンザベリーという体勢になり、それを三秒間保持すれば2ポイントを先取である。
攻め手のない押さえ込みは減点に当たる行為で、攻め手に繋がる体勢の保持は優勢ポイントになるという、このあたりも柔術の理念をわきまえていなければ混乱を招くところであろう。
レオナがそのように考えたとき、相手が下から柚子の襟をつかんだ。
体重を前側に掛けていた柚子は、それで頭の側に崩れてしまう。
さらに相手は逆側から柚子の身体をすくい上げ、体勢をひっくり返してしまった。
今度は相手が横合いから柚子にのしかかっている格好だ。
「あーあ、どうも柚子は本番に弱いね。気合が空回りするタイプだ」
「そ、そんな悠長なことを言っている場合ですか?」
「そうだねえ。あたしの声が聞こえてりゃいいんだけど。……左膝で相手の右手を切りな! 左手で奥襟を突っ張って、ハーフガードに戻すんだよ!」
景虎がまた指示を飛ばしたが、柚子がきちんと指示通りに動けているのか、レオナには判別がつかなかった。
道衣をつかみあっての寝技の攻防というのは、自分の側に鑑識眼がないと、わやくちゃにもつれあっているようにしか思えないのだ。
気づけば、柚子の帯が外れてしまっていた。
道衣がはだけて、『シングダム』のロゴが入ったTシャツが丸見えになってしまっている。
しかし審判は「待て」の声をあげることもない。帯が外れるぐらいはルールの内なのである。これも柔道との大きな相違点であろう。
「よし! そうしたら相手を引きつけて――」
景虎がそのように言いかけたとき、いきなり柚子の両足が下からのびあがった。
相手の左腕と頭を両足ではさみ込み、四の字にフックする。三角締めの体勢である。
しばし動きを止めてから、相手が弱々しく柚子の足をタップした。
主審が「バロウ!」の声をあげ、柚子は相手を解放する。
肩で大きく息をつきながら、柚子はほどけた帯を手に立ち上がった。
主審は両者を左右に並ばせ、無言で柚子の右腕を掲げる。
柚子は相手と握手を交わし、へろへろの足取りで帰還してきた。
「何だかわからないけど、勝てましたー!」
「うん、あんたらしくない強引な極め方だったね。無我夢中って言葉がぴったりだったよ」
「はいー、途中から頭ん中がこんがらがっちゃって……」
「そもそも最初にスイープを許したのが大失敗だったね。ニーオンザベリーを狙ってたんだろうけど、重心の掛け方がお粗末だから返されるんだ。ウェイトが同じ相手なら力で押さえ込めるとでも思ったのかい?」
「ああ、いえ、決してそんなわけでは……」
「下になってからも、いいとこなしだったね。相手が攻め急いでなかったらマウントを取られてたろうよ。途中で腕がらみも極められかけてたし、三角締めをすかされてたら星を落としてたかもしれないねえ」
「あうう」と柚子は頭を抱えつつ、上目づかいにレオナを見つめてきた。
「九条さん、アメ! ムチの後のアメをお願いします!」
「はい、公式試合初勝利おめでとうございます。いきなり一本勝ちなんてすごいですね」
「えへへ」と嬉しそうに微笑んでから、柚子は景虎に向きなおった。
「お待たせしました! 次なる一撃をお願いいたします!」
「言いたいことは言いつくしたよ。どこか痛めたりはしてないかい?」
「はい! たぶん大丈夫です!」
「それじゃあ、決勝戦までに少しでも回復しておきな。……初戦突破、おめでとさん」
景虎はレオナからタオルを受け取り、それで柚子の頭をぐしゃぐしゃにかき回した。
柚子は再び嬉しそうに笑いつつ、「あっ!」と大きな声をあげる。
「あれ、ののちゃんたちですよ! おーい!」
見てみると、二階の客席の最前列に見慣れた姿が立ち並んでいた。
私服姿の乃々美、晴香、伊達、そして隆也少年である。
試合が始まっても客席は二、三割しか埋まっておらず、どこでも移動し放題の様子だ。
蒲生親子が手を振り返してきているが、よほどの大声をあげなければ会話をすることは難しいだろう。ということで、みんなとは昼の休憩でゆっくり言葉を交わすことに相成った。
