05 思わぬ来客

 お泊り会の三日目は、その夜にささやかなホームパーティーを企画していた。

 三泊四日もさせていただくのだから、一日ぐらいは何か大がかりなことをしてみようと企画したのだ。名目は、三人の進級祝いである。


 ただし、それを最終日ではなく本日に設定したのには、ちょっとした理由があった。

 本日は、先月に開催された『NEXT』のイベントの放映日であったのだ。それを観賞しながらパーティーをしようという計画なわけである。


「それにしても、その試合のためだけにCS放送の契約をしちゃうなんて、すごいねー。お母さんは、そんなに九条さんの試合を観たいんだね!」


「はい。今回のイベントはDVDなどで発売される予定もないようだ、と知るなり契約をしてしまったのです。私としては、このようなことでお金をつかわせたくなかったのですが……」


 午後になり、キッチンで料理の下ごしらえを進めながら、レオナは溜息をついていた。

 亜森は、真剣な表情でそれを手伝っている。本当は柚子も手伝うはずであったのに、この腕ではそれもままならない。二人の奮闘をただ眺めているだけというのは申し訳ない限りであった。


「それに、前回の映像もそうでしたが、自分の試合を母親に観賞されるというのは、とても気恥ずかしいです。何せ、格好が格好ですし……」


「かっこいいじゃん、『マスクド・シングダム』! あーあ、あたしもまたあの衣装を着て試合がしたいなー」


 そのように述べながら、柚子は亜森のほうに視線を戻した。


「ところで、亜森さんはほんとに大丈夫なの? あの試合の日も、観客席でボロボロ泣いちゃってたんでしょ?」


「だ、大丈夫です。結果を知った上で拝見する分には、心を乱されることもありません。……たぶん」


「うんうん。リアルタイムだと、九条さんがケガをするんじゃないかって心配になっちゃうんだろうねー」


 そのとき、ジャージのポケットに入れておいた柚子の携帯端末がメッセージの受信音を響かせた。

 確認してみると、それは『横須賀クルーザー・ジム』の飛川美月だった。


「わー、ひさびさのトビーさんだ! 『ゆずちゃん、何してるー?』だって!」


「トビーさん? 外国の御方ですか?」


「ううん。飛川美月さん。ほら、お正月に来た横須賀の人たちで、一番ちっちゃかった人!」


「ああ、あの石狩さんという御方のお連れですか」


 石狩エマの傍若無人なふるまいを思い出したのか、亜森は苦々しげな面持ちになってしまう。


「ねえねえ、トビーさんに二人の画像を送ってもいい?」


「え? こ、このような姿は、あまり人目にさらすものでは───」


 と、亜森がこちらを振り返ったところで、柚子は写真を撮らせていただいた。

 レオナは素知らぬ顔で卵を溶いている。その手前にびっくりまなこの亜森が撮されており、なかなか絶妙なアングルであった。


「うん、可愛い可愛い! ほい、送信と」


「ちょ、ちょっと! 肖像権というものをご存じですか、遊佐さん!?」


「二人のエプロン姿はばっちり可愛いから大丈夫だよー。あたしも一緒に手伝いたかったなー」


 その後も、何件か飛川からのメッセージが届けられた。

 が、だんだん内容が普段とは違う方向に傾いていき、最終的には乃々美の人となりを問われることになった。


「んー? トビーさんって、ののちゃんと交流あったっけ?」


「記憶にありませんね。柔術の大会の日にも、遊佐さんや景虎さんと喋っていた印象しかありません。あとは、晴香さんが少し加わっていたぐらいでしょうか」


「うんうん。ののちゃんはそもそもキックをやってない人には無関心だもんね」


 となると、これはどういうことなのだろう。

 乃々美のことを問われる前は、恋愛沙汰の方向に話が進んでいたのだ。ひょっとしたら、飛川本人ではなく別の誰かの恋愛沙汰に関わる話であったのだろうか。


(そういえば、沼上さんってお正月のとき、けっこうののちゃんに喋りかけてたっけ)


