04 決勝戦

 その後、残念ながら飛川とアベリィは無差別級の一回戦でそれぞれ敗退することになってしまった。

 青帯の飛川は体重差のある相手に、アベリィは竜崎選手との再戦で、それぞれ星を落としてしまったのだ。


「あー、残念! 最後まで何もさせてもらえなかったなあ」


 飛川はそのように嘆いていたが、相手は二十キロも重いメイオベサード級の外国人選手であったのだから、一本を取られなかっただけ大したものであろうと思う。


「ワタシはゴゼンのシアイでテのウチをヨまれちゃったみたいだね。このツギはこっちがリベンジだよ」


 アベリィは、やりきった顔で笑っていた。

 竜崎選手とは二試合とも大接戦であったようなので、きっと実力が伯仲しているのであろう。柔術においては、アベリィが竜崎選手のライバルであるのだった。


 そんな中、服部選手は危なげもなく勝ち進んでいた。

 こちらも相手は午前に試合をした同階級の選手であり、実力差がおびただしかったのである。


 思うに、白帯というのは一番実力差に幅のある級位であるのだろう。

 柚子のように青帯を目前にした実力者でも、服部選手のように柔道で実績のある選手でも、昨日柔術を始めたばかりの選手でも、みんな等しく白帯であるのだ。柚子や服部選手はオール一本勝ちですべての試合を終えていたが、他の試合場を見回すと、たいていは判定で決着がついている様子であった。


 しかし、そんな柚子と服部選手でも、準決勝ではそれぞれ予断を許せない。

 柚子の相手はMMAのプロファイターたる井森選手であり、服部選手の相手は十キロ以上も重いメジオ級のエレーナ・ブランコ選手であったのだ。

 しかも井森選手はこれが本日二度目の試合であり、エレーナ選手などは初試合である。すでに午前から三試合をこなしている柚子たちとは、そんな部分でもハンデが生じてしまっている。


「ま、くじ運を嘆いたってしかたがないからね。技術の面ではあんたが勝ってるんだから、力で押し潰されないように踏ん張りな」


「はい!」


 そんなわけで、柚子の準決勝戦であった。

『名古屋アンヴィルCC』所属の井森貴子選手である。


 年齢は二十八歳。二十歳を越えてからキックボクシングのジムに通い始め、その三年後にジムを移してMMAに転向。以降は地道に活動を続け、二年前にプロデビュー。プロ戦績は四勝三敗四KO。その一勝と一敗が景虎との対戦であったという、女子MMA界の若手と中堅の間ぐらいに位置する選手だ。


 勝つときは毎回KOで、負けるときは毎回サブミッションによる一本負け。そんな彼女が苦手な寝技を克服するべく競技柔術を習い始め、このたび力試しのために出場を果たした、というのがおおよその経緯であるようだった。


「MMAの試合でも、勢いあまっての反則が多い選手でね。あたしもバッティングをくらっちまって、そのダメージが抜けきらない内にKOされちまったのさ。だから、くれぐれも力まかせの攻撃には気をつけるんだよ?」


「はい! わかりました!」


 意気揚々と、柚子は試合場に上がっていく。

 気合が空回りすることはあっても、決して臆するところのない柚子であるのだ。


 六十四キロ以下のレーヴェ級である井森選手は、先の秋田選手と同じくリミットいっぱいまで肉をつけているらしく、とても図太い身体をしている。柚子との体重差は、実に十六キロにも及ぶであろう。

 身長は百六十センチを少し超えるぐらいで、景虎と同じぐらいだ。柚子よりは十センチばかりも大きい。


 しかも彼女は、景虎に負けないぐらい厳つい容貌をしていた。

 面立ちなどは景虎のほうが男性的であるかもしれないが、その代わりに眉をそりあげており、短い髪はグリーンに染め、道衣の袖口や襟もとからは極彩色のタトゥーを覗かせている。柔道の試合などでは、なかなかありえない姿である。


(でも、神経の太さでは遊佐さんも負けてないからな。外見の厳つさなんて強さには関係ないんだから、気圧される必要はない)


 そのように思いながら、やはりレオナもこれまでで一番緊張することになった。

 そんな中、審判の声が静かに響く。


「青、シングダム、遊佐柚子。黒、名古屋アンヴィルCC、井森貴子。……コンバッチ!」


 試合が始まった。

 それと同時に、両腕を広げた井森選手が「さあッ!」と野太い気合の声をあげた。

 柔道ではよく見られる光景だが、柔術でそのような声をあげる選手はあまり見かけない。寝技での勝負を争う柔術において、そういう気合の声はあまり似合うものではないのかもしれなかった。


