03 一日体験入門
その日の放課後である。
レオナたちは、けっきょく咲田桜なる素っ頓狂な後輩を『シングダム』まで招くことになってしまった。
むろん、彼女の常識外れな提案を無条件で受け入れたわけではない。自分たちはいったいどのように対処するべきか、景虎たちの知恵を拝借したいという意味合いのほうが大きい。普段からお世話になりっぱなしである先輩がたにこのような相談を持ちかけるのは心苦しさの極地であったが、もうレオナたちだけではどうにも打開するすべを見つけられなかったのだった。
「なるほどねえ。そいつはずいぶん突拍子もない事態に陥ったもんだ」
レオナたちがあらかたの事情を説明し終えると、景虎はそのように述べながら笑っていた。笑ってもらえるだけ、ありがたい話である。
時刻は午後の四時過ぎで、トレーニングルームではいつものメンバーが自主練習に取り組んでいる。景虎はタオルで頭をかき回しながら、その場に居並んだレオナたちの姿を見回してきた。顔ぶれは、レオナ、柚子、咲田桜、そして亜森の四名だ。
「まず、最初にはっきり言わせてもらうけど、部外者を相手にした勝負事に、ジムのスペースを貸し出すことはできないからね?」
「はい。それは重々承知しています」
「それならけっこう。……ただし、柚子も九条さんも大事なジム仲間だ。なおかつ、二人の事情をわきまえた上で試合の出場を持ちかけたあたしらも、知らんぷりをすることはできないだろう。だからまあ、二人のほうで異存がないなら、勝負の場を整えてやらなくはないよ」
「勝負の場、と申しますと?」
「まず前提条件として、その娘さんには一日体験入門でもしてもらうしかないだろうね。そうでないと、まずこのジムで身体を動かす資格さえ発生しないんだからさ」
「一日体験入門っすか! いいっすね!」
咲田桜は、きらきらと瞳を輝かせている。残りの三名が脱力している分、生気を吸い取られているような心地である。
「それであたしがその娘さんの適性ってやつを見定めさせてもらって、それに即したスパーリングの形式を提示させてもらう。そのスパーリングの勝ち負けに何を賭けようが、そいつはあんたがたのご自由にって寸法さ」
「いいじゃないっすか! あたしは柔術でもMMAでも何でもオッケーっすけどね!」
「おいおい、さすがに未経験の人間に打撃有りのスパーはさせられないよ」
「経験っすか。いちおうキックボクシングのジムで、一日体験入門ってのをさせてもらった経験はあるっすけどね」
この発言には、レオナたちも大いに驚かされてしまった。
「さ、咲田さん。あなた、そのようなことは一言もおっしゃっていなかったですよね?」
「聞かれなかったから言わなかっただけっすよ。一日こっきりの体験入門でしたし」
咲田桜は、しれっとした顔でそう言った。
景虎は、「ふむ」と四角い下顎を撫でさすっている。
「それで柔道は初段の腕前だったっけ? ちょいと聞くけど、あんたはもとからMMAに興味があったのかい?」
「興味っていうか、試合の放送を見始めたのはここ一、二年っすかね。それで去年の年末に『ヴァリー・オブ・シングダム』の試合を拝見して、びびっときちゃったんすよ! 『マスクド・シングダム』って選手があまりにかっこよかったんで!」
そのように答えながら、咲田桜はいっそうにこにこと微笑んだ。
「だから、景虎さんの試合も何度か拝見してるっすよ! この前の『NEXT』の試合はすごかったっすね! お会いできて、光栄っす」
「そいつはありがとさん。……だったらいっそ、正式に入門でもしてくれたら嬉しいのにねえ。そうしたら、九条さんたちと好きなだけスパーをできるよ?」
咲田桜は「いやいや!」と慌てた様子で手を振った。
「自分でも薄々そっちのほうが利口なんじゃないかと思ってたとこなんすから、誘惑しないでほしいっす! あたしは初志を貫徹させていただくっすよ!」
「どうして利口だと思う方向に向かわないのか、あたしにはさっぱりわからないねえ」
レオナにも、それはさっぱりわからない。この咲田桜という娘は、ただ意固地になっているだけなのではないだろうか。
「……あの、咲田さん」
「はい。何すか?」
