02 疑念

 羽柴ハルト───それが、レオナの上の兄の名前である。

 漢字で書くならば、播流斗。レオナの名前と同様に、父親の好みばかりが反映された名前であった。


 レオナは、この兄ハルトが大の苦手であった。

 理由は、わかりきっている。この上の兄が、嫌というほど父親にそっくりであるからだ。


 レオナがこの世で一番苦手であるのは、父親だ。

 だからこの上の兄は、世界で二番目に苦手な相手である、ということになる。


 下の兄は、まだマシである。血の気が多くて、単細胞で、羽柴家においても最大のトラブルメーカーであったものの、取り扱いはそれほど難しくない。それに、意見が対立しないときは、とても良い兄だった。身内には優しいし、竹千代のこともずいぶん可愛がっていたように思う。


 そんな下の兄よりも、レオナは父親と上の兄を苦手としていた。

 もちろん、家族としての情愛は持っていたし、尊敬の念みたいなものも感じなくはなかった。ただ、いざというときの言葉の通じなさといったら、下の兄とは比較にもならいほどであったのだった。


 父親と上の兄は、めったに感情を乱すことがない。いつだって飄々としており、人あたりはやわらかく、内情を知らない人間には優しそうだと評されることさえあるほどであった。その風貌も、ケンカ空手の道場主とその跡取りとは思えないほど、柔和なものであっただろう。


 ただ、世間の常識や道理というものをよりわきまえていないのは、この両名のほうだった。

 早い話が、自分たちの行いに疑問がなさすぎるのだ。


 誰よりも強くなる。その目的のためならば、どのような苦労も犠牲も厭わない。それが父親たちの───つまりは羽柴流徒手格闘術道場、羽柴塾のお題目であった。

 父親と兄ハルトは、そのお題目が服を着て歩いているような、そういう人間であったのだった。


 羽柴塾のルールはただひとつ、「素手であること」だった。

 素手でさえあれば、どのような攻撃でも有効である。ただ、自分の身に危険が及ばない範囲で、相手のことも傷つけずに制圧できればそれこそが至高、という方針だ。


 よって羽柴塾においては、ルールで縛られた試合というものに重きを置いていなかった。あくまで路上の格闘を想定して、心身を鍛えていたのである。


 悪いことに、レオナたちの生まれ故郷では、路上の格闘というものが日常茶飯事となっていた。いや、そういう環境であったからこそ、羽柴塾がこのような存在として確立することになった、と解釈するべきなのだろうか。タマゴが先かニワトリが先か、というやつだ。


 何にせよ、そういう特殊な環境下であったからこそ、羽柴塾は羽柴塾として成立していたのだろう。

 そうでなければ、現代日本において路上の格闘に勝つことを目的とした空手道場など存続できるとも思えなかった。


 ともあれ───レオナが生まれたのはそういう場所であり、そういう家であった。

 レオナもある時期までは、そういう特殊な環境に順応して、ひたすら父親たちの背中を追い求めていたのだ。


 しかし、いったん疑問を抱いてしまうと、もう駄目だった。

 自分たちの住んでいるこの町は、ちょっとおかしいのではないか。どうして女である自分までもが毎日ケンカに明け暮れなくてはいけないのか。中学生になり、ほんの少しだけ行動の範囲が広がると、レオナはたちまちそういった疑念に陥ってしまったのだった。


 また、レオナの地元には羽柴塾の勇名だか悪名だかがはびこっていたため、まともな感性を持った人間とは交流することがかなわなかった。レオナに近づいてこようとするのは、羽柴塾を敬愛する人間か、羽柴塾を憎悪する人間ばかりであった。


 ただひとり、羽柴塾とは関係なしに交流を結ぶことのできた女の子もいなくはなかったが───その女の子は、レオナをつけ狙う荒くれ者との乱闘に巻き込まれたあげく、転校していってしまった。その苦い経験によって、レオナ自身もいっそう人を遠ざけるようになってしまった。


 そういった体験からもたらされた孤独感に、レオナは耐えられなくなってしまった。

 それで、母親と一緒に地元を離れることになったのだ。


 レオナや母親がどれほど言葉を重ねようとも、父親たちが考えを改めることはなかっただろう。また、今さら考えを改めたところで、周囲の状況を変えることはできない。羽柴塾の人間として地元に居残るか、まったく別の場所に逃げ出すか、それしか道は残されていなかったのである。


