02 アマチュア・フィスト静岡大会

 三月の第四土曜日。

 その日は、フィスト主催のアマチュアMMA大会の当日であった。

 場所は静岡の、小田原である。近場の大会はなかなかスケジュールが合わなかったため、けっきょく服部円ともども遠征することになってしまったのだった。


 他にも、二名の男子選手がこの大会に出場する。同行してくれたのは、指導役をつとめているベテランの男子選手と竜崎ニーナだ。無事に会場に到着した六名は、受付と計量を済ませてから各々のウォーミングアップに取りかかった。


 その途中で姿を現したのは、中野の格闘技ジム『シングダム』の面々であった。

『シングダム』は、『フィスト・ジム立川支部』とはライバル関係にあるジムである。この日も、服部円の対戦相手は『シングダム』の所属選手であった。


「やあ、どうも。本日はお手柔らかに」


 代表者の黒田会長が、こちらの責任者であるベテラン選手と挨拶を交わしていた。

 そしてその向こうから、見覚えのある少女が近づいてきた。

 かつて三船仁美と対戦した、『マスクド・ダンデライオン』こと遊佐柚子である。


「三船さん、こんにちは! 今日は三船さんも出場するんですか!?」


 相変わらず、輝くような眼差しをした少女であった。

 その元気さにいくぶん圧倒されながら、三船仁美は「あ、はい」と応じてみせる。


「遊佐さんは……出場するわけじゃないですよね?」


「はい! あたしは身分を隠さなきゃいけないから、こういうちゃんとした公式戦には出場できないんです」


 ちゃんとした、というのは、マスクの着用など許されない、という意味なのだろう。MMAとてきちんとしたスポーツなのだから、アマチュアの大会でそうそうマスクの着用など許されるはずもなかった。


「残念だなー。今日は頑張ってくださいね! 立場上、服部さんのことは応援できませんけど、三船さんのことは応援してます!」


「え? あ、あたしを応援してくれるんですか?」


「はい、もちろん! 三船さんが他の選手に負けちゃったりしたら、悔しくてたまりませんから!」


 そのように言いながら、遊佐柚子はにこにこと笑っている。

 服部円は声が届かないぐらい離れた場所にいたので、三船仁美はもう少しだけこの奇妙な少女と言葉を交わしてみることにした。


「あ、あの……遊佐さんはやっぱり、プロ選手とかを目指してるんですか?」


「えー? そりゃあもちろん、目指したいところではあるんですけど! でも、さすがにそれは難しいかな……たぶん、家族が賛成してくれないので」


 そのように言ってから、遊佐柚子はずいっと顔を近づけてきた。


「三船さんは、プロを目指してるんですか? 三船さんだったら、きっとなれますよ!」


「あ、いえ、そんな……あたしなんて、そんなの無理に決まってるし……そもそも、そこまで真面目に考えたこともありませんから……」


「あ、そーなんですか? じゃあ、アマの舞台でまたあたしと試合をしてくれたら、すっごく嬉しいです!」


 遊佐柚子はいっそう瞳をきらめかせながら、そのようなことを言いたててきた。

 そこに、別の人物が背後から忍び寄ってきて、遊佐柚子の頭をわしづかみにする。


「お前、敵方の選手と馴れ合ってんじゃねえよ。こっちはこれからそいつの身内をぶっ飛ばそうとしてるところなんだからな」


「いたたた! 痛いですよー、カズっち先輩! 激励するぐらいいいじゃないですか!」


 服部円と対戦する、たしか伊達和樹という選手である。

 身長も体重も服部円と同じぐらいであるはずだが、こちらはずいぶんすらりとして見える。きっと骨格が違うのだろう。顔立ちもけっこう整っているほうであるが、表情は服部円に劣らず勇ましげである。


