07 緊急避難
翌日の、昼休みである。
弁財女子学園の食堂において、レオナが亜森や咲田桜とともに昼食をとっていると、遊佐文香がひたひたと近づいてきた。
「あれ? 遊佐先輩、今日はどうしたんすか?」
咲田桜の言葉を無視して、遊佐文香はレオナのすぐそばに立ちつくした。
レオナはフォークを皿に置き、そちらに向きなおる。
「柚子さんは、どこですか?」
「さて、何のお話でしょう?」
遊佐文香は、能面のような無表情であった。
その唇から、体温の感じられない言葉がつむがれる。
「おとぼけにならないでください。あなたがたと家を出たまま、柚子さんは朝になっても戻ってこなかったのです。……未成年者の家出を幇助すれば、略取誘拐の罪に問われることもありえるのですよ?」
「ええ、どうやらそうみたいですね。ですから、遊佐さんを私の家に迎えたりはしていません。あなたに見つからないように、ビジネスホテルやインターネットカフェなどで過ごすおつもりなのではないでしょうか」
「……そういった場所が未成年者の宿泊などを許すはずがありません」
「ええ。ですが、中には管理のずさんな店舗もあるようですね。それがどの店であるのかは、私も聞くことができませんでしたが」
というのが、柚子の描いた筋書きである。
本当は、レオナも亜森も柚子の居場所を知っている。それを隠して、遊佐文香を煙に巻くのがレオナたちの使命なのだった。
「……そのような真似をして、いったい何になるというのですか?」
いくぶんトーンの下がった声で、遊佐文香はそう問うてきた。
レオナはぴしりと背筋をのばしたまま、静かに応じてみせる。
「少なくとも、あなたとは顔をあわさずに済みますね。それがおたがいのためであるという遊佐さんのお気持ちを汲んであげたらいかがでしょうか?」
遊佐文香は、しばらくガラス玉のような目でレオナを見下ろしていた。
それから、別れの挨拶もなく、ふいっと身をひるがえしてしまう。その性急な立ち居振る舞いが、彼女の内心を何よりも如実に表していた。
「い、今のは何のお話っすか? まさか遊佐先輩は……ああもうややこしいな! 柚子先輩は、家出しちゃったんすか?」
咲田桜がそのように問うてきたので、レオナは「はい」とうなずいてみせた。
「は、はいじゃないっすよ! 何を落ち着き払ってるんすか! そんな大事なこと、どうしてあたしに教えてくれなかったんすか?」
「だって、欠席しているという説明だけで、咲田さんは納得されているようでしたから」
「九条先輩たちが平然としてるから、そんな大ごとだとは思わなかっただけっすよ! 柚子先輩は、大丈夫なんすか?」
「大丈夫です。少なくとも、今のところは」
朝方に、レオナと亜森はそれぞれ電話で柚子からの連絡を受けている。柚子はこのまま数日間、来たるべき日が来るまで行方をくらませる算段であったのだった。
(あたしだって、本当は一緒にいてあげたかったけどな)
しかしそれでは遊佐文香につけいるスキを与えてしまうかもしれないし、柚子自身からも猛反対をくらっていた。だからレオナも、腹の底に渦巻く不安感を力ずくでねじ伏せて、こうして普段通りの生活に身を置いているのである。
柚子の計略がどのような形で実を結ぶかはわからない。
しかし柚子は自分の意志で、遊佐家という存在にどう向き合っていくべきか、決断したのだ。友人という立場に過ぎないレオナは、どんなに心配でもそこに横槍を入れることはできなかった。
(本当に、どういう形で決着がつくんだろうな。今より悪い形に落ち着くことはない、と信じたいところだけど……)
その決着の日にだけは立ちあわせてほしいと、レオナは頼み込んでいる。だから、それまではこうして時が至るのをひたすら待ち続けるしかなかった。
「……柚子先輩は、『シングダム』も辞めちゃうんすか?」
咲田桜が、とても心配げな面持ちでそう問うてきた。
レオナは「いえ」と首を横に振ってみせる。