 それでレオナと母親は地元を離れ、父親と兄たちは地元に居残った。

 これですべては、決したはずだった。


 そんな中で、よりにもよって上の兄が───羽柴ハルトがこの東京に、『シングダム』に姿を現したのだ。

 それは、父親自身が現れるよりも最悪な事態であると、レオナにはそんな風に思えてならなかったのだった。


                ◇◆◇


『ハルトさんは、いきなり俺の店にやってきたんですよ』


 竹千代からそんな電話が入ったのは、柚子よりも二時間遅れてのことだった。

 午後の八時から十時まで行われるプロ練習を終えて、ようやくハルトが姿を消したので、ゆっくり電話をする時間ができたのだという話であった。


『店の住所は、俺の親から聞いてきたみたいです。俺は別に、それを隠していたわけでもありませんし……というか、姐さんたちも隠そうと思って隠したわけじゃないんすよね?』


「はい。おたがいに必要はないので教えなかった、と母からは聞いています」


『いかにもおやっさんとおかみさんらしい話ですよね。だからまあ、俺もハルトさんが押しかけてくるなんて想像もしてなかったんですけど……これはいったい、どういうことなんでしょうね?』


「それはこちらの台詞です。兄は、なんと言っていたのですか?」


『はい。俺と姐さんの様子を見に来たんだと仰ってました。姐さんはどこに住んでるんだって聞かれましたけど、本人の了解もなしに教えることはできませんとお伝えしておきましたよ』


「それはありがとうございます。……それで、どうして兄が『シングダム』に向かうことになってしまったのですか?」


『それはほら、俺がこっちで余所のジムに入門したって話は伝えてありましたから……それこそ、隠すような話ではないですからね』


 竹千代は、今でも羽柴塾の門下生である、という心持ちでいるのだ。最終目標は東京に羽柴塾の支部道場を開くことであり、現在はそのために腕を磨くべく、『シングダム』をかりそめの宿としている立場なのだった。


『俺がどんなジムでどんな稽古をしているのかを知りたいから見学でもさせてくれと言われちゃったんですよ。そんな風に言われちゃったら、俺も断れませんし……というか、姐さんとのことがなかったら、どうぞどうぞ見ていってくださいってぐらいの話ですからね』


「……それで私と鉢合わせしないように、忠告の連絡をしてくれたのですね。そのことには、心から感謝しています。……でも、ジムの方々にはどのように説明したのですか?」


『何も説明しちゃいません。ちょっとでも話したのは柚子さんだけですよ。全員に口止めする余裕なんて、これっぽっちもありませんでしたからね。ハルトさん、俺の仕事が終わるまで、ずっと店に居座ってたんですもん』


「それなのに、よくも私のことが露見しなかったものですね」


『それは、ハルトさんの側に細工をさせていただきました。羽柴塾ってのは格闘技業界で悪名高いから、ジムでその名前を出すと騒ぎになりかねない。だから、ハルトさんは俺の地元の関係者じゃなく、東京で知り合った友人ってことにしておいてください……と、そんな風にお頼みしておいたんです』


 それはなかなかの機転であるように思えた。

 そういう名目で見学者として連れていったのならば、どちらの側からもレオナの名が出ることはなかっただろう。


『きっとハルトさんは、姐さんがこっちで格闘技のジムに通ってるなんて想像もしてないでしょうからね。だから、何もあやしまれなかったと思います』


「そうですか。かえすがえすも、苦労をかけさせてしまいましたね。本当に感謝しています」


『いやあ、姐さんのためなら、何てことないですよ。……ただ、やっぱり電話でもそういう喋り方なんですね』


「……何かご不満でも?」


『いえいえ、滅相もない! ……それで、この先はどうしましょう?』


「……この先とは?」


『ハルトさんに、姐さんとの渡りをつけてほしいって言われちゃったんですよ。家の場所が言えないなら、どこかで待ち合わせて話をさせてほしいそうです。明日には返事をしないといけないんですけど、どうしましょう?』


