03 蛮行

 竹千代から電話がかかってきたのは、翌朝の午前九時のことだった。

 平日であれば、レオナはすでに学校に到着している時間帯だ。しかしその日は土曜日であり、レオナも『シングダム』に向かう前であったため、自分で電話を取ることができた。


「はい、九条です」


『あ、姐さんでふか? ……竹千代でふ』


 その第一声だけで、レオナは竹千代の身に異変が生じたのだと知ることになった。


「竹千代くん、いったいどうされたのですか? 明らかに普通ではありませんよ」


『ふぁい、ふみまへん……ちょっろまともに口を動かしぇないもんで……』


 レオナは腹の奥底から沸き起こってくる激情を抑えつけながら、さらに問うた。


「それはいったいどういうことでしょう? まさか、兄にやられたわけではないですよね?」


『ふぁい。ちょっろ話がこじれちゃいまひて……』


「話がこじれて、どうしてあなたが手傷を負うことになるのですか? ……とにかく、電話では埓が明きません。今からそちらに向かいます」


『あ、いえ、下宿先に来ちゃ駄目れふ。俺、そっちにはいまへんし……』


「下宿先でなければ、どこなのですか? まさか、兄にさらわれてしまったとでも?」


『ハルトしゃんが俺をしゃらう理由なんてないでふよ……とにかく、心配はご無用でふから……』


「そんな台詞は、もっとまともな声で語ってください。あなたは今、どこにいるのです?」


『駄目でふ。ハルトしゃんが待ち伏しぇしてたら、まずいじゃないでふか?』


 そこまでが、レオナの限界であった。


「おい、ふざけんなよ、タケ! この状況でウダウダ抜かすな! 兄貴が待ち伏せしてたら、あたしが正面きって文句を言ってやるよ! とっととお前の居場所を吐きやがれ!」


 竹千代はしばらく迷うように口をつぐんでから、やがて都内のとある救急病院の名前を口にした。


『でも、できえば姐しゃんは外に出ないで───』


 レオナは電話を切り、自分の部屋に舞い戻った。

 幸か不幸か、紗栄子は今日も仕事で家を出ている。連絡を入れるにしても、竹千代の様子をもっとしっかり把握してからであろうと思われた。


 レオナは部屋着を脱ぎ捨てて、クローゼットを荒っぽく引き開ける。

 私服などは、数えるぐらいしか持ち合わせがない。その中から、レオナは着古したロングスリーブのTシャツと、ストレッチのきいたデニムパンツを選び取った。


 だいぶん長くなってきた髪は後ろで引っ詰めて、その上からキャップをかぶる。

 扉の裏に設置された鏡を見ると、そこには男みたいな姿をしたレオナが立っていた。

 デニムパンツだけはこの春に購入したものであるが、Tシャツとキャップは地元にいた頃から着用していたものだ。キャップからこぼれる髪の色以外は、こちらに引っ越してくる前と変わりのない姿であった。