「『シングダム』での練習は、とても楽しいですよ」
「だから、誘惑するなって言ってるじゃないっすか! あたしとの勝負から逃げようったって、そうはいかないっすよ!」
「だって、あまりに不毛ではないですか。どうせあの学園で柔術同好会の設立なんて認められないでしょうし」
「先輩がたのそういう姿勢が、なんかシャクにさわるんすよ! やる前からうじうじ文句ばっかり言わないでほしいっすね!」
そもそもレオナたちはそんな同好会の発足など求めてはいないのだから、文句を言いたくなるのが道理である。
そして、そんな無茶な真似は事前に止めてあげるのが親切というものであろう。あの学園で下手なことをすれば、きっと彼女だって経歴に大きな傷をつける恐れがあるはずだった。
(何にせよ、最優先で守るべきは遊佐さんの立場だからな)
そのように考えながら、レオナはかたわらにたたずんでいる柚子の表情を盗み見た。
柚子は昼休み以降、ずっと便秘のウサギみたいな面持ちになってしまっている。この騒ぎがどのような終局を迎えるのか、不安でたまらないのだろう。その向こうでは、亜森も口惜しげに唇を噛んでいた。
柚子に比べれば、レオナなどはまだまだマシな立場であるのだ。レオナにとってのデッドラインは「以前の荒んだ生活が露見すること」であるので、今回の騒ぎがどう転んでも、その秘密が暴かれる恐れはあまりない。たとえ学園内で『マスクド・シングダム』の正体が露見しようとも、柔術同好会などが発足されようとも、そこからレオナの過去の経歴までにはなかなか到達し得ないはずだった。
しかし柚子は、それよりも不安定な立場にあった。学園内で何かおかしな騒ぎに巻き込まれれば、それは家族との不和に直結してしまう。たとえ遊佐家の秘密が守られたとしても、姉を怒らせるだけで、柚子は非常にまずい立場に立たされてしまうかもしれないのだ。
(それを引き金にして、『シングダム』での活動にまでケチをつけられたら、たまったもんじゃないもんな。何としてでも、それだけは阻止しないと)
レオナがそんなことを考えていると、景虎が「で、どうするね?」とうながしてきた。
「そもそも九条さんたちにその勝負ってやつを受ける気持ちがないんなら、一緒にこの頑固な娘さんを説得できるように頭を悩ませようじゃないか」
「あたしは絶対、説得なんてされないっすよ! 景虎さんはいったいどっちの味方なんすか!?」
「そりゃあもちろん、可愛い後輩たちの味方だけど」
「あ、そりゃそうっすよね。……とにかくあたしは、気持ちにけじめをつけたいだけなんすよ! ほんとは九条先輩や遊佐先輩とは仲良くなって色んな格闘技話をしたいんすから、こんな面倒事はちゃっちゃと片付けてほしいっす!」
「面倒事を持ちかけてきた当人がそれを言うかね」
なんだか景虎は、咲田桜の相手をするのがとても楽しそうだった。景虎ぐらいの人生経験があれば、こんな素っ頓狂な娘の言動を面白がるゆとりも生まれるのだろうか。
とにかくレオナは、柚子の気持ちを最優先したい。そのように思って、もう一度かたわらを振り返ると、柚子は「わかりました」と宣言した。
「その条件で、やってみます。いっつもご迷惑ばかりかけちゃってごめんなさい、トラさん」
「気にすることないさ。あんたや九条さんに責任のある話じゃないんだろうし」
その言葉に、ずっと無言でいた亜森が肩を震わせる。
「すべては、わたしの責任です。このようなご面倒をおかけすることになってしまい、心から申し訳なく思っています」
「ああ、もともとのきっかけはあんたが制服姿で観戦に来たことなんだっけ。あんたも難儀な立場に立たされちまったもんだねえ」
亜森と景虎は、石狩エマ襲来の際に一度だけ顔をあわせている。なおかつ、レオナたちとの関係性の変移についても、一通りは説明させてもらっていた。
「ま、こうなったらなるようにしかならないだろ。あんたも見学していくのかい?」
「はい。それが許されるのでしたら」
「見学希望者を追い返すような真似はしないよ。なんなら、あんたも体験入門してみるかい?」
「い、いえ、わたしはその、いまだに試合を観戦するだけで目眩を起こすような人間ですので……」