 レオナは目眩をこらえながら、思案することになった。


「もちろん私は、会いたくありません。一年足らずで兄と再会するなんて、私は考えてもいませんでした」


『まあそうですよね。……でも、それであきらめるハルトさんじゃないですよね?』


「わかっています。とりあえずは、何の用事であるかを聞いてみてください。その間に、こちらも手立てを考えます」


『了解しました。……でもあの、道端でばったり出くわさないように気をつけてくださいね。うちの店と姐さんのマンションは、歩いて五分もかからないんですから』


 そんな至近距離まで兄が近づいていたのかと思うと、レオナはいっそう頭が痛くなってしまった。


「……まあ、大丈夫でしょう。こちらが制服姿なら、きっと遠目にはわからないでしょうし」


『あはは。身長で丸わかりかもしれませんけどね。……あ、嘘です、ごめんなさい。まだ切らないでください』


「……私が電話を切ろうとしたこと、よくわかりましたね」


『それは十年来のおつきあいですから。……でも、ジムのほうはどうします? 俺もハルトさんも携帯電話とか持ってないんで、何かの弾みでひょっこり顔を出さないとも限らないんですよね』


 それは何とも悩ましい話であった。

 そろそろレオナの思考能力も限界に近づいてきてしまっている。


「明日、兄と会った後にまた遊佐さんに電話を入れる時間があったら、どんな風に話がまとまったかを教えていただけますか? それで私も、行動の指針を定めたいと思います」


『シシンですか。姐さんて、けっこう難しい言葉を知ってますよね。そういうのも勉強されたんですか?』


「……今度こそ電話を切ってもよろしいでしょうか?」


 そのように述べてから、レオナは自ら踏みとどまった。


「だけど竹千代くんは、私のためにわざわざ景虎さんや遊佐さんにまで連絡を入れてくれたのですよね。ちょっと不思議に思ったのですが、どうして兄ではなく私に肩入れしてくれるのですか?」


『え? それはだって……姐さんが困ってるなら、それは見過ごせませんよ』


「でも、私は羽柴塾を離れた身です。竹千代くんの立場であれば、本来は兄のほうが大事な存在でしょう?」


『それはそれ、これはこれです。もちろんハルトさんは俺の憧れですけど……でも、プライヴェートな部分では、力を貸そうって心境になれないんですよね。ハルトさんは、何というか……あれで完成しちゃってるから、俺の手助けなんて意味がないように思えちゃうんですよ』


 それはまあ、レオナにもわからなくはない心境であった。

 父親や兄ハルトほど、手助けのし甲斐のない人間というのはなかなかいないことだろうと思う。


『それに、ハルトさんはひょっとしたら、姐さんを地元に連れ帰りたいとか思ってるのかもしれないじゃないですか? そうだとしたら、それには協力できませんよ』


「何故ですか? 私が地元に帰れば、あなたも苦労をして親もとを離れる必要もなくなるのでしょう?」


『別に苦労はしてませんよ。学校に通ってた頃より、今のほうが楽しいぐらいですからね』


 その柴犬っぽい笑顔が想像できるような声で、竹千代はそう言った。


『それに、姐さんのほうこそ、今のほうがものすごく楽しそうじゃないですか? ハルトさんがその邪魔をしようと考えてるんだとしたら、とうてい協力なんてできませんよ。前にも言いましたけど、俺は姐さんに幸せになってほしいんです』


「……あなたがそこまで私に思い入れを抱く理由がわからないのですよね。まさか、私に恋愛感情を抱いているわけではないのでしょう?」


『そんな恐れ多いこと! 姐さんだって、俺なんかは眼中にないでしょう?』


「はい。申し訳ありませんが、あなたを異性として見ることは限りなく困難であると思います」


『それでいいんですよ。俺たちの間に色恋の話なんてまぎれこんだら、なんか気持ちが悪いじゃないですか。うまく説明できませんけど、これまでの十年間を台無しにされる気分です』


