04 竜王軒
楽しいショッピングを終えた後は、高円寺まで舞い戻り、竹千代武史の勤務するラーメン屋へと向かうことになった。
本日は紗栄子も商談があって夜遅くまで戻らないという話であったし、明日は午後からみんなでささやかなホームパーティーの準備をする予定になっていたので、この夜は手軽に外食で済ませてしまおう、という計画になっていたのだ。
それで竹千代の働くラーメン屋が選ばれたのは、単に柚子の希望であった。『シングダム』の門下生ではこの店の常連客となった人間も多いのだが、ジムから見て自宅が逆方向にある柚子は、まだ数えるほどしか訪れたことがなかったのだった。
『竜王軒』という店名の入ったのれんをかき分けて店内に足を踏み入れると、「らっしゃいませ!」という威勢のいい声に出迎えられる。その時点で、亜森などはけっこう尻込みしてしまっていた。
「こ、これがラーメン屋というものですか……なかなか独特の雰囲気ですね……」
「だいじょぶだいじょぶ。何事も経験だよ!」
当然と言うべきかどうか、亜森はラーメン屋で食事をするという行為が初体験であったのだ。
店はなかなか繁盛していたが、四人がけのテーブル席がひとつ空いていたので、そこに陣取らせていただくことにした。
「レオナの姐さん、柚子さん、らっしゃいませ! ……あ、そちらはお二人のご学友ですね?」
頭に白いタオルを巻き、腰に前掛けをつけた竹千代が笑顔でお冷を運んできてくれる。
レオナと同郷の、十七歳の若者である。かつて『羽柴塾』の門下生であった彼は、レオナを追ってこの地に移り住み、『シングダム』にまで入門を果たしたのだ。そうして現在は、この店で住み込みで働いている身であった。
「柚子さん、お怪我の具合いはいかがです? 全治二週間というお話でしたよね?」
「うん! 靭帯のほうもそんなにひどくなかったから、二月のときと変わらない感じで復帰できそうでーす」
「そいつは何よりでした」と、竹千代は屈託なく笑ってくれた。
外見上は、どこにでもいそうな男の子だ。物腰は穏やかであるし、中肉中背で、柴犬のように愛嬌のある顔立ちをしている。レオナやその父親と同様に、禁じ手なしの危険な空手道場の関係者とは思えぬような風貌であった。
「あ、姐さん! 本日は素敵なお召し物ですね! また柚子さんに見立てていただいたんですか?」
「これは店員さんのおすすめですよー。でも、素敵でしょ?」
レオナが口を開こうとしないので、代わりに柚子が答えてみせる。
竹千代は、無邪気そのものの笑顔で「はい、素敵です!」と大きな声をあげた。
「姐さんはどんな格好でも素敵ですけど、そういう格好をされると一段と素敵さに磨きがかかりますね!」
「……素敵素敵の大安売りですね。口にされればされるほど、ありがたみが失われていくかのようです」
「そいつは失礼いたしました! ……さて、ご注文は何にします? 姐さんはいつも通り、野菜ラーメンの大盛りですか?」
「……そのように先手を打たれると、別のメニューを注文したくなってしまいますね」
「そんなこと言わないで、食べたいものを注文してくださいよー」
竹千代を相手にするとき、レオナはいつもそっけない。自分の過去を知る人間と会話をするのは、気まずいのだそうだ。しかし竹千代は、それでめげるような繊細さを持ち合わせていなかった。
「竹千代くん。こちらの亜森さんは、初めてラーメンという料理を口にされるそうなのです。そんな亜森さんに相応しいメニューを、あなたに提示することはできますか?」
「ええ? そいつは責任重大ですね! ……そうだなあ、オススメなのは味噌なんですけど、そういうことなら王道の醤油とギョーザでいかがでしょう? 普通の女性でしたら、サイズは並で十分だと思います」
「なるほど。私や遊佐さんは普通の女性ではない、と」
「いい意味で、ですよ! そんなおっかない目つきをしないでくださいよー」
そんな二人のやりとりを見守っていた亜森が、「では、そちらのメニューでお願いいたします」と静かに宣言した。
「醤油の並とギョーザ一枚ですね? 承りました! 柚子さんはどうします?」
「うーんとね、あたしは味噌の大盛りとギョーザでお願いします!」
「……私はチャーハンとチャーシューの盛り合わせでお願いいたします」
「ええ!? 本当にそれでいいんですか、姐さん!?」
「冗談です。野菜ラーメンの大盛りとギョーザをひと皿お願いいたします」