「ますます難儀だね。それじゃあ、邪魔にならなそうなところで座っておいておくれ」
そうして景虎は、あらためて咲田桜のほうを振り返った。
「さて。それじゃあ、ようこそ『シングダム』に。体験入門の手続きをしておくから、あんたは着替えてくるといい。柚子、案内をよろしくね」
「は、はい!」
景虎と亜森をその場に残し、レオナたちは更衣室に移動することになった。
自分の要望があらかた受け入れられることになり、咲田桜は一人で上機嫌である。
「いやー、景虎さんって懐が深いんすね! ふざけんなーとか怒鳴りつけられて、ジムから追い出されるぐらいの覚悟はしてたんすけど!」
「……ちなみに、その場合はどうするおつもりだったのですか?」
「んー? そりゃまあ、あたしの通ってた町道場あたりで決着をつけるしかなかったんじゃないっすかね。町道場の先生は父親の古い友達なんで、それぐらいの融通はきかせてくれるでしょうし」
それならば、『シングダム』で決着をつけられたほうが、まだしも幸いであった。
それにレオナは、ほんの少しだけ心が軽くもなっていた。景虎はああ見えて規律や道理というものを非常に重んじる気性であるし、また、遊佐家の裏事情についてもきちんとわきまえている。景虎があのような提案をしたということは、どう転んでも柚子が不幸な目にあうことはないという算段が立っているのだと信ずることができた。
「……ここが更衣室だよ。空いてるロッカーを適当に使ってね」
柚子の言葉に「押忍!」と応じて、咲田桜はブレザーの制服を脱ぎ捨てていく。その下から現れたのは、スレンダーながらも非常に鍛え込まれた肉体であった。
無駄肉などは、一片も見当たらない。柔道家というよりは、陸上競技の選手みたいに引き締まった身体つきだ。ただ、さすがに肩から背中にかけては、かなりの逞しさが感じられる。
「咲田さん、つかぬことをおうかがいしますが、身長と体重はいかほどで?」
「はい、あたしは百六十センチジャストで、五十四キロぐらいっすよ」
「なるほど。見た目よりは体重もあるのですね。柔道家というのは、みんなもっとがっしりとしているイメージでした」
「見た目より重いとかひどいっすよー。あたしだってお年頃なんすからー」
けらけらと笑いながら、咲田桜は学校指定のショルダーバッグを開封した。その中に詰め込まれていたのは、柔道着を始めとするトレーニングウェアの一式だ。
「九条先輩は、百七十四・五センチの五十六・五キロでしたっけ? あたしより十五センチ近くも背が高いのに二キロぐらいしか変わんないっすねー。でも、あれは試合だからウェイトを絞ってたんすか?」
「……どうしてそんなこまかい数字まで記憶しているのです?」
「だって、『NEXT』の試合は何十回もヘビロテしましたもん! それぐらい、あの試合はあたしにとって衝撃的だったんすよー」
レオナは溜息をつきながら、自分も着替えを進めることにした。
インナーシャツとスパッツまでを身につけた咲田桜が柔道着にまで手をのばすのを見て、柚子は「あ」と声をあげる。
「咲田さん、きっと打撃の腕前とかも見てもらえるんだろうから、柔道着まで着ちゃうと邪魔じゃないかな?」
「えー? だけど、スパッツ姿じゃ恥ずかしいっすよー。奥のほうには男の人とかもいたっすよね?」
「うん、別に女子限定の練習時間じゃないからね」
「だったら、下だけでも穿かせていただきます。柔道着を着てたってサンドバッグぐらいは蹴れるっすよ」
お年頃の娘さんとしては、これが一般的な反応なのであろう。ちなみに『シングダム』のMMA女子メンバーでは、柚子と景虎とアリースィがスパッツ派で、レオナと伊達がハーフパンツ派であった。わりとそれで明白に、グラップリングとストライキングのどちらを重んじているかが示されている。
「荷物を入れたら、カギをしめてね。小さなバッグとかがないなら、あたしがカギを預かるけど」
「ありがとうございます! 遊佐先輩って親切っすねー」
着替えを済ませて、スポーツタオルを首に引っ掛けた咲田桜が、柚子にロッカーのカギを差し出してくる。それを受け取りながら、柚子も溜息をついていた。
「……大丈夫ですか、遊佐さん?」
レオナがこっそり呼びかけると、柚子は「うん」と力なくうなずいた。
