03 ルールと金網

 遊佐邸の離れでの勉強会を終えた後、レオナたちは近所のレストランで昼食を済ませて『シングダム』に移動した。

 いつぞやの、服部選手との対戦に備えていた日とまったく同じ流れである。


 土曜日の昼下がりは、キッズクラスの練習時間だ。この日はトンチャイが講師となり、隆也少年を始めとする幼き門下生たちに稽古をつけていた。

 その向こう側では、多数の選手にまじって景虎と伊達が自主練習に励んでいる。まだ追い込みの集中練習期間には早いものの、ひと月半後に試合を控えた両者の練習には普段以上の熱がこもっていた。


「ああ、よく来たね、九条さん。ちょうどルールについてとりあえずの結論が出たところなんだよ」


 レオナと柚子が練習着に着替えて近づいていくと、景虎たちの練習を指導していた黒田会長が笑顔でそのように述べてきた。


「うちの興業でも取り入れてる『フィスト』のセミプロルールを叩き台にして、『NEXT』のプロモーターと案を練ってみた。練習の前に、ちょいと確認しておいてくれ」


「はい」


「まず、防具は自主興業のときと同じ、グローブとニーパッドとシンガードの三点セット。『NEXT』の連中はグローブのみってのを望んでいたし、何なら九条さんにとってもそっちのほうが都合がいいぐらいかもしれないけど、こいつはやっぱり安全性のために譲れないんだ。了承してくれ」


「はい、もちろんです。むしろ私にとって一番邪魔なのはグローブですので、足の防具に関してはどちらでもかまいません」


「うん、まあ、グローブなしなんて一番ありえない話だからな」


 苦笑しながら、黒田会長は続ける。


「で、肝心のルールのほうだけど、まずは試合時間が変更される。前回は三分二ラウンドだったが、今回は五分二ラウンドだ。アマチュアでも四分や五分の試合ってのは珍しくないから、まあこいつは問題はないだろう」


「はい。ジムの練習でも五分区切りのスパーは体験していますので、問題はないと思います」


「うん。九条さんはスタミナがないわけでもないしな。で、あとは……こいつが一番大きな変更点なんだけど、ダウンカウント制を取りやめる方向で固まりつつあるんだ」


 それは確かに大きな変更点であると思われた。

 黒田会長は、いくぶん難しげな面持ちでもしゃもしゃの黒髪をかき回している。


「実はアマチュアMMAでも、ダウンカウント制は撤廃の動きに傾いてるんだよ。グラウンド状態における打撃攻撃を禁止にしておけば、アマチュアの試合でも大きな事故にはつながらないだろう、という判断だな。ダウンを取られて意識朦朧のまま寝技の攻防にもつれこんだら、攻める側がかなり有利になるわけだが、そもそもその優位性こそがMMAの醍醐味でもあるからな」


「はい。ダウンカウント制のルールだと、ダウンを奪われたときもカウントを取っている間に休めますものね。正直な話、私も服部選手との試合の最中で、ここはダウンしたほうが得なのではないだろうかと思う場面があったのですが、それは何というか……いかにスポーツとはいえ、あまりにゲーム的な感覚になってしまうのではないかと思えたのですよね」


「うん、理解が早くて助かるよ。それに加えて、プロの試合ではダウンカウント制なんてありえないから、それではアマとプロのルールに格差がありすぎる、というのが焦点になってるみたいだな。それじゃあいくらアマで戦歴を重ねても、なかなかプロでは通用しないんじゃないかって意見が強くなってきたらしい」


 そのように言いながら、黒田会長は分厚い肩をひとつすくめた。


「ほんの数年前までは、女子だとプロの試合でもダウンカウント制が採用されてたし、グラウンド状態の打撃攻撃も全面禁止で、おまけにグラウンドの攻防は三十秒まで、なんてルールがまかり通っていたぐらいなんだけどな。まったく日進月歩としか言いようのない発展ぶりだよ。……それはともかくとして、ストライカーである九条さんにとってはむしろ不利なルール変更になっちまうわけだけど、そのあたりはどうかな?」


「はい。安全性に問題がなければ、どのようなルール変更でもかまわないかと。……むしろ、自分に有利な変更などされてしまうと、何だか据わりが悪いですしね」


「九条さん、かっちょいー!」


 柚子はそのように述べていたが、レオナはべつだん格好をつけているわけではなかった。ただ、格下のレオナが有利になるようなルール変更は、えこひいきのように感じられてしまうので望ましくないな、と思うばかりである。