 その言葉は、妙にしっくりとレオナの胸に収まった。

 レオナが言葉にできなかった感情を、竹千代に代弁されたような心地であったのだ。


『それじゃあ、後はハルトさんの返答次第ですね。今日と同じぐらいの時間に来るって言ってましたから、こっちも同じぐらいの時間に電話を入れられると思います』


「そうですか。それでは、お願いいたします。……あの、竹千代くん」


『はい、何でしょう?』


「この先、あなたに何か困ったことがあったら、私も力を惜しまず支援することを、ここで約束しておきます」


 一瞬の沈黙の後、『あはは』という呑気な声が聞こえてきた。


『すみません。なんかちょっと感動しちゃいました。それじゃあ、そのときはどうぞよろしくお願いします』


「はい。それでは、おやすみなさい」


『おやすみなさい』


 それで竹千代との会話は終わった。

 お次は、母親との対話である。

 竹千代との電話を終えてからおよそ一時間後に、紗栄子は帰宅した。

 そうしてレオナから事情を告げられると、紗栄子はちょっと珍しいぐらい憤慨の念をあらわにしたのだった。


「どうしてハルトがいきなり乗り込んでくるわけ? 住所も電話番号も知らせる必要はないって言い出したのは、あの子なのにさ!」


「え? そうだったの?」


「うん。もちろん父さんも右に同じって感じだったけどさ。縁を切るなら連絡し合う必要もないだろうって、あのいつもの飄々とした感じで言ってたのよ」


 それはレオナにも、容易く想像できる図であった。

 父親と兄ハルトは、そういう人間であるのだ。強がっているわけではなく、怒っているわけでもなく、ただ「それが正しい」と判断したのだろう。

 彼らの倫理や常識では、きっとそれが正しい行いであったのだ。


「だったら、あたしを連れ戻しに来たわけじゃないのかなあ? あたしとしては、それが一番心配なところなんだけど」


「うーん、どうだろう。あの子の場合、ころっと考え方が変わったりもするからね。今の段階では、なんとも言えないよ」


 そのように述べながら、紗栄子はぐぐっと身を乗り出してきた。


「ね、あたしから父さんに連絡してみようか? というか、あたしもとうてい黙ってられないんだけど」


「それはもうちょっと待ってもらえるかな。変に騒ぎになると、タケが困ることになっちゃうかもしれないから」


 それに、いくら父親を責めたところで、ハルトが行いを改めることはないだろう。父親もハルトもおたがいを最大限に尊重しつつ、なおかつ稽古以外の部分では完全に不干渉であるという、そんな関係性であるのだ。


