ACT.2
01 横須賀クルーザー・ジム
翌日である。
起床時間は午前の七時。五キロていどの軽いロードワークをこなしたのち、簡単な食事を摂取して、午前中いっぱいはまたスパーを中心にした朝練習。そうして昼食まで済ませてから、一同は勇躍『横須賀クルーザー・ジム』を目指すことになった。
鎌倉から横須賀までは、車でおよそ三、四十分だ。二度目の来訪ということもあって、七名のジム生を乗せたワゴン車は約束の午後二時に遅れることなく目的地に到着することができた。
有料駐車場にワゴン車を駐め、各自の荷物を持って横須賀の町を歩く。これといって特筆するところのない商店街だ。本日はクリスマスイブであるはずであったが、とりたてて賑わっているわけでも寂れているわけでもない。
(横須賀っていうと港町のイメージだけど、べつだん潮の香りがするわけじゃないんだな)
そんなことを思いながら、レオナは最後尾をてくてくと歩く。
知人に出くわす可能性はきわめて低かったのでサングラスは置いてきたが、それでもキャップだけは深々とかぶったままである。そうしてアーケードの商店街をしばらく進んでいくと、やがて柚子がはしゃいだ声をあげた。
「あー、見えてきた! ここも一年ぶりですもんねー。何だかワクワクしてきちゃったなー!」
どうやら通りの右手側に見えてきた六階建ての雑居ビルが目的の地であるようだった。
その先にはマンションや銀行が立ち並んでおり、車道をはさんだ向かい側は大きな病院だ。聞くところによると、私鉄の駅から徒歩一分という立地であるそうだが、やはり繁雑さのないのどかな区域である。
見上げると、雑居ビルの四階から上にはすべて『横須賀クルーザー・ジム』の看板が掛かっていた。
規模的には『シングダム』を遥かに上回る格闘技ジムであるようだ。
「わざわざあたしたちのために時間を作ってくれたんだから、くれぐれも失礼のないようにね。……特に乃々美とカズは気をつけておくれよ?」
「なんで九条を差し置いて僕たちなのさ」
「九条さんは、黙って立ってりゃ一番おしとやかなぐらいだからね。タケくんがいなきゃそうそうキレたりもしないみたいだし」
レオナとしては、恐縮することしきりである。
ともあれ、一同は雑居ビルのエレベーターに乗り込むことになった。
景虎は、迷うことなく最上階のボタンを押す。
そうしてエレベーターの扉が開くと、もう目の前がジムの入口であった。
全面ガラス張りで、『横須賀クルーザー・ジム』の名がでかでかとプリントされている。その下に描かれた戦艦のイラストは、きっとこのジムのロゴマークなのだろう。ボクシングの階級名でも使われている「クルーザー」というのは、たしか軍用の巡洋艦を指す言葉でもあったはずだ。
その他には「キック・柔術・フィットネス」の文字がペイントされており、色とりどりなポスターやジムの料金表なども張り出されている。雰囲気的には、『シングダム』からもそう遠い感じではない。
「ふーん、けっこうな人数が集まってるみたいだね」
乃々美が小声でつぶやいた通り、ガラスの向こう側には大勢の人間の姿が見えた。少なく見積もっても、十五名ぐらいは集まっている様子である。
「失礼します。東京から来た『シングダム』の者です」
ガラス扉を開けて景虎が挨拶をすると、あちらこちらから「押忍!」「お疲れさまです!」の声が飛び交ってきた。
「いやあ、おひさしぶり。お待ちしていたよ、景虎さん」
その中から、そんなに大柄でない壮年の男性がひょこひょこ近づいてくる。
体格はそれなりにがっしりしているが、身長は百七十センチ未満であろう。ずんぐりとした身体を青い柔術着に包んでおり、四角い顔に柔和な笑みをたたえている。
「押忍。おひさしぶりです、
「そちらも元気そうだねえ。