「その他は、特に大きな変更点もない。向こうは最後までグラウンド状態での打撃攻撃を解禁してほしいと粘っていたが、ダウンカウント制を取りやめるならそれは危険すぎると突っぱねてやったよ。……それもどちらかというと、九条さんにとっては有利に働くかもしれない申し出だったんだけどな」


「いえ。おたがいに寝そべった状態での打撃攻撃というのは私も馴染みがありませんので、問題ありません」


「それに、肘打ちや顔面への膝蹴りってのも、やっぱり禁止のままにさせていただいた。……ことごとく九条さんの有利になりそうな条件を突っぱねちまって、俺も何だかおかしな気分だったよ」


「いえ、黒田会長がいかに公正なお人柄であるかが再確認できて、私はとても嬉しいです。自分が『シングダム』の所属選手であることを、私は誇りに思います」


「そいつはほめすぎだ」と黒田会長は頭をかくが、レオナは「いえ」と首を振ってみせる。


「アリースィ選手は柔術ベースのグラップラーとされていますが、立ち技でどれほどの力を秘めているかは未知数です。下手に安全性を軽んじたルールにしてしまうと、私のほうこそが大きな怪我を負い、学校のほうでも問題になってしまうかもしれません。ですから本当に、目先の有利不利にとらわれず安全性を重視してくださった黒田会長のご判断には感謝しています」


 そうしてレオナは、深々とお辞儀をしてみせた。


「それでは、今後の練習スケジュールもこれまで通りということでよろしいのでしょうか? ダウンカウント制が排除されても、とりたてて練習内容には影響がないように思えますし」


「ああ、いや、ルール自体の変更点はそれだけでも、今回は試合場がリングじゃなくケージだからな。まずは金網の中での戦い方ってやつを覚えなくっちゃならないだろう」


 そういえば、さきほど拝見したルーカス・ジルベルトの弟も、バーリトゥードの試合は金網の中で行っていた。北米では、ロープの張られた四角形のリングよりも、金網に囲まれた八角形のケージという試合場が主流であるそうなのだ。


 レオナたちが参加予定である『NEXT』という団体の興業も、普段はリングを使用しているそうだが、近年になって少しずつケージの試合が増えつつあるらしい。MMAという競技で大成するには北米への進出が必須であるから、どうしてもあちらのルールや試合形式に準ずる形にならざるを得ないのだ───とは、柚子の弁である。


 そんな柚子が、そこで「あっ」と声をあげた。


「会長! ケージだったら、九条さんにもひとつ有利な話があるじゃないですか!」


「うん? 何の話だ?」


「金網ですよ! リングでロープやコーナーポストを蹴るのは反則ですけど、金網を蹴るのは反則じゃないんでしょ?」


「ああ、金網をつかむのは反則だけど、蹴ったり何だりってのはOKだな」


「本当ですか?」とレオナも声をあげると、ようやく黒田会長にも理解できたようであった。


「ああ……そういえば、九条さんは伊達とやりあったとき、コーナーポストを蹴って飛び蹴りを繰り出したんだっけか?」


「はい。周囲の障害物を利用していいのなら、それは非常に助かります」


「なるほどなあ。北米でも、金網を使った三角蹴りでKOしてる選手なんかがいたな。そこまで派手じゃなくとも、金網を蹴った反動で打撃攻撃とか、金網を蹴ってグラウンドの不利な状態から逃げるなんてのは、誰にとっても常套手段だ」


 黒田会長も、愉快そうに破顔する。


「でも、金網をつかんでテイクダウンを防ぐ、なんてのは反則だからな? そこのところは気をつけてくれ」


「はい、了解いたしました」


「よし。それじゃあさっそく、もろもろの練習に取り組もうか。……と、その前に、ひとつ確認しておきたいことがあったんだ。ちょっと事務所にまで来てくれるか?」


「事務所ですか? 何でしょう?」


「何、相手がたに送るプロフィールについて、ちょっと確認しておきたいことがあってな。すぐに済むから、ついてきてくれ」


 レオナと柚子は首を傾げつつ、黒田会長を追って事務所を目指した。

 事務所はいったんトレーニングルームを出て、通路の反対側に存在する。膨大な書類やDVDソフトなどに埋もれかけた、六帖ていどのスペースである。

 そこに足を踏み入れると、黒田会長は巨大な書類棚の隣に鎮座する器具のほうを指し示してきた。

 それは学校の保健室などでも見る、身長の測定器であった。


「……これが何か?」


「いや、九条さんは身長百七十三・五センチって話だったけどさ、それは学校の身体測定か何かの記録なんだろう? 今はもう二月なんだから、ちょっと数値も変わってきてるんじゃないかと思ってさ」