竹千代は眉尻を下げて笑ってから、厨房の店員にオーダーを通した。
そうしている間にも、また新しい客がやってきている。竹千代が慌ただしく立ち去っていく背中を見送りながら、柚子は「あはは」と笑ってしまった。
「練習中じゃなくっても、九条さんとタケくんはおんなじ感じなんだねー」
「はい。なるべく抑制しようとは思っているのですが、あの呑気そうな笑顔を見せつけられると、ついつい余計な口を叩いてしまうのです」
「いいんじゃないかな! 仲がよさそうで、ちょっとタケくんがうらやましー!」
「それは大きな誤解ですね」
すました顔で、レオナはグラスのお冷を口にした。
そのクールな横顔を見つめながら、亜森が「あの」と発言する。
「あの方は、九条さんを追って上京されたのだというお話でしたよね? お二人は、その……やはり、そこまで親密な関係であられたのでしょうか?」
「それは親密という言葉の定義によるかもしれません。つきあいの長さは十年近くにも及びますが、あくまで同じ道場の門下生であった、というだけの関係性に過ぎませんし」
「十年近く……そんな昔からのお知り合いであったのですね……」
亜森は椅子の上でもじもじと手をもみしぼっている。
その内心を察することのできた柚子は、代弁してあげることにした。
「ねー、九条さんとタケくんは、もともと恋人だったりしたわけではないの?」
レオナはお冷でむせて、テーブルに突っ伏すことになった。
「ありゃりゃ。だいじょーぶ?」
「だ、大丈夫ではありません! 何がどうしてどうなったら、そのように素っ頓狂な質問が飛び出すことになるのですか!?」
今の勢いでずれてしまったキャップを頭からむしり取り、レオナが怖い目でにらみつけてくる。
「えー? だって、まだ十七歳なのに故郷を捨てて後を追いかけてくるなんて、ちょっと普通じゃない熱意でしょ? しかもタケくんは、高校まで辞めてきちゃったんだよね?」
「彼は、浅はかで直情的な人間であるだけです。というか、普段の私たちの姿を見ていれば、そのような関係でなかったということも明白でしょう?」
「うん、あたしは聞くまでもないと思ったんだけどさ。普段の姿を知らない亜森さんは、きっと気になってるだろうなーと思って」
亜森はいっそうもじもじしながら、柚子たちの姿を見比べている。
そちらにウインクを送ってから、柚子はレオナに向きなおった。
「まあ、あたしもはっきり九条さんの口からタケくんとの関係を聞いたことはなかったし。いい機会だなーと思って聞いてみたの。で、ほんとのところは、どうなのでしょう?」
「どうもこうもありません。彼とはただの道場仲間であり、それ以上の特別な関係性などが生じたことは一度としてないと、ここに断言させていただきます」
「そっかそっか。でも、タケくんってけっこー可愛い男の子だよね。って、年上相手に失礼な言い方かもしれないけど」
「……なるほど。遊佐さんは彼のような男性がお好みにあう、ということなのでしょうか?」
これは、藪蛇というものであった。
というか、柚子がからかいすぎたので逆襲に転じてきたのかもしれない。
「あたしのことはいいんだよー。でも、十年もおつきあいがあって、あんな熱情を向けられちゃったら、ちょっとは心が動かされたりしない?」
「微動だにしませんね。そもそも彼を異性だと感じたことはありません。……彼は四センチも私より小柄でありますし」
「えっ。自分より背が高くないと、異性として見れないの? ……日本の成人男性の平均身長って知ってる?」
「私の身長がそれを上回っているということなら、知っています。どうやら今日の遊佐さんは、徹底的に私をいじめたいようですね」
「ごめんごめん! 九条さんって、ムキになると可愛いんだもん」
しかし、これ以上いじめると本気でむくれてしまいそうだったので、柚子もイタズラ心をしまい込むことにした。
やはりこの長期に渡るお泊り会の渦中にあって、柚子はそうとう浮かれてしまっているようである。自制しなければ、のちのちが怖かった。
「そーゆーことらしいよ、亜森さん。ちなみに、亜森さんは好みのタイプとかあるの?」
「ええ? い、いきなり何でしょうか? 学生の本分は学業であると思います!」
「いやー、たまにはこーゆー話題も面白いかと思ってさ。せっかくお年頃の女の子が三人も集まってるんだし!」
これも冷たく突っぱねられるかな、と思っていたが、案に相違して、亜森は生真面目に考え込んでしまった。