この人物は、『シングダム』の外来コーチである氏家という人物とライバル関係にあるらしい。MMAではなく柔術の選手で、腰には氏家と同じく黒色の帯が巻かれている。
「先月の試合の映像も見せてもらったよ。いや、女子選手であれだけ粒がそろってるなんて立派なもんだ。今日はお手柔らかに頼むよ」
「こちらこそ、胸をお借りいたします」
「それじゃあ、まずは着替えてきてくれ。挨拶はその後でな」
「はい」
レオナたちも門倉コーチに頭を下げつつ、靴を脱いで『横須賀クルーザー・ジム』の敷地内に足を踏み入れた。
このフロアだけで、『シングダム』と同じぐらいの規模がある。室の奥にはリングが置かれているし、その手前にはサンドバッグやパンチングマシーン、防具やグローブの詰まった棚など、設備の充実度も優り劣りはない。
まったく今さらの話であるが、世の中にはこんなにもあちこちに格闘技ジムというものが存在するのだあという感慨を抱かされることになった。特にMMAやブラジリアン柔術などというのはこの二十年ていどで日本に広がった競技であると聞いていたのに、大した普及率であるように感じられる。
そんなことを考えながらレオナが最後尾を歩いていると、横合いから「おい」と声を投げつけられた。
ずらりと立ち並んだジム生たちのひとりが進み出て、レオナのほうに近づいてくる。
「あんた、身長は何センチなの?」
まだ若い、レオナと同年代ぐらいに見える少女である。
綺麗な栗色の髪をアップにまとめており、瞳は海のように青い。至極ネイティブな日本語の発音であったが、外国人か、あるいはハーフなのだろう。ぬけるように色が白く、目鼻立ちはくっきりと整っている。
そしてその少女は、レオナに負けないぐらい背が高かった。
少なくとも、百七十センチは超えているだろう。その上で、革鞭のように引き締まったプロポーションをしている。タンクトップにハーフパンツという格好で、右の二の腕にはトライバルのタトゥーが刻まれていた。
「ええと……私は百七十三センチですが」
レオナはせめてもの乙女心として、小数点以下を切り捨てさせていただいた。
その少女は青い瞳を爛々と燃やしながら、ずいっとレオナに顔を寄せてくる。
「ウチより二センチも大きいのか。……だからって、いい気になるんじゃないよ?」
「いい気?」とレオナが首を傾げたところで、音もなく近づいてきていた門倉コーチがその少女の頭を引っぱたいた。
「いったいなあ! いきなり何すんだよ、門倉さん!」
「いきなり何すんだはこっちの台詞だ。挨拶は着替えた後って言っただろ」
門倉は力ずくで少女に頭を下げさせると、実に屈託のない笑顔をレオナに向けてきた。
「悪かったね。さ、こんな礼儀知らずは放っておいて、着替えてきてくれ」
「はい」
景虎たちも数歩進んだところで足を止めていたので、それと合流して更衣室に入室する。
「何だよ、あいつ。あんな女、去年にいたっけか?」
扉を閉めるなり伊達がいらついた声をあげると、景虎はアーミージャケットを脱ぎながら「記憶にないねえ」と苦笑した。
「ま、去年も今年もごく一部のヒマ人が集まってるだけだろうからね。知らない顔がいたって不思議はないさ。……ただ、あの身体つきからして新人ジム生ではありえないだろうねえ」
「ウェイト的には、あたしと同じぐらいだったな。ひょっとしたら、あいつが九条の相手なんじゃねえの?」
「ありうるね。他にウェイトの合いそうな女子選手は見当たらなかったし」
確かに、十五名ばかりもいたジム生の内、女子ジム生は五、六名しかおらず、その中にレオナと体重の合いそうな人間は彼女の他に見当たらなかった。
「そういえば、彼女以外にも外国人の方々がちらほら見受けられましたね?」
「ああ、ここは米軍の基地が近いから、そこで働いてる人間の身内がちらほら通ってるって話だったよ」