「これがただの入門希望者だったらウッキウキなのになー。なんでこんなことになっちゃったんだろ……」
「……心中お察しいたします」
「あ、ううん。あたしだって、自分の判断でこういう生活を選んだんだからね。泣き言を言う前に、自分できっちり始末をつけないと」
柚子は自分を元気づけるように、小さくガッツポーズを作った。
練習中に負傷をして、クラス替えではレオナや亜森と引き離されて、それで今度はこの騒ぎである。どうもここ最近の柚子は、不運に見舞われることが多いように感じられてしまう。レオナは何だか不憫な気持ちになってきてしまったので、柚子の頭を軽く撫でておくことにした。
「あ、え、何かな?」
「いえ、他意はありません」
レオナもロッカーにカギをしめ、いざ準備は整った。
そうしてトレーニングルームに戻ってみると、そこには景虎ばかりでなく伊達とアリースィまでもが顔をそろえていた。さきほどまでスパーをしていた両者は、すでに汗だくである。
「紹介しておくよ。こっちが伊達和樹で、こっちがアリースィ・ジルベルト。柚子と九条さんとあたしを含めて、これがうちのジムの女子MMA部門のフルメンバーさ」
「ほえ? 似てるなーって思ってたけど、この人、アリースィさんだったんすか!? でも、アリースィさんの所属はお父さんの道場っすよね?」
「うん。いまはにほんでむしゃしゅぎょうちゅう」
アリースィはいつも通り、屈託なく微笑んでいた。
そのかたわらで、伊達は不機嫌そうに顔をしかめている。
「おい。言っておくけど、手前らの事情なんて知ったこっちゃねえからな。ここで喧嘩まがいのスパーなんざしたら、まとめて外に放り出してやるぞ?」
「九条さんと喧嘩まがいのスパーをしたあんたが言うかね。……ま、カズの言った通り、あたしらはあくまで体験入門の希望者として扱うことしかできないから、こっちの指示に従えないようなら、その場でお帰りいただくしかないよ」
「了解っす! 今日はよろしくお願いします!」
「それじゃあまずは、ウォーミングアップだね。また後で声をかけさせてもらうから、カズとアリースィは自分の練習に戻っておくれ」
景虎の指示で、レオナと柚子もウォーミングアップに取りかかる。
さしあたってこの段階で判明したのは、咲田桜が非常な柔軟性と、スポーツ選手として恥ずかしくないだけの体力を備えている、というぐらいのことだった。
レオナもこれで、もう七ヶ月以上は『シングダム』に通っている。その間に、ダイエットや体力作りや趣味の一環として入門をしてくる新人ジム生を何名か迎えることになったのだ。そういった人々が、ウォーミングアップだけでへとへとになっている姿を見て、世の人々がいかに脆弱であるかを思い知らされたのだった。
(きっと遊佐さんも、入門当初はそんな感じだったんだろうな)
しかしその柚子も、あと二、三ヶ月で『シングダム』でのキャリアは丸二年に達するのだという。その期間、プロ選手と大差のない練習時間を注いできたのだから、少なくとも体力面においては誰にも恥じないレベルに達しているはずだった。
「柚子、右肘の調子はどうだい?」
景虎が声をかけると、柚子はひさびさの笑顔で「はい!」と応じた。
「やっぱり筋力は落ちちゃいましたけど、違和感とかはまったくありません! テーピングでがっちり固定してますしね!」
「うん、無理だけはしないようにね。肘をかばって別の場所を痛めないとも限らないからさ」
「はい、わかりました!」
柚子が練習を再開したのは一週間前で、本格的なスパーまでもが許されたのは昨日からだ。その右肘には、まだ厳重なるテーピングがほどこされている。靭帯の損傷というのは厄介なものなので、筋力が戻るまで無理は禁物であるはずだった。
「さて、それじゃあ咲田さんの腕前を拝見しようかね。まずはサンドバッグでも叩いてみるかい?」
「はい! 数ヶ月ぶりなんで、楽しみっす!」
拳用のサポーターとパンチンググローブ、それに柔道着の下にはニーパッドとシンガードを装着させられて、咲田桜はサンドバッグの前に立った。
「最初は軽くね。キックのジムで習ったっていうお手並みを見せておくれよ」