そんな中、会場内にはひっきりなしに選手を呼び出すアナウンスが流されている。六面の試合場では次々と試合が行われているのである。こうしてどんどん消化していかなければ、百にも及ぶトーナメント戦を終わらせることはかなわないのだろう。
「決勝の相手を見ておかなきゃならないから、しばらくはこの辺りに陣取らせていただこうかね」
ということで、通行の邪魔にならぬよう壁際まで引っ込んで休息を取る。柚子の試合は三分ていどで終わっていたが、スタミナの消費量は尋常でない様子であった。
けっきょく帯は締めなおさないまま、柚子は壁にもたれて座り込んでいる。勝利の余韻を噛みしめているのか、単に放心しているだけか、実にしまりのない面持ちである。
その目がくわっと見開かれたのは、アナウンスの声が飛川の名を呼んだときであった。
飛川のエントリーした女子青帯プルーマ級も四人しか選手が集まらなかったらしく、二回を勝ち抜けば優勝であるという話であった。
一回戦の相手は関西の道場の選手であり、飛川はこれに判定で勝利を収めた。
アベリィのエントリーした女子紫帯レーヴェ級などは三人しか選手がおらず、抽選によって彼女は一回戦を免除されていた。
で、一回戦は竜崎選手と『フィスト』の別の支部の選手で、これは竜崎選手が背後からの送り襟絞めで勝利を収めた。
そして、女子白帯ペナ級、服部選手である。
服部選手は相手と組み合うなり豪快な内股を決め、そのまま袈裟固めから相手の肘に関節技を仕掛け、あっという間にタップを奪ってしまった。
「うわー、柔術であそこまで綺麗に投げ技を決められるなんてすごいですね?」
「ああ、あれだけ腰を引いてた相手の懐に一瞬で飛び込んでたね。やっぱり踏み込みの速さが尋常でないよ」
やはり無差別級のトーナメントにおいては、服部選手が大きな壁となって立ちはだかりそうな気配であった。
そうして試合は順調に消化されていき、一時間ぐらいが経過したところで『女子黒帯ペナ級の表彰式を行います』のアナウンスが響いて、レオナを驚かせた。
「え? 今、表彰式といいましたか?」
「ああ、決着のついたところは片っ端から表彰式を済ませちまうんだよ。じゃないと、試合が終わった選手がいつまでも帰れないし、百近くもある表彰式をいっぺんに片付けるのも大変だろ?」
そのように言ってから、景虎は四角い顎を撫でさすった。
「にしても、黒帯のペナ級っていったら噂のあいつか。観戦しておこうと思ってたのに、見逃しちまったね」
「ペナ級というのは、服部選手と同じ階級でしたよね。誰かお知り合いが出場されていたのですか?」
「一方的に知ってるだけさ。ほら、この大会の主催者の娘さんだよ」
「えっ! アリースィ選手の試合、終わっちゃったんですか!?」
柚子が大きな声をあげ、景虎を苦笑させる。
「あんたは他人の試合にかまってられる場合じゃないだろ。運がよければ、無差別級のほうで拝見できるさ」
試合会場の一画に、表彰式のスペースが設けられている。レオナが目を凝らしてそちらのほうをうかがってみると、表彰台には二名の選手しか立ち並んでいなかった。
参加選手が二名しかいなかったため、一試合でトーナメントが終わってしまったのだろう。おまけにそこに立っているのは、どちらも外国人選手であるようだった。
「そりゃあ国内に黒帯保持者の女子選手なんて数えるほどしかいないだろうからね。九階級の内、三階級しか試合も組まれていないんじゃなかったかな」
「ああ、それ以外の階級は選手が集まらず、試合が不成立ということですか。……主催者というのは、あのルーカス・ジルベルトという御方のことですよね? 両方とも外国の選手のようですが、どちらがその娘さんなのでしょう?」
「そりゃあ一位のほうだろ。あたしの視力じゃよく見えないけど、公式試合では負けなしの、化け物みたいな娘っ子らしいよ?」
「化け物ですか。とてもそのようには見えませんが」
一位の台で模造品と思しき金メダルを掲げているのは、これといって勇猛な感じもしない、ごく普通の娘さんであった。
黒い髪に黒い瞳で、肌もいくぶん浅黒い。さすがにこまかな顔立ちまでは見て取れないが、嬉しそうににこにこと笑っている様子である。それなりに身長があるぶん、身体の厚みは人並みていどで、体格的にも特筆するべきところはない。
「実績だけ見れば、十分に化け物だよ。まず十六歳の若さで黒帯ってのが普通じゃありえないし、その年齢で出られる柔術やグラップリングの大会にはすべて出場して優勝を収めてるんだよ」
「なるほど。女子柔術界のサラブレッドということですね」
「ああ。そんでもって、来月にはこの日本でMMAファイターとしてもデビューするのさ」
景虎は、気のない表情で肩をすくめている。
「あたしが出場する『NEXT』の大会で、もう一試合、女子選手の試合が組まれてるって言ったろ? それがその娘っ子のデビュー戦なのさ。相手をするのは日本のベテラン選手だけど、いったいどんな有り様になるやらね」
「十六歳でプロデビューですか? それは確かに、破格のお話であるようですね」
「ああ、『NEXT』はけっこうお祭り色の強い団体だからね。ルーカス・ジルベルトの秘蔵っ子ってことで、一も二もなく出場の打診をオーケーしたらしいよ。娘っ子のほうは娘っ子のほうで、父親の活躍した日本でのMMAデビューが子供の頃からの夢だったって話さ」
「……景虎さんは、あまりその話を快く思っていないのですか?」
「いや、ルーカス・ジルベルトって選手のことは尊敬してるし、娘っ子だって大したもんだと思ってるけどさ。相手をつとめるベテラン選手ってのも、日本の女子格闘技界を引っ張ってきたお人だから、話題性のある新人選手の踏み台にされてほしくはないなってぐらいのもんだよ」
「なるほど」とレオナはうなずいておいた。
柔術についてもMMAについても門前の小僧であるレオナには計り知れない事情というやつが存在するのだろう。
そんな話をしている内に表彰式は終了したようで、アリースィ・ジルベルトなる若き王者は控え室へと消えていった。
それと同時に、写真を撮影していた記者団や野次馬も表彰台の前から去っていく。ずいぶんな数の記者が集まっているのだなとレオナは少し心配になっていたのだが、それもそういう話題性のある選手ゆえなのかもしれなかった。
「さあ、黒帯の試合まで進んだんなら、女子のほうはもう二回戦に突入する頃合いだね」
景虎がそのように宣言した数分後に、柚子の名前がアナウンスで呼ばれた。
今度は向かって左手前の試合場だ。
レオナと景虎はもちろん、二階席の応援団もそれに合わせて場所を移していた。
そこでは男子選手の重量級の試合が行われており、時間いっぱいで勝敗が決せられると、待機していた柚子と相手選手が舞台の中央に招き寄せられた。
今度は相手も同じ青色の柔術衣であったため、柚子の側に黄色と緑色がストライプになった帯が手渡される。見ている側には関係のない話だが、試合の進行や記録上で必要な措置なのだろう。
「青、フィスト松戸、吉崎美奈。緑、シングダム、遊佐柚子」
主審が静かに声をあげる。
やはり一回戦と同じく、淡々とした進行だ。
「コンバッチ!」
その声が響くと同時に、相手が正面からつかみかかってきた。
この吉崎という選手は、スタンドの状態で有利な組手を取ることを重んじる選手であったのだ。
一回戦の試合を見た限りでは、技術うんぬんよりも勢いで相手をねじ伏せようとするタイプであるようだった。
「妥協するんじゃないよ! まずは上を取ってみせな!」
景虎の声に応じるように、柚子も立ったまま組手争いに応じていた。
柚子は下から攻めるのも得意にしていたが、MMAでは不利になる場面が多いので、最初のポジション争いでも妥協しないように、との指導を受けているのである。
柚子は柔術という競技そのものを好んでいたが、それでもやっぱりMMAを主体に考えている。そうでなければ、もっと柔術に力を入れているジムに移る、という道もあっただろう。『シングダム』でも茶帯を持つ指導員というのは存在したが、それでもやっぱり週に一、二度しか競技柔術の講習が存在しないジムというのは、柔術に力を入れていない部類となるのだ。
ゆえに、柚子は柔術の試合で結果を残すことよりも、その技術をMMAに活かすことを重んじていた。安易に下にならないというのも、そのあらわれなのだった。
