ACT.3
01 予期せぬ来訪者
そしてその日が訪れた。
十一月の最初の日曜日、『ヴァリー・オブ・シングダム ボリューム2』の開催日である。
場所は『恵比寿AHEAD』という格闘技専用のイベントホールで、集合時間は午後の一時四十五分であった。
控え室に荷物を置いて、トレーニングウェアに着替えたら、まずはリングのある試合会場に向かう。二時からはルールミーティング、二時半からはメディカルチェックとアマチュア選手の計量、およびバンテージのチェック、それが済んだら開場時間の四時まではウォーミングアップと栄養補給、というタイムスケジュールが定められていた。
「うわー、何だかドキドキしちゃうね!」
ともに会場入りを果たした柚子が、レオナの左腕を抱きすくめてくる。
二人の眼下には白いリングと、会場の設営をしているスタッフたち、それにわらわらと集まり始めている出場選手たちの姿があった。
本日は、男女プロアマ取り混ぜて、十二試合が執り行われる。ということは、選手だけで二十四名、セコンド陣をふくめれば七、八十名もの人間が集まることになっているのだ。
その全員が格闘技にたずさわる人間なのだなと考えると、レオナも奇妙な気分になってしまう。その全員に襲いかかられたら、さすがに逃げるほかないか───などと考えてしまうのは、羽柴塾出身の悲しき性であった。
「よし、それじゃあみんなと合流しよっか」
そのように言ったのは、案内役の晴香であった。
初めて試合に参加するレオナたちのために、晴香も恵比寿の駅前から同行してくれたのだ。
「よお、きちんと時間前にやってきたね。感心感心」
リングの前では、景虎と乃々美が待ち受けていた。
すでに全員が運動に適した服装に着替えている。
その中で、レオナと柚子はパーカータイプのジャージ姿で、フードを深々と下ろし、なおかつ顔の下半分を覆う花粉症用の白マスクまで装着している。「試合以外でも素顔は隠したほうが演出的に望ましい」という黒田会長の方針と「なるべく誰にも素顔をさらしたくはない」というレオナの気持ちが一致した結果であった。
「初試合のおふたりさんは大丈夫かい? ウォーミングアップは、普段よりも入念にね」
「はい! アップ前から血圧は上がりまくりですけどね!」
柚子は道中でもはしゃぎきっていたが、レオナは平常心であった。
これからすぐに試合でもかまわない、とすら思えてしまうのは、やはり羽柴塾でつちかわれた心持ちなのだろう。
そこに、ぞろぞろと近づいてくる者たちがあった。
「ハイ、アキラ。そちらの調子はどうかな?」
その中で、一番背の高い人物が気安く声をかけてくる。
といっても、やっぱりレオナのほうが五センチばかりは長身である。
浅黒い肌をした二十代半ばぐらいの女性で、外国人めいて彫りの深いその顔立ちには、レオナも見覚えがあった。去年もこの興行で景虎と対戦した、
「調子って、昨日も計量で顔を合わせたばかりじゃないか。たった一日じゃあ何も変わりゃしないよ」
景虎がそのように応じると、竜崎選手は妙に外国人めいた仕草で肩をすくめた。彼女は父親が米国人で、幼少期はフロリダで過ごしていたらしい。
「だけど一番大事なのはこの一日でしょ? アキラがリカバリーに失敗してたら、こっちは楽ができるんだけど」
「そいつは試合までのお楽しみさ。決着戦が楽しみだね」
両名はアマチュア時代からのライバル関係であり、対戦戦績は三勝三敗のタイなのだという話であった。本日は、いちおうの決着戦にあたるわけだ。
しかしやっぱり、ことさら仲が悪いわけでもないらしい。七センチばかりも身長差のある両者は、それぞれ不敵な笑みを浮かべながら楽しそうに視線を交わしていた。
「で、わざわざ試合前に挨拶回りかい? そういえば、あたしら以外はみんな初顔あわせなんだっけ」
「そりゃあそうでしょ。そっちにはふたりも新人選手がまざってるんだから」
そのようにのたまう竜崎選手の背後には、四名の女性が立ち並んでいる。