 これならば、ハルトが自分を見間違うことはないだろう。

 レオナはポケットに財布とマンションの鍵をねじ込んで、部屋を飛び出した。


                ◇◆◇


 数十分後、レオナは救急病院に到着した。

 竹千代の住まいも高円寺であったため、担ぎ込まれた救急病院もそれほど遠方ではなかった。


 ほとんど走り通しであったため、息が切れてしまっている。がらんとしたロビーを横切る間に呼吸を整えて、レオナはまず受付台に駆けつけた。

 が、そこに陣取っていた痩せぎすの事務員に、「お見舞いは午後の一時から五時までですよ」とあしらわれてしまう。


「そんなに長くは待てません。なんとか通していただくことはできませんか?」


「明日の日曜日でしたら、午前十一時から受け付けています。それ以外は、午後からですね」


 レオナは危うく地が出てしまいそうであったので、その場は引き下がった。

 こうなったら、院内の見取り図を確認したのち、こっそり侵入を───と考えかけたところで、背後から「姐しゃん」と呼びかけられる。


 振り返ったレオナは、驚愕のあまり言葉を失うことになった。

 竹千代は、水色の病衣を着た姿で、しかも松葉杖をついていたのだ。

 顔面と左足に、包帯をぐるぐると巻かれている。レオナが想像していたよりも、はるかに痛ましい姿であった。


「本当に来ちゃったんでふね。俺もさっき面会時間を確認して、あーあと思ってたんでふよ」


 包帯の隙間で目を細めながら、竹千代は笑っているようだった。

 レオナは自分の胸もとをわしづかみにして、暴れる心臓を何とかなだめてから、そちらに歩み寄っていった。


「ひどい姿ですね。いったいどうしてこのようなことになってしまったのですか?」


「しょの前に、場所を移動ひましょう。俺、病室を抜け出ひてきたんで、見つかったら連れ戻されちゃいまふ」


 ひょこひょこと進む竹千代の後を追いかけていくと、そこは広々とした待合室であった。

 何名かのご老人がちらほらと見えるだけで、たくさんの席が空いている。レオナたちは、なるべく他の人間から距離のある場所を選んで腰を落ち着けた。


「さあ、説明してください。どうしてあなたがこのような目にあってしまったのですか? ……というか、それはどれほどの怪我であるのですか?」


「はあ……でも、病院で大声を出すのはなしれすよ……?」


「……私がそこまで動揺するほどの怪我なのですか?」


 松葉杖を胸もとに抱え込みながら、竹千代は小さく溜息をついた。


「右の眼窩底骨折と、左の膝蓋骨の不全骨折……あとは、奥歯が二本ほど折れちゃいまひた。しょれで口の中が腫れちゃって、喋りにくいんでふ」


 レオナは歯を食いしばり、怒りと驚きのわめき声を何とか呑み下してみせた。


「何故ですか? 相手に不必要な怪我を負わせないのが羽柴塾の信条でしょう? あなたと兄の力量差で、どうしてそんな有り様に成り果ててしまったのですか?」


「……俺、たぶんハルトしゃんを怒らせちゃったんでふよ」


「あの人が、怒りで我を見失うことなどありますか? とにかく、最初から最後まできっちり説明してください」


 しかたなさそうに、竹千代は語り始めた。

 無理に喋らせるのも気の毒になるほどの状態であったが、レオナも事情を聞かぬままにしておくことは決してできなかったのだった。


 それで判明したところによると、やはり竹千代の側には何の非もないようだった。


 本来、竹千代とハルトが三度目の対面を果たすのは、今日であるはずだった。しかし昨晩の遅く、ハルトが下宿先を訪ねてきたので、竹千代はおもいきって説得に臨んだのだそうだ。


「姐さんとお話ししたんですけど、ハルトさんの目的がわからないんで、ずいぶん不安になっているようなんです。せめて、どういった用事なのかを教えていただくことはできませんか?」


 竹千代が暮らしているのは、職場であるラーメン屋の三階である。その建物の裏手にある路地の暗がりで、竹千代はそのように問い質した。

 するとハルトは、普段の通り穏やかに微笑みながら、竹千代に近づいてきたのだということだった。


「どういう用事なのかは本人に伝えるって言ったよな。レオナはそんなに、俺と会いたくないって言い張ってるのか?」


「ええ、まあ……姐さんは、こっちで平和に暮らしているんですよ。それでいきなりハルトさんに訪ねてこられたら、そりゃあ心配になっちゃうんじゃないですか?」


「だから、それを何とか説得してほしいってお前に頼んだんだろ、タケ?」


「はい。ですけど……」


 そこでいきなり、ハルトは竹千代の左膝を踏み抜いてきたのだという。

 完全に油断していた竹千代には、かわすこともできなかったのだ。


「お前が説得してくれないなら、しかたないな。俺も何とか自力で捜してみるよ」


 そうしてハルトは竹千代の髪をひっつかむと、顔面に膝蹴りを食らわしてきた。

 それで竹千代は右眼窩底と二本の奥歯を粉砕されてしまったのだった。


「……俺はそれで、気を失っちゃいまひた。救急車を呼んでくれたのは、騒ぎに気づいた店の人たちでふ」


「何ですか、それは。何ひとつ道理が通っていないではないですか」


 レオナはぎりぎりと拳を握りしめながら、竹千代の包帯まみれの顔に顔を寄せた。


「それじゃああの人は、無抵抗の竹千代くんを一方的に痛めつけたということなんですね? いったいどうして、そんな意味のないことを……」


「はあ。俺が言うことを聞かなかったんで、ご立腹だったんじゃないでふかね?」


「だから、あの人が怒りで我を失うなんてことはありえないですよ。話を聞く限りでも、最初から最後まで冷静だったようではないですか?」


「でも、ハルトしゃんは何を考えてるのかわからないところがありまふからね……内心では怒ってたんじゃないでしょうか?」


 レオナには、とうていそうは思えなかった。

 ハルトはこれしきのことで腹を立てたり、意味のない暴力を行使するような人間ではないのである。

 レオナはさまざまな激情に翻弄されたのち、竹千代の手をぎゅっと握りしめた。


「こんなわけのわからないことにあなたを巻き込んでしまって、本当に申し訳なく思っています。どんなに謝っても、とうてい償えるものではないでしょう」


「ええ? やめてくらはいよ! 俺は勝手に動いて、勝手に自滅しただけなんでふから……」


「いえ。こんなことなら、最初から私が兄の呼び出しに応じるべきでした。私が、判断を間違えたのです」


 レオナはうつむき、キャップのつばで顔を隠した。

 怒りと悔しさのあまり、涙がにじみそうになってしまったのだ。

 そんなレオナに手を握られたまま、竹千代はとぼけた声をあげている。


「本当にいいんでふってば! 油断していた俺が悪いんでふ。ハルトしゃんの言葉に逆らうなら、もっと用心しておくべきでした」


「……それであなたは、警察に事情を説明したのですか? こんな姿で救急病院に担ぎ込まれたのですから、事情聴取があったはずでしょう?」


「ふぁい。もちろん、ハルトしゃんのことは何も喋っていまへんよ。こんなことで、羽柴塾の看板には傷をつけられないでふからね」


 竹千代ならば、そのように考えるのが当然であったのだろう。

 レオナはうつむいたまま、ひそかに奥歯を噛み鳴らすことになった。


「わかりました。あなたの考えが正しいとは決して思えませんが、私にその心情を踏みにじる資格はありません。……ただし、私は私の好きなようにやらせていただきます」


「ええ? あ、姐しゃんはどうするおつもりなんでふか?」


「どうもしません。兄が殴りかかってきたならば、全力で逃げて警察に通報させていただきます」


 それが、現在のレオナの精一杯の矜持であった。

 本音を言えば、おもいきり兄の顔を殴ってやりたい。しかし、それはすなわち相手の土俵に乗ることを意味してしまうのだ。


(だけど、絶対にあたしはあんたを許さねえぞ。どんな理由があったって、無関係のタケをいたぶるなんてことが許されるもんか)


 レオナは最後に竹千代の手を強く握ってから、立ち上がった。


「竹千代くんは、しばらく入院することになるのですか?」


「いえ。頭を打ってるんで、脳波の検査とかをしなくちゃいけないらしいんでふ。それれ異常がなかったら、すぐにでも帰りまふよ」


「そうですか。では、今日の夜か明日にでも、下宿先にお見舞いに行きますね。母にもこの一件は、きっちり伝えさせていただきます」


 そして、柚子や景虎たちには何と説明したものであろうか。

 それを考えるだけで、レオナは心臓を握り潰されてしまいそうだった。


「本当に申し訳ありませんでした。どうぞ病室に戻ってください。……肩でもお貸ししましょうか?」


「いえ、とんでもないでふ!」


 竹千代も慌てた様子で立ち上がり、レオナの顔を覗き込んできた。


「あの、姐しゃん……俺が言うのも何でふけど、あまりハルトしゃんを怒らないであげてくらさいね? ハルトしゃんはハルトしゃんなりに、姐しゃんのことを大事に思っているはずなんでふから……」


「いいえ」とレオナは鋭く言い捨てた。


「たとえあなたの言葉でも、それだけは聞くことができません。どのような理由があったとしても、私は絶対にあの人を許しません」


「そうでふか……」と竹千代は悲しげに目を伏せる。

 しかし、彼はすぐに気を取り直した様子でうなずいた。


「うん、そうでふね。ハルトしゃんと姐しゃんだったら、俺は姐しゃんの言うことを正しいと信じまふ。姐しゃんを怒らせたハルトしゃんが悪いんでふ」


「……だったら、あなたもあの人に怒りを向けてほしいところなのですが」


「それは無理でふよ。ハルトしゃんの間合いに入って逃げ出さなかったのが悪いんでふ。この怪我は、俺の自業自得でふよ」


 レオナは顔を上げて、あまり力を入れすぎないように気をつけながら、竹千代の胸もとを小突いた。


「そこまでどっぷり羽柴塾に浸かっていることを除けば、あなたは大事な友人の一人だと思っています。どうか、ご自愛くださいね」


「ふぁい。恐縮でふ」


「お見舞いに行くときは、手製のおじやを作っていってあげますよ」


 レオナは竹千代に背を向けて、病院の出口に向かった。

 全身を駆け巡った激情は、また腹の底に戻ってきて、いっそうぐらぐらと煮えたぎっている。本来であれば、とっくに『シングダム』に向かっている時間であるが、こんなに心を乱したままトレーニングに取り組むのは非常に危険なことであるように思えた。


(兄貴との決着をつけない限り、トレーニングも試験勉強も手につかねえよ。あいつはいったい、どこで何を───)


 と、病院の外に一歩足を踏み出すなり、レオナは我が目を疑うことになった。

 入り口の花壇に腰をかけていた人物が、「よお」とやわらかく微笑みかけてきたのだ。


「意外に早く会えたな。面会時間は午後からだって書いてあったから、いったん引き返そうかと迷ってたところなんだよ」


「……あんたは、こんなところで何をやってるんだよ?」


 怒りに声を震わせながら、レオナはそう問い質した。

 その人物───羽柴ハルトは、虫も殺さぬ笑顔で立ち上がる。


「何って、お前を待ってたに決まってるだろう? ひさしぶりだな、レオナ」


 こんなに穏やかな顔で笑う人間が無抵抗の人間を一方的にいたぶったなどと、いったい誰に信じられるだろうか?

 しかし、羽柴ハルトというのは、そういう人間であるのだ。

 笑いながら、相手を殴ったり、目に指を入れたりすることのできる、それが羽柴ハルトという男なのだった。

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