「そんなことはありません。女子の身長は中学ぐらいで頭打ちになるはずです」


「それならそれでかまわないけど、ま、確認さ。何となく、その数値よりは大きくなってる気がしてな」


「あー、やっぱり会長もそう思ってました? 実はあたしもそう思ってたんですよねー」


 レオナは溜息をつきながら、柚子と黒田会長の顔を見比べた。


「決してそんなことはないはずです。着ている服も丈が短くなったりはしていませんし」


「身長なんてのは、本人よりも周りの人間のほうが変化に気づきやすいもんなんだよ。とにかく相手方にはなるべく正確なプロフィールを送らなくっちゃならないから、確認させてくれ」


 レオナはさらなる溜息をつきながら、しぶしぶ測定器の前に立った。

 首を縮めたりして数値をごまかすのはレオナの流儀に反するので、いつも通りに背筋をのばす。


 頭頂部に、測定棒がこつんと当たった。

 何だかむやみに胸騒ぎがしてしまう。

 そんな中、黒田会長の声が厳粛に響きわたった。


「ふむ。……百七十四・二センチだな」


「そんな馬鹿な!」


 思わず大声をあげてしまった。


「い、いくら何でも一年足らずで七ミリものびることはないでしょう? 私はもう十六歳なのですよ!?」


「いやあ、男だったら珍しくもない成長具合だけどな」


「私は男でなく女です! 女子の成長期は中学までがピークのはずです! もう一度ご確認をお願いいたします!」


「わかったわかった。……うん、百七十四・二センチ。オマケをしたら百七十四・三センチにしてもいいぐらいだな」


「……そんなオマケはけっこうです……」


 レオナはそのまま、かたわらの書類棚に取りすがってしまった。

 すると、柚子が瞳を輝かせながら測定器の前に進み出る。


「会長! あたしもお願いします」


「了解。えーと……百五十一・二センチだな」


「ちぇーっ! 二ミリしかのびてないやあ。九条さんばっかりずるいなあ!」


「……でしたら、五センチほどもらってやってください……」


「あ、ごめんね? 九条さんはちっちゃいほうがいいんだよね。そんな、落ち込まないでよー」


 柚子がレオナにひっついて、遥かな高みにある頭を優しく撫でてくれた。


「アリースィ選手は、たしか百六十八センチだ。九条さんは手足も長いし、この身長差が有利に働くこともあるだろう。悪いことばっかりじゃないんだから、前向きに考えることだ」


「はい……」


「それじゃあ練習に戻ろうか。九条さんも出場選手なんだから、トラたちとまとめて面倒を見てやるよ」


 トレーニングルームに戻ると、景虎と伊達はまだグラップリングの練習に励んでいた。景虎はオフェンスの、伊達はディフェンスの向上が課題であるらしい。

 そして、試合のない乃々美と晴香はリングの上で軽いスパーに励んでいる。乃々美も来月にプロテストを控えているはずであったが、普段通りに取り組めば、まず失格になることはありえないという話であった。