「了解っす!」
咲田桜はグローブを顎の下でかまえて、左足を引いた。
なかなかサマになっている立ち姿だ。
が、柚子は「あれ?」と小首を傾げていた。
「咲田さんって、左利きなの?」
「いえ、右利きっすよ。……あ、柔道では右足を前に出してたから、立ち技でもこっちのほうがしっくり来るんすよね」
「へー、レスリングだけじゃなくって柔道でも利き足を前に出すもんなんだね。それは知らなかったよ」
「ああ。だから柔道家あがりのMMA選手にも右利きサウスポーって選手が多いんだよ。まあ、やりやすいようにやればいいさ」
景虎の言葉に「押忍!」とうなずき、咲田桜はあらためてサンドバッグと向かい合った。
その右拳が、ぽんと軽くサンドバッグを打つ。綺麗なフォームの、右ジャブだ。
さらに何回かジャブを放ち、最後に左のストレートを放つ。
「あの、あたしはパンチのほうが得意だったんで、しばらくパンチで続けていいっすか?」
「うん、お好きにどうぞ。感覚がつかめてきたら、おもいきり殴ってみな」
景虎の了解を得て、咲田桜は次々と攻撃を放っていく。
一日の体験入門で習っただけというのなら、上出来の部類だろう。特に右フックなどは力強くて、響く音色も小気味がよかった。
「ちょいと肩に力が入ってるね。素早く拳を戻すことを意識してみな」
「押忍!」
咲田桜は楽しげに、サンドバッグを殴り続けた。
サンドバッグを吊るした鎖が、キシキシと軋んでいる。
柚子は「ほえー」と感心したような声をあげた。
「すごいなー。あたしなんかより、よっぽど破壊力がありそう!」
「それはまあ、ウェイトが違いますからね」
柚子の体重は、いまだに四十八キロから四十九キロの間を行き来している。五キロばかりも体重が違えば、破壊力に差が出るのも当然のことだった。
「いいね。さすがに体幹がしっかりしてるよ。できれば、蹴り技も見せてもらえるかな?」
「蹴りは、ほんとにお粗末っすよー」
そのように述べながら、咲田桜はわずかに身を引いた。
奥足からの左ミドルが、ばしんっとサンドバッグに叩きつけられる。
体重移動や腰のひねりに、若干の微調整が必要であろうか。
ただ、バランスはきっちり取れているし、何より素人とは思えないほど勢いがある。これをお粗末と自己分析できるだけ、大したものであるように思われた。
「あ、あと、膝蹴りってのをほめられたんすよね! こう、相手の頭を抱え込んで、下から突き上げるような感じのやつを」
「ふむ。それじゃあ、そいつも見せていただこうか」
景虎が、壁の棚からキックミットを取り上げた。長方形で、左右の腕に一つずつ装着できる、蹴り技を受けるための器具である。
それを装着した景虎は、自分の腹部を抱え込むような格好で咲田桜の前に立った。
身長は大差のない両者である。咲田桜は「失礼します」と言って景虎の頭を両手で抱えると、柔道着に包まれた右足を振り上げた。
どむっ、と重い音色が響く。
腹部に直撃したら悶絶させられそうな音色だ。
「全力でかまわないよ。何発か撃ってみな」
「押忍!」
どむっ、どむっ、どむっ、と一定のリズムで膝が突き上げられる。すべてが、右膝による攻撃だ。
それが十発ほどに及ぶと、景虎は「オッケー」と声をあげた。
「首の引きつけが強いね。さすがは柔道家だ。パンチも膝蹴りも、引きの強さが破壊力につながってるんだと思うよ」
「押忍! 恐縮っす!」
「……あのさあ、咲田さん。学校で柔術同好会って話も楽しそうだけど、うちのジムで本格的にMMAに取り組んでみる気はないのかい?」
「ぬわー! ですから、誘惑しないでくださいってば!」
「誘惑ってか、勧誘だよ。あんた、間違いなく打撃技のセンスがあるよ。普通は一日こっきりの体験入門でここまでのもんは身につけられないはずさ」
咲田桜はきわめて困惑の面持ちになりながら、上目づかいで景虎を見返した。
「そんなこと言って、先輩がたとの勝負をあきらめさせようっていう魂胆なんじゃないっすかー? あたし、おだてに弱いっすから、そういう作戦は卑怯っす!」
「本心を語ってるだけだから、卑怯呼ばわりされる筋合いはないねえ」
景虎は苦笑しながら、後方を振り返った。