「そうならないように、遊佐さんは頑張っているのです。咲田さんも遊佐さんを信じて、待っていてあげてください」
「はあ。九条先輩がそう言うなら、黙って待ってますけど……でも、何かあたしでも力になれることがあったら、何でも相談してくださいね?」
その言葉には、レオナも思わず口もとをゆるめてしまった。
「はい。咲田さんでお役に立てることは何ひとつないと思いますが、そのお気持ちだけはありがたくいただいておきます」
「役に立たないってことを強調しないでいいっすよ! ったくもう……」
その日の昼休みは、それで終わることになった。
次に異変が生じたのは、放課後になってからのことだった。
『シングダム』に、謎の電話が入ったのである。
「おい、ちょっと集まってくれ。今、おかしな電話が入ったんだがな」
と、事務室から出てきた黒田会長が困惑顔で女子ジム生のほうに近づいてきた。
「柚子を家にかくまっている人間はいないか。もしもそのような真似をしていたら、しかるべき措置を取らせていただくって内容だったんだが……何か心当たりのある人間はいるか?」
しかたなく、レオナは「はい」と手をあげることになった。
「ここだけの話なのですが、遊佐さんは現在、家出中なのです」
「家出!?」と目を剥いたのは、景虎であった。
「そいつは穏やかじゃないね。家のほうが落ち着くまで、しばらく練習には出られない……って話じゃなかったのかい?」
「はい。それも嘘ではありません。現在は、家の問題を片付けるために待機している状態なのです」
「……まさか、九条さんの家でかくまってるわけじゃないだろうね?」
「はい。私はそうしたかったのですが、遊佐さんに断られてしまいました」
すると、伊達がおっかない顔で「おい」と詰め寄ってきた。
「そういう大事な話を隠してんじゃねえよ。いざってときに、余計ややこしい話になるだろうが?」
「申し訳ありません。こちらにまで捜索の手がのびるとは思っていませんでした。……でも、警察などが介入してくることはないはずです。そもそも遊佐さんのお父さんは、いまだに遊佐さんが家出したことすら知らないはずなのですから」
「あん? だったら、今の電話は何なんだよ?」
「それは私にもわかりません。相手は名前を名乗られたのですか?」
レオナが問うと、黒田会長は「いや」と首を振った。
「『遊佐家の者です』としか言ってなかったな。年をくった男の声で、たぶん柚子が早退したときにかかってきた電話の相手と同じやつだと思う」
「そうですか。それならきっと、遊佐さんのお姉さんの運転手だか護衛役だかなのでしょう。遊佐さんのお父さんであれば、きちんと名乗るでしょうから」
それもまた、柚子の見越した通りの展開であった。
遊佐文香は父親の前で猫をかぶっているので、きっとこのような事態を相談したりすることもできないだろう、と予見していたのだ。
なおかつ、柚子らの父親は、現在も海外に出張中であるのだ。
その父親が戻る前に、遊佐文香は何とか隠密裏にこの事態を収拾しようとするだろう、と柚子はそのように述べていた。
「……お前は柚子の居場所を知ってるのかよ?」
と、伊達がさらに詰め寄ってくる。
胸ぐらをつかまれないように、レオナは一歩だけ後ずさった。
「はい、いちおう知っています。みなさんも、だいたい察しはつくでしょう?」
「あん? そんなの、わかるわけねえだろ! まさか、ネットカフェだの何だのじゃねえだろうな?」
「もっと快適で、安全に数日を過ごせる場所です」
「ああ」と景虎が手を打った。
「なるほど」と晴香もうなずいている。
レオナは、慌ててそちらに向きなおった。
「あの、できれば心の内に留めておいてください。みなさんに家出幇助の嫌疑などかけられてしまったら大変ですので」
「警察なんかが絡んでこなきゃ、何も心配する必要はないだろうさ。……で、それは数日限りの篭城戦だってんだね?」
「はい。さすがに永住することはできないでしょうから」
「わかったよ。それで柚子があのややこしそうな家と決着をつけられるってんなら、黙って見守ってやるさ」
景虎がそのように述べたてると、伊達が「ちょっと!」とわめき声をあげた。
「さっきから何なんすか? アタシだけ置いてけぼりにしないでくださいよ!」
「カズにだって、わかるだろ? アリースィや咲田さんにはチンプンカンプンだろうけどさ」
言われた通り、アリースィと咲田桜はそろって首を傾げていた。
そのかたわらで、乃々美は「ふん」と鼻を鳴らしている。
「そういうことか。ま、それなら心配はいらないだろうね」
「何なんだよ!? 柚子の馬鹿はどこに逃げ込んだってんだ!?」
「放っておきなよ。家庭の問題に僕たちが首を突っ込んだってしかたないんだからさ」
そのように言いながら、乃々美はパンチンググローブをつけた手で晴香のTシャツを引っ張った。
「じゃ、スパーの続きだね。もう一回、一ラウンドからやりなおし」
「げー、ののっちはタフだなあ! そろそろカズっちかレオっちにパスしちゃ駄目?」
「伊達ならいいけど、九条は嫌だよ。僕の階級に九条みたいな大女はいないんだから、距離感が狂っちゃうじゃん」
「何気なく私を傷つけるのはやめてください、蜂須賀さん」
そんなこんなで、『シングダム』における騒ぎも収まることになった。
たいていの人間は心配そうな顔をしていたが、やはり自分が関わるべき問題ではない、と判断したのだろう。立場のある人間が関われば余計にややこしい話になり、柚子の目論見に悪い影響を与えかねない、と考えてくれたのだ。
(みんな、大人だよな)
レオナとしては、こうしている現在も心配で心配でたまらないほどだった。
できることなら、今すぐにでも柚子のもとに駆けつけたい。たとえそこがどれほど安全な場所でも、柚子は為すべきこともなく、ひたすら孤独と戦っているはずなのだった。
(早くて四日、長引けば一週間ちょいって話だったよな。頼むから、長引かないでくれよ)
そのように願いながら、レオナは中断していた練習を再開させることになった。
◇◆◇
そうして時が満ちたのは、それから五日後のことだった。
そろそろ昼休みを終えようかという頃合いで、亜森の携帯端末に柚子からの連絡が入ったのだ。
『今日の放課後、作戦決行をお願いします!』
亜森が見せてくれた端末には、そのようなメッセージが受信されていた。
レオナは内心で「よし!」とガッツポーズを取る。
「いよいよですね。どうかお気をつけください、九条さん」
「はい。どのような形に落ち着くか、見届けてきます」
あまり人数が増えると具合が悪いし、亜森も急な遠出が許される立場ではなかったので、本日は参席をあきらめることになっていたのだ。
そんな亜森の分まで、レオナは遊佐家のお家騒動を見届けてやろうと決意していた。
はやる気持ちを抑えながら午後の授業を切り抜けて、帰りのホームルームが終わるなり、教室を飛び出す。
目指すは、三年一組の教室だ。
レオナは、ちょうど教室を出て昇降口に向かおうとしていた遊佐文香を捕獲することができた。
「遊佐文香さん、この後、時間をいただけますか?」
遊佐文香は、能面のような無表情でこちらを振り返った。
柚子が五日間も行方をくらますことになり、いったいどのような心情を抱え込むことになったのか。レオナの問いかけにも、答えようとはしない。
「遊佐さんから連絡が入ったのです。よろしければ、一緒にそちらに向かいませんか?」
遊佐文香の眉が、数ミリだけ蠢いた。
「……場所をお教えください。わたしが迎えに参ります」
「いえ。同行させていただけないのなら、私は一人で向かうことにします。遊佐さんとも、そういう約束になっていましたので」
遊佐文香は、無言で歩き始めた。
レオナもまた、無言でその後をついていく。
昇降口でいったん別れてから、いそいでローファーに履き替えて、また遊佐文香の後を追う。
そうして並んで校門を出ると、見覚えのある黒い外車が道の端に停められていた。
遊佐文香が近づくと、後部座席の扉が音もなく開く。
遊佐文香はゆったりとした所作でそれに乗り込みながら、低い声で運転手に何事かを告げたようだった。
レオナは少し離れたところでそれを見守っていたが、扉が閉まる気配はない。
レオナの同行を許す、ということなのだろう。
たっぷり五秒ぐらいは様子を見てから、レオナもまたその広々としたスペースに侵入させていただいた。
「申し訳ありませんが、まず第三京浜道路という道にお願いいたします」
レオナの言葉を聞くと、運転手は無言で車をスタートさせる。
相変わらず、気持ちが悪いぐらい駆動音の聞こえない車であった。
「……いったいどこに向かわれるおつもりなのですか?」
ひさびさに遊佐文香が口を開いたので、レオナはそちらに向きなおった。
「もうしばらくは秘密にさせてください。途中で放り出されてしまったら、私も困ってしまいますので」
「……わたしがそのような真似をするとお思いですか?」
「はい。どのような真似をしてもおかしくはない御方だと思っています」
半分本気、半分冗談で、レオナはそのように答えてみせた。
もっとも、この車には初老の運転手と遊佐文香しかいなかったので、どのような事態に陥っても切り抜ける自信はある。
「まあ、到着までは一、二時間ほどかかるでしょうから、あまり気を張る必要はないかと思います」
「……柚子さんは、そのような遠方にまで出向かれているというのですか?」
「はい。近所のインターネットカフェやビジネスホテルなどを捜されていたのですか? 私もまったく詳しいわけではありませんが、やはり未成年のお客を保護者もなしに宿泊させる場所などそうそう存在しないと思いますよ」
「…………」
「あなたがきちんと遊佐さんとコミュニケーションを取っていたのなら、彼女が逃げ込む場所ぐらいすぐに見当がついたでしょうにね」
我ながら意地の悪い発言だと思いながら、レオナは自分を止めることができなかった。
だけどそれは、真実であろうと思う。景虎たちは、すぐに察しをつけることができたのだ。家と学校とジムを往復するばかりであった柚子の逃亡先など、ごく限られているのである。
遊佐文香は一度まばたきをしてから、運転手のほうに向きなおった。
「……この道は、茨城の方面に通じているのですか?」
運転手の返答は「否」であった。
「こちらの道ですと、世田谷区を越えたのちに、大田区か川崎市に抜けることになります」
「……そうですか」
茨城というのは、かつて柚子と母親が暮らしていた場所だ。
そこに柚子が逃げ込む場所などは残されていない。彼女には、そのようなこともわからないのだろう。
残りの二時間ほどは、無言で過ごすことになった。
要所要所でレオナは道筋を案内したが、もはや遊佐文香が口をはさんでくることはなかった。
そうして辿り着いたのは、鎌倉である。
やはり昼時よりは夕方のほうが、道も混雑しているのだろう。以前にレオナが同じ道を通ったときよりも、格段に時間がかかっていた。
いつしか、窓の外は暗くなってしまっている。
ずっとそちらに目をやっていた遊佐文香は、目的地に到着する寸前で「ここは……」と声をあげていた。
「ええ。あなたはもう何年もこちらにいらしたことがなかったそうですね。あなたのお父様がお建てになられた、鎌倉の別荘ですよ」
それは、昨年末に『シングダム』の女子メンバーが合宿と称して借り受けた場所であった。
また、そこは毎年合宿に使われていたし、遊佐家の他の人間はまったく利用する予定がなかったので、ずっと柚子が鍵を預かっていたのである。
この場所ならば、柚子でも平穏に数日間を過ごすことができる。
そのような判断で、潜伏場所に選ばれたのだった。
近在の家屋も、みんな別荘であるのだろう。遊佐家の別荘の他には、光が灯っている家屋もない。
