epilogue
約束
「それじゃあ本当にお世話になりました! エマちゃんは、あたしたちが責任をもって連れ帰りますので!」
練習試合を終えてから数十分後、着替えを済ませた石狩エマは『横須賀クルーザー・ジム』の面々に引きたてられて、ジムの外に連れ出されていた。
年季の入ったフライトジャケットに膝のぬけたジーンズという元の格好に着替えた石狩エマは、ひっつめていた栗色の髪も自然に垂らして、背中にはナップザックと寝袋を背負っている。ぶすっとした顔でポケットに両手を突っ込んでおり、いつも通りの横柄な態度ではあったが、その目もとにはほんの少しだけ泣きはらしたあとが見て取れた。
「後日、会長やコーチからも正式にお詫びをさせていただきます。黒田会長に九条さん、本当にありがとうございました」
そのように声をあげているのは、飛川美月である。
黒田会長は「いやいや」と笑顔で手を振っている。
「こちらもいい経験をさせていただいたよ。ただ、これからは事前に連絡をよろしくね。練習試合の申し入れ自体は大歓迎だから」
「はい、ありがとうございます!」
飛川は深々と頭を下げ、石狩エマの頭はアベリィ・グリーンの手によって力ずくで下げられた。規格外の身体能力を持つ彼女でも、一回りは体格の違うアベリィ・グリーンが相手では分が悪いようだった。
その間に、他のメンバーもひそやかに別れの挨拶を交わしている。
「あたしも今年からは色んな興業に顔を出すつもりなんで、どこかで当たったらよろしくお願いします」
「あ、そうなんだ? そのときはお手柔らかにね」
そのように話していたのは、晴香と桐ヶ谷あかねだ。体重の近い彼女たちは、公式試合で当たる可能性が高いのだろう。
「何だよ、お前も『G・ネットワーク』のプロテストを受けんのかよ。しかも三月って、日取りまで俺と一緒じゃん」
「うるさいな。僕は三月生まれだから、誕生日を過ぎるまで受けられないってだけの話だよ」
乃々美は、沼上宏太と喋っている。奇しくも両者は同じ日にプロテストを受けるようだ。
そんな中、黒田会長と相対していた飛川の前に、柚子がぴょこんと進み出る。
「あたしたちは、二月の大会ですよね! 帯の色が違うから対戦はしませんけど、トビーさんに会えるのを楽しみにしてます!」
「うん、おたがい優勝できるように頑張ろうね」
「シロ、アオ、ムラサキのユウショウを、このサンニンでカザりたいね」
アベリィ・グリーンもその輪に加わった。
実に和気あいあいとした雰囲気である。
昨日は敵は今日の友───というよりも、非友好的であったのは石狩エマただひとりであったのだから、これが当たり前の光景であるのだろう。
そんな中、石狩エマはさりげなく身を引いてその輪から遠ざかろうとしている。
ジム仲間に迷惑をかけてしまったのが気まずいのか、単に集団行動が苦手なのか。そんなことはわからなかったが、これはチャンスだと思い、レオナはこっそり石狩エマに声をかけることにした。
「石狩さん、どうもお疲れさまでした」
「ふん!」と石狩エマはたちまちそっぽを向いてしまう。
最後の右フックで左頬が少し赤くなってしまっていたが、それ以外は元気そのものであるようだ。
「まったく大した頑丈さですね。私などは右肘や右肩を痛めてしまって、しばらくは稽古に支障が出そうなぐらいなのですが」
「そんなん、自爆だろ! 勝ったほうがウダウダ言ってんじゃねーよ!」
「そうですね。ルール上は、私の勝ちです」
石狩エマが、キッとレオナをにらみつけてくる。
こちらの様子に気づいた柚子や飛川は、ちょっと心配げな面持ちでこちらを見ていた。
「石狩さん、ひとつご提案があるのですが」
「うっせーな! これ以上、何の文句があるってんだよ?」
「文句ではなく、ご提案です。……石狩さんも、MMAの稽古を始めてみませんか?」
不機嫌そうに光っていた石狩エマの目が、きょとんと丸くなる。
それにはかまわず、レオナは言葉を重ねてみせた。
「私はこれからも、MMAを主軸にしていくつもりです。そのMMAでも、石狩さんと対戦してみたくなってしまったのですよ。……如何でしょうか?」
「如何もへったくれも、何でウチが寝技の稽古なんかしなきゃならねーんだよ? あんたはあれだけ強いんだから、あんたがキックに転向すりゃいいじゃん!」
「だけど私は、キックでは公式試合に出られないのですよ。どんなに稽古を積んだって、キックでは練習試合ぐらいしか行うことができません。それでは、つまらなくないですか?」