 何にせよ、柚子は質問に答えることしかできなかった。

『蜂須賀さんって、どういう女の子?』という質問であったので、『見たまんまの女の子です\(^o^)/』と答えておくことにする。


「遊佐さんは、左手でも器用に文字を打ち込むことができるのですね」


「んー? そうかな? 両利きの九条さんなら、もっと器用だと思うけど」


「私はそもそも携帯端末を所持していません」


「それならあたしだって、亜森さんとトビーさんぐらいしかメッセージを送る相手なんていないよ!」


 などと不毛なやりとりをしていると、ふいに来客を告げるチャイムが鳴った。


「ありゃ、お客さまだよ、九条さん」


「タイミングが悪いですね。これはこのまま置いておいてくださいね」


 野菜を切っていたレオナは軽く手をゆすいでからキッチンを出ていった。

 亜森は黙々と手作業でミンチをこしらえている。


「亜森さんも、なかなか手馴れてるよねー。料理ができるなんてすごいなー」


「たしなみていどに母から習っていただけです。それも和食が中心であったので、こういった洋食のメニューですと勝手が違ってきます」


「だけど、すっごくサマになってるよ! お料理教室の先生みたい!」


「あの、むやみに撮影しないでほしいのですが……」


「だって、エプロン姿が可愛いんだもーん」


 笑いながら、柚子は何度もシャッターを切らせていただいた。

 飛川からのメッセージは途絶えている。さきほどの返答で満足してもらえたのだろうか。

 そこに、レオナが舞い戻ってくる。


「遊佐さん。あなたへのお客でした」


「ほえ? あたしにお客って、そんな心当たりは───」


 振り返った柚子は、そのまま言葉を失うことになった。

 レオナに続いて、あまりに意想外な人物が入室してきたのだ。


「ユズコ、ひさしぶり。げんきだった?」


 浅黒い肌をした、可愛らしい女の子だ。黒いパーカーにスウェットのパンツという黒ずくめの格好で、セミロングの黒い髪は自然に垂らしている。その小鹿のように黒目がちの目は、きらきらと明るく輝きながら柚子を真っ直ぐに見つめていた。


 アリースィ・ジルベルトである。

 アリースィ・ジルベルトが、普段通りのにこやかな表情でそこに立ちはだかっていた。


「しゃしん、とってたの? わたしもしゃしん、パーイにおくりたいな」


 そのように言いながら、アリースィはいきなりレオナと肩を組んだ。

 そうして、「いぇーい」とピースサインを送ってきたので、柚子も思わずシャッターを切ってしまう。二人の背後には、うろんげに眉をひそめている亜森の姿も写し出されていた。


「ユズコともとりたい。レオナ、おねがいね」


 と、今度は自分の携帯端末を取り出すと、それをレオナに押しつけてから、柚子の首に腕を巻きつけてくる。

 ココナッツのように甘い香りがした。

 そして、子供のように体温が高い。スパーでは何度も味わったことのある、アリースィの体温だ。


「あの、こちらの赤い印がシャッターなのでしょうか?」


「うん、そうだよ。いぇーい」


「パネル状にスイッチがあるというのは、なかなか未来的ですね」


 いかにもアナログ人間な発言をしながら、レオナがシャッターを切った。

「ありがとー」と陽気に言いながら、アリースィが柚子から離れていく。


「ユズコ、さっきのしゃしんをちょうだい。わたしのしゃしんもあげるから」


「は、はい……」


 まだまったく状況も呑み込めぬまま、柚子はアリースィと連絡先を交換し、おたがいの画像を送り合うことになった。

 その勢いで、思わず飛川にも画像を送信してしまう。とにかくこの驚きを誰かと共有したかったのだ。


「アリースィさん、とりあえず私たちの友人を紹介させていただいてもよろしいでしょうか? あなたの突飛な行動に、すっかり面食らわれておられるようなので」


「レオナのことば、すこしむずかしいよ。……はじめまして、アリースィ・ジルベルトだよ。レオナとユズコは、おなじジムのメイトだよ」


「……はじめまして。亜森紫乃と申します。あなたは先日、九条さんと試合をされていた御方ですね」


「うん、そうだよ。あなたはジムのひとじゃないよね」


「はい。わたしは学校の友人です」


 紹介されても、亜森の目から不審の光は消えていなかった。亜森は無作法な人間を嫌うし、それに石狩エマの一件で用心深くもなっているのだろう。そんな亜森と相対しつつ、アリースィはにこにこと笑っている。


「そ、それでどうして、アリースィがここに? 九条さんが招待したの?」


「彼女をホームパーティーに招待するいわれはありません。彼女はあくまでジム仲間であり、友人ではありませんから」


「レオナ、つめたいよ! わたし、レオナのことすきなのにー!」


 不満そうに言いながら、アリースィの目は笑っている。これぐらいでへこたれるような彼女ではないのである。


「私は先日、家の場所を教えただけです。来訪するなら、事前にご連絡をいただきたかったところですね」


「わたし、でんわはにがてなんだよ。あいてのかおがみえてないと、ことばがきちんとつたわってるかわからないし」


「あなたの日本語はとても流暢だと思いますよ。発音にはいささかの難がありますが、語彙の豊富さには感服させられます」


「りゅうちょう? ごい? わざとむずかしいことばをつかってるね!」


 二人のじゃれあいは見ていて楽しかったが、柚子の疑念はいっこうに晴れなかった。


「それなら、何のために家の場所を教えたの? どうせ明後日ぐらいにはジムで会えるのに……」


「私は会えますが、遊佐さんとは会えないでしょう? だから彼女は、遊佐さんと話すために私の家を訪れてきたのですよ」


 そういえば、レオナはさきほど柚子に来客だ、と告げてきたのだ。

 いっそうの疑念にとらわれてしまった柚子に、アリースィはまた笑いかけてくる。


「えーとね、せつめいがむずかしいんだけど、きいてくれる?」


「は、はい。何でしょう?」


「わたし、ユズコにけがをさせたよね。でも、あやまらなかったよね。だから、あやまらなかったことをあやまりたかったの」


 アリースィは言葉を探すように視線をさまよわせてから、また説明し始める。


「わたし、わるいことをしたとはおもわなかったよ。ユズコならにげられるとおもって、オモプラッタをかけたんだよ。あのときのユズコ、けっこうつよいっておもったから、しぜんにからだがうごいちゃったんだよ」


「……はい」


「れんしゅうでけがをする、べつにふつうのことだからね。わたしがけがしても、あやまってほしいとはおもわないよ。だから、ユズコにもあやまらなかったんだよ。……でも、レオナにそれはふつうじゃないっていわれたんだよ」


 柚子は、レオナのほうを盗み見た。

 レオナは手を洗い、調理の作業を再開させている。が、この距離ならば柚子たちのやりとりは耳に入っているだろう。


「レオナもカズキにけがをさせたんだよね。でも、レオナはあやまらなかったっていってた。めいわくをかけたことはあやまったけど、けがをさせたことはあやまらなかった。レオナもわたしとおなじかんがえなんだっていってたよ」


「……はい」


「でも、あやまらないじぶんはすきじゃないっていってた。あやまれないことをあやまりたいきもちになったっていってた。あなたはそうじゃないのかって、レオナにいわれたよ」


 確かに、解釈が難しい話であった。

 ただ、アリースィが真剣であることは、ひしひしと伝わってくる。


「わたし、けがをさせてもわるくないっておもってるけど、けがをさせてもいいっておもってるわけじゃないよ。じゅうじゅつ、あいてをきずつけないでかつのが、し……しんずい? だよ。だから、なるべくけがをさせたくないってかんがえてるよ」


「はい」


「だけどやっぱり、けがをさせたことをわるかったとはおもえないんだよ。わるかったとおもえないから、あやまれないんだよ。……だから、あやまれないことをあやまりたいんだよ」


 そうしてアリースィは、顔が見えなくなるぐらい深々と頭を下げてきた。


「ユズコ、ごめんなさい。……わたし、こういうにんげんだけど、ユズコのこともすきだから、きらいにならないんでほしいんだよ」


「き、嫌いになんてなりませんよ。もういいから、頭を上げてください」


「ほんとうに? にほんじん、こういうときにきもちをかくすから、あんまりあんしんできないよ」


「本当ですってば! あたしだって、別にアリースィは悪くないと思ってましたし」


 ただ、わずかに心を重くさせている事柄はひとつだけあった。

 迷った末、柚子はそれを口にしてみる。


「ただ……せっかくアリースィにちょっぴりだけ本気を出させることができたのに、それに対応できなかったことが悔しいです。アリースィは、あたしがかわせると思ってオモプラッタを仕掛けたんですもんね?」


「くやしくおもうことないよ。ユズコ、つよかったよ。わたし、ほんとうにそうおもうよ」


 そのように述べながら、アリースィは両手で柚子の左手の先をつかんできた。


「わたし、たぶん、ゆだんしてたんだよ。ユズコ、あおおびだから、あんなにうごけるとおもってなかったんだよ。あのままだとスイープされそうだったから、あわててほんきになっちゃったんだよ。……わたし、スパーでもまけたくないから、ああいうとき、ほんきになっちゃうんだよ」


