SECTION.3

prologue

安穏なる日々

 二月の第一月曜日。

 その日の弁財学園高等部一年一組の体育の授業は、屋内プールにおける水泳であった。

 記録の測定を終えたのちの自由遊泳の時間、レオナはいつものごとく柚子と雑談を楽しんでいた。


「一年中、いつでも水泳ができるというのはありがたいですね」


 平泳ぎでどれだけゆっくり泳げるか、という意味のない取り組みにチャレンジしながらレオナがそのように呼びかけると、仰向けでぷかぷかと浮かんでいた柚子が「んー?」と眠たげな声で応じてくる。


「九条さんって水泳が好きだったの? 海の近くで育ったのにここ数年は海水浴をしてなかったとか言ってなかったっけ?」


「ですからそれは、ガラの悪い輩と遭遇するのを回避するためです。泳ぐこと自体は、好きですよ」


「あー、さっきもすごい記録を叩き出してたもんねー。水泳部があったら絶対勧誘されてたよー」


 とろんとした目つきで天井を見上げつつ、柚子は笑っている。昼寝中のラッコみたいだな、と心中でつぶやきながら、レオナは会話を継続できるようにその周囲をゆるゆると周回した。


「何だかずいぶんと眠たそうですね。居眠りしたら、沈みますよ?」


「えー、そうなのかなー? 脱力の極致でずっと浮かんでいられるんじゃない?」


「どうでしょう? 遊佐さんも人よりは体脂肪率が低いでしょうから、沈みやすいような気もしますが」


「あはは。体脂肪率じゃ九条さんにはかなわないよー」


 何だか会話も取りとめがない。

 そのように考えていたら、柚子はふにゃふにゃと笑いながら目だけでレオナを追ってきた。


「実は、昨日も自主練でジムに行ってたんだー。一週間ぶっ続けになっちゃったから、少し疲れが溜まってるのかな」


「え? 日曜なのに、休館ではなかったのですか?」


「うん。今週末の大会に出る人たちがお願いして、特別に開けてもらったんだって。そしたらあたしだって黙ってられないじゃん? 柔術の選手としては、あたしにとって初めての公式大会なんだから!」


 この週末の日曜日に千葉で柔術の大会が開かれて、柚子たちはそれに出場するのだ。女子ジム生は柚子のみで、あとは男子ジム生が五名ばかりも出場するらしい。レオナは雑用係として、それに同伴する予定であった。


「それは熱心なことですね。でも、休養だって鍛錬の一環ですよ? あまり身体をいじめすぎると逆効果ですし、怪我の原因にもなりえます」


「うん、だけど、技のおさらいだけでもしておきたくってさー。なかなか普段の練習だと柔術着を着る機会もないし、いても立ってもいられなくなっちゃったんだよねー」


「ああ、柔術の講習はビギナーとレギュラーで週に一回ずつしかありませんものね」


『シングダム』に正式な柔術のコーチというものは存在しない。外来で、氏家うじいえという黒帯の柔術家が通ってくれているのだ。レオナも入門当初は週に一回ビギナークラスの講習を受けていたが、練習日を絞っている現在はすっかりご無沙汰であった。


「そういえば、九条さんは完全に柔術の練習を切っちゃったよね?」


「ええ、通うのが週に三、四回なら、キックの講習を優先すべきかと。MMAに応用できる部分は多いですし、それに、石狩さんとの約束もありますしね」


 月曜と木曜はMMAの講習、火曜か金曜のどちらかでキックの講習、あとは土曜日の自由練習に参加するかどうか、というのが最近のレオナのスケジュールなのである。


「うーん、楽しいのになー、柔術! 柔術着を着た稽古も、けっこうMMAに応用がきくんだよ?」


「その柔術着というのがネックなのです。着衣をつかみあうことが許されているのに打撃技が禁じ手というのは、私にとってものすごく負担なのですよ。反射的に手が出そうになるのを制御するのが精一杯で、まったく集中できないのです」


「あー、羽柴塾ってのはつかみありの空手だったんだもんねー。なんか、想像がつかないよ」


 想像などはする必要もないだろう。着衣をつかんで殴り合うというのは実戦を想定した稽古であり、スポーツとしての格闘技にはほとんど応用がきかないのだ。


「ちなみに、あたしは千葉って初めてなんだよね。マリンアリーナっていう名前からして、やっぱり海の近くなのかなー?」


「どうでしょう? たぶんそうだろうとは思いますが」


「あ、九条さんも知らないんだ? 九条さんって千葉出身でしょ?」


「同じ千葉でも私が住んでいたのは銚子市で、会場のマリンアリーナは千葉市です。電車で一時間半以上もかかるのですから、足を向けたことなどはありませんよ」


「えー、同じ県内でそんなにかかるんだ!? 千葉って広いんだにゃあ」


 もしもそんなにレオナの生まれ故郷と試合会場が近所であったら、同伴には気が進まなかったかもしれない。が、そのようなことを口にしてもあまり意味はなかったので、レオナは大人しく口をつぐんでおいた。

