06 宴の終わり

 その夜のパーティーは、つつがなく開かれることになった。

 普段は帰りの遅い紗栄子も、午後の六時には帰宅していた。わざわざこちらの日程に合わせて、仕事を早めに切り上げてくれたのだ。凛々しいスーツ姿から部屋着に着替えた紗栄子は、いちはやくソファに陣取って楽しげに微笑んでいた。


 テーブルには、レオナと亜森の苦心の成果がずらりと並べられている。料理上手のレオナが取り仕切っていただけあって、それはクリスマスパーティーのときにも劣らない豪華さであった。


 主菜は手作りの煮込みハンバーグである。これまた手作りのデミグラスソースで煮込まれて、上にはとろけるチーズがのせられている。

 付け合せはニンジンのグラッセと、ジャガイモとシメジとブロッコリーのバター炒めで、瀟洒しょうしゃな食器の効果もあって、そのまま売り物として出せそうなほどの出来栄えであった。


 そのハンバーグはやや小ぶりに作られており、代わりにさまざまな副菜が準備されている。その中でも、オーブンで仕上げられたオニオングラタンスープなどは、目眩めまいがしそうなほど美味しそうだった。


 さっそくワインの栓を抜いた紗栄子は、グラスを掲げながら「三人とも、進級おめでとうね」と声をあげる。


「いやあ、どれもこれも美味しそうだねえ。あたしが祝ってあげる側なのに、全部おまかせしちゃって申し訳ない限りだよ」


「とんでもありません。普段お世話になっているのですから、どうかお気になさらないでください」


 如才なく応じつつ、亜森がサラダを各人に取り分けていく。

 本当に今日は何のお役にも立てないなあと柚子が小さくなっていると、主菜の皿をレオナに取り上げられてしまった。


「あ、あたしのハンバーグ……やっぱり役立たずには食べさせてくれないの?」


「何をいじけたことを仰ってるんですか。切り分けるのが大変そうだから、手伝ってあげようと考えただけです」


「あうーん。九条さんはどうしてそんなに優しいのー?」


「おかしな声をあげないでください。別に普通のことでしょう?」


 それは、柚子にもいまひとつ判然としなかった。何せ柚子は三年以上も友人というものを持っていなかったので、普通の友人関係というのがどのようなものであったかも失念してしまっているのである。


「だけど九条さんは、絶対に優しいよー。あたしもそんな風に気配りのできる人間に生まれたかったなー!」


「生まれは関係ありません。……私は真っ当な人間になろうと決意してから、まだ一年も経ってはいないのですからね」


「いやあ、あんたは昔っから気配りのできる真面目な子供だったよ。金色の頭で喧嘩ざんまいの毎日でも、あたしの代わりにきっちり家を支えてくれてたもんねえ」


「……お母様、ハンバーグをミンチに戻してさしあげましょうか?」


「だって本当のことでしょ? 髪の色と口の悪ささえ何とかできれば、どこに出しても恥ずかしくない自慢の娘だと思ってたよ」


「いいかげんにしやがってくださいね、このお母様野郎」


 レオナには申し訳ないが、柚子は紗栄子の明け透けな物言いが大好きだった。そしてそれは娘に対して、過去の自分を恥じる必要はないのだと諭しているようにも感じられた。

 むろん、言われた当人は羞恥と怒りで顔を赤くしてしまっているのだが、そういう表情さえも魅力的に感じられてしまうというのは如何ともし難かった。


 そんな中、テレビの画面では『NEXT』の試合中継が映し出されている。解説者とアナウンサーによる事前説明が終了すると、いよいよ開幕式だった。


「おー、オープニングもカットされてなかったね! お母さん、もうすぐ九条さんの登場ですよ!」


「わあ、楽しみ。レオナ、ちゃんと録画もしてくれてる?」


「お生憎ですが、私は電子機器の操作に疎いもので」


「あはは。あたしがばっちり設定しておいたから大丈夫ですよ!」


 もちろん柚子の離れでも、同じ番組が予約録画されている。これはCS放送の中でも月々に料金のとられる有料チャンネルであったが、MMAの試合も多数放送されるので、柚子も『シングダム』に入会してすぐに視聴の契約を結んでいたのだった。