この四名が、レオナたちと対戦する『フィスト・ジム立川支部』の面々なのだろう。
「紹介しておくよ。そっちのふたりが、キックの試合に出る
石田葵に石田碧というのは、どうやら姉妹であるようだった。身長は十センチばかりも開きがあるのに、やたらと似通った風貌をしている。
ちょっと吊り目で猫っぽい顔立ちをしており、明るく染めあげた長い髪を、長身のほうは右側に、小柄なほうは左側に、それぞれサイドテールにしている。身長差さえなければ双子のようによく似た姉妹であった。
三船仁美というのは、ひょろひょろとした体格の大人しそうな女の子だ。身長は百六十センチ以上もありそうであったが、これが柚子の対戦相手ということは、規定体重は四十八キロのはずである。おかっぱ頭で、童顔で、さきほどからおどおどと視線をさまよわせており、とうてい格闘技の選手などには見えない。
そして、服部円である。
竜崎選手と同様に、ビデオの映像ですでに見た姿だ。
身長は百六十三センチ、規定体重は五十六キロ。十七歳で、得意技は右のフック。中学柔道では全国大会の出場経験あり。と、この選手に関しては、プロフィールまできっちり頭に残っている。
レオナよりも十センチほど小さくて同じウェイトであるのだから、当然のことながら、体格はがっしりとしている。それに、骨も太いのだろう。五キロから十キロは重いはずの景虎と、さほど印象の変わらない体格だ。
髪は短く、金色に染めており、顔つきは勇ましい。よく見ると年齢相応の顔立ちではあるのだが、表情のせいでやたらとふてぶてしく見えてしまう。光の強いその目には、早くも闘争心があふれかえっているようだった。
「それじゃあこっちも紹介しておこうか。こっちが先鋒の蜂須賀乃々美で、こっちが次鋒の蒲生晴香だよ」
晴香は「よろしく」と微笑みを浮かべ、乃々美は仏頂面で石田姉妹の小さいほうをにらみつけている。
「で、こっちが『マスクド・ダンデライオン』で、こっちが『マスクド・シングダム』。いちおうマスコミ側には伏せているけど、どうしても本名が知りたかったら後でこっそり問い合わせておくれ」
「よろしくお願いしまーす!」と柚子は元気な声をあげ、レオナはうっそりと頭を下げてみせる。
「……これが初の公式試合なら何のデータもないってことだから、本名なんてどうでもいいけどさ」
と、服部選手がハスキーな声で言い捨てた。
彼女は最初の最初から、レオナの姿のみを注視している。本名は伏せたまま、事前に選手プロフィールを送っているので、レオナを見間違えることもなかっただろう。これだけ大勢の女子選手が集まりながら、身長が百七十三・五センチもある人間はレオナぐらいしか存在しないのだ。
「でも、初の試合がクラスCプラスってのはどうなのかな。クラスCやクラスDの選手に申し訳ないって気持ちにはならないものなの?」
「ふむ。まあこの連中は『フィスト』の登録選手でもないからねえ」
苦笑しながら、景虎がそのように応じる。
それは日本国内で最大のMMA組織である『フィスト』の定めたクラス分けのことであった。
スタート地点はクラスDで、それが戦績を重ねることによってクラスCに昇格される。クラスBへの昇格はプロ選手としての認定であり、クラスCプラスというのは、プロ昇格目前のセミプロ、という扱いであるらしい。
つまり、『フィスト』の公式試合であるならば、それ相応の戦績を有していない限り、クラスCプラスの試合には出場できないことになるが、これは『シングダム』の主催する自主興行のイベントであるため、ルールの制定に関しては会長の黒田に一任されているわけだ。
服部選手は、景虎の言葉に納得した様子もなく「はん」と鼻息をふく。
「ようやくあの伊達とかいう選手とやりあえるチャンスが巡ってきたと思ってたのに、とんだ肩すかしだよ。言っておくけど、相手がどんなお粗末な新米選手でも、こっちは手加減なんてできないからね?」