「おら、お前は雑用係としてひっついてきたんだから、自分の仕事を果たしやがれ。まずはあたしのウォーミングアップを手伝うんだよ」


「わかりましたってばー! それじゃあ三船さん、また後で!」


 そうして『シングダム』の面々は更衣室に消えていった。

 すると、ウォーミングアップを済ませた服部円が近づいてくる。


「あんた、あのちっこいのと、いつの間に仲良くなってたの?」


「い、いえ! 会話をしたのは、あの柔術の大会以来です! 別に仲良くはしてません!」


「そんな慌てることないだろ。誰と仲良くしようが、あんたの勝手さ」


 試合を控えているためか、服部円は普段以上にピリピリしている様子であった。

 そんな服部円に、竜崎ニーナが「あまり血圧を上げすぎないようにね」と笑いかける。


「どうも先月の大会以来、マドカは情緒が安定しないね。あのモデルみたいなコにフラれちゃったのが、そんなにショックだったの?」


「……別に、そんなんじゃないですよ」


「何でもいいけど、今日の相手はダテ選手だからね。キャリアで言えばあっちのほうが上をいってるんだから、よそ見をしてると痛い目を見るよ」


 服部円は、十一月に対戦した『マスクド・シングダム』こと九条レオナなる人物がプロに進むつもりはない、と聞いて以来、ずっとそれを引きずってしまっているようだった。

 しかし竜崎ニーナの言う通り、伊達和樹というのはその九条レオナという人物よりもさらに経験豊富な年長の選手なのである。キャリアだけが重要なわけではないが、決して油断のできる相手ではないはずだった。


「もともとマドカのライバルと目されていたのはダテ選手のほうなんだから、気を引き締めていきなよ? あれもストライカーとしてはなかなかのレベルなんだから」


「負けやしませんよ。絶対にKOして、プロへの切符をもぎ取ってみせます」


 竜崎ニーナは満足そうにうなずくと、三船仁美のほうにも目を向けてきた。


「ヒトミもね、今日の相手は一階級上の選手なんだから、決して油断しないように。……いや、あんたはちょっと気を抜くぐらいがちょうどいいんだけどさ。落ち着いて、練習通りにやるんだよ?」


「は、はい!」


 あらためて、心臓がどくどくと暴れ始める。

 今日が本番なのだという実感が、今さらながらに押し寄せてきたようだった。


 それから数十分後、規定の時間に大会の開始が告げられる。

 三船仁美はB面の第三試合、服部円はA面の第四試合だった。


 参加選手がなかなかの数なので、試合会場には四つの舞台が設えられている。ロープやコーナーなどは存在しない、柔道のような平面の舞台だ。緑色のマットが、赤いマットで四角く囲まれている。この一辺が六、七メートルの試合場で、各選手の雌雄が決せられるのだった。


 観客は、ほぼ選手の身内ばかりである。

 身内でなくとも、いずれは格闘技業界の関係者であろう。アマチュアの大会に一般客がやってくることは、そうそうないはずだ。

 人数としてはごくわずかであるが、マスコミの関係者なども入り混じっている。将来を嘱望されている選手ならば、格闘技雑誌の白黒ページを飾ることぐらいはあるのかもしれない。


(すごいなあ。三十人……いや、四十人ぐらいの選手が集まってるのかな? 別に全日本選手権とかの大きな大会でもないのに)


『フィスト』というのは日本でもっとも歴史のある総合格闘技の団体であり、こういうアマチュアの大会も年間で五十回以上は開催しているはずだった。

 そうして、この場で勝ち抜いていった選手が、続々とプロの舞台に上がっていくのだ。その数も、年間では数十名に及ぶらしい。


 ただし、格闘技一本で食べていけるのは、その中でもごくひと握りの選手だけだ。

 たいていの選手は別の場所で働きながら、兼業で活動を続けているのである。竜崎ニーナも、週四ぐらいのパートタイムで何か仕事をしているはずだった。


(あたしなんかには想像もつかない世界だよなあ……あたしは、何のために格闘技を続けてるんだろう……)


 またそんな想念にとらわれてしまう。

 すると、いきなり背後から背中を叩かれた。


「ほら、第一試合が終わったよ。いつ出番が回ってくるかもわからないから、身体を冷やさないように動かしておきな」


「あ、はい! すみません!」


 三船仁美は慌てて膝の屈伸運動をした。

 すでに防具は身に纏っている。ジムから借り受けたヘッドガード、シンガード、ニーパッド、それにオープンフィンガーグローブだ。Tシャツとハーフパンツも『フィスト』の大会規定に則って、シンプルな無地のデザインのものだった。


 プロ興業であった『ヴァリー・オブ・シングダム』とは、まったく異なる趣である。

 ただし、こちらが三船仁美の本分であるはずだった。

 数百名もの観客が見守る中、スポットの当たるリングの上で、ヘッドガードもつけずに試合に臨むなど、初めての公式戦に相応しいはずがない。ルールもクラスCプラスのセミプロルールであったし、どうして自分があの試合に抜擢されたのかもわからないぐらいであった。


