02 練習前のお悩み相談

 桐ヶ谷あかねのマンションに集まった日から二日後の、月曜日。

 約束の時間に横須賀駅まで出向いてみると、すでに沼上宏太が駅の外で待ち受けていた。


「お待たせ。今日はいったいどうしたの?」


 美月が声をかけると、宏太は「あ、ども」と小さく頭を下げてきた。

 二人ともラフな格好で、それぞれリュックとスポーツバッグを抱えている。ジムに行く前に少し時間をもらえないか、と美月は昨晩いきなり宏太から連絡をもらうことになったのである。


「変なお願いしちゃってすんません。予定とか大丈夫だったっすか?」


「今日は練習以外に予定もなかったけど、でも、突然どうしたの?」


「いや、ちょっとトビーさんにお話があって……あの、場所を変えないっすか? できれば、他の連中の目につかないところで……」


「他の連中って、ジムの人たちのこと? そんなの気にするなんて、宏太らしくないね」


「ええまあ、ちょっと……」と宏太はうつむいてしまう。

 ますます宏太らしくない仕草である。彼もエマほどではないにせよ、どちらかといえば傍若無人なタイプであるはずだった。


「それじゃあ、ジムとは反対側でお店でも探そっか」


「はい。すんません」


 ということで、二人は連れ立って普段とは逆の方向に足を向けることにした。

 平日の昼下がりなので、人通りはそれほど多くない。宏太はこの春で高校三年生、美月は短大に入学する身であるが、どちらもまだ春休みの期間中であったのだ。


 宏太は小柄だが、美月はそれよりもさらに四センチほど背が低い。その少しだけ高い位置にある宏太の横顔をこっそり盗み見てみると、やはり彼は彼らしからぬ思いつめた表情をしていた。


 一昨日の集まりではおかしなところなど見せていなかったのに、いったいどうしたのだろう、と美月は心配になってしまう。やんちゃで小生意気で単細胞なのが、彼の持ち味であるはずなのだ。そんな彼がこのような表情を見せるというのは、ちょっと普通のことではなかった。


 そうして五分ほど歩くと、ファミリーレストランを発見できたので、そこに足を踏み入れることにした。

 店内は六分ていどの入りであったが、やはり春休みなので学生っぽい若者が多く、それなりに賑やかであった。


 窓際の席に案内された後、二人分のドリンクと、おまけでフライドポテトを頼む。ドリンクバーでそれぞれの飲み物を確保して、注文の品が届けられると、ようやく宏太は重い口を開き始めた。