「そうですね……もちろん、学生の身で色恋にうつつを抜かすことなど許されないと思いますが……わたしは頼りがいのある方を好ましく思っています」
「ほうほう。年上の男性とか?」
「年齢は問いません。意思が強くて、自分というものをしっかりと持っていれば、それで十分です。あとは冷静で、きちんとした礼儀作法をわきまえており、学業も優秀であれば理想的ですね」
「ふむふむ。頼り甲斐があって、意思が強くて、自分の考えをしっかり持っていて、冷静で、礼儀正しくて、勉強もよくできて……って、要求する条件がすごい数だね!」
「はい。それで時おり、子供らしい無邪気な一面などを見せてくれたら、もう言うことはありません」
そこでようやく、柚子は思いあたった。
「あのー、亜森さん。それって九条さんのことを言ってる? あたしは理想の男性像を聞いてるつもりだったんだけど」
「え? ですからわたしも、そのつもりで自分の考えを……」
亜森は途中で、愕然と目を見開いた。
その目でレオナのほうをちらりと見てから、珍しく顔を羞恥に染めていく。
「ひょ、ひょっとしたら九条さんと交流を深める内に、自分の中の理想像というものが固まっていったのかもしれません。このように具体的な考えは、つい最近までなかったように思いますし……」
「にゃるほど。つまりは九条さんが男の子であったら理想の恋人にもなりえた、と」
「お、およしください、遊佐さん!」
亜森は片手で自分の顔を隠しつつ、もう片方の手でぴしゃぴしゃと柚子の左肩を叩いてきた。これまた、彼女らしからぬリアクションである。ひょっとしたら、亜森も見た目以上に浮かれているのかもしれない。
「そっかそっかー。あたしと亜森さんって九条さんのことが大好きだけど、微妙にズレてる感じがしてたんだよねー。その謎が解けたような気がするよー」
「ず、ずるいですよ! 遊佐さんのほうが、九条さんに過剰なスキンシップを求めることは多かったではないですか!」
「いやー、あたしの場合は、自分が男の子だったらなーとか考えてたの! そうしたら、九条さんにはメロメロだっただろうなーってさ」
「……あの、私はどのような顔でそれらの言葉を聞いていればよろしいのでしょうか?」
「あ、九条さんは気にしないでー。あたしらは妄想で楽しんでるだけだから!」
「ひ、人を妄想の材料にするのはおひかえください!」
そうしてほどよく場が温まってきた頃に、三皿のギョーザが竹千代によって届けられてきた。
「みなさん楽しそうですね。何のお話をされていたんですか?」
「あなたには関係のないお話です」
柚子が余計な言葉を発する前に、レオナがぴしゃりと言い放った。
めげない竹千代は「失礼しましたー」とにこやかに笑いながらギョーザの皿を並べていく。そこに紙製のテーブルナプキンまで添えられていたのは、さすがの気づかいであった。
この『竜王軒』は、意外と女性客も多いのだ。家族連れや、なんなら若いカップルも来店するぐらいなのである。それでもまあ、女子高生の三人連れというのは、このテーブルぐらいであるようだった。
「あ、タケくん! 悪いんだけど、お子様用のフォークを貸してもらえますか?」
「はい、準備していますよ。その手じゃ箸は使えませんもんね」
「わー、気配り上手! ありがとうでーす!」
「どういたしまして。ラーメンはもうちょっとお待ちくださいね」
竹千代がひょこひょことした足取りで立ち去っていくと、亜森がまだいくぶん赤い顔を寄せてきた。
「遊佐さんこそ、あの方とはずいぶん気安いご関係であるようですね。あの方は、年長者なのでしょう?」
「うん。だけど、ジムでは後輩だからさ。どうぞタメ口でお願いしますとか言われちゃったけどそれは無理だから、なるべく堅苦しくならないように気をつけてるの」
「なるほど」とうなずいてから、亜森はわずかに首を傾げた。
「ところで、『タメ口』というのは同い年の感覚で気安い口をきく、という解釈で間違いはなかったでしょうか?」
「あ、うん、間違いなかったです」
それぐらいの俗語も知らないお嬢様が、生まれて初めてのラーメンを食そうとしているわけである。
もしかしたら、亜森にとってレオナたちと交流を深めるというのは、柚子にとって『シングダム』に入門したのと同じぐらいの大冒険であるのかもしれなかった。
柚子は『シングダム』に入門することで、人生の転換期を迎えることになった。母親の死によってねじ曲がった道が、またまったく異なる素っ頓狂な方向へと向けられることになったのだ。