「およしなさいな、マドカ。クロダ会長は生半可な相手をあなたにぶつけたりはしないでしょ。きっとこの匿名希望さんは、ダテ選手に匹敵するような期待の新星なのよ」
おどけた口調で、竜崎選手がそのように取りなした。
「それじゃあね。あとはリングで語りましょ。楽しい対抗戦になるように、全力ファイトで挑ませてもらうから」
そうして宣戦布告を終えた『フィスト・ジム立川支部』の面々は、レオナたちの前から立ち去っていった。
◇◆◇
レフェリーたちによるルールミーティング、リングドクターによるメディカルチェック、そしてアマチュア選手の計量とバンテージのチェックまで終えたら、あとは各自のウォーミングアップである。
『シングダム』の選手は全員が赤コーナーに割り振られ、なおかつ男女で部屋が分けられている。普段は大部屋に全員が詰め込まれるところを、本日は女子選手の試合が五組も組まれているということで、特別に小部屋を解放していただけたのだ。
日頃は物置として使われている空間なのだろう。八帖ていどの部屋の片隅には折りたたみ式の長テーブルや古ぼけたスピーカーなどが積まれており、壁にはとってつけたようなモニターが配置され、なかなか雑然とした様相である。
こちらの控え室にはトンチャイが出向いてきて、最後の調整に指示を出してくれた。普段のトレーニングでは場を仕切っている景虎も本日は出場選手のひとりであるため、レオナたちの面倒を見ているゆとりもないのだ。
何せ十二名もの所属選手がいちどきに出場するのだから、コーチもセコンドも手が足りていない。控え室には、レオナには馴染みの薄いキック部門の女子門下生たちや、それに竹千代などが雑用係として駆り出されて、右へ左への大騒ぎであった。
「何試合もセコンドにつかなきゃならない会長たちは大変だよねー。余計な苦労をかけないように気をつけなくっちゃ!」
「なに言ってんのさ。選手のために苦労をするのがセコンドの仕事でしょ」
いつもの口調で柚子をやりこめてから、乃々美はトンチャイを捕獲した。
「さ、この中では僕が一番手なんだからさ。開幕式の前に、もうひと汗かいておこうよ」
「そうだネ。ここは狭いから、外に行こうか」
トンチャイは笑顔でキックミットをつかみ取り、乃々美と一緒に控え室を出ていった。
いっぽう、レオナと柚子は並んで鏡の前に座らされてしまっている。
レオナは髪をこまかい三つ編みに、柚子はヘアアイロンで巻き髪にされている最中なのだった。
これは、素性を隠したいと願うレオナたちと、髪にも細工をしたほうがマスクが映える、と主張する晴香の利害が一致した結果である。
「これから赤の他人と殴り合おうというときに身だしなみを整えているみたいで、何だかおかしな気持ちですね」
「みたいじゃなくって、実際に身だしなみを整えてるんだよ。男子選手だって、この日に備えて髪を染めたり刈り上げたりしてるんだから、なおさら負けてらんないっしょ」
バンテージの巻かれた指先で、晴香は器用にレオナの髪に細工をしてくれている。いい感じにのびてきたレオナの毛髪のすべてを何十本という三つ編みに仕立てあげようというのだから、これは相当な手間であった。
「大丈夫ですか? 蒲生さんにも調整の時間が必要なのでしょう?」
「あー、気にしないでいいってば。何かしてたほうが、こっちも気がまぎれるからさ。ウォーミングアップの仕上げなんて、最初の試合が始まってからで十分だし」
女子選手の対抗戦は、MMAのアマ男子選手による二試合の後に予定されているので、先鋒の乃々美でも三試合目、次鋒の晴香でも四試合目となるのだ。現在は開場を目前に控えた四時前であり、四時半から開幕式、四時四十五分から試合開始と考えると、晴香の出陣までにはまだ一時間以上も残されていることになる。
ちなみに中堅は柚子、副将はレオナ、大将は景虎と定められている。