 また天井のほうに視線を戻しながら、柚子は眠たげな顔で笑う。


「まあ何にせよ、週末が楽しみでしかたがないよー。優勝目指して頑張るから、応援よろしくね?」


「ええ、もちろん。……ですが、例の件は本当に大丈夫なのですよね?」


「例の件って、身バレのこと? だいじょぶだいじょぶ。あたしも去年の雑誌とかネットの情報とか調べまくったけど、たとえ白帯の部で優勝できたとしても、ぜーんぜん扱いはちっちゃいから! それで校長先生にも納得してもらえたんだし」


 柚子の出場する大会は、思いのほか規模が大きかったのである。が、規模が大きいゆえに、白帯の選手にスポットが当たることはない、というのが柚子の論調なのだった。


「それに、格闘技に興味がなかったら、柔術なんて柔道の一種にしか思われないでしょ? 弁財学園の生徒が柔術の大会に出たって、誰も不思議に思ったりはしないさー。それに、優勝したってサイトとかでちっちゃい写真と名前が載るぐらいで、経歴なんかはいっさい出ないしね」


「そうですよね。すみません、この期に及んで往生際の悪いことを言ってしまって」


「謝らなくってもいいってば! 騒ぎを起こしたくないのはあたしも一緒だし! あたしが変な風に目立っちゃうと、兄さんや姉さんにも迷惑がかかっちゃうからさ」


 そのように言いながら、柚子はうっとりとした顔で微笑んだ。


「だけどとにかく、勝ちたいなー。優勝なんてできたら、倒れちゃいそう! そのときは介抱をよろしくね?」


「はあ。病院に引きずっていくぐらいなら、何なりと」


 いい加減に同じ動きをするのにも飽きて、レオナはプールの床に足を下ろした。

 呑気に語らう二人の周囲では、クラスメートらがやはり呑気そうに遊泳を楽しんでいる。四十名ばかりの人間がのびのびと遊泳できるぐらい、その屋内プールは広かった。


 実に平和な様相である。

 三ヶ月ていど前に亜森と和解を果たして以来、おかしな空気は完全に払拭されている。個人的に友誼の深まった相手はいないものの、授業の班分けなどで困ったりすることはなく、レオナも柚子も「亜森に気に入られたクラス内の変わり者」という面映ゆいポジションを獲得するに至った。


 相変わらず柚子は生傷が絶えないし、挙動不審でマイペースだ。が、授業に遅刻したり居眠りをしたりというのはずいぶん減ってきたし、学業の成績も上がってきている。理事長の娘という属性のためにより厳しい模範が求められてしまうのかもしれないが、そうでなければそれほど奇矯に過ぎる、ということはないように思える。


 で、レオナなどはその余禄で変人扱いされているようなものである。転入早々、学園一の変わり者と交流を深め、体面というものをないがしろにしている、とでも思われているのだろう。あとは十一月の試合後に、柚子ともども尋常でなくボロボロの姿を見せてしまったぐらいで、その他には誰に何を誹謗される心当たりも持ってはいなかった。


 で、その試合の直後にレオナたちは亜森と和解を果たして、いわば赦免されたのである。

 誰よりも規範を重んずる亜森がレオナたちを許したことで、クラスメートらもレオナたちを許した。というか、亜森が冷たい怒りのオーラを発散させなくなったことで、クラスには完全なる平和が戻ってきたのだ。


 なんと主体性のないことだろう、とレオナは呆れなくもなかったが、それは亜森や柚子の影響力というやつがそれだけ規格外なのだ、と思うことで納得しておいた。周囲の人間を巻き込まずにはいられないぐらい、その両名には不思議な存在感が備わっていたのだ。


 で、レオナはそんな両名と親交を深めているので、退屈するひまもありはしない。それに、過去の素性や現在の状況をこれ以上余人に広めたくはなかったので、他のクラスメートには少し距離を取られているぐらいがちょうどいいのである。だいたいが、人間づきあいの不器用さでは柚子たちに引けを取らないレオナであるので、これ以上交流の輪が広がったり深まったりするのは、むしろ負担であるようにさえ感じられるのだった。


(十六年間、友達らしい友達もいなかったんだからな。ジムに行けば蜂須賀さんたちだっているし、あたしなんかにはこれで十分だし手一杯だよ)