景虎の答えに、レオナは「なるほど」とうなずいてみせる。
その隣では、早くも下着姿になっていた柚子が「楽しみだなー!」とまたはしゃいだ声をあげていた。
「あたしのお相手は、やっぱりトビーさんなのかなあ! うー、楽しみ楽しみ!」
「トビー? それも外国の方ですか?」
「ううん。トビーは仇名だよ。やっぱり外国の人が多いから、呼びやすい仇名をつけられたのかな。去年の合同練習で知り合ったんだけど、すっごく優しくて素敵なおねーさんなの! それで、柔術の腕前は青帯なんだよ!」
その素敵なおねーさんとこれから取っ組み合うことになるかもしれないのに、柚子はとても嬉しそうであった。
まあそれは喧嘩ではなくスポーツなのだから当然のことなのだと、レオナは納得しておくことにする。
「さっきの元気な娘さんは、いかにもキックの選手らしい体格をしていたね。もしもあれが九条さんの対戦相手だったら、要注意だ。昨日の夜に話した通り、欧米人ってのはフィジカルがハンパじゃないからさ」
「はい」
「……何だか心なし嬉しそうな顔をしているね。ああいう相手とやり合えるのが嬉しいのかい?」
「い、いえ。そんなことはありません」
レオナはただ、ひさびさに自分と同じぐらいの身長を持つ女の子とめぐりあえて、少し嬉しくなっていただけのことであった。
とはいえ、けっきょくレオナのほうが二センチばかりも長身であるようだが、百七十センチを超える女の子というのは希少なのだ。
(ま、友達になれそうなタイプではなかったけど)
そうして一同は、トレーニングウェアにフォームチェンジすることを完了させた。
景虎と柚子は半袖のラッシュガード、乃々美と晴香と伊達はタンクトップ、レオナのみがTシャツである。練習着に費用をかける気にはなれなかったので、レオナは初日に購入した『シングダム』のロゴ入りTシャツをいまだに愛用しているのだった。
なおかつ練習試合の後は合同練習も控えているので、伊達や隆也少年もきちんと練習着に着替えている。レオナたちが外に出ると、ひとりで男子用の更衣室にこもっていた隆也少年も『シングダム』のTシャツにハーフパンツという格好で姿を現した。
「おそろいだね」とレオナがこっそり呼びかけると、隆也少年ははにかむように微笑みを返してくる。
いつ見ても、頭をなでたくなるような笑顔だ。
「よし、それじゃあウォーミングアップを先に済ませてしまおうか」
門倉コーチの号令に従って、その場にいる全員がマットの上に広がった。
レオナたちもいつも通りにストレッチをして、軽く打ち込みまでこなしてから、あらためてコーチの前に立ち並ぶ。
すると、ジム生の中から五名の人間が進み出てきた。
外国人女性が二名、日本人女性が二名、そして日本人男性が一名という顔ぶれだ。
さきほどの少女も、しっかりとその内のひとりに組み込まれている。
「試合順は、先月のイベントと一緒でいいかな? こっちの大将はアベリィ・グリーン。柔術の腕前は紫帯だ。景虎さんには、グラップリングでお相手を願いたい」
「ヨロシク」と、大柄な外国人女性が笑いかけてくる。
といっても、やはり身長はレオナより五センチ以上は低い。景虎をさらに肉厚にしたような体格で、頭には褐色の髪が渦巻いており、白い肌にはそばかすが目立つ。年の頃も、景虎と同じく二十代の半ばぐらいであろうか。目も鼻も口も大きくて、なかなか愛嬌のある顔立ちをしている。
「副将は、
さきほどの、栗色の髪と青い瞳を持つ少女である。
名前からして、外国人ではなくハーフであったらしい。レオナの姿をきつい目つきでにらみつけながら、申し訳ていどに頭を下げている。
「中堅は、
「うん、よろしくね、柚子ちゃん」
「はーい、よろしくお願いします!」