「あ、トラさんだ! これがジムの先輩選手です!」


「ああ、前の大会にも出てたよね。この人も勝てたんでしょ?」


「はい! ほとんど秒殺のKOでした! ね、亜森さん?」


「ええ、そうでしたね。……最後のほうは、とうてい正視できませんでしたが」


 そのように述べながら、亜森も画面に釘付けになっている。

 自分の目で見た光景がテレビ画面に映し出されているというのが、やはり物珍しいのだろう。しかもこれは、有料チャンネルとはいえリアルタイムで放映されている映像であるのだ。


 第三試合に出場する景虎の登場から少し間を置いて、『マスクド・シングダム!』の名がコールされる。

 画面上に、レオナの姿が映し出された。

 上下の黒いジャージを纏っており、しかもフードまで下ろしている。なおかつ、そのフードから除くのは、黒い獅子をモチーフにした覆面だ。


 レオナはよどみのない足取りでケージの前まで進み、そこに立ち並んだ。

 すぐに画面は切り替えられて、今度はアリースィが登場する。

 そこまで見届けてから、紗栄子は「ふふう」と笑い声のような息をもらす。


「自分の娘がこんな大きな舞台で歓声をもらってるなんて、やっぱりおかしな気分だね! 次の機会には、ぜひ生身で体感させてもらいたいところだよ」


「次の機会などそうそう巡ってはきませんし、私としては肉親に来場してほしいとも思えないのですが」


「何でさ。家族だったら、応援に行くもんなんじゃないの?」


「周りがどうかは知りません。私の個人的な希望です」


 そんな会話をしている内に、代表選手による挨拶が行われて、第一試合が開始される。

 その間は、粛々と食事が進められることになった。柚子以外の三名は見知らぬ選手に対する興味が薄かったし、柚子はあとでゆっくり見返せばいいと考えていた。


「そういえば、タケくんもこのMMAって競技の選手になるために稽古をしてるんでしょ? そっちにはまだ試合の予定とかないの?」


「ええ。彼はじっくり自分のスタイルというものを確立していきたいそうです。羽柴塾で学んだ技術は、七割がた使えなくなりますからね」


「そっか。そっちも楽しみだなあ。喧嘩じゃなくってスポーツだったら、いくらでも応援できるから嬉しいよ」


 紗栄子は竹千代と仲良しであるのだ。故郷に残された人々の中で、九条家の正確な住所を知らされたのも竹千代一人であるのだという話であった。


「でも、タケくんはタケくんでちょっと意外かな。あんなに争いごとが嫌いな性分なのに、また勝負事の世界に飛び込もうだなんてさ」


「争いごとが嫌いなのに、『羽柴塾』に通ってたんですか?」


 左手で苦心しながらハンバーグを食しつつ、柚子が問うてみると、紗栄子は「うん」と笑顔でうなずいた。


「タケくんは、自衛のために通ってたようなもんだよ。とにかくあの町は治安が悪かったからさ」


「なんだか別の国のお話みたいですね。ブラジルなんかも護身術の目的で柔術の道場に通う人が多いらしいですよ」


「うん、確かにあそこは奇妙な場所だったよ。もともと住んでた人たちにとっては、あれが当たり前なんだろうけどさ」


 そう言って、紗栄子はにっこりと微笑んだ。


「だから、レオナがあんな格好をしてたのも、ごく自然な成り行きだったの。どうか見放さないであげてね」


「お母様。フォローするふりをして追い打ちをかけるのはご勘弁くださいませんか?」


「いいかげんにそのお母様ってのやめてくれない? なんか定着しそうで怖いわ」


「でしたら、そのように呼ばれないように口をつつしんでください」


「だってさー、柚子ちゃんや紫乃ちゃんなんかは、そういう話題を期待してるように見えるんだもん」