ちょうどスパーリングに一区切りがついたようで、伊達とアリースィが水分補給をしている。景虎は、そちらに「おおい」と呼びかけた。
「アリースィ、ちょいとお願いがあるんだけどね」
「うん、なあに?」
「この娘さんに、軽く柔術の手ほどきをしてもらえるかい? 柔道とのルールの違いとか、寝技の基礎技術を教えてあげてほしいんだよ」
「うん、いいよ。ギ? ノーギ?」
「ギだね。いきなりノーギじゃ、咲田さんも不自由だろうからさ」
ギというのは柔術衣を着用、ノーギというのは着用せずという柔術用語だ。アリースィは、軽い足取りで更衣室のほうに引っ込んでいった。
「いよいよ柔術っすか! 腕が鳴るっすね!」
「それじゃあ、咲田さんも自前の道着を───あ、よかったら、うちの柔術衣を貸し出そうか?」
「はい? 自前の道着だと問題でもあるんすか?」
「柔術衣と柔道着ってのは、ちょいと作りが違ってるんだよ。柔術ってのは寝技重視の競技だから、それに適した形に作られてるのさ」
「そうなんすか! とりあえずは自前の道着で挑ませていただきたいっす!」
ということで、咲田桜も柔道着を着用することになった。
無地で真っ白な柔道着に、黒い帯が映えている。そうしてきちんと柔道着を纏うと、彼女は三割増しで力強く見えた。
いっぽうアリースィは、ワッペンだらけの黒い柔術衣だ。柔術衣は柔道着よりも薄手の生地で、手足も細身に作られているので、ずいぶんシャープな姿に見える。なおかつアリースィは、咲田桜よりも八センチほど長身であった。
「おい、アタシの相手を取り上げるんなら、代わりにアンタが相手をしなよ」
と、伊達がレオナの眼前に立ちはだかる。
アリースィは涼しい顔をしていたが、伊達のほうは呼吸が荒かった。伊達は現在、階級を下げるべく厳しい減量に取り組んでいるさなかなのである。
「練習のお邪魔をしてしまって申し訳ありません。私で伊達さんのお役に立てるのでしょうか?」
「そんなのはアンタ次第だろ。申し訳ないと思ってるなら、全力で役に立ちやがれ」
咲田桜の観察は柚子に託し、レオナは伊達の練習につきあうことになった。
リングの上では、乃々美と晴香が激しいスパーに取り組んでいる。乃々美は来月から始まるプロとしての公式戦に向けて、誰よりも闘志に燃えているさなかであったのだ。伊達は伊達で階級を変更した上で、今度こそプロに昇格するという意気込みであるし、そんな中で個人的な面倒ごとをジム内に持ち込んでしまったレオナは忸怩たる思いであった。
「アタシが下で、ガードからな。三分三ラウンド、インターバルは三十秒だ」
「ずっと伊達さんが下なのですか?」
「ガードからの反撃が今の課題なんだよ。黙って役に立てよ、大女」
「…………」
「何だよ、文句でもあんのか?」
「いえ、減量で気が立っているのは承知していますが、やっぱり大女呼ばわりは悲しいです」
「うるせえな! 気の抜けること言ってんじゃねえ!」
備えつけの電子時計のタイマーをセットしながら、伊達がとげとげしい視線をぶつけてくる。
「……で、どうなんだよ? あのヘラヘラした餓鬼を返り討ちにできるんだろうな?」
「それはまあ、全力で取り組ませていただく所存ですが」
「全力だろうが手抜きだろうが、負けちまったら柚子がやべえことになっちまうんだろ? どんな手を使ってもいいから、ぶちのめせ!」
言葉の内容は不穏であるが、それも柚子の身を思いやっているゆえなのだろう。レオナは精一杯の気持ちを込めて、「はい」とうなずいてみせた。
振り返ると、柚子は亜森の隣に並んで座り、咲田桜とアリースィの取っ組み合いを真剣な眼差しで見つめている。
レオナと柚子が最初から亜森と相互理解できるように努力していれば、このような騒ぎにはなっていなかったのだ。だからこれは、レオナたち三名に等しく責任のある話であるはずだった。
(もちろん反則なんかはしないけど、それ以外でだったら、どんな手を使ってでも勝ってみせるさ)
そのような思いを新たにしながら、レオナは伊達と向かい合った。
決着の時は、もう数十分後に迫っているはずだった。
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