 ともあれ、試合である。

 井森選手はレスラーのような前屈の体勢で、じりじりと距離を詰めてくる。柚子はそれと目線の高さが合うぐらいの姿勢で、同じように腕をのばした。


 しかし、リーチはあちらのほうが長い。

 しかも相手は、立ち技を得意とするストライカーだ。その特性たる踏み込みの速さで間合いを潰した井森選手は、やすやすと柚子の奥襟をつかむことができた。


「おうおう!」と声をあげながら、井森選手は柚子の身体を振り回す。

 ときたま飛んでくる足払いは、さながらローキックだ。

 柚子は馬鹿力で頭を下げられつつ、何とかねじ伏せられないようにとせわしなく足を動かした。


 なんとなく、柔道のような攻防である。

 井森選手が払い腰でも掛けてきそうな雰囲気であった。


「スタミナをロスするよ! 自分から仕掛けて!」


 氏家コーチが指示を飛ばした。

 柔術においては、このような攻防につきあう必要はないのだ。

 得たりと、柚子は相手の足もとにすべり込んだ。

 相手の右足を両足ではさみ込み、つかんだ右襟を引きつける。


 相手の身体が、前方に崩れた。

 それと同時に、柚子の左腕が相手の右肩にのびていた。

 相手の右腕は柚子の奥襟をつかんでいる。そこに自分の腕をかぶせて肘関節を極めようというのだろう。それで相手が嫌がって奥襟を離せば、そのままバックに回り込もうという算段に違いない。


 が、それはどちらも成功しなかった。

 柚子の奥襟を離した井森選手は、すかさず身を起こして、右肩にのばされた腕を力ずくで振り払ってしまったのだ。

 しっかり道衣をつかんでいた柚子の指先は、あっさり剥がされてしまう。

 技術もへったくれもない。純然たる力技である。


 それでも井森選手が危地を脱したのは事実であった。

 井森選手は膝立ちで、右足を柚子の足にはさまれている。いわゆるハーフガードの体勢だ。


 柚子は右足をずり上げて、相手の股ぐらに足先をフックさせた。

 それで相手をコントロールして、体勢をひっくり返そうというのだろう。

 それを察した井森選手は、柚子を突き放して立ち上がってしまった。

 自分が上になっていたのに、寝技の攻防を早々にあきらめてしまったらしい。


 審判が「バロウ」の声をあげて、柚子を立ち上がらせた。

 これでまたスタンド状態からやり直しである。


「MMAならまだしも、柔術で寝技の攻防をあきらめたら勝つすべもないのではないでしょうか?」


 あまりに不審であったため、思わずレオナは問うてしまった。

 氏家コーチは「うーん」とうなっている。


「柔術において、露骨に組み技の攻防を避けるのはネガティブポイントといって減点の対象になるからね。ただ、失格負けになるギリギリまであんな戦法を取られてしまうと、遊佐さんのスタミナが心配かな」