 本日の試合は四分一ラウンド、ルールももちろんクラスCのアマチュアルールだった。

 クラスDというのは何年か前に廃止されていたので、『フィスト』においてはこれが唯一のアマチュアルールである。

 しかしこのアマチュアルールも、年内には大幅に改正されるのだというもっぱらの噂であった。


 現在は5カウントのダウンカウント制が採用されているが、これも近々廃止されるらしい。打撃技でダウンを奪ったら、そのまま相手が回復するのを待つことなく、グラウンドでの攻防に移行できるようになるのだ。さすがにグラウンド状態における打撃技までは全面解禁されることもないのだろうが、それでも頭部を除く打撃は許されるようになるのではないか、という話であった。


 アマとプロのルールがあまりにかけ離れているのは望ましくない、という理由で、そういう改正が進められているらしい。

 つまり、根っこにあるのは「アマの選手がプロの舞台にすみやかに移行できるように」という配慮なのだろう。


 また、プロの世界においても、これまで禁止にされていた肘打ちなどが解禁されつつあり、また、金網を使用したケージの試合場の導入が進められている。

 あちらはあちらで、「日本の選手が世界の舞台にすみやかに移行できるように」と配慮されているのだ。


(そういえば、明日の『NEXT』の興業も肘打ちが解禁で、試合場もケージだったっけ)


 なおかつその興業には、『シングダム』の九条レオナという選手も出場するはずであった。

 もちろん肘打ちやグラウンドにおける打撃技の禁止されたセミプロルールであるが、ダウンカウント制は排除されたと聞いている。『NEXT』は、『フィスト』が導入しようとしているルール改正に、一足早く取り組んでいるのだ。『フィスト』よりも規模が小さいがゆえの、フットワークの軽さなのだろう。


 ともあれ、三船仁美にとって重要なのは、自分よりもMMAのキャリアは浅いと聞く九条レオナが、そんなルールの試合に臨む、ということであった。

 彼女は空手の経験者であるらしいが、MMAのキャリアは一年足らずであるはずだ。そんな彼女が以前よりも過酷なルールで、しかも柔術の世界王者と試合を行うのである。三船仁美には、まったく考えられない話であった。


(それに、あの人もあたしと同い年じゃなかったっけ? すっごく大人びていて綺麗な人だっけど、同じ十六歳の高校一年生で、そんな大きな舞台に立つなんて……いったいどういう気分なんだろう)


 なおかつ釈然としないのは、彼女が完全なるアマチュア志向である、という点であった。

 プロになる意欲もないのに、どうしてそのような環境に身を置くのか。彼女は何のために格闘技というものに取り組んでいるのか。それが、大いなる謎であった。


(プロになるつもりもないのにまたプロの興業に出て、しかも相手がルーカス・ジルベルトの娘なんて……服部さんは、それで余計に腹が立っちゃったんだろうな)