 レオナがいくぶん恨めしげな目つきで柚子たちを見比べてくる。

 柚子は心からの笑顔を返し、サラダをついばんでいた紫乃はフォークをくわえたまま目を白黒とさせていた。


「べ、別に期待をしているわけではないのですが……自分の知らない九条さんのお話を聞けるのは、とても楽しく感じられるのです」


「……それがロクでもない暴力沙汰のお話でもですか?」


「はい。少なくとも耳をふさぎたいとは思いませんし、耳をふさぐべきではないとも考えています」


「あたしたちは九条さんをまるごと大好きだから、どんな話でも楽しくてしかたがないんだよー」


 柚子も援護をしてみせると、レオナは切なそうに溜息をついた。


「どんなに面白おかしく語ろうとも、あれはロクでもない過去でした。私は笑顔で語るような気持ちにはなれません」


「ごめんごめん。もう終わった話なんだから、そんなに思いつめないでよ」


 紗栄子が腕をのばし、レオナの頭をくしゃくしゃにかき回した。

 レオナのぶすっとした顔が、また可愛らしい。

 そのときテレビの画面上に、再び景虎の勇姿が現れた。


「あ、お母さん、景虎さんの出番ですよ!」


「うんうん、ほんとだねー」


 テレビの中で、景虎はふてぶてしく微笑んでいた。

 かつて控え室のモニターで見た通りの姿だ。

 そうして景虎はあのときと同じように、先制攻撃を仕掛けて一気に相手選手を追い詰めた。


 ストライカーである本郷選手を相手に、景虎は至近距離での乱打戦を仕掛けて、息もつかせず勝利をもぎ取ってみせたのである。

 最後は相手を金網にまで押し込んで、強引に組み伏せてのパウンドであった。


 金網に頭を押しつけられた状態で倒れた相手の上にのしかかり、中腰の体勢で容赦なく左右の拳を叩き込んでいく。

 数秒後、とどめの一撃をふるおうとした景虎の右腕をレフェリーがひっつかみ、試合の終了が宣告される。

 一ラウンド一分四十八秒、景虎のTKO勝利だ。


「やったー!」と声をあげながら柚子が振り返ると、亜森はぴしりと背筋をのばした体勢でまぶたを閉ざしていた。


「……試合は終了しましたか?」


「うん、終わったよー。試合会場でもそうやって目をつぶってたの?」


「相手の方が倒れた状態で殴られ始めたあたりから、こうしていました。申し訳ありませんが、わたしの脆弱な神経で耐えられるような光景ではありませんでしたので」


「うんうん、これはなかなかえげつないねー。前のDVDでも、こういう試合はいくつかあったけどさ」


 そのように述べたのは、紗栄子であった。


「でも、レオナがやってる試合では、倒れた相手を殴っちゃいけないんだよね?」


「ええ。今回もセミプロルールを基盤にしていましたから。……でも、セミプロやアマチュアのルールも、今後は色々と改正されるようだというお話でしたね?」


 これはもちろん、柚子に向けられた言葉だ。

 柚子は「うん」と応じてみせる。


「でも、目玉はやっぱりダウンカウント制の廃止じゃないかな。グラウンド状態の打撃ってのは、なかなかアマチュアでは解禁されないと思うよー」


「だそうですよ。ご安心ください、亜森さん」


「あれー、お母様には一言ないの?」


「お母様はもっと荒っぽい光景を目にしてきたのですから、問題ないでしょう?」


 それは、『羽柴塾』の道場での稽古のことを指しているのだろうか。

 紗栄子は「そうだねえ」と微笑んでいる。


「まあ、それより何より、相手が同じ女の子ってだけで、まだ安心して見ていられるよ。むしろ相手のほうがちっちゃいぐらいだもんね」


「ちっちゃいと言っても、体重は同じぐらいの相手であるはずですけれどね」


「うんうん。レオナやエマちゃんぐらい背の高い子はなかなかいないだろうしね」


 そんな会話をしながらも食事は続けられて、試合も進められていく。

 第三試合の景虎の登場から数十分を経て、いよいよ第七試合の開始である。

 女子フライ級、五分二ラウンド、特別ルールによる『マスクド・シングダム』とアリースィ・ジルベルト選手の一戦だ。


 ケージに上がった覆面姿のレオナは、落ち着き払った様子でアリースィと対峙していた。

 それを見守っていた現実世界のレオナは、恥ずかしそうに身をよじっている。


「あの、やっぱりいったん消しませんか? 想像以上に気恥ずかしいです」


「えー? あたしたちにとっては、この試合がメインイベントなんだよー? なんにも恥ずかしいことないってば!」


「いや、だって、半裸で覆面姿ですよ? 恥ずかしくないわけないじゃありませんか」


 まったく身も蓋もない発言である。

 確かにまあ、レオナはとりわけ布地面積の少ない試合衣装を着用している。ハーフトップにショートパンツなのだから、お腹も太ももも剥き出しだ。防具は膝から下しか隠してくれてはいない。


「さっき、五十六・五キロってコールされてたよね。そりゃあ引き締まってるはずだわ。あたしもジョギングでも始めよっかなあ」


 娘の心情も知らぬげに、紗栄子は楽しげである。

 そうして、試合は開始された。


 アリースィの、大技の連発だ。

 飛び膝蹴りに、バックスピンキック、ローキックから、ハイキック。足技を主体にした、アクション映画のごとき様相である。

 これには、紗栄子も目を丸くしていた。


「すごいね、この子。格闘家っていうよりは、曲芸師みたい」


「寝技に絶対の自信があるから、ここまで大胆な動きができるのですよ」


 なおかつ、スタミナにも同様の自信があるのだろう。普通はこのような動きを一ラウンド持続できるはずもない。遠い間合いからの大技で相手を攪乱かくらんし、隙を見つけたら寝技に引き込もうというのが、アリースィの基本戦略なのだった。


「それにアリースィは、もともと派手好きらしいんですよね。『このほうがお客さんも喜んでくれるでしょー?』とか言ってましたよ」


 柚子がそのように口をはさむと、紗栄子は「なるほど」と手を打った。


「そういえば、この子が柚子ちゃんたちのジムに入門してきたんだっけ。いいねえ、青春だねえ」


「……つかぬことをお聞きしますが、どのあたりに青春を感じておられるのですか?」


「えー? かつてのライバルが仲間になるってスポ根マンガっぽくない? 青春だよ青春」


「仲間と言っても、同じジムに入門したというだけですけれどね。今のところ、それ以上の関係を構築できてはいませんし、その予定もありません」


 なんだかレオナはそっけない。

 アリースィの入門当初から、レオナは彼女にこういった態度なのだった。


「あのさ、九条さんって、あんまりアリースィのことを好きじゃないの?」


「選手としては尊敬していますし、いずれ再戦できたら嬉しいなとは考えています。ただ、得体の知れない存在だという思いはぬぐいきれないかもしれませんね」


「得体の知れない存在? どのあたりが?」


「……試合中、彼女から凄まじい殺気を感じる瞬間があったのです。あれはまるで、殺し合いを挑まれているような感覚でした」


 そのように述べながら、レオナはすっと目を細めた。


「私の攻撃が一発入った後のことですね。それまでの彼女は実に楽しそうな表情をしていましたが、そこでいきなり豹変したのです。あれが彼女の本性だとしたら、とうてい友人づきあいすることはできないな、と私は思ってしまいました」


「うーん、そっかあ。外から見てる分にはわからなかったなあ」


 しかし、レオナのミドルキックをくらってからアリースィのファイトスタイルが豹変した、というのは柚子もはっきり覚えていた。

 その豹変っぷりが、今まさに画面上で示されようとしている。


 アリースィはいきなり打撃技の攻防を打ち捨てて、がむしゃらに組みつくべくファイトスタイルを一変させていた。

 前傾の姿勢になり、頭部をガードしようともせずに、レオナのほうに腕をのばす。レオナは戸惑った様子で後ずさり、ひたすらアリースィから距離を取ろうとした。


 確かにこうして落ち着いて見ると、なかなか異様な雰囲気だ。

 ただアリースィが豹変したというだけでなく、それを警戒するレオナの緊張感が、ひしひしと伝わってくるのである。

 なんというか、毒蛇とライオンの戦いを見守っているかのような心境であった。


 ただしそれは、あまりに唐突な変貌すぎた。リアルタイムでは、柚子も急に動きがなくなったな、というぐらいにしか感じていなかったのだ。観客たちも、派手な攻防がなくなってしまってブーイングなどをあげ始めている。


(それまではスポーツだったのに、いきなり果し合いになっちゃった、みたいな感じなのかな……)


 柚子にはよくわからなかった。

 そして、その謎が解明される前に、終わりの時が訪れてしまった。


 アリースィの胸もとを蹴ったレオナがその反動を利用して、後方に跳ぶ。そこからさらに背後の金網を蹴って、高々と舞い上がり、空中でアリースィの顔面を蹴り抜いたのだ。


 三角蹴りよりも、ワンアクション多い。三角蹴りだって実際の試合では滅多に見ることができないのに、レオナはそれを上回るアクロバティックな技で相手をKOしてのけたのだった。


「わー、すごい。よく相手の子は無事だったねえ」


 紗栄子は呑気に手を打ち鳴らしている。

 亜森は、ふーっと深く息をついていた。


「この前よりも豪快な勝ち方だったじゃん。今回の相手って、前回よりも強敵だったんでしょ?」


「どうでしょうね。他競技における実績という意味でなら、確かにその通りなのでしょうが」


「ふーん? レオナ的には前回の相手のほうが手ごわかったとか?」


「そのようなことは一概には言えません。……ただ、あの頃と今では自分の側の完成度が異なっている、という面はあるのでしょうね」


「あー、そっか。この前は入門二ヶ月ぐらいですぐに試合だったんだもんね。それで今は……もう七ヶ月ぐらい経ってるのかあ。時間が過ぎるのは早いもんだねえ」


 紗栄子は大らかに笑っていたが、柚子は別の感慨にとらわれていた。

 レオナはわずか入門七ヶ月のキャリアで、プロ興業のオファーを受けたのだ。しかも相手は柔術の世界王者であり、それにKOで勝利してしまった。その物凄さが、今さらのようにひしひしと感じられてしまったのだった。


 やっぱりレオナというのは、どこか特別な存在なのだ。

 そしてそれは、アリースィのほうも同様であろう。

 そんな二人が、柚子と同じジムで汗を流している。しかもその片方は学校のクラスメートであり、今では一番大切な友人だ。その事実が、柚子を奇妙に高ぶらせていた。


「……どうかされたのですか、遊佐さん?」


 と、亜森が心配そうに呼びかけてくる。

 柚子は「ううん、別に」と笑顔で首を振ってみせた。

 その間も、レオナと紗栄子の会話は続いている。


「何にせよ、レオナはこれで二連勝なんだね。エマちゃんとの練習試合ってやつを含めれば四連勝だし、すごいじゃん」


「別にすごくはありません。毎回、薄氷の勝利ですから」


「それでも勝ててるんだからすごいでしょ。さっきも言ったけど、スポーツだったら心置きなく応援できるからさ。これからも、勉強と両立しながら頑張ってね!」


「……実のところ、それが一番難しいのですよね」


 溜息まじりに、レオナはそう言った。

 テーブルの上の料理は、ほとんどなくなりかけている。レオナの試合の終了とともに、楽しいホームパーティも終わりに近づいているようだった。


                ◇◆◇


 そうして、夜更けである。

 昨日や一昨日と同じように、雑談と入浴を終えてから、一同は寝床にもぐり込むことになった。


「なんだか、あっという間の三日間でしたね。明日には帰らないといけないのかと思うと、やっぱり名残惜しくなってしまいます」


 豆電球だけをつけた暗がりの中で、亜森がそのようにつぶやいている。

 一人でベッドに陣取ったレオナは、上のほうから「そうですね」と応じていた。


「でも、とても楽しかったです。また機会があったら、いつでもいらしてください」


「ええ、もちろん。ゴールデンウィークは家族と出かけなければならないので、もしも夏休みにお邪魔することができたら、とても嬉しいです」


 もうそんな先のことまで考えているのかと、柚子はこっそりと忍び笑いをする。


「……ところで、遊佐さんはどうされるのですか?」


「え、何が?」


「何がではありません。明日以降のことをお尋ねしているのです」


 亜森が声が、ちょっぴり冷たくなっている。つまり、すねているのだ。

 昔はそれだけで責められているような心地であったのに、今はそういう声音までもが好ましく感じられてしまう。人間の心理というのは不思議なものであった。


「ああ、うん、そのお話ね。……あたしもやっぱり家に戻るよ、九条さん」


「え?」とレオナが身を起こす気配がした。

 見上げると、暗がりの中にレオナのしなやかな上半身の影が見える。


「帰ってしまわれるのですか? どうせ学校が始まるまで、あと三日しか残されていないのですよ?」


「うん。だけど三泊もさせてもらって、あと二泊ものばすのは、さすがに申し訳ないかなーと思ってさ。亜森さんにもずるいーって言われちゃうし」


「べ、別にわたしは、そのようなことは……」


「あはは、ごめんごめん。それを抜きにしても、やっぱり帰るよ。あたし、九条さんに甘えすぎちゃうからさー」


「甘えすぎということはないと思います。遊佐さんは今、とても不自由なお身体なのですし」


 レオナはじっと柚子のほうを見つめているようだった。

 自分だけ寝そべったままでは何だなと思い、柚子も身を起こすことにした。

 少しだけ距離が近くなり、レオナの表情がぼんやりと見える。

 レオナは普段通りのクールな面持ちで柚子を見つめていた。


「……身体のことじゃなく、精神面の問題かな。ほら、九条さんはアリースィとのことまで、色々とお世話をしてくれたじゃん?」


「それがご迷惑でありましたか?」


「まさか! その逆だよ! ありがたすぎて、涙が出るぐらい! もうさ、九条さんの優しさとか気づかいが嬉しすぎて、とろとろに溶けちゃいそうなの」


 おどけた調子を保持しながら、柚子は本心を語っていた。

 この三日間で、柚子はいっそう九条レオナという存在に魅了されてしまったのである。


「だから、これ以上九条さんの優しさにどっぷりひたっちゃったら、社会復帰できないような気がしてきちゃったんだよねー。五泊もしたら、家に戻ったときの反動もものすごそうだし! 想像しただけで背筋も凍る!」