 それは確かにその通りかもしれない。

 まだ一分と少ししか経っていないのに、柚子は早くも息が荒くなっていた。


 そんな柚子の奥襟に、再び井森選手の右腕がのばされる。

 その太い腕に引きつけられると、また柚子の頭が下がってしまった。

 そこに、ローキックじみた足払いが飛ばされてくる。


「つきあわない! すぐに仕掛けよう!」


 しばし井森選手の猛攻に耐えてから、柚子は大きく両足を振り上げた。

 奥襟をつかんだ右腕を狙った、飛びつきの腕十字だ。


 右腕一本に全体重をかけられて、さしもの井森選手も前側に崩れる。

 柚子の右足が相手の腹にかかり、左足が顔にかかる。

 このまま相手を前方に転がして、腕をのばせば完成である。


 が、井森選手は左手をばんっと畳につき、動作を途中で停止させた。

 右肘はまだのびきっていない。

 柚子はかまわずうつぶせのまま右腕をのばそうとしたが、それよりも早く井森選手が身を起こした。


 井森選手は柚子の道衣をつかみ、肘をのばされないように耐えている。

 柚子は全身の力を使って井森選手の腕をのばそうとしているのに、片腕一本でそれをこらえている状態だ。


 井森選手は柚子の足を左手で振り払い、力まかせに右腕をひっこぬいた。

 柚子は前転をするような格好で畳に背中をつける。

 そうして柚子はすぐさま井森選手のほうに身体を向けたが、やはり相手はそのまま後ずさって距離を取っていた。


 審判は試合を止め、井森選手に二度目の注意を与える。

 これで柚子にはアドバンテージというものが与えられ、勝敗が判定にまでもつれ込んだ際は有利に働くのだそうだ。


 しかし、この試合が時間いっぱいまでかかるようには、とうてい思えなかった。

 審判の指示によって、柚子は乱れた道衣を乱している。その顔には汗がしたたり、さきほど以上に息が荒くなってしまっているのだ。


「まずいな。三試合分のツケが回ってきたよ。十六キロも重いやつを相手にするなんて、それだけでもスタミナを削られるってのにさ」


 景虎が小声で言い捨てる。

 両者は三たび向かい合い、「コンバッチ」の声を聞いた。


 今度は柚子も奥襟を取られないよう、慎重に間合いを取る。

 が、やはり井森選手の踏み込みの速さには、なかなか抗えるものではなかった。

 まるでショートフックでも放つかのような挙動で、柚子の襟首をつかまえてしまうのである。


 柚子の動きは、明らかに鈍くなっていた。

 井森選手はまた柚子の身体を大きく揺さぶり、執拗に足を飛ばしてくる。

 まるで暴風雨に揺さぶられる小舟のような有り様だ。

 レオナはこの会場に来て、初めて唇を噛むことになった。


(くそっ! よりにもよって、こんな力まかせの相手に負けるなよ?)


 相手はまだまだ元気そのものであった。

 やがて、直したばかりの柚子の道衣がまた乱れて、裾が帯からこぼれてしまう。

 立ち技の攻防だけでそこまで道衣が乱れるのもあまりない話であった。


「二分半! 残り半分だよ!」


 景虎が大きな声をあげる。

 その瞬間、井森選手に足を掛けられた柚子が力なく崩れ落ちた。

 その勢いのまま、井森選手がのしかかる。

 柚子の左手側から胸を合わせる格好で、井森選手は横四方のポジションを取った。

 その右腕が、柚子の頭を後ろから抱え込む。

 肩固めでも狙っているのだろうか。右肩で顎のあたりをぐいぐい圧迫され、柚子は苦しげに顔を背けた。


 井森選手の緑色をした頭が、柚子の右脇にもぐり込んでくる。

 やはり肩固めの格好だ。

 いかにも強引な所作であったが、柚子はなすすべもなく右腕を上げられて、首ごと抱きすくめられていった。

 あとは井森選手が柚子の身体をまたぎこすだけで、技は完成されてしまう。


「膝を立てろ! 身体を越えさせるな!」


 氏家コーチの声が飛ぶ。

 それと同時に、井森選手の左足が柚子の胴体をまたぎ越した。

 さらに右足を――と、井森選手が勢いをつけて畳を蹴った瞬間、柚子が身体をのけぞらせた。


 そののばされかけていた右腕が、相手の道衣の背中をわしづかみにしている。

 さらに左腕は、相手の右膝の生地をつかんでいる。

 そうして井森選手が体重を移動させるのに合わせてブリッジをして、柚子は体勢をひっくり返した。


 首にかけられていた井森選手の右手首をつかみ、真っ直ぐにのばした上で、四の字に交叉した自分の腕を手前に引き寄せる。

 腕がらみ、ストレートアームバーの体勢だ。


 井森選手はわめき声をあげながら、無理やり上半身を起こそうとした。

 すると柚子は相手の肘を折りたたみ、相手の背中と畳の間にそれをねじ込んだ。


 これもまた腕がらみの一種であるアームロック、柔術においてはキムラロックと呼ばれる技だ。

 井森選手は再び声をあげ、脱出不可能とみなした審判が試合を止めた。


「うわー、起死回生の一発だったね」


 景虎がくたびれ果てたような声をあげる。

 しかしもちろん、それ以上にくたびれ果てているのは柚子のほうであった。


 審判の手によって井森選手の上から引き剥がされても、なかなか立ち上がることができない。その肩は尋常でない勢いで上下しており、うつむいた顔からはしとどに汗が垂れている。