 そんなことを考えながら、レオナはぷかぷかと浮かぶ柚子の姿をぼんやりと眺めていた。

 すると、プールサイドのほうから叱りつけるような声が飛んできた。


「遊佐さん、九条さん、授業が終わったわけではないのですよ? いささか気をゆるめすぎなのではないですか?」


 レオナの希少なる友人、亜森である。

 本日は見学の身であった亜森は、青いジャージ姿でプールサイドに膝を折りつつ、レオナたちのほうをキッとにらみすえていた。

 水の上をゆらゆらと漂いつつ、柚子は「んー?」と覇気のない声を返す。


「今は自由遊泳の時間でしょー? みんなのんびり遊んでるじゃん」


「遊泳というのは遊ぶのではなく泳ぐことです。あなたはずっと浮かんでいるばかりで、泳いですらいないではないですか?」


「あー、あたしは遊泳より自由ってほうの言葉を重んじてたんだよねー」


「屁理屈はけっこうです。もう少し、しゃんとしてください」


 亜森はたぶん、柚子やレオナがもっと真っ当な存在としてクラスに受け入れられることを願っているのである。

 が、それをありがたがるような気性でもない柚子は「あははははー」と呑気に笑うばかりであった。


 これはすでに亜森にも伝えてあるが、柚子もレオナも秘密を抱えたまま余人と交流を深めることに、大きな意義を見いだせずにいるのである。


 柚子はレオナが転入する前から、学校長とひとつの約束を交わしていた。格闘技のジムに通ったり試合に出場したりするのはかまわないが、決して弁財学園の名を表には出さず、おかしな騒ぎも起こさない、という約束だ。


 その約束を破ったところで、理事長の娘たる柚子をどうこうできるとは思えないが、もしもその理事長までもが変心してしまったら、柚子の生活は暗黒に閉ざされてしまう。仮に柚子が『シングダム』に通うことを禁じられてしまったら、それこそ家出でもしかねない。そうであるからこそ、柚子は生傷だらけの姿をさらしつつ、その理由は頑なに秘匿し続けて、結果的にクラスで変人扱いされることになってしまったわけなのだ。


(いっそのことジム通いのことは秘密でなくしたほうが、変人扱いも緩和されるぐらいだろうにな)


 しかし、どのみち柚子は格闘技に夢中になりすぎて、それ以外のことから興味を失ってしまっている。格闘技について語れない友人が増えても退屈なだけだから、今のままでまったくかまわない、などと笑いながら語っていたのだった。


「九条さんさえいれば、あたしは十分だし!」


 柚子はそのように宣言し、レオナを照れくさい気持ちにさせ、そして亜森を仏頂面にさせたものであった。

 そんな柚子は仰向けに浮かんだまま器用に方向転換をして、亜森のいるプールサイドのほうに少しだけ近づいた。


「そういえばさー、亜森さんは日曜日、何か用事が入っちゃってるんだっけ?」


「ええ。週末はお茶の先生を家に招いての茶会なのです」


「そっかー、残念! あたしの勇姿を見てほしかったなー」


「……格闘技の試合など、わたしは極力、目にしたくはありません」


 レオナのほうをちらちらと見ながら、亜森はいくぶん申し訳なさそうにそう言った。


「格闘技って言っても、柔術の大会だよー? 寝技の要素が多めなだけで、あとは柔道と変わらないって!」


「柔道という競技を否定はしませんが、人間が取っ組み合う姿を見て楽しいとは思えないのです」


「ちぇーっ! 九条さんが出場してたら見たがるくせにー」


「そ、それは九条さんの身を案じているがゆえです」


「んー? あたしの身は案じてくれないの?」


 柚子の何気ない問いに、亜森は珍しく戸惑い気味に視線をさまよわせた。


「……十一月のあの試合は、とても正視には耐えませんでした。柔術という競技では殴り合ったりはしないのですよね?」


「うん、もちろん。打撃技は全面禁止だよ」


「それなら、思うぞんぶん楽しんできてください」


「あはは。それでも締め落とされたり関節をへし折られたりする危険はあるけどねー」


 亜森の身体がぐらりと傾いで、危うくプールの中に転落しそうになってしまった。


「そ、それは真実を語っているのですか? 冗談なのだったら、怒りますよ?」


「んー? 別に冗談ではないけどね。寝技の要素が多めって言ったでしょ? 柔術は投げ技の一本勝ちってのがないぶん、締め技とか関節技の攻防がメインになるんだよ。何にせよ、格闘技なんだから怪我をするリスクはあるさー」


 亜森は膝を抱え込み、黒縁眼鏡の向こう側の瞳を憂いげに瞬かせた。


「……くれぐれも怪我にだけはお気をつけて。わたしだって、遊佐さんや九条さんの行いを心から理解したいと願ってはいるのです」


「うん、だから試合を観戦してもらって、格闘技の楽しさをもっと知ってほしかったんだけどねー」


 亜森のほうに顔を向けつつ、柚子は屈託なく笑っている。

 何だかんだで、このふたりも順調に親交を深めているのである。先月末などはついに亜森がレオナの家に宿泊することになり、たいそう賑やかな一夜になった。ごく当然のように参加を表明した柚子に対して、当初は亜森も面白くなさげな顔をしていたが、三人そろってこその楽しさであり賑やかであったろうとレオナは思っている。


(本当に、これ以上交友の手を広げるなんて、あたしにはキャパオーバーだよ)


 そんなことを考えながら、レオナは柚子の脇腹をくすぐって、水の中に撃沈させることにした。

 特に深い理由はない。ただ、退屈だったのである。


 柚子は悲鳴をあげながら水の中に沈み、その弾みで跳ねた水が亜森にまでかかってしまい、さらなる悲鳴が響きわたることになった。


 そのように、ついに五ヶ月を突破したレオナの学園生活は、それなりの充実と安楽を見せていたのだった。

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