柚子がトビーと呼んでいたのは、そんなに年齢も変わらないぐらいに見える若い娘さんだった。
ショートヘアで、身長は百五十五センチ前後。体格は太くも細くもない。半袖のラッシュガードにハーフスパッツといういでたちで、いかにもグラップラーめいている。
「次鋒は、
ここからは、問答無用でキックの選手である。
百五十七センチの晴香よりも七、八センチは背の高い、二十歳を少し過ぎたぐらいの女性だ。穏やかそうな顔立ちをしており、セミロングの髪を後ろでひとつに束ねている。
「で、先鋒なんだけど───ちょいと蜂須賀さんに見合うような選手を準備できなくってねえ」
門倉コーチの声に、最後の人物がずいっと進み出た。
まだ高校生ぐらいに見える、小柄な少年だ。身長は百六十センチていどで、とても引き締まった身体つきをしている。髪は短く、頭頂部のあたりだけがドングリのように尖っており、眉の薄い顔はいかにもやんちゃそうであった。
「苦肉の策としてこいつを準備したんだけど、どうだろうね? 名前は
「で、来年にはプロテストを受ける予定だよ」
乃々美の姿を見下ろしながら、その沼上なる少年はそのように述べたてた。
「お前はアマ・ムエタイの世界王者なんだろ? そっちもプロテストを受ける予定だって話だし、スパー感覚ならいいんじゃね?」
体重は乃々美より十キロぐらいは重く、男性で、しかもプロテストを受けるぐらいの実力者である、というプロフィールは、門前の小僧たるレオナにしてみてもミスマッチなのではないかと思わざるをえなかった。
門倉コーチは、眉尻を下げながら「ううん」と笑っている。
「実は、宏太とあかねを入れ替えようかとも思ったんだけどさ、身長も体重もあかねのほうが上回ってるぐらいだし、それなら宏太のほうが適役かなあっていう結論になったんだよね」
確かに晴香は平常体重が五十五キロていどなので、どちらの選手とも折り合いはつくのだろう。
だけどやっぱり、女子と男子では骨格も筋肉量も違う。三者の中で一番体重が軽いはずの沼上という少年は、晴香よりも桐ヶ谷という女性よりも逞しく、頑強そうな体格に見えた。そういえば、彼の身長や体重は『シングダム』のコーチであるトンチャイとほぼ同一の数字である。
「僕は誰でもかまわないよ。男子相手のスパーなんてしょっちゅうだしね」
と、乃々美がいつものぶっきらぼうな声で応じる。
「でも、せっかくの練習試合なのにスパー感覚じゃつまらないな。やるんだったら、普通に試合をしたいけど」
「へえ? だけど、わざわざ遠征してきてケガすんのも馬鹿らしくね?」
沼上は、乃々美を挑発するように笑う。
何か乃々美に含むところでもあるのだろうか。あんまり好感の持てない笑い方だ。
レオナがそのように考えると同時に、門倉コーチがにこやかな表情のまま沼上の頭をひっぱたいた。
「実はこいつも蜂須賀さんと同じムエタイの世界大会に出てたんだけどさ。あえなく一回戦で敗退しちゃったんだよ。そんなことでひがんだってどうしようもないんだけどねえ」
「ひがんでなんかないッスよ! 女子と男子じゃレベルも選手層の厚さも全然違うんスから!」
唇をとがらせながら、沼上はそのようにぼやいた。
悪人というよりは、子供っぽいだけなのかもしれない。
そんな彼を見返しながら、乃々美は「ふーん」と気のない声をあげる。
「まあ、ここはそっちのジムなんだから、全部おまかせするよ。ただ、どんなに体重差があったって、攻撃が当たらなきゃ意味ないと思うけどね」
「ああ、蜂須賀さんのステップは大したもんだよな。だから俺も宏太でかまわないかなって気持ちになれたんだよ」
ほっとしたように門倉コーチはそう言った。
「それじゃあいちおうスパーじゃなく試合って体裁にする代わり、一ラウンドのみで時間も九十秒ってことにしようか。どうだろうね、景虎さん?」