その明かりにひきつけられる羽虫のように、レオナたちを乗せた車は門の前で停車した。
「さあ、遊佐さんがお待ちですよ」
レオナは、さっさと車を降りた。
遊佐文香は、無言で後を追ってくる。
およそ四ヶ月ぶりの、遊佐家の別荘であった。
勝手知ったる何とやらで、レオナはずかずかと玄関へと足を向ける。
呼び鈴を鳴らすと、しばらくののち、柚子が顔を出した。
「いらっしゃい、九条さん。道案内、どうもありがとう」
「いえ。同行を願ったのは私なのですから、お礼には及びません」
柚子はうなずき、遊佐文香に向きなおる。
「また顔をあわせてしまいましたね。うまくいけば、今日を最後に顔をあわせることはなくなるでしょうから、少しの間だけ我慢してください」
遊佐文香は何も答えようとしなかった。
その顔は能面で、その瞳はガラス玉だ。
柚子はちょっと苦しげに眉をひそめてから、来客用のスリッパを玄関口に置いた。
三人は無言のまま、リビングに向かう。
学校から直行したレオナたちは制服姿のままであるが、柚子は部屋着のジャージ姿だ。一世一代の勝負をかける夜であるのに、外見上の緊張感は見られない。
「さあ、どうぞ。ミネラルウォーターぐらいしかありませんけど」
卓の上には、二リットルのペットボトルがででんと置かれていた。
その無造作な有り様に、レオナは思わず微笑んでしまう。
「遊佐さん。この五日間、食事や洗濯は大丈夫でしたか?」
「うん。食事はレトルトばっかりだったけど、洗濯なんかは頑張ったよ」
ソファに腰をおろしながら、柚子もにこりと微笑んだ。
五日前に別れたときと同じ、無邪気で柚子らしい笑顔である。
それでようやく、レオナは心から安堵することができた。
「お元気そうで何よりです。この五日間は、さぞかし退屈だったことでしょう」
「うん。ロードワークと自重トレーニングぐらいしかやれることはなかったからねー。あとはひたすら、ノートパソコンで古い試合の映像とかをあさってたよ」
レオナも着席させていただいたが、遊佐文香はソファのかたわらに立ったままであった。
「柚子さん、あなたは……いったい何を考えて、このような真似に及んだのですか?」
柚子は表情をあらためて、遊佐文香に向きなおる。
「それは以前に言った通りです。おたがいに顔をあわさないほうが幸福だろうと思ったんです」
「……それで別荘に逃げ込んで、家出ごっこですか」
「はい。緊急避難というやつですね。もちろんこんなのは、一時しのぎですよ。だから今晩は、おたがいに納得いくまで話し合って、進むべき道を決めたいと思います」
そのとき、リンゴーンという重々しい音色が響きわたった。
レオナが初めて耳にする、この家屋の呼び鈴である。
「あ、やっと来た。ちょっと待っててくださいね」
柚子はぴょこんと立ち上がるや、そのままリビングを駆け出していってしまった。
遊佐文香と二人きりで残されて、レオナは再び気詰まりな時間を過ごす。
数秒後、柚子は新たな来客を引き連れて戻ってきた。
「お待たせしました。これで全員ですね」
柚子とともに、すらりとした人影が入室してくる。
それは、仕立てのいいスーツを着込んだ壮年の男性であった。
身長は人並であるものの、手足が長いために颯爽として見える。四十路は過ぎていそうな風貌であるが、目もとは涼しげで、彫りの深い端正な顔立ちをしている。目もとの笑いじわがとても優しげで、若い頃はさぞかし異性に騒がれただろうな、というたたずまいだ。
その人物の姿を目にした瞬間、遊佐文香の能面じみた顔に初めて亀裂が走った。
「やあ、ちょっとひさびさだね、文香」
低くて落ち着きのある声で、その男性はそう言った。
遊佐文香は、ゼンマイの切れかかった人形のような仕草でぐらりとよろめく。
その口からこぼれたのは、「お父様……」という弱々しい声であった。
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