 すると今度は、ヘッドガードの上から頭をぺしんと叩かれてしまった。


「あんたはいつまで屈伸してるのさ? ほら、もうすぐ出番が来そうだよ」


 見ると、B面の試合場では男子選手の試合が佳境に差し掛かっていた。

 グラウンドでバックを取った選手が、相手の首を懸命に締め上げている。やがてタップアウトが確認され、試合の終了が告げられた。


「まったく、こんな試合直前までぼけっとしてるなんて、ヒトミらしくないね。でも、リラックスできてるなら、いいことさ」


 そのように述べながら、竜崎ニーナが両肩をもみしだいてきた。


「うん、いい感じにゆるんでるね。そのまま、相手をぶちのめしておいで」


「は、はい!」


 三船仁美は竜崎ニーナと、その足もとで入念に身体をほぐしている服部円に頭を下げ、試合舞台の前に立った。

 ほどなくして、係の人間から名前を告げられる。


「赤、天覇館小田原支部、飯草いいぐさ光枝みつえ選手。青、フィスト・ジム立川支部、三船仁美選手」


 三船仁美は大きく深呼吸をしてから、試合舞台の真ん中に進み出た。

 逆のサイドからは、飯草選手が進み出てきている。


 この試合は、一階級上のストロー級で、規定体重は五十二・二キロである。三船仁美は、平常体重の五十一キロ前後で臨んでいた。

 相手の飯草選手は、何キロか絞った上での、このウェイトなのだろう。アマチュアの計量は当日なので、リカバリーなどはほとんどされていないはずだ。


 身長は、百六十一センチの自分のほうが、わずかに上回っているようだった。

 しかしやっぱり、身体の厚みではかなり負けてしまっている。服部円ほどではないが骨格もしっかりとしており、いかにも頑丈そうな身体つきであった。


 戦績は、二勝二敗と聞いている。それ以上のデータは突き止められていない。

 また、『天覇館』というのは『フィスト』にも負けない歴史を持つ総合格闘技の古豪であり、粘り強い選手が多いのだという評判を聞いていた。


「始め!」


 主審の合図で、ファイティングポーズを取る。

 緊張をする間もなく、試合が開始されてしまった。


 データがないのだから、三船仁美も普段通りに闘うしかない。

 まずは様子見で、軽く右ローを出してみた。


 相手は軽く膝を上げ、衝撃を受け流す。

 キックボクシングの選手ほど、大きく足を上げはしない。MMAでは組み技を警戒しなくてはならないため、なるべく片足立ちの体勢を避けるのがセオリーなのである。


 飯草選手は、遠い位置から左ジャブを放ってきた。

 間合いを測っているのだろう。頭部をガードしている三船仁美の腕にかすりもしない。


 少し考えてから、三船仁美も左ジャブを出してみた。

 こちらの拳は、相手の腕にまともに当たる。三船仁美は手足が長いため、身長差以上にリーチ差が生じているようだった。


(あんまりステップは踏まないんだな。立ち技で勝負してくれるなら嬉しいんだけど)


 三船仁美は、生粋のストライカーであった。

 自分のような腕前でストライカーを名乗るのは気恥ずかしいが、組み技と寝技はそれ以上に不得手であるので、致し方がない。自分の適性はスタンド状態における打撃攻撃にある、と竜崎ニーナやコーチ陣からも寸評を下されていたのだった。


「立ち技ってのは、ほぼセンスで決まるからね。あんたにはセンスがあるよ、ヒトミ」


 入門当初、竜崎ニーナはそのように言ってくれていた。

 その言葉を鵜呑みにしたわけではないが、少なくとも、組み技や寝技よりはまだいい部分を見せられる気がしたので、この一年半は徹底的に立ち技の技術を磨いてきたのだった。


(立ち技につきあってくれるんなら、少し攻め込んでみよう)


 そのように思い、三船仁美は右足を振り上げた。

 相手の肩口を狙ったミドルハイだ。

 そこそこの衝撃が、右足の甲に走り抜けた。


 相手選手は無表情にバックステップを踏む。

 まだエンジンがかかっていないのか、服部円や石田姉妹に比べれば、ずいぶん鈍重な動きであった。同じMMA部門の服部円はもちろん、三船仁美は石田姉妹とも何度となくスパーリングを重ねていたのだった。


(特に今回は、葵さんのお世話になっちゃったからな。その成果ぐらいは見せないと)


 石田葵は、今回の相手とちょうど体重が折り合っていたのだ。追い込み練習においては、特に彼女とのスパーに比重を置いていた。

 また、組み技と寝技のディフェンスにおいては、竜崎ニーナと服部円のお世話になっている。結果の試合がどうなるにせよ、自分なんかに力を貸してくれた人々を落胆させたくはなかった。