「ああ、アマチュアのジュニアルールは一ラウンドが九十秒でしたっけ。それぐらいが落としどころなんじゃないですかね」
礼儀正しく答えながら、景虎は不敵に笑っていた。
「はっきり言って、うちのジムには男子女子関係なく、九十秒で乃々美を仕留められるような選手はいませんから。それならそっちの坊やも全力でかかってきてかまわないと思いますよ」
「だとさ。胸を借りてこい」
門倉コーチも笑顔になり、かたわらの少年の頭を小突く。
沼上は、やはり子供のように「ちぇっ」と舌を鳴らした。
「あと、気になるのはエマぐらいかな。えーと、君が黒覆面のあの選手なんだよね?」
「はい、九条レオナと申します」
「九条さんか。このエマはね、それこそ普段から男連中とやりあってて、実力的にはもうプロ級なんだ。君は空手歴十年以上で、試合でも素晴らしい動きを見せていたから大丈夫かなと思ったんだけど、どうだろうね?」
「かまいません。怪我をしないように十分気をつけたいと思います」
本当は、相手に怪我をさせないように、というほうが重要な案件であるのだが、もちろんそのようなことを口にはしなかった。伊達の例から、そういった気づかいは相手を不愉快にさせるだけだと学んだのである。
「それじゃあ、オッケーかな。アベリィも飛川も柔術の級位は景虎さんや遊佐さんより上だけど、そっちは氏家くんからお墨付きをもらってるんでね」
「え? 氏家コーチは何て言ってたんですか?」
「景虎さんも遊佐さんも、ノーギだったらひとつ上の級位でちょうどいいぐらいだってさ。アベリィや飛川はギがメインだから、確かにいい勝負になると思う」
ノーギというのは柔術着を着ない試合形式、ギというのは柔術着を着る試合形式のことである。景虎や柚子はあくまでMMAのために柔術を学んでいるので、ノーギのほうが主体であるのだ。
それにしても、「道着を着ない柔術」というのも、なかなか珍妙なものである。ルーツを同じくするはずの柔道では、まったく考えられないルールであろう。
かくいうレオナも『シングダム』に入門するまでは柔術という競技自体を理解できていなかったので、すべてが門前の知識であった。
MMAの世界で取り沙汰される柔術というのは、すなわち「ブラジリアン柔術」といって、二十世紀初頭に日本からブラジルに伝わって独自の発展を遂げた競技であるのだそうだ。
そこでノーギという試合形式が生まれたのは、柔術着を買えない貧しい人間でも手軽に学べるように───そして、異種の競技者が競い合う「バーリトゥード」というものがブラジルに根付いていたためであるらしい。
たとえばボクサーやレスラーと闘う際は、相手が道着を着ていない。それでも相手を制圧できるように、道着を用いない技術が練磨されたのだろう、という話であった。
ブラジルでは、それぐらいの大昔から異種格闘技戦の文化というものが存在していたのだ。
そして現代MMAも、ルーツはそのバーリトゥードにあるのだという。
「だから、羽柴塾の技術を学んできた九条さんがMMAに取り組むってのは、ある種、先祖返りみたいな面もあるんじゃないのかね」
当初、景虎はそのように言って笑っていた。
「もともとのバーリトゥードってのは、目潰しと噛み付きと金的ぐらいしか禁じ手にはされていなかったって話だよ。流派によっては金的すらオッケーだったみたいだし、そんなルールだったら、九条さんも今ほど苦労しなかったんだろうね」
しかしそれではMMAという競技をスポーツとして定着させるのが難しかったので、現在のようにさまざまなルールが付け加えられたのだそうだ。
裏を返せば、発足当時はそれぐらいの過激なルールでMMAの試合が開催されていた、ということになる。