「あの、ほんとにすんません。迷惑だってのはわかってたんすけど、俺、こういう話を溜め込んでおけなくって……」


「そんなに気をつかわなくってもいいってば。あたしなんかで力になれるかはわからないけど、なんでも相談に乗るよ」


「いや、トビーさんにしか相談できないような話なんすよ。……それであの、他の連中には黙っていてもらえますか……?」


「他の連中って、エマちゃんとかあかねさんのことだよね? どうしてみんなには言っちゃいけないの?」


 できることなら、いつものメンバーに隠し事はしたくなかった。

 宏太はうつむいて、グラスのストローをもじもじといじくっている。


「だってあの、あいつらにバレたら馬鹿にされるに決まってるし……だけど俺、もう限界なんすよ」


 宏太の顔がじょじょに赤くなっていくことに気づいて、美月はたいそう驚かされた。

 そして、危険信号が頭に明滅する。美月は過去に一度だけ、年頃の少年がこのような姿をさらす光景を目にしたことがあったのだ。


「ちょ、ちょっと待って。まさか、そっち系の話じゃないよね?」


「そ、そっち系って何すか? 俺、これでも本気なんすけど」


「ほ、本気はいいけど……そのお相手って、あたしじゃないよね?」


「ほえ?」と宏太が目を丸くしたので、美月は心から安堵することができた。


「いや、あたしじゃないなら、それでいいの。……あーあ、嫌な汗かいちゃった!」


「……なんか俺、無意味に傷つけられた気分なんすけど」


「ごめんごめん! 過去に一度だけ、年下の男の子に告白されたことがあってさー。またそのパターンかと思って、げんなりしちゃったの」


「いや、だから、勝手に勘違いして勝手にげんなりするってひどくないすか?」


「ごめんってばー。宏太のことが大事だから、ややこしい関係にはなりたくなかったって意味なんだよ」


 宏太はぶすっとした顔でジンジャーエールに口をつけてから、気を取り直した様子で身を乗り出してきた。


「でも、やっぱトビーさんにもそういう話ってあったんすね。その年下の男とはどうなったんすか?」


「別にどうもなってないよ。年下とか興味ないし。……あたしの話はどうでもいいでしょ」


「いや、やっぱりトビーさんに相談して正解でした。あの、俺ってそっち系の話に経験が少ないもんで、なんとか力になってやってください」


 そんな風に見込まれるほど、美月にだって恋愛の経験はない。というか、その一度きりの告白が、人生における恋愛経験のほとんどすべてといってもいいぐらいの状態であった。

 しかし年下で異性の宏太にそんな事情を打ち明けるのはあまりに気恥ずかしかったので、大人しく口をつぐんでおくことにする。


「……あの、あかねさんとかから、何も話は聞いてないっすよね?」


「聞いてないよ。一昨日、ちっちゃな女の子がどうこう言ってたよね。だからあたしも、おかしなカンチガイしちゃったんだけど」


「べ、別に小さければ誰でもいいってわけじゃないんすけどね」


「ああ、ちっちゃくたってあたしみたいにガサツな女はごめんだよね」


「そ、そんなことないっすよ! トビーさんは可愛らしいし女の子っぽいから、こんな相談を持ちかけようと思ったんすよ!」


 美月をドキリとさせるようなことを言ってから、宏太はまたしおしおとうなだれてしまった。


「あかねさんとかエマのやつはもちろん、男連中にだってこんな相談はできやしません。かといって、学校の連中じゃもっと頼りないし……」


「わかったわかった。聞くだけは聞くから話してみなって。お相手は学校のクラスメートか何かなのかな? まさか、うちのジムの人間ではないんでしょ?」


「はい。うちじゃなくって、他のジムの人間っす。……は、蜂須賀乃々美ってわかります?」


 そのように述べながら、宏太はますます赤い顔になっていく。

 猿の赤ちゃんみたいで可愛いな、とこっそり考えながら、美月は「えーと」と脳内をスキャンする。


「なんか聞き覚えのある名前だね。どこのジムの所属の人?」


「……東京の『シングダム』っす」


「え、『シングダム』? それじゃあひょっとして、年末の練習試合で対戦した、あのちっちゃなコ?」


「……そうっす」と言いながら、宏太はすっかり小さくなってしまった。

 美月としては、驚きを隠せないところである。


「こ、宏太って、その蜂須賀さんってコに秒殺されてたよね? そんな相手を好きになっちゃったの?」


「す、好きになったわけじゃないっすよ! ただその、ちょっと気になるだけで……」


「あれー? さっきは本気がどうとか言ってなかったっけ?」


「ほ、本気で気になってるだけっすよ。なんかおかしいっすか?」


「いや、おかしくはないかもしれないけど……でも、秒殺KOされた相手に一目惚れかー。そんな話もあるんだねー」


「だ、だからそんなんじゃないんすよ! ……一目じゃなくって、もう三回ぐらいは顔をあわせてるし……」


 一度目は練習試合で、二度目は『シングダム』までエマを迎えに行ったときのことであろう。

 それ以外にも機会があったのかと尋ねると、三月のプロテストであるとの答えが返ってきた。


「そっかそっか。あのコはムエタイのアマ世界王者って話だったもんね。あんなにちっちゃくて宏太より年下なのに、もうプロかー。……でも、それなら今後は試合のときとかに顔をあわせられるんじゃないの?」


「俺たちが所属する『G・ネットワーク』って、男女で別々の興業なんすよ。たまには男女混合のイベントもあるみたいっすけど、たぶん年に一回あるかないかっす」


「ふーん。それで横須賀と東京じゃあ、高校生としてはなかなかの遠距離だよね。……で、宏太はどうしたいの?」


「ど、どうしたいって、何がっすか?」


「いや、それをあたしに相談してどうしたいのかと思ってさ。あたしで何か協力できるのかな?」


 美月が問うと、宏太はその答えを探すかのように視線をさまよわせた。


「……トビーさんって、『シングダム』の連中と仲良くしてたっすよね? 連絡先とかも交換してるって言ってませんでしたか?」


「うん、一人だけ。ていうか、宏太はその蜂須賀さんと交換してないの?」


「頼んだのに断られたんすよ。他の女とは交換してたのに、俺とはめんどくさいとか言って! あいつ、ひどくないっすか?」


「うーん」と美月は考え込むことになった。


「ごめん、それってもうすでに玉砕しているのでは……?」


「連絡先の交換を断られただけっすよ! 別に告白とかしたわけじゃないし!」


「……めんどくさくて連絡先の交換すら嫌がる相手と、恋愛関係に発展することなどありうるのだろうか……」


「お願いしますよー! そんなあかねさんみたいに意地悪を言わないでください!」


 宏太はテーブルに突っ伏してしまった。

 放置されていた冷めかけのポテトをかじりながら、美月はもう一度「うーん」と考える。


「宏太ってさ、年上の女性に可愛いがられるタイプだよね」


「可愛がられてないっすよ! いじめられてるだけっす!」


「それは見解の相違というやつだね。……宏太って、年功序列を重んじる体育会系のタイプだと思うんだよ」


「はあ。そりゃあ体育会系の人間なんだから当たり前じゃないっすか?」


「うん。でも、あたしなんかはジムの外では部活動の経験もないし、格闘技って個人競技だから、それほど体育会系のノリがしみついてないんだよね。あと、うちのジムって外国人が多いせいか、特に個人主義の気風が強い気がしない?」


 宏太はけげんそうな顔になってしまっていた。美月の話の着地点が見えていないのだろう。


「エマちゃんを嫌うのも、日本人で男のジム生が多い気がするんだよね。外国人とか女子選手とかは、そんなに体育会系のノリでもないし、人それぞれってスタンスの人が多いから、エマちゃんが騒ぎを起こしてもあんまり気にしてなかったように思うんだー」


「それが何なんすか? 俺も別に、エマが何をやらかしても自業自得だって考えてますけど」


「うん、宏太もそういうところはドライだよね。でも、根っこの部分は体育会系でしょ? ……体育会系っていうか、荒っぽいよね」


 これまでの記憶を思い起こして、美月はそのように述べてみせた。


「で、宏太は年上の人間にはそれなりに礼儀正しいけど、同い年とか年下とか後輩とかには、けっこう荒っぽい気がするの。名前は呼び捨てだし、『お前』とか『あいつ』とか言うし」


「ええ? それが何かおかしいっすか?」


「おかしくはないよ。ただ、それを荒っぽいとか野蛮だとか考える人もいるだろうなーと思っただけ」


 宏太はまったく納得がいった様子もなく、バナナを咽喉に詰まらせた子猿のような顔になってしまっていた。


「具体例をあげよっか? あたしの学校の友達だったら、いきなり『お前』呼ばわりする男子とか論外! ってコがけっこう多いんだよ」


「ええー!? それじゃあ、何て呼べばいいんすか?」


「そりゃあ、苗字じゃない? 苗字だったら、呼び捨ても普通だし。……ただ、宏太のお相手は学校の友達じゃなくって他のジムの生徒さんだからなー。普通は苗字に『さん』ぐらいつけるんじゃない?」


「……俺の態度が荒っぽいから、あいつは俺のことを嫌ってるっていうんすか?」


「ほら、また『あいつ』って言った。文化系の男子だったら、たぶん好きなコを『あいつ』とか言わないと思うんだよね」


 宏太がものすごく不安そうな顔になってしまったので、美月はそろそろ矛先を収めることにした。


「ま、あくまで今のは一例ね。年頃の女の子ってのは、それぐらい厄介な存在ってことよ。男の子の何気ない言葉や行動でカチンと来ることも多いってわけ」


「そ、それじゃあ、あいつはどうなんすかね? たぶん俺、普通に『お前』呼ばわりしてたと思うんすけど……」


「それは本人にしかわかんないよ。蜂須賀さんってのは可愛いのにいっつも不機嫌そうな顔をしてるコだった気がするし、もっと別のところで宏太のことをめんどくさいやつって感じたのかもしれないね」


 しかし、宏太が魅力的なのはやんちゃな部分であるのだから、それを自然に受け止められる大らかな女の子のほうが相性はいいように思えてならなかった。どれほど見目がよかろうとも、いつも不機嫌そうな顔をした女の子とおつきあいするのは、いかにも大変そうだ。