 そんな思いを込めながら、ステップを踏み、攻撃を繰り出す。

 左のジャブは、いい感じに当たっていた。

 ならばと、右のストレートも放ってみる。

 三船仁美は右のほうが攻撃がのびるので、なかなか深く当てることができた。


 相手は軽くのけぞりながら、さらに後方へと逃げていく。

 自分にもっとタックルの技術があればテイクダウンを狙えそうであったが、欲をかいたら痛い目を見るかもしれない。そのように考えて、三船仁美は打撃のみで追撃をした。


 左のローで相手の体勢を崩し、コンビネーションで右フックも放つ。

 攻撃は、面白いぐらいに的中した。

 確かな手応えが、拳や足に返ってきている。


 そうして三船仁美は、相手を場外線の間際まで追い込むことができた。

 自分の意思でそれ以上下がったら、相手選手は反則を取られることになる。左右に逃げるか前進するかしか道はない。

 飯草選手は、後者の道を選んだ。

 頭を下げ、三船仁美に組みついてきたのだ。


 その組みつきにも、服部円のような迫力はなかった。

 おかげで三船仁美も、落ち着いて対処することができた。


 相手の腕が背中の側まで回るより早く、首を抱え込み、膝を振り上げる。

 ムエタイで言う首相撲の技である。

 右の膝蹴りが、相手の脇腹にめり込んだ。

 それで相手が怯んだ隙に、身体を突き放し、後方にステップを踏む。


 そうして三船仁美は反撃に備えたが、飯草選手は場外線の間際で片膝をついていた。


「ダウン!」


 主審が宣告し、カウントを取り始める。

 飯草選手はカウント3で立ち上がり、ファイティングポーズを取った。

 グローブの隙間から除く顔には、苦痛の色が浮かんでいる。

 思ったよりも、膝蹴りが深く入ったらしい。

 遊佐柚子はどんなに攻撃を当てても倒れることがなかったので、三船仁美にとってはこれが公式戦における初めてのダウンの奪取であった。


(やっぱり飯草選手は調子が悪いみたいだ。これなら───)


 自分でも、勝てるかもしれない。

 そのように考えかけて、三船仁美は慌てて雑念を打ち払った。

 まだ試合の開始から一分ていどしか経っていないのだ。慢心すれば、自分の思い上がりなど木っ端微塵にされてしまうことだろう。


 三船仁美は、堅実に攻撃を続けることにした。

 左のジャブとローで相手を牽制し、ときおり右の攻撃も撃ち込む。相手がタックルに来ればバービーの動きで切り、高い位置での組みつきには首相撲で対応だ。


 なかなか波乱は訪れなかった。

 というか、いまだに相手の攻撃は一発として自分に届いていない。

 このまま時間が過ぎ去れば、さすがに判定でも勝利を収められるはずだった。


 そうして三分を過ぎる頃には、相手の動きはいっそう落ちていた。

 左右のローをくらい続けた前足にもダメージが蓄積されていることだろう。これなら、よほど油断でもしない限り、タックルや組みつきでグラウンドに引き込まれることもなさそうだった。


 反面、こちらの左ジャブは、どんどん深く当たるようになっている。

 腕のガードをすり抜けて、顔面に当てることもできた。

 その一発ごとに、また相手の動きは悪くなっていく。ずいぶん背中ものびてしまっているし、気の毒なぐらいスタミナをロスしているようだった。


「ラスト、四十秒! ……ヒトミ、もっと技を繋ぎな!」


 そこに、竜崎ニーナの声が響きわたる。

 思わず「はい!」と返事の声をあげそうになりながら、三船仁美は大きく踏み込んだ。


 左ジャブから右ストレート、それに左のフックを繋げてみよう、と考えていた。そういえば、今までは相手の反撃を警戒して、二連携以上のコンビネーションを使っていなかったのだった。


(今の飯草選手なら、うまく当てられるかもしれない)


 左ジャブは、普通に当たった。

 右ストレートは、ダッキングでかわされた。

 次の一手は、相手の動き次第だ。


 三船仁美が右拳を引いている間に、相手は距離を詰めようとしてきていた。

 きっと組みつこうとしているのだろう。腕が前側にのばされている。

 三船仁美はスウェー気味にのけぞりながら、右腕を引く反動を利用して腰をひねり、鈎状に曲げた左腕を振り上げた。


 がら空きになった相手の下顎に、左拳を叩きつける。

 渾身の力でそれを振り抜くと、相手の身体も一緒にふっ飛んだ。

 尋常でない衝撃が、拳から肘、肘から肩へと走り抜けていく。

 相手が前進してきていたので、カウンターになったのだろう。自分の攻撃でこれほど重い衝撃を味わわされたのは初めてのことだった。


 飯草選手は、受身も取れずに、前のめりに倒れ込んだ。

 主審はカウントを取ろうともしないまま、腕を頭上で交差させる。


「ノックアウト! 三船選手の勝利!」


 三船仁美は左フックを振り抜いた体勢のまま、半ば呆然とその声を聞くことになった。

 そうして三船仁美は、二度目の公式戦もノーダメージで勝利を収めることがかなったのだった。

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