もともとセミプロ級であった伊達の穴埋めなのだから致し方ないが、一番の新米である自分が副将戦となってしまうのがレオナにとっては心苦しいところであった。
(できることなら、勝利でみんなに貢献したいところだよな)
レゲエのシンガーみたいな頭に変貌していく自分の姿を見つめながら、レオナはぼんやりそのようなことを考えた。
体重はこの二ヶ月で五十七・五キロにまで増量してしまったが、景虎たちのアドヴァイスによる練習と食事で調整をし、さきほどの計量では見事五十五・九キロであった。その後にバナナとゼリー飲料で栄養と水分を補給し、驚くほどに身体は軽い。
この二ヶ月間で、コンディションはほぼ万全に戻っていた。
体力面においても、羽柴塾の道場でしごかれていた頃とほとんど遜色はないように思う。
戦術や戦略に関しても、竹千代や景虎や黒田会長とともに練りに練りあげ、現状で考え得る限りの準備をしてきている。
人事は尽くしたのだ。
あとは天命を待つばかりである。
MMAの競技者として、優れているのは自分か服部選手か。それを試し合うのみだ。
(でも……)と、かすかな疑念が心をかすめていく。
この二ヶ月間、常に心の一番深いところに潜んでいる疑念だ。
それは、(こんなことをして、いったい何になるのだろう?)という身もフタもない疑念であった。
むろん、伊達に怪我をさせてしまった落とし前をつけるために、恥ずかしくない試合をしよう、とは思っている。
どんなに追い詰められようとも、絶対に反則などするものか、と心に固く誓ってもいる。
だが、そうと考えているがゆえに、レオナは最終的な目標を見失ってしまっていたのだった。
「勝利すること」が絶対条件なわけではない。実際に伊達が出場したって勝利できるかはわからないのだから、レオナはこの二ヶ月間で得たもののありったけをぶつけて、後は結果を待つしかないのだろう。
そうすれば、自分は伊達に怪我をさせてしまったという負い目から解放されるのだろうか。
そして、どうして柚子や景虎たちが格闘技などというものに没入しているのか、その意味を理解することができるのだろうか。
わからない。
この試合を経て、自分はどのような気持ちを得るのか、それがわからないゆえに、レオナはどうしても疑念を抱えずにはいられないのかもしれなかった。
「はい、おしまい」と、ふいに頭をぽんと叩かれた。
鏡の中で、晴香がにっこり微笑んでいる。
「どうかな? あたし的には会心の出来なんだけど」
レオナのセミロングの髪は、つけねから毛先までが残らず三つ編みに仕立てあげられていた。
一本の太さが一センチにも満たない三つ編みで、しかもその一本ずつに銀色の飾り紐が編み込まれている。何だか頭から何十本という細い鎖が垂れ下がっているかのような様相だ。
「ええと……何かの映画でこういう頭をしたモンスターを観たような気がしますね」
「つまりは迫力満点ってことかな? それならばっちりだ。……お、開場したみたいだね」
晴香の視線を追ってみると、壁に設置されたモニターの画面に変化が生じていた。綺麗に設置されたパイプ椅子の間を、ちらほらと人影が歩いていたのだ。
控え室の選手は、ここで他選手の試合をモニタリングすることができる。ついでに言うならば、このモニターに映る映像がのちに編集され、CSテレビで放映されたりDVDソフトとして販売されたりもするのだった。
現在はカメラや音声のチェック中なのだろう。スポットに照らされた白いリングが色々な角度から映し出されて、お客のざわめきが近くなったり遠くなったりしている。
「うわー、本当にお客さんの前で試合をするんだね! 今さらながら、ドキドキしてきちゃったなあ」
一足先にヘアメイクを終えていた柚子が、興奮しきった声をあげた。
もともとふわふわとした猫っ毛がヘアアイロンでくるくるに巻かれて、それこそライオンのたてがみみたいに膨張してしまっている。
「ハルさんハルさん、チケットって、けっきょくどれぐらい売れたんでしたっけ?」