 それでも無情なる審判に急かされて、柚子はよろよろと立ち上がった。

 畳に落ちていた帯を拾い、それを首に引っ掛ける。帯を持つ握力も残っていないのだろう。


 そうして審判に勝敗が示された後、井森選手は柚子の身体を抱きすくめ、その背をバンバンと大きな手の平で叩いた。

 悔しそうだが、やりきった表情だ。眉のない強面も、そうしてゆるむと意外に愛嬌がある。

 ともあれ、それでまた残存していたエネルギーを削られたらしい柚子は、井森選手と別れの挨拶を交わしてから千鳥足でこちらに戻ってきた。


「お疲れさん。よく最後まであきらめなかったな」


 黒田会長がいたわるように言い、景虎はタオルを投げかける。

 柚子は「うひゅう」と調子っ外れの声をあげながら、レオナにもたれかかってきた。


「ごめん……ちょっぴりだけ九条さんの胸で眠らせて……」


「そんな状態で無理に口をきく必要はないですよ」


 レオナは柚子を落としてしまわないようしっかりと支えながら、その場で膝立ちの姿勢を取った。

 レオナの肩に顔をうずめながら、柚子はひゅうひゅうと病人のような呼吸を繰り返している。


「最後の試合まで数十分はインターバルがあるはずだから、十分に休ませてあげよう。呼吸が整ったら水分補給をよろしくね」


 氏家コーチの指示に「はい」とうなずき返しながら、レオナは頭に載っていたタオルで柚子の髪をふいてやった。

 分厚い道衣が、じっとりと湿ってしまっている。この数分間で、いったいどれだけの汗をかいたのだろう。


(たいしたもんだよ。決勝戦がどうなろうと、この時点であんたは立派さ)


 そのとき、黒い道衣を着た人影がレオナのかたわらを通りすぎていった。

 服部選手である。

 いつのまにやら名前を呼ばれたらしく、隣の試合場で足を止め、男子選手の試合を見据えている。

 そしてその数メートル先には、白い道衣を着た大柄な外国人選手が立ちはだかっていた。


「何だ、おちおち休んでもいられないね。九条さん、肩を貸すからあっちに移動しよう」


「はい」


 熱せられたゴムのように熱くてぐにゃぐにゃした柚子の身体を左右から抱えあげて、隣の試合場の前まで移動する。

 服部選手は、こちらを振り返ろうともしなかった。

 やがて男子選手の試合は終わり、服部選手とエレーナ選手が招かれる。


「白、浦沢柔術道場、エレーナ・ブランコ。黒、フィスト立川支部、服部円」


 こちらもなかなかの体格差であった。

 エレーナ選手は身長が百七十センチ近くもあり、六十九キロ以下のメジオ級である。身長百六十三センチ、体重五十八・五キロ以下の服部選手をひと回り大きくした感じだ。

 どちらも骨太でがっしりとした体格をしており、勇ましい顔つきもどこか似ている。エレーナ選手も白帯ではあったが、ただ身体が大きいだけの選手には見えなかった。


「さ、柚子、リタイアする気がないなら、五分間だけしゃきっとしておきなよ? その後はたっぷり休憩を取れるはずだからさ」


「ふぁい。大丈夫でぃす」


 あまり大丈夫でなさそうな声で答えつつ、柚子はころんとレオナの肩に頭を載せている。

 そんな中、服部選手とエレーナ選手の試合は始まった。

 が、勝敗が決するのに五分間も必要とはしなかった。


 エレーナ選手は油断なく間合いを測っていたが、服部選手は素晴らしい踏み込みの鋭さでその懐に飛び込むと、相手が腰を落とすよりも早く大内刈りから背負投げのコンビネーションで投げ飛ばし、さらにそのまま腕ひしぎ十字固めを極めてしまい、わずか十数秒で勝ち名乗りをあげてしまったのである。


「……まいったね。あっちはスタミナもまるまる残されてるみたいじゃないか」


 景虎が苦笑まじりに言い、柚子の頭をちょんと小突く。


「ま、それでもおたがいオール一本勝ちで決勝戦だ。はたから見てればこんなに盛り上がる勝負はないよ、柚子?」


「ふぁい! 頑張りましゅ!」


 あとは壁際に引っ込んで、ひたすら体力の回復につとめることになった。

 その間にも着々と試合は進められていき、竜崎選手も準決勝を勝ち抜いた。『シングダム』の男子選手も、無差別級に参加した三名の内、二名は一回戦で敗れてしまったが、一名だけは決勝に進むことができた。


 そして、女子の黒帯の無差別級である。

 そこでレオナは、初めてアリースィ・ジルベルトという選手の試合を目にすることになった。

 その試合も準決勝戦で、相手はメジオ級の外国人選手であった。


 さきほどの服部選手やエレーナ選手と、ちょうど同じぐらいの体格差だ。

 しかしアリースィ選手はすらりと背が高く、規定の体重より少しゆとりがあるようで、ずいぶんシャープな体格に見えた。

 黒髪黒瞳で浅黒い肌、それで道衣まで黒いので、何だかしなやかな黒豹のごときたたずまいである。


 しかしその瞳は明るく輝いており、試合の前でもにこにこと微笑んでいる。長い黒髪は綺麗に編み込まれて、襟から覗くうなじが妙に色っぽい。レオナと同じ十六歳という話であったが、彼女はうんと大人びて見えた。