現在、北米ではプロボクシングに迫るぐらいの勢いでショービジネスとして確立されつつあるMMAの大会も、およそ二十年前にはバーリトゥードのルールが用いられていた。反則は前述の三点のみで、対戦時間は無制限、グローブの着用も義務づけられず、道着を着ようがトランクス一枚で出場しようが、まったくの自由であったらしい。中には右拳にだけボクシンググローブをつける、という珍妙な選手まで存在したそうだ。
(そんな試合がアメリカのテレビで放映されてたなんて、すごい話だよな)
目潰しと噛み付きと金的攻撃以外が有効というのは、恐ろしいルールである。
現代MMAでは反則とされているさまざまな攻撃───頭突き、指折り、後頭部や脊髄への攻撃、倒れた相手の頭を蹴る行為、相手を頭から地面に落とす行為、そんなものがすべて認められてしまっていたのだ。
いや、それどころか、耳や鼻や口への攻撃や、傷口をかきむしる行為さえ許されてしまうのだろう。
むろん、路上の喧嘩においては、それらのすべてが許されている。
羽柴塾においても、「相手に無用な怪我を負わせない」という大前提のもとに、すべてが有効だ。バーリトゥードでさえ禁止されている目潰しや金的攻撃だって是とされている。それどころか、多人数や武器を持った相手をも制圧できるように、羽柴塾の門下生たちは心身を鍛えていたのである。
だけどそれは、羽柴塾が武術であったためだ。
柔術というものも、もとは武術であったのだろう。
さかのぼれば、武術というのは敵を殺す技術だ。それが時を重ねるにつれ、法を犯さずに相手を制圧する護身術に発展したのだろうとレオナは理解している。
だからこそ、武術とスポーツは、羽柴塾の空手と現代MMAは、まったく異なるものであると思えるのだ。
そのMMAが、もとはそんな凄惨なルールであったということが、レオナにはなかなか上手く理解することができなかったのだった。
「だけどそいつは二十年以上も前の話だからね。そこからルールを改正していなかったら、今ほど立派なショービジネスとしては成立しなかっただろうさ。アメリカでだって放送コードにひっかかって放映できない州がたくさんあっただろうしね」
景虎は、そのように述べていた。
「そもそもバーリトゥードのルーツはサーカスの見世物だったらしいからね。それこそ、残酷ショーみたいな扱いだったんだろう。それが柔術と出会うことで競技性を帯びて、アメリカに持ち込まれることでMMAとして生まれ変わった。残酷ショーは残酷ショーでけっこうだけど、MMAはそうじゃない。れっきとした競技であり、プロスポーツさ」
その言葉を胸に、レオナは今日まで『シングダム』でのトレーニングを続けてきたのだった。
切り捨てたかった半生を、別のものとして昇華させることができるかもしれない。怒りや憎しみでもって相手を屈服させるのではなく、同じ競技に情熱を燃やす者同士で、技を競い合い───それを楽しみ、喜びの気持ちで為せるかもしれない。この四ヶ月でレオナが得たのは、そういった希望の萌芽であった。
(……だから、こいつの目つきが気になるんだよな)
そんな風に思いながら、レオナは石狩エマという少女の姿を盗み見る。
彼女は門倉コーチたちが話している間も、ずっとその青い瞳でレオナをにらみつけていた。
爛々と燃える、火のような目つきだ。
そんな目つきに、レオナははっきりと見覚えがあった。
彼女はまるで、かつてレオナが屈服させてきた何十人もの荒くれ者たちのような目つきをしていたのだった。
「よし、それじゃあ先鋒戦からスタートさせようか」
そんな門倉コーチの陽気な声とともに、ついに『横須賀クルーザー・ジム』との練習試合は開始されることになった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます