05 好敵手

 数十分後、乃々美と山里リンはリングの上で向かい合っていた。

 どちらも防具の三点セットをつけ、グローブは練習用の十四オンスである。プロテストで使用したものよりは二オンスだけ軽かったが、アトム級の乃々美たちには不似合いなぐらいの巨大さであった。


「マス・スパーじゃなく本気でやりあいたいっていう話だったからネ。これ以上軽いグローブは、危ないから認められないヨ」


 乃々美の不満げな表情を見て取ったのか、トンチャイは笑顔でそのように述べたてていた。


「ルールは、どうしようかネ。肘打ちと関節蹴りはもちろん禁止として、クリンチや首相撲はどうしようか?」


「できれば、『G・ネットワーク』のプロルールに近づけてほしいんだけど」


「それじゃあ、首相撲を含めて、キャッチングからの攻撃は一回までだネ。相手の両脇下に腕を入れるフォールディングや、攻撃につながらないクリンチは禁止。あと、女子だと顔面への膝蹴りも禁止だネ」


 トンチャイの言葉に、山里リンは真剣そのものの表情でうなずいていた。

 さらにリングの外には、ジム中の人間が集まってしまっている。

 乃々美はグローブ同士をぶつけて拳に馴染ませつつ、そちらに視線を巡らせた。


「あのさ、晴香と隆也はともかく、あんたたちは追い込みの真っ最中なんじゃないの?」


「どうせそろそろ昼休憩を入れようと思ってたところなんだから問題ないさ。ていうか、隣でガチ・スパーを始められたら、みんなそっちに気を取られちゃいそうだからね」


 景虎の言葉に、隣の柚子がうんうんとうなずいている。

 伊達は仏頂面で、九条レオナは無表情だ。ただ、全員がやたらと真剣な目つきになってしまっている。


「それに、乃々美のガチ・スパーなんて貴重だろ? 若い連中にはいい刺激になるんじゃないのかね。……ま、あたしらのことは気にせず、おもいっきりやりあっておくれよ」


 乃々美は溜息をつきながら、山里リンのほうに向きなおった。

 山里リンは両方のグローブを胸の前であわせながら、トンチャイの言葉に聞き入っている。


「試合時間は、二分三ラウンド。一ラウンドに二回のダウンでKO負け。インターバルは一分ずつネ。誰か、ヤマザト選手のドリンクを準備しておいてくれるかな?」


「外の自販機で水を買っておいたよ。いちおうあたしがセコンドの真似事をやらせていただこうかね」


 景虎の言葉に、山里リンは「あ、ありがとうございます!」と大げさに頭を下げる。


「本当にお世話ばかりおかけして申し訳ありません! あの、お水の代金は後で必ずお支払いしますので……」


「気にしなさんな。乃々美の気まぐれにつきあってくれた、せめてもの御礼だよ」


「いえ! わたしも蜂須賀さんとはスパーリングをしてみたいと思っていましたので!」


 浅黒い頬に血をのぼらせながら、山里リンはそのように答えていた。

 手加減ぬきのガチ・スパーにしようと乃々美が提案したときも、彼女は笑顔で了承していたのだ。


 おたがいに十六オンスのグローブでもプロ選手をノックアウトした身であるのだから、本気でやりあえばKO決着になる公算は高い。そして、意識を失うようなKOをくらえば、今後の練習にも支障は生じてしまうのである。本来は、新人王トーナメントを控えた身で本気のスパーリングなど行うべきではない。


 それでも山里リンは、何のためらいもなく乃々美の提案を受け入れていた。

 神経の太さも、おたがいさまであるということなのだろう。


「それじゃあ、そんなところかな。スパーだから、判定はつけないヨ? KO以外は引き分けだからネ」


 そう言って、トンチャイは短い腕を大きく広げた。


「両者、コーナーに下がって。……ハルカ、タイムキーパーをお願いできるかな?」


「そのつもりでしたよ。準備はオッケーです」


「ありがとうネ。では、始め」


 トンチャイはのんびりとした口調で言い、晴香がゴング代わりのホイッスルを吹いた。

 山里リンは緊張した面持ちで進み出て、左手のグローブを乃々美のほうに差し出してくる。


 それに右手のグローブをちょんとあわせてから、乃々美はすかさず距離を取った。

 プロテストのときのように、山里リンががむしゃらに突っ込んでくるのではないかと警戒したのだが、相手はそこまで我を失っていなかった。いくぶん肩の辺りに力が入っているものの、確かな足取りでステップを踏んでいる。


(さて……)


 乃々美も冷静に相手を分析していた。

 身長差は六、七センチ。リーチ差も同じぐらい。体重差は───プロテストのときからほとんど変わっていない乃々美に対して、山里リンは三、四キロほど増えているように見受けられた。ということは、五十キロに届くかどうかというぐらいのウェイトで、乃々美との差は五キロていどだ。


(十一月にやりあった石田よりちょっと重いぐらいか。身長もリーチも、ちょうどあいつと同じぐらいだよな)


 しかし、石田碧は試合用に絞った上でのウェイトであり、今の山里リンは平常体重だ。

 それならば、普通に考えれば石田碧のほうが鋭く動けるはずである。

 が、山里リンの動きや体格を見る限り、鈍重そうな様子はまったく感じられなかった。


(平常体重のほうがコンディションがいいって選手も多いからな。それならいっそう倒し甲斐があるってもんだ)


 まずは乃々美も無理はせず、右ジャブで牽制しながら相手の周りを回ることにした。

 山里リンも同じように左ジャブを出しながら、乃々美の動きについてくる。


(僕は左ミドルで横尾選手をKOしたんだから、こいつも用心はしてるだろ。最初は、様子見だな)


 試しに乃々美は、軽く踏み込んで右のアウトローを放ってみた。

 山里リンは慌てずに、左足を上げてそれをカットする。

 綺麗で、よどみのない動きであった。

 無理に反撃をしてこようともしない。乃々美の動きに合わせてステップを踏みながら、丁寧にジャブを突いてくる。


(こいつの得意技は何なんだろう。パンチよりはキックのほうが得意そうだったけど)


 乃々美がそのように考えたとき、山里リンがスイッチをして左ミドルを放ってきた。

 アウドサイドに回り込もうとする乃々美の進行をさまたげようという攻撃だ。

 乃々美はとっさに、右腕でボディをガードする。

 小気味のいい衝撃が、右の上腕に走り抜けていった。

 相手がシンガードをつけているので、さしてダメージはない。ただ、追撃で右ストレートも飛んできた。


 その攻撃をスウェーでかわし、乃々美はバックステップを踏む。

 相手の前進は、右の前蹴りで止めてみせた。

 乃々美の上足底が、相手の腹のど真ん中を打つ。

 しなやかな、ゴムのような感触の腹筋であった。

 コーナーに追い込まれてしまわないよう、乃々美はインサイドに逃走する。


(けっこう落ち着いてるみたいじゃん)


 その後も、おたがいに力を抜いた状態で何通りかの攻防を繰り広げることができた。

 力は抜いているが、手は抜いていない。相手の動きや距離感を探るための、前哨戦だ。


 本場のムエタイでは、こうして第一ラウンド目は様子見に徹することが多い。あちらのムエタイは賭博の対象でもあるため、そうして選手の調子を観客に見せる、という風習があるようなのだ。

 山里リンがそういった風習に則っているのかは不明であったが、とにかく第一ラウンド目は大きな波乱もなく静かに終えることになった。


 ホイッスルが高らかに鳴らされて、乃々美も山里リンもおのおののコーナーに引き下がる。

 スパーなので椅子などは用意されず、ただセコンド役の人間がドリンクを手にエプロンサイドに上がってきた。山里リンのほうは景虎で、乃々美のほうは柚子だ。


「なんだかすごいね! まだ全然本気じゃなさそうなのに、ほんとの試合みたいな緊張感だよ!」


「…………」


「相手の選手もだんだん動きがよくなってきたみたいだし! 次のラウンドは油断できないね!」


「……いいから、水を飲ませてくれない?」


「あ、ごめんごめん!」


 乃々美の口もとにドリンクボトルを差し出しながら、柚子はむやみに興奮しきった表情をしていた。

 まったく疲労はしていなかったので、口の中を洗う感覚で半口だけ水を飲む。


 なおも喋りかけてくる柚子を適当に受け流しつつ、乃々美は相手の様子を観察した。

 景虎に向かってぺこぺこと頭を下げながら、山里リンもだいぶんリラックスできてきたようである。


(……あいつ相手に、油断なんてするわけないじゃん)


 山里リンには、尋常でないスタミナとプロ選手をKOする破壊力が備わっているのだ。二分三ラウンドという短い時間しかないなら、どこで猛攻を仕掛けてきてもおかしくはなかった。


「カズっち先輩がぎゃーぎゃーわめくなって言うから静かにしてるけど、みんな心の中で声援を送ってるから! ののちゃん、頑張ってね!」


 かしましい柚子に、乃々美は肩をすくめてみせる。

 そこで晴香が、短く笛を吹き鳴らした。


「はい、セコンドアウトね。第二ラウンド、十秒前です」


 柚子と景虎がリング下に降りた。

 十秒後、第二ラウンドの開始が告げられる。


「ファイト」というトンチャイの声とともに、乃々美は進み出た。

 山里リンも、突っ込んではこない。第一ラウンドと同じく、静かな立ち上がりだ。

 が、山里リンの放ってきた左ミドルに、乃々美は一瞬、息を呑むことになった。


 ほんのわずかだけ踏み込みが鋭く、その微差の分だけ、こちらの対応が遅れたのだ。

 中途半端に上げた乃々美の右腕に、重い蹴りが叩き込まれた。

 フォームはまったく変わっていないのに、段違いの重さであった。

 防具の有無など関係なく、骨の髄まで衝撃が走り抜ける。

 体重の乗った、見事な蹴りであった。


 舌打ちをこらえつつ、乃々美はインサイドにステップを踏む。

 すると今度は、鋭いワンツーが追ってきた。

 頭部をガードしたグローブと前腕に、重い衝撃が突き抜けていく。

 五キロばかりの体重差が生み出す、忌々しい破壊力だ。


 さらには、右のミドルまでもが繰り出される。

 今度はしっかりとガードできたが、攻撃の重さに変わりはなかった。

 こんなものをボディにくらったら、それだけでダウンを奪われてしまいそうだった。


 乃々美はとっさに相手に組み付き、右の膝蹴りを当ててから、トンチャイにブレイクを命じられるよりも早く、相手の身体を突き放した。

 突き放しつつ、相手の背中側へと逃げていく。

 それでようやく、距離を取ることができた。


(あのまま下がってたら、突貫ラッシュの餌食になってたかもしれない)


 ぞくぞくとした感覚が背中を駆けていく。

 もちろん恐怖ではない。むしろそれは、愉悦にも似た感覚だった。


 山里リンは、しっかりとガードを固めながら、また乃々美のほうに踏み込んでくる。

 その腹に、乃々美は前足の前蹴りを放った。

 しかしそれはすかされてしまい、カウンターの右ストレートが飛んでくる。

 乃々美はダッキングでそれをやりすごし、ボディフックを叩きつけてから、またインサイドへとステップを踏んだ。


 山里リンは、素早く向きなおってくる。

 グローブの隙間から見えるその顔は、真剣そのものであった。

 第一ラウンドで見せていた固さは消えている。奥に引っ込んだその目には、闘志の火が燃えていた。


 ステップを踏みながら、乃々美は反撃の機会をうかがう。

 だが、どこにも隙間が見当たらなかった。

 得意の左ミドルを放っても、きっとガードされた上でカウンターの攻撃が飛んでくるだろう。石田碧や沼上宏太や、これまで対戦してきた数々の選手たちには存在した間隙が、この選手には見当たらない。


(こういうやつと、僕はやりあいたかったんだよ)


 乃々美より優れた選手など、『シングダム』にだって多数存在する。しかし彼らは全員が男子選手であり、五キロどころか十キロ以上も重い相手ばかりであった。彼らは軽量で女子選手である乃々美を負傷させないように、いつも加減をした勝負しか受けてはくれなかったのだ。


 少し前までは、そういう相手を遠慮なくぶちのめしていた。乃々美が一瞬の隙をつけば、どんなに体格差のある相手でも左のミドルか三日月蹴りで沈めることができた。レバーやみぞおちといった急所に的確な攻撃を当てることさえできれば、大の男でも倒すことはできるのだ。


 しかしいつしか、本気でない相手をKOすることに虚しさを感じるようになってしまっていた。また、トンチャイの指示でスパーの相手はボディプロテクターをつけるようになってしまったので、KOすること自体が不可能になってしまっていた。


(だけど、それでよかったんだ。本気じゃない相手をKOしたって、何の自慢にもならないんだから)


 だけど山里リンは、本気で乃々美とやりあおうとしてくれていた。

 それが乃々美には、嬉しくてたまらなかったのだった。


(しかもこいつは、僕がこれまで対戦してきた誰よりも実力者だ)


 山里リンは、乃々美にも負けない機敏さを持っていた。

 しかも攻撃は、乃々美よりも重かった。

 少なくとも、公式試合でその両方を持ち合わせている選手など、これまでに一人として存在しないはずであった。


(だけど、晴香や石田ほどステップワークは巧みじゃない。前後の出入りは鋭いけど、左右の動きなら僕のほうが上だ)


 乃々美は勝機は、そこにあるのだろう。

 乃々美は右ジャブとローキック、それに前蹴りを駆使して相手との距離を取り、ひたすら左右に動き続けた。


 しかし、重い攻撃を撃ち込むだけの隙間は見つけられない。

 中間距離における山里リンのディフェンスは、完璧に近かった。


(だったら、上下に散らしてガードをこじ開ける。基本中の基本だよな)


 ローキックだけでは、上半身のガードが開かない。乃々美は遠い距離からでもミドルキックやボディブローを織り交ぜて、とにかく攻撃を散らしまくった。

 だが、その間、山里リンもただガードを固めているわけではない。左ジャブを中心に、ときおり的確な蹴りも放ってくる。ぬるい攻撃を撃ち込めば、カウンターで倒されるのは乃々美のほうだった。


 一瞬の隙も許されない攻防である。

 第二ラウンドの二分間は、驚くべきスピードで過ぎ去っていった。


 そうして、勝負は最終ラウンドか、と思われた瞬間───

 スウェーをしそこねた山里リンの左頬に、乃々美の右ジャブが深く当たった。


(ここだ───!)


 考える間もなく、左の足を振り上げる。

 この距離で、この角度で、このタイミングなら、レバーに左ミドルを突き刺せるはずだ。感覚の後から、そんな思考が追ってきた。


 が───その左足が獲物をとらえるより早く、思わぬ衝撃が下顎に爆発した。

 視界が暗転し、背中と後頭部にも衝撃が走り抜ける。

 気づくと乃々美は、白い天井を見上げていた。

 耳には、「スリー」というトンチャイの声が飛び込んでくる。


 乃々美は慌てて上体を起こした。

 山里リンがコーナまで引き下がり、トンチャイがカウントを数えていた。


 わけもわからぬまま立ち上がり、ファイティングポーズを取ってみせる。

 トンチャイはにこやかな表情で乃々美のグローブをつかんできた。


「大丈夫? まだやれるかな?」


「……当たり前じゃん」


「うん。ちょっとこっちに歩いてみて」


 トンチャイが後ずさったので、乃々美はそれを追いかけてみせた。

 足がふらついたり、視界が揺れたりはしていない。ただ、数秒だけ記憶が喪失していた。


「うん、大丈夫だネ」


 トンチャイが、山里リンのほうに向きなおる。

 それと同時に、ホイッスルが吹き鳴らされた。


「第二ラウンド終了でーす」


「よし。それじゃあノノミもコーナーに下がって」


 乃々美は息をつき、トンチャイの指示に従った。

 コーナーでは、すでに柚子が待ち受けていた。


「だ、大丈夫、ののちゃん? 試合でもスパーでも、ののちゃんがダウンするところなんて初めて見たよ!」


「……いいから、水」


「う、うん。大丈夫だよね? 無理してないよね?」


「ただのフラッシュダウンだよ。無理だったらトンチャイが止めてるでしょ」


 乃々美は水分を補給してから、軽く頭を振ってみた。

 それでもやっぱり、どこにも変調は見られない。プロテストの際の原口選手などは、10カウントどころか数十秒も意識が混濁していたのだ。


(たぶん僕も、ショートアッパーをくらったんだろうな。フックやストレートだったら、相手のグローブが少しぐらいは視界に入ったはずだ)


 山里リンは乃々美の右ジャブをかわそうとスウェーしかけていたのに、瞬時で重心を前にかけ、反撃してきたのだ。そんな鋭い動きをできる選手もまた、これまでには存在しなかった。


(油断してたわけじゃないけど、間合いを詰めすぎてたな。あの角度であのタイミングなら、カウンターをもらうことはないと思ってたのに)


 乃々美はコーナーにもたれかかり、何度か大きく息をついた。

 いつしか全身は汗だくで、心臓も激しく鼓動を打っている。それぐらい、濃密な二分間であったのだ。


「の、ののちゃん、本当に大丈夫?」


「うっさいなあ。大丈夫じゃないように見えるっての?」


「いや、だって、ダウンをくらったのに笑ってるんだもん。……ていうか、ののちゃんの笑顔なんて初めて見たよ!」


 返事をするのが面倒だったので、乃々美は柚子の鼻っ柱にグローブをぶつけてみせた。

 柚子は「いたーい!」と大げさにのけぞる。

 そこで、セコンドアウトの声が晴香から告げられた。


「次が最終ラウンドだネ。……ノノミ、これはスパーだから、ノックアウトに関しては公式試合よりも厳しめに取るヨ?」


「次はフラッシュダウンでもKO負けにするかもって意味? ふん、上等だよ」


 乃々美はコーナーから背を離し、グローブ同士をおもいきり打ち合わせてみせた。


「リングの中で、レフェリーは絶対でしょ? 僕は僕にやれることをやりぬくだけさ」


 トンチャイはうなずき、リングの中央に立ちはだかった。

 ホイッスルが吹き鳴らされ、「ファイト」の声がそれに続く。


 乃々美はコーナーを飛び出して、間合いの外からおもいきり左足を振り上げた。

 ミドルではなく、ハイキックである。

 山里リンはすみやかに引き下がり、その鼻先を乃々美の左爪先が走り抜けていく。


 それからすぐに乃々美はアウトサイドへとステップを踏み、今度は右ローを繰り出した。

 これも、危なげなくカットされてしまう。

 だけど、それでいい。乃々美はただ、体内に蓄積された情動を吐き出したかっただけだった。


 腰の辺りに、むずがゆいものが蠢いている。

 たぶん、口もとには笑みが浮かんだままなのだろう。

 乃々美は、かつてないほど昂揚してしまっていたのだった。

 こんな状態では、それこそKOされかねない。だから、いったん気持ちをリセットしたかったのだ。


(こんなに楽しいのに、つまんないポカで終わらせたくないからな)


 あとはもう、乃々美の持てるすべてを振り絞って、この難敵に立ち向かうばかりであった。

 慎重に距離を取り、さきほどよりも足技を多めにして、攻撃を撃ち込む。パンチの間合いは、やはり危険なのだ。牽制の右ジャブでも、細心の注意を払わなければ、致命的なカウンターをもらってしまうかもしれない。足を止めず、パンチを打ったらすぐに移動する。それを徹底しない限り、危険を負うのは乃々美のほうだった。


 山里リンのほうも、まったく動きは落ちていない。いや、むしろラウンドを重ねるごとに、鋭さが増していっているようにさえ感じられる。あがり症のケが見受けられる彼女は、きっと試合においてもスロースターターなのだろう。


(もしかしたら、一ラウンド目で強引に攻め込んだほうが、もっと楽に攻略できたのかな)


 だけど、そんなのはつまらなかった。

 乃々美は、楽に勝つために勝負を挑んだわけではないのだ。山里リンの実力を引き出して、その上で勝利をおさめない限り、こんなスパーを持ちかけた意味がなかった。


(用心するのは、ショートアッパーと左右のミドル。他にも隠し球があるなら、見せてみなよ)


 そのように思いながら、乃々美はひたすら攻撃を繰り出した。

 山里リンもそれを防御しながら、絶妙な攻撃を返してくる。

 乃々美が距離を取っているために、あちらも足技が増えてきた。そしてやっぱり、あちらもパンチよりキックのほうが得手であるようだった。ローもミドルも前蹴りも、ムエタイのお手本みたいにフォームが整っている。ケレン味のない、実直で、重たい攻撃だ。


(もしかしたら、あっちもコーチはタイ人なのかな。まるきりタイ人を相手にしているような気分になってくるよ)


 乃々美のコーチであるトンチャイも、生粋のタイ人だ。

 ただし、日本に移住して、MMAにまで手を出すような変わり種である。

 乃々美が学んできたのも、そんなトンチャイによる独自のファイトスタイルであった。


(一発ぐらい、奇襲技を仕掛けてみるか)


 これが公式試合なら、一回ダウンを取られている乃々美の判定負けだ。

 このまま遠距離と中間距離の攻防を続けていても、活路は開けそうにない。攻め急ぐのではなく、確実に勝利をもぎ取る戦略として、乃々美は奇をてらう覚悟を固めた。


 アウトサイドに回り込みながら、じわりと距離を詰めてみせる。

 山里リンは、左のアウトローを放ってきた。

 その攻撃をカットしてから、右足でしっかりとマットを踏む。

 踏むと同時に、左足を後方から旋回させた。

 バックスピンの、ハイキックである。


 これはきっと、かわされる。

 山里リンの反射神経であれば、腕でガードするのではなく、バックステップかスウェーバックで回避するものと思われた。

 そんな予想の通りに、左足には何の衝撃も走らない。


 その結果に満足しながら、乃々美はもう一回転してみせた。

 今度はバックハンドブローである。

 その回転と回転の狭間に、山里リンの立ち位置を見極めた。

 最前までより遠い距離で、姿勢も乱れてはいない。スウェーではなく、バックステップでかわしたのだ。むしろ重心は、前側にかけられている感じがする。


 山里リンも、反撃の体勢に入っているのだ。

 ならば今度は、その場で乃々美の攻撃をブロックするしかないはずであった。


 おもいきり振り回した左腕の前腕あたりに、強い衝撃が走り抜ける。

 頭部を、左腕で守ったのだろう。


 次が、勝負の際だ。

 すぐさま反撃に転じてくるのか、後方に引き下がるのか。


 乃々美は頭部をガードしながら、左足を踏み込んだ。

 ショートアッパーを警戒して、右拳は下顎のあたりにかまえておく。

 アッパーではなくフックであれば、ダッキングをするつもりであった。


 しかし山里リンは反撃せずに、さらに後方に下がっていた。

 いきなり変則的なコンビネーションを仕掛けられたので、体勢を整えようとしているのだろう。

 だが、乃々美がスイッチで軸足を切り替えていたために、まだぎりぎりの射程圏内であった。

 それを瞬時に見て取って、乃々美は右足を振り上げた。

 ミドルキックと前蹴りの中間の軌道で、相手のボディを狙う。三日月蹴りだ。

 ここまでが、乃々美の計画した奇襲技のコンビネーションであった。


(届けッ!)