「さあ? 最後に聞いたときで半分ぐらいだったかな。ま、招待客やら当日券のお客さんやらをこみこみで、三分の二も埋まれば上等でしょ」
「ここの収容人数って千二百ぐらいでしたよね? それで三分の二ってことは……八百人かあ! すごいなあ」
「ゆずっちたちは、けっきょく一枚もさばかなかったんだっけ? アマ選手でもチケットをさばけばマージンが出るんだよ?」
「あはは。正体不明のマスクマンなんだから、お客の呼びようがないですよー。ね、九条さん?」
「そうですね」
なるべく正体を隠匿したいのに、みずから客など呼べるはずもない。唯一来場を願っていた母親も、幸いなことに仕事の都合がつかなかったので、客の中にレオナと柚子を知る人間はひとりとして存在しないはずであった。
はしゃぐ柚子を横目でぼんやり見やりながら、レオナはパイプ椅子に座りなおす。
(この試合が終わったら、期末試験に集中しなくちゃなあ)
この二ヶ月間で何が一番つらかったといえば、それはやっぱり中間考査のテスト期間であった。睡眠時間を削ってはトレーニングに支障が出てしまうため、レオナは分刻みのスケジュールを組んで、何とかその試練を乗り越えてみせたのである。
結果は学年二位であり、一位は亜森紫乃であった。べつだん亜森と首位争いをするつもりはなかったので、上々の成績だ。レオナとしては、今から三週間後に控えている期末考査においても、この成績を死守する心づもりであった。
(……本当に、勉強とトレーニング漬けの二ヶ月だったなあ)
この二ヶ月の間に、弁財学園においては文化祭と体育祭が執り行われていた。が、クラスで孤立していたレオナと柚子に何か重要な役目が回されることはなく、ただ淡々と行事をこなしていた記憶しか残ってない。唯一厄介であったのは、徒競走を見ていた上級生が執拗に陸上部へと勧誘してきたことぐらいであった。
(もしもこの試合で気持ちにけじめがつけられたら、『シングダム』に通う意味もなくなって、ひたすら勉強の日々になるわけか)
だけどまあ、それがレオナの本道であるはずだった。
レオナの我が儘で費用のかかる私立校に編入させてもらったのだから、大学は絶対に公立校に合格してみせる。そうして立派な職について、苦労をかけた母親に恩を返すまで、レオナは学業に集中しなければならないのだ。
「どしたの、九条さん? 何か考え事?」
にゅうっと視界に柚子の笑顔が侵入してくる。
レオナはバンテージの巻かれた手の甲でそれを押しのけた。
「試合の前に遊佐さんの心を乱しても悪いので、黙秘権を行使します」
「何それー! その発言自体であたしの心は乱れまくりなんですけど!」
レオナが『シングダム』に通うのを辞めたら、柚子はどれほど悲しむだろうか。
しかし、柚子の心の安息のためだけに、時間と月謝を無駄にするわけにはいかなかったし───また、レオナが『シングダム』に通うことを「無駄」と感じるようになってしまったら、どの道この関係も維持できないだろう。
それを考えると、むやみに心が重くなってしまう。
なので、レオナはなるべく今日以降のことを考えないように努めていたのだった。
「九条さんって、ここぞというときにドSだよね! 普段が優しいもんだから、その落差であたしの心はメタメタだよ!」
「ええ? べつに普段から遊佐さんに優しく接しているつもりはないのですが……」
「そーゆー発言がドSだって言ってんの! やんなっちゃうなあ、もう」
と、珍しくも本格的にすねた様子で、柚子はそっぽを向いてしまった。
が、ニンジンを取り上げられたウサギていどのすね方にしか見えないので、晴香を筆頭に控え室のメンバーはくすくす笑っているばかりである。
そのとき、そっぽを向いたはずみでまたモニターを見つめる格好になった柚子が「あり?」と小首を傾げた。
それと同時に、控え室のドアが乱暴に外から叩き開けられる。
「ねえ、あいつは何なのさ? まさか、嫌がらせにでも来たっての?」