「最近は、九条さんも組み技のオフェンスを磨いてるんだっけな」


「はい。タックルをフロントチョークで迎え打ったり、がぶった状態からアナコンダチョークを仕掛ける練習などがメインですね」


「うん。長身で腕の細長い選手はチョークに向いてるからな。あとは、蹴り技の練習だったか」


「はい。MMA流のロー、ミドル、ハイキック。それに、三日月蹴りの修練ですね」


「それらの稽古は継続するとして、あとはやっぱり金網を使った組み技の稽古だな。ちょいとメニューを組んでみるから、暖機をしながら待っててくれ」


「はい。お願いいたします」


 気を取りなおして、レオナはストレッチに取りかかった。

 その間、黒田会長は景虎たちの練習を見ながら、そのインターバルに何か声をかけている。


 そうしてウォーミングアップが完了すると、レオナは景虎たちの前に招き寄せられた。


「トラとも相談したんだがな、これから試合の当日までは、この三人でチームを組むことにしよう」


「え? 私などが加わってお邪魔になりませんか?」


「邪魔にならないよう、俺が調整する。で、腕が治ったら、柚子も参加な」


「えー、あたしもいいんですか!?」


 柚子はもう、ニンジンを与えられたウサギのごとしである。

 好々爺のように目を細めつつ、黒田会長は「ああ」とうなずく。


「柚子ももはや柔術は青帯の腕前だからな。もともとグラップリングでは伊達の上を行ってるし、いいトレーニングパートナーになるだろう。トラと柚子は寝技が得意で、伊達と九条さんは立ち技が得意なんだから、なかなかバランスのいい組み合わせなんじゃないかな」


「ふん。まさか柚子なんざに頼る日が来るなんて思ってもみなかったよ」


 憎まれ口を叩きながら、伊達はタオルで汗を拭いている。


「ただし、このメンバーだけじゃ手が足りないし、九条さんもそろそろビギナークラスの講習と自主練習だけじゃあ物足りなくなる頃合いだろう。だから、夕方の自主練習を少しおさえて、レギュラークラスの練習に参加してもらえないかな?」


「レギュラークラスというのは、八時からの講習ですね?」


「ああ。その一時間の講習は俺やトンチャイが仕切ってて、それから閉館時間まではプロやプロ志向の選手たちのスパーを中心にした自由練習時間だ。ゆくゆくは、九条さんたちもそっちをメインにするべきだろうな」


「カズなんかは、今ではそっちがメインなんだよ。やっぱり男子連中にもまれないと、地力はつかないからね」


 不敵に笑いつつ、景虎もそのように発言する。


「ただそうなると、普段の生活にも影響が出てくるし、それに九条さんは最近練習量を控えてたよね? ジムに来るのは週に三、四回ってとことだっけか?」


「はい。試合に出場するならば、また週に五、六回のペースに戻すつもりでいましたが」


「そいつは結構。ただし、これまでみたいに四時から八時じゃなく、二時間ぐらい後ろにずらすのが理想的だと思うけど、どうだろうね?」


「二時間ということは、六時から十時までということですか……」


 最初の一時間が女子ジム生をメインにした自由練習、それから一時間ずつビギナークラスとレギュラークラスの講習をこなし、最後の一時間は男子プロ選手をまじえての自由練習、という時間割りであるようだ。


「ええ……時間がずれるだけなら問題はないと思います。学校から直接ジムに入るのではなく、いったん帰宅して家の仕事を片付けてから、ジムに向かえばいいということですね」


「ああ、九条さんは炊事洗濯をまかされてるんだっけ。それで学校の勉強までこなすのは大変そうだね」


「十一月の試合のときはそんな生活を二ヶ月半も続けていましたから、問題ありません。……ただ、二月の終わりから三月頭には期末考査が控えているのですよね……」


「へえ、試合は三月末だってのに大丈夫なのかい? 逆算すると、三月頭から中旬までが追い込み練習のピークになると思うけどね」


「はい。それも十一月のときと大差はありません。それに、試験が終われば学校は休みになりますので、むしろ試合直前の時期は楽なぐらいだと思います」


 とはいえ、試験期間が終了すると同時に追い込み練習のピークがやってくる、というスケジュールになるのだろう。

 想像しただけで目がくらみそうであったが、そのようなことは試合のオファーを受けた時点で覚悟を固めていた。


「よし、大雑把なスケジュールはそんなところだな。週明けからの練習内容については今日明日の内に整えておくから、今日のところは……そうだな、俺が柚子の代わりに入って、二人ずつの練習をローテーションしていこう。まずは、トラと九条さん、俺と伊達のペアだ」