「なんか頭がごちゃごちゃしてきたっすよ……蜂須賀って、どういうタイプの人間なんだろう……」


「どうなんだろうね。ていうか、どういうタイプなのかもわからないのに好きになっちゃったの?」


「す、好きになったんじゃなくって気になるだけっすよ! ……あの、トビーさんの知り合いにそこんところを聞いてもらうのって、男らしくないっすかね……?」


 柚子にそのようなことを尋ねるのは気が進まなかったが、宏太があまりにあわれげな顔つきになってしまっていたので、美月はしかたなく携帯端末を引っ張り出すことにした。

 まずは尋常に『ゆずちゃん、何してるー?』とメッセージを送ると、すぐに『今は九条さんのお家です☆』という返事が返ってきた。


『九条さんのお家? ひょっとしたら、またお泊り会?』


『はい! みんなで夕食の準備をしてました♪』


 そこでピコンと受信音が鳴り、画像が送られてきた。

 九条レオナともう一人、黒縁眼鏡の女の子が、エプロンをつけた姿で写されている。前回のお泊り会のときにも、同じ顔ぶれの画像が送られてきたものであった。


『楽しそうだね! うらやましい!』


『てへ☆』


『今日は練習はお休みなの?』


『はい! 先週の練習で右肘を痛めちゃって。……でも、お泊り会が延長できたので結果オーライです\(^o^)/』


 その顔文字は適切なのだろうかと首をひねりつつ、美月はそろりと小手調べの一文を送り込んでみた。


『そういえば、そっちのジムの蜂須賀さんも宏太と同じ団体のプロテストを受けたんだよね? 結果はばっちり?』


『はい! もちろんです☆』


『おめでとー! うちの宏太もばっちりだったよ』


『あ、沼上さんも同じ日にプロテストだったんでしたっけ??』


 どうやら蜂須賀乃々美の口からその件は告げられなかったらしい。

 そして、年少の柚子は宏太を沼上さんと呼ぶのだった。


『蜂須賀さんってすごい実力者だもんねー。ムエタイ世界王者とか想像を絶する!』


『はい! 自慢のメンバーです♪』


『しかもちっちゃくて可愛いし! まあゆずちゃんのほうが可愛いけど』


『とんでもござりませぬよー☆』


 夕食の下準備中であるようなのに、柚子の返答はスムーズだった。

 何だか申し訳ないなあと美月が考えていると、対面から宏太が心配げに首をのばしてくる。


「あ、あの、何かもめちゃってるんすか? 俺のために無理はしないでくださいね?」


「別にもめてはいないけど、いきなりおかしな質問はできないでしょ。いま手順を踏んでるんだから、おとなしく待ってなさい」


 宏太は肩を落とし、ポテトの残りを力なくついばみ始めた。


『そっちのジムって美人さんが多いよねー。それでトラブルになったりしない?』


『とらぶりゅー? 特にないです♪』


『ジム内では恋愛禁止とか?』


『禁止じゃないけど一切発生いたしません\(^o^)/』


『えー、不思議! みんなジムの外で円満な関係を築いてるとか??』


『ジムの外でも一切発生していないようです\(^o^)/』


 この顔文字は喜びと悲しみのどちらを表現しているのだろう、と美月はあらためて考えさせられてしまう。


『それじゃあ、みんなフリーなの? 世の男性は見る目がないね!』


『うふふ☆』という短い文面の後に、『ひょっとしてトビーさん、何かお悩みなのですか??』という言葉が連続で届けられてきた。


 普段は格闘技の話題に終始している美月がこのような流れにもってきたから、柚子に心配をさせてしまったのだろう。美月は溜息をこらえつつ文面をこしらえた。


『そういうわけじゃないんだけどね! あのさ、ゆずちゃんに答えられる範囲で答えてもらえる?』


『はい! なんなりと!』


『蜂須賀さんって、どういう女の子?』


 ポンポンと返ってきていた言葉が、そこで止まった。

 しかし美月が心配するより早く、また受信のメロディが鳴る。


『見たまんまの女の子です\(^o^)/』


 美月はきょとんとしてしまった。

 それから、不安げにこちらを見つめている宏太を振り返る。


「えー、リサーチの結果を発表します」


「は、はい! お願いします!」


「……見たまんまの女の子だそうです」


 今度は、宏太がきょとんとすることになった。


「あ、あの、これだけやりとりして、わかったのはそれだけっすか?」


「何よー、何か不満なの?」


「だ、だって、見たまんまって言われても……ただいつでも不機嫌そうなやつだな、としか……」


「だから、いつでも不機嫌な女の子ってことなんじゃないの? 恋人としておつきあいするのは、ちょっと大変かもね」


 美月がそのように答えたとき、またメッセージを受信する音色が響いた。

 見てみると、『きゃあー!』の一言しか書き込まれていない。

 それからすぐに新たな画像が届けられてきて、それを目にした美月も思わず驚きの声をあげてしまいそうになった。


 さきほどと同じ場所、九条レオナの家のキッチンで、人間が一人だけ増えている。浅黒い肌をして、黒い瞳をきらきらと輝かせたその人物は――美月の記憶に間違いがなければ、アリースィ・ジルベルトその人であるはずだった。