入室してきたのは、乃々美であった。今までウォーミングアップしていたのだろうか。細い顎から汗がしたたっている。
その普段以上に不機嫌そうな顔を、柚子はいくぶん慌て気味に振り返った。
「や、やっぱりコレってそうだよね? うわー、どうしたんだろ。こいつはちょっとマズいかもよ、九条さん?」
「いったい何がどうしたというのですか? ずいぶん慌てているようですが」
「何って、コレだよコレ! よーく見てごらん?」
柚子が指し示しているのは、モニター画面の右上の隅であった。
いつの間にか画面はせわしなく切り替わるのをやめて、同じ角度からリングを映し続けている。そのリングのマットと最下段のロープの間から、見覚えのある紺色が見えていた。
弁財学園の冬服のブレザーである。
さらにその上のロープとの間から見えているのは、黒縁眼鏡をかけた少女の顔だ。
亜森紫乃が、しれっとした面持ちでリングサイドの席に腰かけているのである。
そうと理解した瞬間、レオナは言葉を失ってしまった。
「あそこって、一番上等なかぶりつきの席じゃん。普通にチケットを買ったら、一万五千円だよ? ずいぶん手の込んだ嫌がらせをするやつだね?」
じとっとした目つきで乃々美が言うと、柚子は腹を下したウサギのような顔になってしまった。
そして、おもむろにジャージのポケットからガーゼのマスクを引っ張り出す。
「九条さん、あたし、ちょっと行ってくるよ。亜森さんがどういうつもりかわからないけど、よりにもよってこの席はまずいもん。これじゃあ弁財学園の制服がテレビでも放映されまくっちゃう」
「そうですね。わたしも行きます」
レオナもマスクを装着し、背中にはねのけていたフードをかぶりなおす。
そうして控え室を飛び出すと、トンチャイと打ち合わせをしていたらしい黒田会長が不思議そうに目を向けてきた。
「どうしたんだい? あと二十分ぐらいで開幕式だよ?」
「あ、はい、えーと……知り合いが客席にいるみたいなんで、ちょっと挨拶してきます!」
「そうか。十分前には戻るようにね」
「はい!」
柚子とともに、通路を駆ける。ここは二階の関係者用通路で、手すりの向こうに試合会場を見おろせる造りであった。最前列のパイプ椅子に陣取った亜森の姿を、乃々美はここから確認したのだろう。
「どーすんの? 会場の外に叩き出すんなら、僕も手伝ってあげるけど」
ぎょっとして振り返ると、その乃々美が音もなく追走してきていた。
「暴力沙汰にはできません。……でも、このまま放っておくこともできないでしょう」
「ふん。野次を飛ばすぐらいなら上等だけどさ、もしもあいつが試合を妨害するような真似をしたら、僕がただじゃおかないからね?」
亜森とて、そこまで無法な真似はしないだろう。
だが、このままでは亜森の存在そのものが、レオナたちの正体の露見につながってしまうかもしれないのだ。
コンクリや鉄骨の剥き出しになった細い通路を走りながら、レオナは我知らず唇を噛むことになった。
階段を下り、通路の出口にたたずむスタッフにバックステージパスを提示し、客席に出る。
客席には、まだ四割ていどのお客しか入場していなかった。
それでも関係者しかいなかった先刻までとは比べ物にならぬほどの熱気とざわめきが満ち始めている。
座席の間を速足で通り抜け、レオナたちは亜森の前に立った。
「あら、九条さんと遊佐さんですね?」
腹が立つほど落ち着き払った声で、亜森はそのように述べてきた。
やはり、弁財学園の制服姿である。背もたれには寄りかからずに真っ直ぐ背をのばし、そろえた膝の上でお行儀よく手を重ねた、学校の教室で見る通りのクラス委員長の姿であった。
「四時三十分に開演と聞いていたのですが、出場選手であるあなたがたが、このようなところで何をしていらっしゃるのです?」
「何をしてって……亜森さんこそ、何をしてるの?」
「ご覧の通り、観戦です。あなたがたの風紀にそぐわない行動の行く末を見届けに来ました」