 で、試合である。

 その試合もまた、あっけなかった。

 相手の選手はこれでもかというぐらいに低い体勢を取っていたが、その前に出された左手の袖を引っつかむや、そこを支点にして相手の背後に回り込み、足を掛けて体勢を崩し、後ろから道衣の襟をつかんで、あっさりと裸締めを極めてしまったのだ。


 確かにそれは、熟練者による教則みたいな動きであった。

 相手が何も好きなことをやらせてもらえないため、ごく一方的に技の型をお披露目しているように見えてしまう。


(なるほどね。精度もタイミングも百点満点だ。打撃ありの試合で同じ動きができるっていうんなら、こいつはとんでもない化け物かもしれない)


 しかしこれは打撃技の禁じられた柔術の試合であったので、レオナには半分ぐらいしかその凄さが伝わってこなかった。

 それでもやっぱり、何かしら好奇心はかきたてられてしまう。


(早々にプロデビューするってんなら、あたしには関係のない相手だけど。来月にMMAの試合を観戦できるのは、ちょっとありがたいかもな)


 その日は景虎も出場するので、柚子と一緒に観戦に行く予定であるのである。

 しかし今は、それよりも柚子の試合であった。

 どうやら女子も帯色の順で試合が進められているようなので、黒帯たる彼女の試合が終わった以上、また白帯たる柚子の出番が近づいてきているはずなのだ。


「どうだい? 少しは回復できたかな?」


 自分の道場の門下生の試合に出向いていた氏家コーチが戻ってきて、柚子にそう声をかけた。

 壁にもたれて両足を投げ出した柚子は、ふにゃふにゃした顔で「はい」と応じる。


「腕も足も信じられないぐらい重たいですけど、呼吸は整ったしテンションも上がってきました」


「そいつは何よりだね。物怖じしないその心の強さは、遊佐さんの大きな財産だと思うよ」


「ありがとうございます。しぶとさだけが取り柄ですのでー」


 普段だったら大声をあげるような場面でも、柚子はぐんにゃり脱力している。

 そうして柚子は、半分だけ閉ざされた眠たげな目つきでレオナを見つめてきた。


「ね、九条さん、別に緊張とかはしてないんだけどさ、嫌じゃなかったら手を握っててくれない?」


「……私の手などには、何のご利益もありませんよ?」


 そのように答えながら、レオナは柚子の手をそっと握ってみせた。

 柚子は微笑みながら目を閉ざし、またぐったりと壁にもたれかかる。


 柚子の名前が呼ばれたのは、それから五分ほどが経過してからのことだった。

 最後にまた水を飲み、ほどいていた帯を締めなおしてから、指定された試合場へと向かう。


 そこではすでに服部選手が待ちかまえていた。

 三船選手と、それに十一月の試合でセコンドについていたと思しき外国人のコーチがかたわらについている。

 それから少し距離を取った場所に立ち、柚子は先に行われていた男子選手の試合が終わるのを待った。


 試合をしていたのは、茶帯の男子選手たちである。

 ひとりは金髪の外国人選手で、もうひとりはあまり大柄でない日本人選手であった。

 やがて日本人選手は下から足を取られて膝十字固めを極められてしまう。茶帯からは、ヒールホールドを除く足関節への攻撃も許されるのだ。


 そうして汗だくの両名が引き退き、柚子と服部選手が試合場の中央へと招かれた。


「青、シングダム、遊佐柚子。黒、フィスト立川支部、服部円。……コンバッチ!」


 無差別級の決勝戦であろうとも、何も特別なことはない。これまでと同じように試合が開始され、これまでと同じように両者が向かい合った。

 どちらも、それほどは腰を落としていない。

 MMAのときと変わらないような立ち姿だ。


 かつてはレオナと試合を繰り広げた服部選手が、あのときと同じように両目を燃やしながら、柚子と向かい合っている。

 我知らず、レオナは拳を握り込んでしまっていた。


「落ち着いて! 引き込みに来ても、焦ることはないからね!」


 そのように声をあげているのは、相手方のコーチであった。

 しかし、服部選手の側には最初から焦りなど見られない。

 そして、柚子の左袖と右襟を捕らえると、服部選手は一気に踏み込んで、豪快な大外掛けを仕掛けてきた。

 左足を外側から刈られて、柚子の身体が畳に叩きつけられる。その重い音色が、嫌というほど響きわたった。


 が───そこから服部選手がのしかかろうという動きより速く、柚子の身体が動いていた。

 服部選手の帯を背面からひっつかみ、それを生命綱として、相手の背中に這い上がる。服部選手はすかさず正面に向きなおろうとしたが、柚子は右足を相手の右足に掛け、左手でも道衣をつかみながら、何とか背中にへばりついた。


「よし」と氏家コーチが会心の声をもらす。

 服部選手の投げには逆らわない、というのが氏家コーチの戦略であったのだ。

 どのみち組み手争いでは技術に差がありすぎるし、また、柚子は激しくスタミナを消耗してもいる。ならば、下手に逆らって体力をロスするのではなく、投げられた直後に集中して有利なポジションを奪取する、というのがその概要であった。


 柔術においては、綺麗に投げられても2ポイントの損失にしかならない。寝技で有利なポジションを保持できれば、それは取り返せる損失だ。

 なおかつ、寝技の攻防ならば柚子でも互角以上の勝負ができるはず───というのが、氏家コーチの目算であった。


「もちろん相手は柔道の有段者なんだから、寝技でもそれなり以上の技術を有しているだろう。だけど、MMAのほうでは立ち技をメインに腕を磨いていたようだし───それなら柔術に関しては、遊佐さんのほうに一日の長ありだよ」


 氏家コーチは、そのように述べていた。

 服部選手も、MMAのキャリアは柚子と同程度であるのだ。そして、トレーニングの多くを立ち技の習得に割り振っていたとするならば、柔術のこまかい技術に関して柚子のほうが長けているはずである、という論調だ。


(何でもいい。とにかくあんたがこの一年半で身につけてきたものを見せつけてやれ)


 服部選手の背中にへばりついたまま、柚子は動かない。まだ片足しか掛かっていないので、これではポイントを奪えないはずであるが、きっと呼吸を整えているのだろう。いかに受身を取る準備ができていたとしても、あれだけ綺麗に投げられれば、それだけでかなりの体力を奪われるはずだ。


 いっぽう服部選手も、首を守ったまま亀の状態で動きを止めている。こちらは柚子の動きに対応して反撃する心持ちであるに違いない。


 そんな中、審判がちらりと腕時計を見た。

 中途半端な状態で試合を膠着させれば、それは押さえ込んでいる柚子の側の減点となってしまうのだ。


「ルーチ!」と審判が宣告した。

 ここから二十秒動かなければ口頭注意、もう二十秒でアドバンテージの損失である。

 しかし柚子は動かなかった。

 その間に、景虎が「一分経過!」の声をあげる。


 もう一度、「ルーチ!」の声が響いた。

 それから十秒ほどが経過したのち、ようやく柚子は動いた。

 左足は外に残したまま、服部選手の首もとに左手をのばす。


 首を守っていた右手で、服部選手はその左袖をつかんだ。

 そうして自由な左足の膝を立て、腰を浮かせる。

 背中の上から、柚子をふるい落とそうというのだろう。


 柚子はかまわず、逆側からも右手を差し込んだ。

 亀になった服部選手の背中にのしかかった柚子が、両腕で首を狙っている格好だ。

 MMAのように、綺麗なバックチョークを狙う必要はない。相手の襟でもつかんで、それで締めあげることができればタップは奪えるのである。現に柚子は、さきほどそれで秋田選手から一本を取っている。パワーで劣る人間でも、道衣を利用すれば効果的に制圧することは可能なのだ。


 しばらくは、胸苦しくなるような攻防が続けられた。

 外から見れば動きは少ないが、両者はともに必死である。寝技においては、瞬発力を駆使する立ち技とはまた異なるスタミナが必要であるということを、レオナもこの数ヶ月でうんざりするぐらい学ばされていた。