「よーし、あたしも頑張ろっと! みんなも頑張ってくださいねー!」


 そうして柚子は離脱して、自身のトレーニングに励むことになった。右腕を使わない蹴り技の練習に、あとは持久力と下半身を強化するメニューだ。


 で、レオナは景虎との合同練習である。

 レオナは景虎に招かれて、トレーニングルームの最奥部にまで移動することになった。


「九条さん、あたしと九条さんがペアを組まされた意味は理解できてるかい?」


「はい。私と景虎さんの共通点は、同じ『NEXT』という興業の試合に参加すること───つまりは、どちらも金網の中で試合をする、ということでしょうか」


「ご明察。アマチュア大会に参加するカズは、試合場もリングかマットだろうからね。あたしらは、壁レスリングの修練を積む必要があるんだよ」


 そのように言いながら、景虎は最奥の壁をバンバンと叩いた。

 防音材の張られた、ただの壁である。


「リングだと、ロープやコーナーにもたれるぐらいしかできない。でも、金網だったらそれを壁として利用することができる。それで発展したのが、壁レスリングって技術だ」


「はい。午前中まで遊佐さんの家で色々な試合を研究していたのですが、ケージという試合場では金網を背にした攻防というのが実に多かったようですね」


「ああ。たとえばタックルを仕掛けられたとき、ロープ際まで逃げてもあまり意味はないだろう? ロープの支えなんて頼りにならないし、自分からロープの外に身体を出したら、そいつは反則だ。でも、周囲を囲むのが頑丈な金網なら、そいつを利用することができる。試しに、あたしにタックルを仕掛けてみな」


 レオナでも、自分からタックルを仕掛ける練習ぐらいはこなしている。

 言われた通り、レオナは景虎に両足タックルを仕掛けてみた。

 普段であれば後方に足を引くバービーの動きで逃げる景虎が、倒れないように気をつけながら、後方に後ずさっていく。


 やがて景虎の背中がどしんと壁に突き当たり、レオナの前進はストップさせられた。

 そうして景虎がおもいきり両足を開くと、膝のあたりを抱えていたレオナの両腕も広げられてしまう。レオナはマットに片方の膝をつき、大きく腕を開いて景虎の足もとにしがみついている格好になった。


 両腕が広がってしまっているため、レオナはどうにも力が込められない。

 さらに上から、後頭部をぐいぐいと圧迫されてきた。


「九条さん、自分が今どういう状況かわかってるかい?」


「はい。とても無防備な状況ですね」


「そうだねえ。あたしは片手で九条さんの頭を押さえ込んでるだけだから、もう片方の手はフリーだよ」


 そんな景虎の言葉とともに、拳が頬にひたりと当てられる。


「プロの試合ならこの状態でも殴り放題だし、アマでもその膝をちょいとマットから離すだけで、おんなじ状況だ。殴られたくなかったら、お次はどうする?」


「ええと、これでは倒せそうにないので、片足タックルに切り替えるか、あるいは殴られないように気をつけながら起き上がって組みなおします」


「うん。好きなほうを選んでいいよ」


 とりあえずはグラップラーの真似事で、片足タックルに切り替えることにした。

 景虎の左足を両腕で抱え込み、何とかグラウンドに引きずり込もうと試みる。

 が、ただでさえ組み技に長けている上に、景虎は背中の壁に体重を預けているものだから、面白いぐらいにビクともしなかった。


「さあ、どうする? うかうかしてると、相手に先手を取られちまうよ?」


 ならば、こちらも立ち上がるしかない。レオナはなるべく相手に身体を密着させながら身を起こした。

 壁を背にした景虎と抱き合っている格好だ。

 しかし、壁が邪魔で腕を差し込むことができない。

 その間に、景虎の腕はレオナの身体を抱きすくめていた。


 右腕は脇に差し込まれ、左腕は腕ごと抱きすくめている。がっぷり四つの体勢である。

 しかも景虎は十センチ以上も背が低い上に、まだ足を広げ気味で低い体勢を取っている。いっぽうレオナは直立の姿勢を取ってしまっているために、あまり力も入れられない。


 それで景虎は、ぐいっと体勢を入れ替えてきた。

 今度は、レオナが壁に押しつけられてしまう。

 景虎の頭が、下顎をぐりぐりと圧迫してきた。

 これはなかなかの圧迫感である。


「わかったろう? 背中にあるのがロープだったら後ろにたわんじまうから、なかなかこんな風な攻防にはなりにくい。金網の壁だから成立する、これが基本の壁レスリングってもんだ」