「だから、そういう問題じゃ……!」
「あなたとはこれからもできるだけ数多く試合をしてみたいと思ってしまったんです。おたがいがキックとMMAの稽古を積めば、それだけ試合をする機会も増えるではないですか?」
石狩エマは口をつぐみ、レオナの顔をじろじろとにらみ回してきた。
「……あんたは二回もウチに勝ったんだから、これ以上やりあう理由なんてないんじゃねーの?」
「そんなことはありません。あなたは色々な面で私を上回っていました。あなたと私では本当に強いのはどちらなのか、もっともっと試し合わなければ、確かなことはわかりませんよ」
言いながら、レオナは一歩だけ石狩エマに詰め寄ってみせた。
「そしてそれ以上に、私はあなたの素行が心配なのです。もしもあなたがジムを退会させられてしまったら、もう公式でも練習でも一切やりあうことができなくなってしまうではないですか? 私は絶対に、路上の喧嘩などであなたとやりあう気持ちはないのですから」
「…………」
「もしあなたにも、私ともっと力を試し合いたいという気持ちがあるのなら、身をつつしんで、稽古に励んでください。あなたと試合をできなくなってしまうのは、私は絶対に嫌なのです」
「何だよそれ。勝手なことばっか言いやがって……」
石狩エマは目を伏せて、細長い指先で鼻の頭をかいた。
その子供っぽい仕草を見て、レオナは思わず口もとをほころばせてしまう。
「私は二回も勝ったのですから、少しぐらいは自分の都合を主張しても許されるでしょう? 私と試合をするために、荒っぽい生活を改めてください。そして、できればMMAの稽古も始めてください」
「そうだよ! MMAの話はともかく、また何か騒ぎを起こしたら、今度こそ本当にクビになっちゃうかもしれないんだよ? 門倉さんだって、頭を抱えてるんだから!」
と、飛川がいきなり横合いから石狩エマの腕をひっつかんできた。
ちょっと柚子と似たところのある丸っこい目でじっと見つめられ、石狩エマはぼりぼりと頭をかきむしる。
「私との試合は、路上での喧嘩よりも退屈でしたか? そうだとしたら、私はとてもショックです」
ここぞとばかりにレオナがたたみかけると、石狩エマは「ああもうわかったよ!」と怒鳴り散らした。
「そんなにリベンジされたいんなら、お望み通りにぶちのめしてやるよ! キックでもMMAでも絶対てめーなんかに負けねーからな!」
「大きく出ましたね。MMAなら、私に一日の長ありですよ?」
ほっとして、レオナはまた笑ってしまった。
それを見上げながら、飛川も「ありがとうございます」と笑顔を差し向けてくる。
「本当にエマちゃんが九条さんと出会えてよかったです。これからもエマちゃんをよろしくお願いします」
「よろしくって何だよ! よろしくぶちのめせってことか?」
「うるさいよー。本気で寝技に取り組むつもりなら、あたしやアベリィも先生だからね?」
その飛川の無邪気な笑顔を見て、レオナはようやく安心することができた。
石狩エマと再戦したいというのは、本心だ。
同年代で、同じような体格をしていながら、彼女はさまざまな面でレオナを上回っていた。彼女と自分で、本当に強いのはどちらなのか。レオナは、それを知りたいという強烈な欲求にとらわれてしまったのである。
しかし、それと同じぐらいの強い気持ちで、レオナは石狩エマの身を案じていた。
彼女がジムを退会させられ、路上の喧嘩でしかその力を発揮することができなくなってしまったら、いったいどうなるのか。レオナの父親や兄のように、それを幸福と思えるのならばまだしも、石狩エマはそのような価値観では生きていない。それでも内なる衝動を抑えきれず、石狩エマが荒くれた人生を送り続けて、そうして転落してしまうことなど、レオナにはとうてい耐えられそうになかったのだった。
飛川に腕をつかまれたまま、石狩エマはレオナのことをにらみつけてきている。
闘志にあふれた、猛々しい眼光だ。
しかし、かつて路上でレオナに向かってきた荒くれ者たちのように、すさんだ目つきではない。それは試合中の服部選手や、練習に取り組む伊達や乃々美などとも変わるところのない、純度の高い炎とでも呼びたくなるような眼光であった。
(もしもあんたが羽柴塾に生まれついてたら、親父や兄貴たちとも上手くやれてたのかもな)
だけど石狩エマは横須賀に生まれついてキックボクシングの選手になり、故郷を離れたレオナは『シングダム』の門を叩くことになった。