「ハルトは、ますます父さんに似てきたみたいだね。将来が恐ろしいよ、まったく」


「うん。あたしは母さん似だと嬉しいな」


 紗栄子は苦笑して、レオナの頭に手をのばしてきた。


「また母親としては不適切な愚痴をこぼしちゃったよ。あんたはあたしよりもよっぽど立派な人間だよ、レオナ」


「そんなことはないと思うけど」


 ともあれ、その夜はそれで終わることになった。

 竹千代から次なる連絡が入ったのは、宣言通りに翌日の放課後になってからのことである。


『どういう用事かは本人に話すの一点張りでした。それでもって、姐さんがうんというまで説得してほしいと頼まれちゃいましたよ』


「やっぱりそうでしたか。それじゃあ、どこかで一度顔をあわせるしかないでしょうね」


 西荻窪の駅前で、柚子たちに見守られながら、レオナはそう答えた。

 すると、竹千代の声がいくぶん平静さを失った。


『ほ、本当に大丈夫ですか? ハルトさんだったら、力ずくでも言うことを聞かせようとするでしょう?』


「そのときは、警察でも呼びますよ。私はもう、路上で暴力をふるう気はありません」


『気絶させられて、そのまま家まで運ばれちゃったらどうするんです?』


「そんなの、ただの誘拐じゃないですか。それこそ、警察を呼びますよ」


 あまり亜森たちを心配させたくなかったが、レオナとしてはそんな風に答えるしかなかった。


『ちょ、ちょっと待ってくださいね。それじゃあ、俺がもういっぺん説得してみます。まず、どうして姐さんに会いたいのか、それだけでも聞き出してみせますよ』


「そのようなことが可能ですか? 下手なことをすると、あなたこそ危険です」


『俺だったら大丈夫ですよ。実力差がありすぎるんで、怪我の心配もなく制圧されちゃうでしょう』


 それはその通りかもしれなかった。ハルトは羽柴塾で二番目の実力者であり、竹千代は一本も取れたことがないのだ。

 ちなみにレオナは、三本に一本ぐらいは取れるていどに実力差を詰めていた。


『俺としては、何としてでも警察沙汰は避けたいところなんで……たぶん、ハルトさん本人よりも強くそう思っているでしょうね』


「そのお気持ちは、わからなくもありませんが……」


『一日だけ、俺にください。明日、ハルトさんが来たら、俺がじっくり話してみます。姐さんがハルトさんと面会するかどうかは、その結果で決めてください』


 竹千代の決意は固いようだった。

 それならば、その意向を尊重するべきなのだろう。今回の一件で、一番損な役回りを演じているのは竹千代であるはずなのだ。


「でも、さすがに二日連続でジムを休むことはできません。兄がまたジムにやってくるようでしたら、私が話すことになりますよ」


『あ、その点は大丈夫です。今日は体調が悪いんでジムを休むと言っておきました。何か俺に用事ができたとしても、ジムではなく下宿先のほうに来るはずですよ』


「それで、本当にジムを休むおつもりですか?」


「はい。俺が下宿先にいなかったら、ジムのほうに捜しに来ちゃうかもしれないでしょう? だから今日は、のんびり過ごすことにします」


 つくづく、損な役回りである。

 レオナは溜息をこらえながら、「ご迷惑をおかけします」とだけ告げた。


『いえいえ。それよりも、道端で出くわすことを用心してください。ひょっとしたら、高円寺を中心に歩き回って、姐さんのことを捜してるかもしれませんから』


「わかりました。ご忠告、感謝いたします」


 それでレオナは、通話を打ち切ることにした。

 咲田桜は先に帰らせたので、その場には柚子と亜森しかいない。柚子に携帯端末を返しつつ、レオナはざっと事情を説明してみせた。


「よくわからないお話ですね。お兄様は、九条さんに帰ってきてほしいと考えておられるのですか?」


 亜森にそう問われたが、レオナとしては「わかりません」としか答えようがなかった。


「少なくとも、私と母が地元を離れようとしたとき、それを引き止めようとは一切しなかったのですよね。でも、上の兄はどうにも考えの読めないところがあるので……私も、ひたすら困惑しています」


「うーん、ただ九条さんの元気な姿を見たかっただけっていう可能性はないのかなあ?」


「そんな殊勝な性格はしていませんよ。どれほど腕を上げたか知りたくなった、という話なら、まだありえそうですけれども」


「でも、お兄さんは九条さんがジム通いをしていることは知らないんだよね?」


「はい。羽柴塾が嫌で家を出たのですから、こちらで別の格闘技に明け暮れているなどとは想像もしていないと思います」


「そっかー。ますますわかんないなー。……でも、九条さんは実家に戻るつもりはないんだよね?」


 柚子が心配そうに問うてきたので、レオナは「もちろんです」と断言してみせた。


「天地がひっくり返っても、それだけはありえませんよ。兄が暴力でも行使してきたら、遠慮なく通報させていただきます」


「ううう。心配だなあ。危ない目にあわないように気をつけてね、九条さん?」


「ご心配はいりません。抵抗しなければ、一撃で昏倒させられるでしょうから、怪我のしようがありませんよ」


「それって全然安心できないんだけど!」


 柚子と亜森はたいそう不安げな様子であったが、それに反して、レオナはいくぶん気持ちが収まってきた。

 何がどう転んでも、生命まで奪われるわけではない。あちらが無法な真似をしてきたら、こちらは国家権力を頼るまでだ。レオナの親権は母の紗栄子にあるのだから、こちらの意思を無視して実家に連れ戻すことなど、絶対に不可能なのである。


(絶対に、今の生活を手放すもんか)


 レオナは半ば無意識に、柚子の頭にぽんと手を置いた。

「な、何かな?」と柚子は目を白黒とさせている。


「いえ。遊佐さんも全力を振り絞って現在の生活を勝ち取ったのですから、私も同じように立ち向かおうと思います」


「……うん、あたしも全力で応援するからね!」


 とたんに柚子は、幸福そうな笑みをひろげた。

 そのかたわらで、亜森は何かもじもじしている。


「あの、わたしも同じ気持ちです。わたしなどでは何も力になれないかもしれませんが、お困りのときはいつでもお声をかけてください」


「はい、ありがとうございます。……あの、何か怒っておられますか?」


「べ、別に怒ってなどはいません。ただ、道端で友人の頭を撫でるというのは、お控えになられるべきかと……」


 レオナは柚子の頭に手を置いたままであったのだ。


「申し訳ありません。遊佐さんの頭はちょうど手の置きやすい高さにあるのですよね」


「全然いいよー! 亜森さんも、なでなでしてもらったら?」


「そ、そういう問題ではありません!」


 レオナは、思わず笑ってしまった。

 レオナが守りたいのは、こういう何気ない日常なのだった。


 兄ハルトが何を目論んでいようとも、この日常だけは死守してみせる。大切な友人たちの姿を見比べながら、レオナはそんな思いを新たにした。


 竹千代から三度目の連絡が入ったのは、その翌朝のことだった。

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