「二分経過! バックマウントを狙ってもいいよ!」


 景虎の声が響きわたる。

 きちんと両足を掛けて、まずは明確なポイントを奪う手立てもある、という指示だろう。


 しかし、その声が響くと同時に、柚子は逆の動きをした。

 服部選手の足に掛けていた右足を外し、横回転をして、相手のサイドを取ったのである。

 柚子は服部選手の右手側に回り込み、服部選手は逆の側に身体をねじる。

 服部選手は仰向けになり、それを真横から柚子が押さえ込む格好になった。

 サイドポジション、横四方の形である。


 右腕で服部選手の首を枕にして、左手では帯をつかんでいる。

 その体勢で、柚子はまた動きを止めた。

 背中が大きく波打っている。二分が経過して、ますますスタミナを削られてしまったのだ。


 審判がまた「ルーチ!」の声をあげる。

 柔道では有効な横四方固めも、柔術においては膠着を誘発するネガティブな型なのである。

 それでも柚子は動こうとしない。アドバンテージを失うまでの四十秒間は回復に努めたいのだろう。


 だが、今度は服部選手もただ待ってはいなかった。

 右手側に腰を切り、柚子の押さえ込みから逃れようとする。

 柚子も必死にくらいついたが、パワーとスタミナの差は歴然であった。このままでは、服部選手の身体を逃がしてしまうだろう。


 柚子は意を決したように上体を浮かせて、左膝を服部選手の腹に押しつけた。

 ニーオンザベリーの体勢だ。

 服部選手は慌てる様子もなく、その左膝を押しのけようと右手を掛ける。


 その瞬間、柚子は服部選手の頭側に横回転した。

 右手側に逃げようとしていたため、服部選手は右半身を上げている。その隙間から、またバックを取ろうとしている動きだ。


 しかし、柚子が体勢を安定させるより早く、服部選手が身体をねじっていた。

 ものすごい勢いでブリッジをして、柚子の身体を跳ね返す。両者はもつれ合いながら転がり、それで体勢が入れ替わることになった。


 動けぬ柚子を組み敷いて、今度は服部選手が横四方の形を取る。

 さらに服部選手は動きを止めず、柚子の腹の上に左膝を押し当てた。

 お返しとばかりの、ニーオンザベリーの体勢である。


 柚子はあれほど必死であったのに、服部選手はいとも容易くそのポジションまで移行していた。

 技術の差ではない。やはり、パワーとスタミナの残存量に差がありすぎるのだ。

 そんな状態で腹部に膝でのしかかられて、柚子の苦しみは如何ほどのものであったか、気づけばレオナも呼吸を止めてその攻防を見守ってしまっていた。


「三分半! 残り一分半だよ!」


「帯をつかんで! 足の下、くぐれるよ!」


 景虎と氏家コーチの声が飛んだが、柚子は動けなかった。

 審判が、片手を上げてポイントの加算を示す。ニーオンザベリーの体勢で三秒が経過して、服部選手のポイントとなったのだ。


 これで服部選手は投げ技と合わせて4ポイントを取ったことになる。

 いっぽう柚子は、アドバンテージすら取れていない。

 そしてそれ以前に、ここから一分以上も闘うことが可能なのか。それすらも危ぶまれるほどであった。


「柚子ちゃん、頑張って! 時間はまだあるよ!」


「ツカれてるのは、アイテもイッショね!」


 いつの間にやってきていたのか、飛川とアベリィの声も響いた。

 しかしレオナは柚子の姿から目をそらすことができない。


 何とか服部選手の圧迫から逃れようとしている、柚子のその姿はあまりに弱々しかった。

 帯をつかめという氏家コーチの声も届いていないようで、ひたすら服部選手の膝を押し返そうとしている。


 その腕を弾きながら、服部選手の左膝が腹の上を通過した。

 柚子と比べてはあまりに大きく見えるその身体が、腹の上で馬乗りになる。

 マウントポジションを取られてしまったのだ。

 柚子は苦しげにもがいたが服部選手の身体はびくともせず、三秒後にはまたポイントの加算が無言のまま示された。

 マウントポジションの点数は4ポイントなので、これで通算8ポイントだ。


「相手の身体を足で押し上げて! ブリッジで返せるよ!」


 服部選手は上体を上げたまま、柚子の右腕と左襟を制し、どの技を仕掛けようかと考えている風である。

 柚子をいたぶっているわけではなく、腕と首にプレッシャーを与えつつ、相手の動きに合わせて最適な技を仕掛けようというのだろう。

 柚子が首を守れば腕に、腕を守れば首に、という算段なのだ。


 片腕で襟もとを締めあげられながら、柚子は苦しげにあえいでいる。

 その左手が、こらえかねたように服部選手の手首をつかんだ。

 服部選手は、得たりと右腕を抱え込む。

 首を圧迫していたほうの腕も、襟を離して右袖のほうに移動された。


「残り四十秒!」


 服部選手が、柚子の右手側に身体を倒した。