「それは遊佐さんを見くびりすぎでしたね。遊佐さんは、私や伊達さんよりもグラップリングの技術はしっかりしているのですよ」


 遠くのほうから、レオナが言葉をはさんでくる。

 アリースィは柚子の瞳を見つめながら「そうだね」とうなずいた。


「こんどからは、ほんきでいくよ。さいしょからほんきなら、あわてることないから、きっとけがをさせたりもしないよ」


「ア、アリースィに本気になられたら、あたしなんて何十回もタップさせられちゃいますよ!」


「うん。だけど、そうしたらユズコはもっともっとつよくなれるよ」


 なんだかおかしな感じに胸が騒いでいた。

 嬉しいような、怖いような───まるで、大きな試合に臨むときのような感覚である。油断をすると、膝から力が抜けて、へたり込んでしまいそうだった。


「ユズコ、いつになったら、けがはなおるの?」


「え? お、お医者さんには全治二週間って言われてますけど……」


「それなら、スパーができるのはさんしゅうかんごぐらいかな? わたし、たのしみにしてるよ」


 そうしてアリースィはやわらかく微笑みながら、柚子の手をつかむ指先にぎゅっと力を込めてきた。


「やっぱりわたし、『シングダム』ににゅうもんしてよかったよ。レオナだけじゃなく、みんな、しげきてきだよ。わたし、ユズコのこと、だいすきだよ」


「あ、あたしもアリースィのことは、心から尊敬してます!」


「ほんと? うれしいよ」


 アリースィは瞳を輝かせると、いっそう柚子の顔に顔を近づけてきた。

 その唇が、ちょんと柚子の頬にふれる。


 ガシャンッ、とけたたましい音色が響きわたった。

 おそらく亜森が何かをひっくり返したのだろう。


「それじゃあ、わたしはかえるね。みんな、パーティ、楽しんでね!」


 現れたときと同じ唐突さで、アリースィはキッチンから消えていった。

 しばらく放心状態に陥ってから、柚子はレオナたちのほうを振り返る。

 レオナは素知らぬ顔で調理を続けており、亜森は何とも言えない表情で柚子を見つめていた。


「……石狩という御方とはまた別の意味で、常識というものの通じなそうなお相手でしたね」


「うん、まあ、そうなのかな」


 そのように答えてから、柚子は視線をレオナに固定した。


「九条さん、あの……ありがとうね」


「何がでしょうか? 何もお礼を言われるような覚えはありませんが」


「だって、やっぱりアリースィを呼びつけたのは九条さんなんでしょ? そうじゃなきゃ、わざわざ家の場所を教える必要はないよね?」


「呼びつけたりはしていません。ただ、あなたは遊佐さんと対話をする必要があるのではないですか、と告げただけです。……あとは、遊佐さんがしばらく練習には参加できないということと、私の家で何日か宿泊する予定であるということを伝えただけですね。そうしたら、向こうのほうからマンションの住所を尋ねてきたのです」


「うん、だから、そうやってアリースィを誘導してくれたんでしょ?」


「……私も彼女の人となりというものを見極めたかったのですよ。遊佐さんに怪我をさせて何も感じないような人間であったのなら、今後のつきあい方も考えなくてはならなかったですから」


 レオナはあくまで淡々としていた。

 だけど柚子は、心から「ありがとう」と告げることができた。


「あたしもほんのちょっぴりだけわだかまりがあったんだけど、これでスッキリできたよ。……あたしもアリースィに、どうでもいい存在だと思われてたわけじゃないんだね」


「もしも彼女がそんな無礼者であれば、私がジムから叩き出していたところです」


 柚子は我慢ができなくなって、レオナのもとに近づいていった。

 レオナは包丁を起き、くるりと背中を向けてしまう。

 その背中に、柚子はおもいきりしがみついてみせた。


「……どうして背中を向けたのかな?」


「だって、エプロンが汚れていましたから」


「あーもう、何もかも見透かされてて、手の平でコロコロされてる気分!」


「柚子さんがそのようにわかりやすい人間であったら、こちらも苦労はしませんよ」


 レオナの表情は確認できなかったが、その声は笑っていた。

 それを嬉しく思いながら、柚子はレオナの背中におもいきり頬をこすりつける。

 亜森がいくぶん冷ややかな目でそれを見守っていたが、しばらくはこの温もりから身を遠ざける気持ちにはなれなかった。

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