だからこれが、正しい姿なのだ。
レオナはルールのない闘いで石狩エマとやりあいたいなどとは微塵も思わなかったし、また、そのように思うことのない自分を嬉しくも思っていた。
「……人の顔を見てにやにや笑ってんじゃねーよ」
「言いがかりです。私はにやにやなどしていません。……近所に立ち寄ることがあったら連絡をお願いしますね。私はともかく、母はずいぶんあなたのことが気にいった様子でしたので」
「ちぇっ。こんなときにおばちゃんのことを思い出させんなよ。萎えんだろ」
石狩エマはまた子供っぽい仕草で鼻の頭をかき、それを見届けた飛川が笑顔で黒田会長を振り返った。
「それじゃあ帰ります! 黒田会長、それに他のみなさんも、今日は本当にお世話さまでした。またどこかの試合会場でお会いするときは、どうぞよろしくお願いいたします」
そうして四名のジム生に囲まれながら、石狩エマは通りの向こうへと消えていった。
何とはなしにそれを見送っていたレオナのもとに、柚子と亜森が近づいてくる。
「お疲れさま、九条さん。何とか丸く収まってよかったね?」
「ええ、本当に……」と振り返ったところで、レオナは口をつぐむことになった。
柚子は空腹のウサギみたいなお顔になっており、亜森は能面のような無表情になってしまっていたのである。
「ど、どうされたのですか? 何やらお二人とも様子がおかしいようですが……」
「んー? おかしいかな? あたしはちょっと対抗心だか何だかに火をつけられちゃっただけだけど」
「対抗心?」
「うん。だって、出会って数日の石狩さんに、九条さんがずーっとにこにこ笑いかけてるんだもん!」
二人がかりで凝視されてしまい、レオナは思わず自分の頬に手を押し当てる。
「私、そんなに笑っていましたか? でも、それが何だというのでしょう?」
「何だも何も、あたしは九条さんから本気の笑顔を引き出すのに二ヶ月以上もかかったんだよ? これって、ずるくない?」
「いや、ずるいと言われましても……まさか亜森さんも、そんなお話でそんなお顔をされているのですか?」
亜森は答えず、ひたすらレオナの顔を見つめ続けている。
その黒縁眼鏡の奥に光る瞳は、不機嫌そうというよりも悲哀に満ちみちているといったほうが相応しい輝きを宿していた。
どうしよう、と思っているところに、いきなり柚子に右腕を抱きすくめられる。
「ま、いーや! 石狩さんとは当分会えないんだもんね! そろそろ帰ろうよ、九条さん」
「……お待ちください。まさか遊佐さんは、今日も九条さんのご自宅に宿泊されるおつもりなのですか?」
「うん、そーだよ? 今日も泊まって、明日一緒に初練習に行く約束をしてたの」
「大晦日から連続で四日間も宿泊するだなんて非常識です。用事は済んだのですから、遊佐さんもご自宅に戻られるべきです」
「だってー、もう約束しちゃったんだもーん」
笑いながら、柚子はレオナの肩にぐりぐりと頭を押しつけてきた。
「……やっぱり遊佐さんだってずるいです」と、亜森はトーンの下がった声音でつぶやく。
「私も早く亜森さんをきちんと家にお招きしたいです。なるべく早急に計画を立てましょうね?」
レオナとしては、そんな風に取りなすことぐらいしかできなかった。
そうしてあちこちから突きつけられてくる視線に気づいて振り返ると、『シングダム』の面々が遠巻きにレオナたちの様子をうかがっていた。
「……女子校っておっかねえんだな」
伊達の言葉に、乃々美や晴香がうんうんとうなずいている。
「誤解です」と言おうとしたが、それは黒田会長の元気な声によってかき消されてしまった。
「さあ、それじゃあ俺たちも帰ろうか。みんな、今さらだけど、今年もよろしくな?」
よろしくお願いします、という言葉が口々に交わされる。
思えば新年の挨拶を交わすよりも早く、レオナは練習試合に取り組む羽目になっていたのだった。
(まったく、とんでもない新年になっちゃったな……この先が思いやられるよ)
東京に住む神様は、レオナの願いなど黙殺する心づもりなのだろうか。
それとも、これぐらいの騒ぎは許容範囲であろうとみなしているのだろうか。
そんなことはわからなかったが、ともかくレオナの新しい一年はこうして賑々しく幕を開けることになったのだった。
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