「はい」


「それじゃあこのまま両足を取りに行くからね。力の限り、ガードしてみな」


 景虎の体勢がいっそう低くなり、腕も足もとに下がってくる。

 レオナはさきほどの景虎と同じように、後頭部を押さえつけようとした。

 だが、それよりも早く両足を引かれて、腰からマットに落ちてしまう。

 さらに景虎はレオナの胴部に腕を回し、右手側に身体をひねってきた。

 背中を壁にこすられながら、レオナはマットに倒れてしまう。


「ま、こんなところだね。あたしは壁を使って九条さんのタックルを防げたのに、九条さんはまったく踏ん張ることができなかった。この差は、何だい?」


「はい。景虎さんのように、まず足を開くべきでしたね。でも、おもいきり壁に押しつけられていたので、それも難しかったです」


「そうだね。あんなに身体がのびていたら、力の入れようもないだろう。もっと事前から腰を落としておくべきだった。で、広げた足も正面を向けるんじゃなく、左右のどちらかに向きを変えて、なるべくぴったり壁に密着させるんだ。で、それから相手の後頭部を押さえつけるのが有効かね」


 レオナの上にのしかかっていた景虎が身を起こし、マットの上であぐらをかく。

 レオナも身を起こし、壁際でぴたりと正座をしてみせた。


「ご教示、ありがとうございました。……これが壁レスリングの基本ですか」


「基本の基本、初歩の初歩だね。いかに壁を有効に使うか、いかに相手に壁を利用させないか。こいつは寝技のポジション取りと同じぐらい重要な攻防だよ」


 ふてぶてしく笑いながら、景虎は四角い下顎を撫でさする。


「日本人選手はまだまだ金網での戦いに不慣れだからね。北米とかに進出しても、この壁レスリングでまず手こずることになるんだ。あらかじめ言っておくと、たった一ヶ月半でどうこうできるもんではないと思うよ?」


「はい。今の攻防だけでも、それは思い知らされました」


「うん。だけど、柔術やグラップリングの試合でも、金網なんかを使うことはないからね。あちらさんがどれだけ壁レスリングの稽古に熱を入れてきたかはわからないけど、こいつは柔術じゃなくMMAの技術だ。こっちもこの一ヶ月半で初歩の初歩ぐらいは何とかマスターして対抗するしかない」


「はい」


「相手も同じ十六歳。で、これまでは柔術の稽古に重点を置いてきたはずだからね。少なくとも、立ち技の攻防で遅れを取ることはないだろう。それで寝技が向こうのフィールドだとすると、あとは組み技の技術の差が勝負を分けるかもしれないよ」


 そのように語る景虎の顔は、やはり不敵に笑ったままであった。


「九条さんは、十六歳まで羽柴塾の空手に打ち込んできた。あちらさんは、同じ年月を柔術に打ち込んできた。それをどこまでMMAっていう競技に落とし込めるか───そして、空手や柔術だけでは得られないMMAの稽古にどれだけきちんと取り組んできたか、こいつはそういう勝負なんだよ、きっと」


「はい」


「あちらさんは業界中が注目するビッグネームだけどね、条件はそんなに変わらないんじゃないかとあたしは思ってる。『NEXT』の連中は沖選手に代わる噛ませ犬として九条さんを選んだんだろうけど、そんな下馬評は何としてでもくつがえしてほしいもんだねえ」


「あ、私は噛ませ犬だったのですか」


 驚いて聞き返すと、景虎はついに声をあげて笑い始めてしまった。


「それでも会長がオファーを受けたのは、九条さんにも勝ち目があるって踏んだからだ。ま、九条さんは前回と同じように、死力を尽くして頑張ってくれればいいさ」


「はい。必ず勝つとは約束できませんが、その点においては必ず果たすとお約束します」


 うなずきながら、景虎は立ち上がった。


「それじゃあ、初歩の初歩の練習を始めようか。今度はあたしがタックルを仕掛けるから、何とか倒れずに壁際まで逃げてみな」


「はい。よろしくお願いいたします」


 そうしてレオナの猛特訓は、ついに開始されることになった。

 だけど今回は、怪我をさせてしまった伊達や『シングダム』に対して負い目を持つ戦いではない。ひとりのMMA選手として、一から十まで自分で望んだ戦いである。

 期末考査のことを考えると頭は重かったが、レオナは自分でもびっくりするぐらいすがすがしい気持ちで過酷なトレーニングに挑むことができたのだった。

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