 右の蹴りは、左の蹴りほど得意ではない。

 なおかつ、この角度では急所のみぞおちも狙えない。

 しかし当たれば、無傷では済まない。それだけの力を込めた一撃であった。


 上足底に、衝撃が走る。

 相手の左の脇腹に、乃々美の足が突き刺さっていた。

 腹筋と、固い肋骨の感触までもが、まざまざと感じられる。


 そのまま乃々美は蹴り足を下ろし、サウスポーに切り替えて反撃に備えた。

 しかし山里リンは、脇腹を抱えてリングに沈んだ。


「ダウン! コーナーに下がって」


 トンチャイが手を上げて、カウントを数え始めた。

 乃々美は大きく息をつき、うずくまった山里リンの姿を視界に収めたまま、後ずさる。


 急所ではないのだから、山里リンは立ち上がるだろう。

 そんな乃々美の思いに応じるかのように、山里リンは上体を起こした。

 マットに片膝をついたまま、ヘッドガードの下できつく眉をひそめている。

 その左のグローブは、力なく脇腹に添えられていた。


 そして───カウントがシックスにまで達したところで、山里リンは立ち上がった。

 脇腹に当てられていた腕も持ち上げられ、ファイティングポーズを取る。


 トンチャイが、両手でそのグローブを押さえつけた。


「やれるかな?」


「はい! 大丈夫です!」


 山里リンは、大きくうなずいた。

 トンチャイもうなずき、彼女のグローブから手を離した。

 それと同時に、ホイッスルが吹き鳴らされた。


「第三ラウンド、終了です!」


 晴香の声も響きわたり、乃々美はぐったりとコーナーにもたれかかる。

 いつの間にやら、そんなに時間が過ぎ去ってしまっていたのだった。

 山里リンも、きょとんとした顔になってしまっている。


「え、あの、それじゃあこれでおしまいですか……?」


「うん、二分三ラウンドだから、これでおしまいだヨ。時間切れの引き分けだネ」


 乃々美は溜息をついてから、山里リンのほうに向かおうとした。

 すると、いきなり背後から羽交い絞めにされてしまった。


「すごかったー! スパーだけど、ののちゃんのベストバウトじゃない!? 今まで見たどの試合よりもスリリングだったよ!」


 身動きは取れないが、声だけで誰かはわかる。

 乃々美は「離してよ」と言おうとしたが、思っていた以上に息が切れていたので、まともな声が出なかった。


 そして、ぱちぱちという気の抜けた拍手の音色が聞こえてくる。

 横目でリング下をにらみつけると、九条レオナが生真面目な表情で手を打ち鳴らしていた。


「すごかったです。背筋の寒くなるような攻防でした。蜂須賀さんも相手の御方もお見事でしたね」


「ふん。これが公式試合だったとしても、ドロー以外の判定はつけられなかっただろうな」


 伊達は肩をすくめていたが、晴香や隆也は九条レオナの真似をして拍手をし始めた。

 そんな中、動けぬ乃々美のほうに山里リンが近づいてくる。


「とても貴重な体験ができました! スパーに誘ってくださって、蜂須賀さんにはすごく感謝しています!」


 山里リンは、無邪気に微笑んでいた。

 汗だくだが、乃々美よりはスタミナに余裕がありそうである。


「…………」


「え? 何ですか?」


「……後ろのこの馬鹿を、引きはがしてくれない?」


 ようやく声らしい声が出た。

 とたんに、胴体を圧迫していた腕が離れていく。


「ごめんねー! 苦しかったかな? あたしもついついエキサイトしちゃった! あ、ヘッドガード、外してあげるねー」


 その間に景虎もリングに上がってきて、山里リンのヘッドガードを外し始めた。


「本当に、公式試合じゃないのがもったいないぐらいの内容だったよ。あんたたちは、いいライバルになりそうだね」


「ボクもそう思うヨ。新人王トーナメントで当たるのが楽しみだネ」


 トンチャイもにこにこと笑っている。

 すると、その場にいる全員がリングに上がってきてしまった。


「すごいなあ。ののっちがフルラウンドでやりあう姿なんて初めて見たよ。最初から最後まで本気モードだったしね!」


「ののっちさんもやまざとさんも、すごくかっこよかったです」


 周囲を取り囲まれてしまい、山里リンは困り果てたように笑っている。

 そうして賛辞の言葉をさんざんあびせかけられてから、山里リンはあらためて乃々美を見つめてきた。


「だけど、スパーはスパーです。おたがい身体を作ってもいなかったし、公式戦なら防具もありませんから、きっと結果も違ってくるはずです。わたしは、あの……」


 と、浅黒い顔を真っ赤にしながら、山里リンはグローブを外された手で乃々美の手を握りしめてきた。


「わたし、蜂須賀さんと当たるまで、敗退しないように頑張ります! だから、蜂須賀さんも頑張ってください!」


「……言われなくったって、頑張るよ」


 乃々美は仏頂面のまま、山里リンの手を握り返した。

 バンデージごしに、山里リンの体温が伝わってくる。


 防具はもちろん、グローブの重さだって変わってくるのだから、公式戦では違った様相になることだろう。

 また、山里リンが規定体重までウェイトを絞ったら、あらゆる面で変化が生じるに違いない。それがいい方向に変わるのか悪い方向に変わるのかは、人それぞれだ。


 何にせよ、乃々美は新たな目標を得ることになったのだった。

 公式戦で、山里リンを打倒する。その目標を果たさない限り、新人王トーナメントで優勝することもかなわないだろう。

 そんな風に考えると、また腰のあたりがむずがゆくなってきてしまった。


「あの、蜂須賀さん、わたし……」


 と、何か言いかけてから、山里リンはもじもじとうつむいた。

「何?」と乃々美がうながすと、思いきったように顔を上げる。


「わたし、あの、プロの舞台を『G・ネットワーク』に選んでよかったです! 蜂須賀さんみたいな人と巡りあうことができて、ものすごく嬉しいです!」


 乃々美は一瞬言葉を詰まらせてから、「あっそう」と答えてみせた。

 答えながら、全力で表情筋を引き締める。

 内心を押し隠すというのはあまり乃々美の流儀ではなかったが、さすがにここまで大勢の人間に取り囲まれた状態で笑顔を見せるのは、気恥ずかしかったのだ。


 そんなわけで、乃々美は心の中だけで「僕もだよ」と答えておいた。

 山里リンはそれがきちんと聞き取れたかのように、いつまでもにこにこと嬉しそうに微笑んでいた。

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