相手の襟をつかみ、袖を引き、何とか有利なポジションを取ろうと画策する。相手も同じように妥協はせず、一分ほどは立った状態で時間が過ぎ去っていった。
「制限時間は五分でしたよね?」
「ああ。ここが踏ん張りどころだね」
景虎がそのように言ったとき、相手が強引に組みついてきた。
右手で柚子の襟をつかみながらの、胴タックルのような格好である。
柚子はすかさず後方に両足を引き、相手の背中に覆いかぶさる。MMAでも基礎技術である、バービーという動きだ。
相手は膝をつき、さらに突進しようという素振りを見せた。
しかしそれよりも、柚子が相手の後方に回り込むほうが速かった。
相手の指先が襟から離れ、柚子が背後から相手を押し潰す。
相手は亀の状態になり、咽喉もとに手を差し込まれないよう、腕でガードした。
柚子は相手の背中にのしかかり、ぐいぐいと体重をかけていく。
そのまま胴体を両足ではさみ込めばバックチョークを狙えるし、その体勢を三秒保持すれば2ポイントだ。
しかし相手もそのようなことはわきまえているので、片腕で首を守りつつ、もう片腕で柚子の足の道衣をつかんでいる。
すると柚子は相手の横合いに回り込み、胴体ではなくその道衣をつかまれている右腕を両足ではさみ込んだ。
そうして左腕で相手の帯をつかみ、体勢を安定させながら、ぐいっと身体をのけぞらせる。
下腹部で相手の肩を押し、両足の力で肘を極めようとしている。腹固めという関節技である。
たまらず相手は身を起こし、何とかその拘束から逃れようともがき始めた。
なかなか力のある選手のようで、背中に柚子を乗せたまま立ち上がってしまいそうな勢いである。
すると柚子は、空いていた右腕を横から相手の首に巻きつけた。
そのまま相手の肩をつかみ、片腕だけで首を締めあげていく。
道衣をつかむことが許されている柔術ならではの締め技である。
苦しげな表情を見せながら、相手は前方に転がり込んだ。
しかし柚子は腕と首を拘束した姿勢のまま、それについていく。
これでは腹ばいであったのが仰向けになっただけのことであった。
そうして柚子は、帯をつかんでいた左手を相手の左腕に移動させた。
両腕と首を固定されて、もはや相手は動くこともかなわない。
唯一動かせる両足で、吉崎選手はじたばたと畳を蹴った。
じっとその様子をうかがっていた審判が、いくぶん慌てた様子で「バロウ!」の声をあげる。
即座に柚子がすべての拘束を解放すると、吉崎選手は横を向いてげほげほと咳き込んだ。柚子の腹を枕にしたまま、すぐには身を起こすこともできない様子である。
足をじたばたと動かしていたのは、両腕を使えず声をあげることもできなかった吉崎選手の、「参った」の意思表示であったのである。
主審が手を貸して吉崎選手を起こし、それでようやく柚子も身を起こす。
そうして、再び柚子の手が主審によって高々と掲げられた。
柚子の勝利が宣告されたのだ。
まだ咳き込んでいる吉崎選手と握手を交わし、柚子は試合場から駆け出してきた。
その顔は、至福の表情に光り輝いている。
「トラさん、九条さん、やりました!」
「ああ、見事な一本勝ちだったね。ひとつふたつ指導しておきたいところはあるけれど、それは後回しにしてあげるよ。まずは、おめでとさん」
「はい! ありがとうございます!」
同じ表情をたたえたまま、柚子はぐりんとレオナに向きなおってくる。
レオナはじわじわと温かい感覚が胸に満ちていくのを感じながら、「おめでとうございます、遊佐さん」と言ってみせた。
「でも、審判の方が何か言いたげにこちらを見ておられますよ? 喜びにひたる前に、そのカラフルな帯を返却するべきなのではないでしょうか?」
「もー! こんなときぐらい、素直に祝福してよ!」
そのように文句を言いながら、それでもやっぱり柚子はとてつもなく幸福そうであった。
かくして、『第六回ルーカス・ジルベルト杯国際柔術大会』における女子白帯ガロ級の優勝者は遊佐柚子であると、ここに決定されたのだった。
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