 アリースィは、九条レオナと肩を組んで、こちらに向かってピースサインを送っていた。九条レオナは困り果てた様子で微笑んでおり、黒縁眼鏡の友人は不機嫌そうにその姿を見守っている、という図だ。


『な、なんでアリースィがまだ日本にいるの? ていうか、どうして九条さんの家に??』


『ちょっとワケアリなのです! 驚きのあまり画像を送ってしまいましたが、他言無用にてお願いいたしまする(m´・ω・`)m 』


 どのようなワケが生じると、アリースィ・ジルベルトがかつての対戦相手の自宅のキッチンに出現することになるのだろうか。

 美月は溜息をつきながら、携帯端末をしまい込むことにした。


「あ、あれ? もうリサーチは終了っすか?」


「うん。何だか取り込み中みたいだし。いっぺんにあれこれ聞いたらあやしまれちゃうだろうしね。……それとも事情を打ち明けて、本格的に色々と聞いてみる?」


「いや! 向こうのジムでこんな話が広がったら、俺は試合にも集中できなくなっちゃうっすよ! たしか『シングダム』でも『G・ネットワーク』に所属してる野郎の選手はいたはずですし!」


「だったら焦らず、地道に関係を築いていくしかないんじゃないかなー」


 美月は氷の溶けたオレンジジュースを一口だけすすった。

 宏太はしょんぼり肩を落としてしまっている。


「だけど、この先あいつと顔をあわせる予定なんてひとつもないんすよ。だから連絡先を交換しようと思ったのに、それも断られちゃったし……」


「だったら、試合でも観に行ったら? 試合の前後で挨拶とかできるでしょ?」


「ええ? でも、女子オンリーの興業を観に行くようなやつなんて周りにいないし……さすがに一人じゃ肩身がせまいっすよ……」


「エマちゃんとかあかねさんがいるじゃん。……ああ、あの二人にはバレたくないのか」


「はい! あの二人だけは、絶対ダメです!」


「そもそもエマちゃんは試合観戦なんかにつきあってもくれなそうだしね。……そんなら、あたしがつきあおっか?」


 そろそろジムに向かう時間だなあと考えながら、美月は何の気もなしに言った。

 すると宏太は、驚愕の面持ちで「マジっすか!?」と身を乗り出してきた。


「だ、だけど、キックの興業っすよ? 柔術オンリーのトビーさんは興味ないっすよね?」


「興味がないことはないよ。まあ、エマちゃんとあかねさんの試合ぐらいしか観たことないけど」


「……俺なんかのためにわざわざ時間をつぶしてくれるんすか? 試合会場が東京だったら、片道一時間以上もかかるのに……」


「そんなしょっちゅう試合があるわけじゃないでしょ? 宏太がそこまで思いつめてるなら、それぐらいつきあうよ」


 それに、蜂須賀乃々美が出場するなら、柚子たちも観戦に来るかもしれない。柚子は面白い娘なので、美月ももっと交流を深めたいなと考えていたところであったのだ。

 すると宏太は美月のことをまじまじと見つめてから、やがて言った。


「なんか、感動しちゃいました……トビーさんって、ほんとにいい人なんすね!」


「ふーん。悪い人だとでも思ってたの?」


「悪い人だと思ってたら、こんな相談なんてしてないっすよ! ……俺、トビーさんと仲良くなれてよかったっす!」


 そう言って、宏太は心の底から嬉しそうに笑顔をこしらえた。

 何だか不意打ちをくらった気分で、美月はドギマギしてしまう。


(……蜂須賀さんにも、そういう顔を見せてあげればいいんじゃないかな)


 それで駄目なら、向こうに人を見る目がなかったということだ。

 そのように思えるぐらい、宏太の笑顔は魅力的で可愛らしかった。

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