「そ、そんなことのためにわざわざ入場してくれたっていうの? このスペシャルリングサイド席は一万五千円だよ?」
「わたしは目が弱いので、なるべく舞台に近い場所を選んだまでです」
幸いなことに、そのスベシャルリングサイド席とやらはまだ全然埋まっておらず、亜森の両隣も空席であったため、誰をはばかることなくそのような会話をすることができた。
胸に渦巻く不審感をおさえこみながら、それでもレオナは身を屈めて亜森のほうに顔を寄せる。
「亜森さん、だったらひとつだけ教えてください。……あなたは何故、制服姿なのですか?」
「何故とは? 学生が公共の場に出向く際、一番相応しいのは学校の制服姿でしょう?」
「でも、それだと弁財学園の制服姿がテレビなどでもさらされることになってしまうのですよ? それでもいいのですか?」
「それで何の不都合があるというのでしょう? 校長は弁財学園の生徒であるあなたがたが出場することを許したぐらいなのですから、同じ弁財学園の生徒がそれを観戦することだって禁ずる理由はないはずです」
レオナはもう一度マスクの下で唇を噛むことになった。
そのかたわらから、乃々美がずいっと進み出てくる。
「要するに、わざわざ嫌がらせでそんな格好をしてるってことでしょ? お嬢様学校の生徒がこんなイベントに参加してるってことを騒ぎにしたいわけ? ……ほんとに陰険なメガネ女だね」
「さあ? 周りがどのように受け取るかまでは、わたしの責任ではありません。それが弁財学園の恥になるということなら、校長の判断が間違っていた、ということなのでしょう」
「はん、お話にならないね! どうすんのさ? 力ずくで叩き出す?」
「そんなことしたら、よけいに騒ぎになっちゃうよ。……それじゃあ亜森さん、その上に一枚上着を羽織ってほしいっていうのも、却下かなあ?」
「この室温ならばこの姿が最適と思われます。それに、学校指定のコート以外の衣服を制服の上から着用するのは、明確な校則違反です」
柚子は深々と溜息をついてから身を引いた。
「駄目だねこりゃ。タイムリミットだし、もう戻るしかないよ」
「そうですね」と答えながら、レオナはさらに亜森へと身を寄せた。
亜森は無表情に、黒縁眼鏡の向こう側から冷たい視線を返してくる。
「亜森さん、正直に言って、あなたがこのような真似をする人だとは思っていませんでした。私は、とても残念です」
「そうですか」
やはり亜森の表情は動かない。
レオナの胸に満ちるのは、怒りではなく虚しさと切なさの感情であった。
「亜森さん、あなたは……転入初日の私に校内を案内してくれたり、茶道部や勉強会に誘ってくれたり、何かと世話を焼いてくれていましたよね。あんまり上手く伝えることはできませんでしたが、あなたのそういう親切に、私はとても感謝していたんです」
「…………」
「それに……自分のライバルに成り得るような存在は歓迎したい、とも言ってくれましたよね。そんなことを言ってもらえたのは初めてだったので、私はとても……とても嬉しかったんです。あなたみたいな人にそんなことを言ってもらえるなんて、すごく光栄だったから」
無言の亜森から、レオナは身を引いた。
「だから今は、ものすごく残念です。……ごきげんよう、亜森さん」
「あ、九条さん!?」
柚子に呼びかけられるのにもかまわず、レオナは再び通路を駆けた。
駆けながら、胸に満ちた感情が別種のものへと変じていくのを強く感じる。
それは、深い悲しみと喪失感であった。
(あたしって……実はけっこう亜森さんのこと、好きだったんだなあ)
ただ、それでもレオナは自分の気持ちにけじめをつけなくてはならなかったのだ。
時刻はすでに四時十八分であり、『ヴァリー・オブ・シングダム』の開始は目前に迫ってしまっていた。
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