亜森にとって、レオナや柚子との交流は、いったいどのような影響を与えるのだろうか。
そんなことを考えながら、柚子は熱々のギョーザにフォークを突き立てることにした。
◇◆◇
マンションの九条宅に戻ってから就寝するまでも、夢のような楽しさであった。
まずは本日購入した新しい服によってレオナのファッションショーが開催され、のちには柚子や亜森がレオナの服を着たりもした。スカジャンを羽織ってサングラスをかけた亜森の姿が一番の見どころで、柚子はぜひとも画像に収めたかったのだが、それは断固として拒否されてしまった。
そうして大はしゃぎした後は、また雑談である。
もう顔をあわせてから二十四時間以上も経過していたのに、話が尽きることは決してなかった。校内では口に出せない話題や、放課後の帰り道だけでは語りきれない話、平時ではなかなか口に出す気持ちになれない話など、むしろ時間がいくらあっても足りないほどだった。
柚子と亜森がレオナと出会ったのは、およそ七ヶ月前だ。
しかし、打ち解けた話ができるようになったのは、十一月の試合を終えた後、およそ五ヶ月前である。それは亜森のみならず、柚子も同様だった。
最初に出会ったその日から、柚子はレオナに特別な感情を抱いていたが、最初の二ヶ月は複雑な気持ちを抱え込んでもいた。伊達にあのような怪我を負わせた相手と無条件で仲良くしていいものか迷ったり、自分はレオナに疎まれているのではないかと悩んだり、試合を終えたらレオナは『シングダム』を去ってしまうのではないかと悲しんだり───それはもう、底知れない煩悶をも内包した日々であったのである。
だけど柚子は、レオナの存在を手放したくなかった。
他者に嫌われるのも疎まれるのも慣れっこであった柚子も、レオナにだけは嫌われたり疎まれたくはされたくなかったのだ。
最初はたぶん、格闘技の経験者が転入してきたことが嬉しかっただけだと思う。それでいっぺんに浮かれてしまい、出会ったその日にジムに勧誘するという暴挙に及んでしまったのだ。
だが、その暴挙がなければ、今の関係もなかったのかもしれない。
ただのクラスメートでいる内は、これほどまでにレオナと交流する機会はなかったはずであった。
もはや柚子にとって、レオナはかけがえのない存在だった。レオナの存在しない生活など、考えることもできなかった。もしもいきなりレオナが目の前からいなくなってしまったら、半身をもがれたような心地になってしまうかもしれない。レオナを失うということは、自分の生命を失うのとほとんど同義に感じられるぐらいだった。
どうしてそこまでレオナの存在に魅了されてしまったのかはわからない。
ただ、レオナがそばにいるだけで、柚子はこれ以上もなく幸福に、楽しく過ごすことができてしまうのだ。
そのクールなたたずまいも、ときおり見せる子供っぽい表情も、芝居がかっているぐらい丁寧な口調も、タガが外れて荒っぽくなったときの言動も───野生動物のような強靭さも、器用なのか不器用なのかもわからないところも、真面目さと奔放さを兼ね備えているところも───すらりとしていて綺麗な容姿も、鋭い眼光も、優しい眼差しも、何もかもが、愛しくてたまらなかったのだった。
それに今では、亜森のことも好きになっている。
レオナのことを好きな亜森も、亜森のことを好きなレオナも───そして、そんな二人を好ましく思っている自分のことさえをも、柚子は好きになっていた。ひょっとしたら、その感情こそが核心なのかもしれなかった。
ほんの一年半前まで、柚子は自分のことが嫌いで嫌いでたまらなかったのだ。
母親を失ってめそめそとしている自分が、新しい環境になじめない自分が、半分だけ血の繋がった兄や姉たちに何を言われても言い返せない自分が、あまりにもちっぽけでみじめな存在に感じられてしまい、ゆるやかな絶望の中で日々を過ごしていたのだった。
それが、ひょんなことから『シングダム』における練習風景を目にして、そこに入門することを決めた日から、柚子の人生は一変した。
あのときから、柚子は生きることが楽しくなり、自分を許せるようになったのだ。
そして柚子はレオナに出会い、亜森とも出会い、自分のことをいっそう好きになることができた。レオナや亜森を大好きだと思い、レオナや亜森を大好きだと思える自分のことを、深く愛せるようになったのだ。
こんなものは、自己愛の延長にすぎないのだろうか?