「……ですが……」


「あとさ、あたしがお家にいると、九条さんまでジムに行きにくくなっちゃうでしょ? ただでさえ今日もつきあいで休ませちゃったから、それも申し訳なくってさー」


「別に私は遊佐さんとのつきあいで休んだわけではありません。春休み中は週に五、六回のペースだったのですから、その休日を今日に当てただけです」


「うん、だから明日とか明後日はジムに行く予定なんだよね? そのお邪魔をしたくないんだよ。……自分が九条さんの重荷になっちゃうなんて、絶対にやだから!」


 レオナは暗がりの中で溜息をついたようだった。


「そうですか。もうお気持ちは固まっておられるようですね。それでは無理に引き止めることもできません」


「あはは。別に引き止める理由もないっしょ。二月のときだって同じ状態だったんだから、これぐらいの怪我はどうってことないよー」


「いえ、怪我のほうももちろん心配なのですが……遊佐さんはこのまま始業式まで泊まっていかれるだろうと考えていたので……正直、落胆しています」


「んにゅ? 落胆とな?」


「はい。遊佐さんに五泊もしてもらえるなら楽しいなと期待してしまっていたので」


 柚子は、見えないジャブで鼻っ柱を叩かれたような気分であった。


「く、九条さん……実に見事なジャブをお持ちで……」


「はい? ジャブがどうかしましたか?」


「いや、ジャブどころじゃないよー! 三日月蹴りでレバーをえぐられた気分!」


「遊佐さんにはまだ三日月蹴りをくらわせた覚えはありませんが……」


 柚子は身悶えしながら、亜森のほうを振り返った。

 いつの間にやら亜森も布団の上に正座をして、半眼で柚子をねめつけている。


「亜森さん、どうしよう! 固めた決心があっけなく崩落しそうなんだけど!」


「……別に、好きになさったらいいのではないですか?」


 亜森の顔中に「ずるいです」の五文字がくっきりと浮かびあがっている。

 柚子はもうひとしきり煩悶してから、新たな決断を下した。


「九条さん、それではあの、舌の根もかわかぬ内に何なのですが……明日の昼には亜森さんと一緒に帰って、明後日の夜にまたおうかがいするという方向ではいかがでしょうか……?」


「それなら、始業式の日は一緒に登校できますね」


 レオナははにかむように口もとをほころばせた。

 子供のように無邪気な笑顔である。

 柚子には、ここが限界であった。


「九条さん、こちらにいらっしゃいまし」


「はい? 何ですか?」


「いいから、いらっしゃいまし」


「何だか不穏ですね」


 小首を傾げつつ、レオナがベッドを下りてきた。

 柚子は左手で毛布をめくり、「どうぞ」と指し示してみせる。


「いや、意味がわからないのですが」


「今日は川の字で眠りにつきましょう。もちろん九条さんが真ん中なのです。そうすれば、亜森さんのずるいですゲージも臨界突破することはないかと思うのです」


「ますます意味がわかりませんし、その口調は何だか薄気味悪いです」


「いいから、今日は一緒に寝るのー! 火をつけたのは九条さんなんだから、鎮火をする責任が生じるはず!」


「ですから、意味がわかりませんってば」


 柚子は面倒くさくなったので、レオナの片腕を抱え込み、布団の上に転がることにした。

 しかたなさそうに追従してくるレオナの腕を、ぎゅうっと抱きすくめる。


「あーもう、九条さんに甘えるのはほどほどにって考えてたのに、初日から台無しだよ! 九条さんはジゴロだね! ジゴロウだね!」


「ジゴロウって誰ですか」


「亜森さん、申し訳ないけど、毛布をかけてくださいます? そんでもって、あなたもジゴロウさんの温もりを満喫するとよいです」


 亜森は「何を仰っているのですか……」とつぶやきながらも柚子の要請に応じ、それから自分も布団に潜り込んだ。レオナの上には、左右から二人分の毛布をかぶせられている格好である。


「あ、あの、左右から拘束されていると、なかなか寝つけないように思えるのですが」


「だいじょぶだいじょぶ」


「いえ、私が大丈夫ではないのです」


 しかし柚子はこの温かい腕を解放する気はなかったし、亜森とてそれは同様だろう。

 ということで、気にせずまぶたを閉ざすことにした。


「おやすみなさい、九条さん。あらためまして、大好きだよ」


「それは恐縮です。って、私は抱き枕ではないのですよ?」


 柚子はくすくすと笑いながら、レオナのやわらかい肩に頬をこすりつけた。

 やわらかいが、しっかりと筋肉の張った力強い肩だ。


 レオナであれば、柚子が全力で甘えても、簡単にそれを支えてくれるのかもしれない。

 だけどそれでは、あまりに申し訳なかった。

 友達関係というのがどういうものであったか、すっかり失念してしまった柚子ではあるが、一方的に甘える関係など不毛だし、長続きするとは思えなかった。


 だからいつか、自分もレオナを支えてあげられるような、そんな力強さを身につけたい。

 そんな風に考えながら、この夜だけは全力でレオナに甘えさせてもらうことにした。

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