 柚子の右腕は、完全に胸もとに抱えられてしまっている。

 腕ひしぎ十字固めを狙っているのだ。


 服部選手は身体をねじって背中から倒れ込み、その勢いを利用して柚子の右肘をのばしにかかった。

 自分の道衣をつかんでいた指先ももぎ離され、柚子の右腕が真っ直ぐにのばされる。


 だが、その肘が逆側に湾曲する前に、柚子は両足で畳を蹴っていた。

 いや、きっと、服部選手が倒れ込むのと同時に蹴っていたのだろう。結果として、両者は同じ体勢のまま半回転して、腹ばいの体勢になることになった。


 だが、完全に同じ体勢なわけではない。柚子の身体に対して垂直であった服部選手の身体は、足側に近づく格好で角度を変えていた。

 柚子は右肩をねじり、服部選手の足を押しのけながら、強引に右腕を引っこ抜いた。


 一歩間違えれば肘の靭帯を痛めかねない、荒っぽい逃げ方だ。

 だが、それで腕十字のいましめから逃げることはかなった。


 その勢いのまま、柚子は服部選手の背中にのしかかろうとする。

 服部選手は凄まじい勢いで身体をひねり、仰向けの体勢を取った。

 その背中に乗りかかっていた柚子は、半ば巻き込まれるような格好で服部選手に押し潰されることになった。

 だが、バックを取っているのは柚子のほうだ。

 柚子の足が服部選手の胴体にからみつき、両腕が首に掛けられる。


「襟をつかめ! チョークを極めろ!」


 時間的に、これが最後の一手だ。

 しかし、柚子の足がしっかりとフックされる前に、服部選手は再度身体をひねり、柚子の上で半回転した。

 柚子を下にした状態で、両者が向かい合う。

 万事休すである。

 もう時間は二十秒も残っていない。


 そのとき、柚子が両足を跳ね上げた。

 柚子の動きを制そうとしていた服部選手の右腕をつかみ取り、それを首ごと両足ではさみ込む。

 ガロ級の一回戦でも見せた、柚子の得意技───三角締めだ。


 服部選手の頭と右腕を捕らえた柚子の両足が、四の字にフックされる。

 服部選手は立ち上がり、何とかその圧迫から逃れようと試みた。

 柚子の身体はあっさりと持ち上げられてしまい、ほとんど後頭部と肩だけが畳についている格好になる。

 しかしそれでも、柚子は両足の拘束をゆるめようとしなかった。


「入ってるよ! 絶対に離すな!」


「右腕を流せ! それで落とせる!」


 景虎と氏家コーチの声が交錯する。

 気づけば、レオナも叫んでいた。


「遊佐さん! 最後まであきらめないで!」


 柚子は服部選手の右肘をつかみ、渾身の力で両足を締めあげた。

 服部選手の両膝が、畳に落ちる。

 その自由なほうの左手が、力なく柚子の足に触れ───


 そして、鋭い笛の音が吹き鳴らされた。


「バロウ!」


 主審の声とともに、服部選手の身体が解放される。

 服部選手の身体が柚子の上に落ち、両者は折り重なったまま荒い息をついた。

 ほんの数秒だけそれを見守ってから、審判が服部選手の身体を引き起こす。

 ふたりの帯は両方とも畳に落ち、道衣などは半分脱げかけてしまっていた。


 柚子も服部選手も半死の体でそれを拾い上げ、よろよろと審判の左右に並ぶ。

 審判は、無言で服部選手の腕を上げた。


 時間切れによる、服部選手の判定勝ちであった。

 服部選手がタップをする前に、試合時間が終了してしまったのだ。

 柚子は服部選手と握手をしてから、帯を引きずってレオナたちのもとに帰還してきた。


「おつかれさん。あと三秒あったら、あんたの勝ちだったね」


「本当にいい勝負だった。惜しかったよ、遊佐さん」


 柚子はぜいぜいと息をつきながら、やはりレオナのもとに倒れ込んできた。

 レオナはそれを抱き止めて、汗だくの短い髪に頬をうずめる。


「くじょう……しゃん……」


「喋らなくてもいいですよ。とても素晴らしい試合でした」


 レオナはどうしても感情を抑えることができず、柚子の熱くて小さな身体を力まかせに抱きすくめてしまった。


「スタミナが五分の状態だったら、遊佐さんが勝っていたはずです。遊佐さんは、すごいです」


「えへへ……だけど、負けは負けだよぉ……」


 レオナの頬にぐりぐりと頭を押しつけてから、柚子はゆっくりと顔を上げた。

 絆創膏が剥がれてあちこち血のにじんだその顔に浮かんでいるのは、これ以上ないぐらい幸福そうな微笑みであった。


 女子白帯ガロ級優勝、女子白帯アブソルート級準優勝、戦績は四勝一敗───それが柚子の本日獲得した、この一年半の鍛錬の成果であった。


 それは決して何者にも恥じる必要のない成績だ。その事実を柚子本人がきちんと認識してくれていることが、レオナにとっては何よりも嬉しく、そして誇らしいことだった。

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