だけどそれでも、かまいはしなかった。暗がりの中で泣いている小さな自分を、ようやく抱きしめてあげられたような心地だった。
(そんなのはけっきょく錯覚で、抱きしめてくれているのは九条さんと亜森さんなのかな……)
明かりの消された寝室で、温かい布団にくるまりながら、柚子はぼんやりとそのように考えた。
左右からは、レオナと亜森の寝息が聞こえてくる。
それはまるで母の胎内に帰ったかのような心地好さであり、柚子にいっそうの安息をもたらしてくれた。
そうして柚子も、いつしか眠りに落ちてしまっていた。
◇◆◇
翌朝である。
その日も柚子は目覚まし時計の音色ではなく、レオナの声によって目覚めることになった。
「遊佐さん、亜森さん、八時半になりました。そろそろご起床してはいかがでしょう?」
なんと心地好い声音だろうと思いながら、柚子は枕に頬をすりつける。
が、その枕は妙に温かくて、いい香りがした。それでいて、妙に鼻先がくすぐったく感じられる。
「八時半ですか……すっかり寝過ごしてしまいました……」
と、枕が寝ぼけた声で言いながら、柚子に頬をすりつけてきた。
つまりそれは、枕ではなく亜森であった。なぜか二人は同じ布団で眠っており、おたがいに髪や頬をすりつけあっていたのだった。
「なんだか子猫の兄弟みたいですね。とても微笑ましい光景です」
笑いを含んだ声で、レオナがそんな風につぶやいている。
それで亜森のほうが、先に正気に返ることになった。
「な、何をされているのですか、遊佐さん!? ここはわたしの寝床ですよ!?」
「うにゅう……あたしはそんなに寝相悪くないもん。亜森さんが領土侵犯してきたんじゃないのー……?」
「寝起きでずいぶん難しげなお言葉を口にされるのですね。私の見たところ、お二人は二つの布団のちょうど真ん中で寄り添いあっておられるようです」
「べ、別に寄り添っているわけではありません! 遊佐さん、その手をお離しください!」
「あー、乱暴にしないでー……いちおうケガしてるほうの手だから……」
「あ、も、申し訳ありません! 痛くしてしまいましたか!?」
「ううん。テーピングでがっかり固定されるから、だいじょぶ……むにゃむにゃ」
「二度寝をされるなら、わたしを解放してからにしてください!」
柚子は無事な左腕を下にして半身になり、テーピングでL字形に固定された右腕で亜森の胴体を拘束してしまっていたのだった。
「朝食の準備ができていますので、よかったらダイニングのほうに移動をお願いいたします」
ひとしきり騒いでから、柚子と亜森はダイニングにいざなわれた。
焼いたトーストの芳しい香りが食欲中枢を刺激してくる。窓からは明るい朝日が差し込み、小さなテーブルには立派な朝食が並べられて、これまた夢のように幸福な光景であった。
「すごーい! 九条さんはいつから起きてたの?」
「けっきょく六時には目覚めてしまいました。習慣というのは怖いですね」
「それでは、寝不足ではないですか? 昨日は午前零時を過ぎるまで起きていたはずですよね?」
心配そうに亜森が問うたが、レオナは「問題ありません」と首を横に振った。
「春休みですので、体力にはゆとりがあるのです。ついついロードワークにまで行ってきてしまいました」
「朝食の前に走ってきたの? うわー、九条さんにはかなわないなー!」
心からの賞賛を送りながら、柚子はダイニングの席に腰を下ろした。
朝食のメニューは、トーストとベーコンエッグとミニサラダだ。絵に描いたようなラインナップだが、食器の可愛らしさは抜群であるし、盛り付け方も完璧であった。レオナの母は雑貨商を経営しているので、家具や食器がとても小洒落ているのである。
「お泊りすると、九条さんの完璧さを思い知らされちゃうよねー。これで普段は学年二位の成績を維持するためのお勉強までこなしてるんだもん!」
「その勉強が楽になるので、こういう長期休暇の際は頭も軽くなるのです。……それでお二人を迎えているお泊り会のさなかにあるのですから、気力も充実していますしね」
そのように述べてから、レオナはクールに一礼した。
「申し訳ありません。朝から浮かれた発言をしてしまいました。どうぞ気にせずお食べください」
「うん、あのねー、九条さん大好き!」
「ありがとうございます。ドレッシングはイタリアンとごまの二種類を出しておきましたので」
かくして、お泊り会の三日目も、たとえようのない幸福感の中で開始されることになったのだった。
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