04 再会の土曜日

 その週の、土曜日。

 乃々美は一人、中野の駅前でぽつねんと立ちつくしていた。


 時刻は、午前の十一時である。

 この日のこの時間のこの場所で、山里リンと待ち合わせをしていたのだが、彼女はなかなか姿を現さなかった。


 そろそろ連絡でも入れてみようかな、と乃々美がポケットの携帯端末をまさぐったところで、見覚えのある姿が駅から出てきた。

 プロテストの日に見たのと同じような、パーカーとデニムパンツである。彼女は不安そうな面持ちできょろきょろと辺りを見回しており、乃々美の姿にもいっこうに気づく様子がなかった。


「ここだよ」と声をかけると、山里リンは「わ」と言ってのけぞった。


「あ、す、すみません! 電車の乗り換えを間違っちゃって、ちょっと遅れちゃいました! 携帯に連絡を入れよかとも思ったんですけど、ぎりぎり間に合うかなと思って……」


「別にいいけど」と乃々美は答える。

 そんな乃々美の姿を、山里リンはまじまじと見つめてきた。


「な、なんかこの前とは別人みたいですね。すごく可愛いです」


「……ジャージとかで出かけようとすると、親がうるさいんだよ」


 とはいえ、乃々美もべつだん着飾ったりしているわけではなかった。春用のカーディガンにニット帽、それにロングのスカートをはいているぐらいである。カラーリングは自分でも気に入っているが、どれも量販店で購入した安物だ。


「それに、髪が長いんですね。わたし、そんなにのばしたことないから、ちょっと羨ましいです」


「……短くすると逆におさまりがつかないから、のばしてるだけだよ」


 その髪も、今日は自然に背中まで垂らしている。ニット帽をかぶっているのは、寝癖を隠すためでもあった。


「じゃ、行こうか」


「あ、は、はい!」


 人であふれた往来を、乃々美はてくてくと歩き始めた。

 目的地は、徒歩で十分ほどの場所にあるスポーツ用品店である。

 本日は、山里リンの買い物につきあうために、こうして出向いてきたのだった。


「だけどさ、あんたは埼玉の人間なんだよね?」


「はい、埼玉の川口市です」


「わざわざトレーニングウェアを新調するのに、都内まで出てくる必要あんの? 近所にスポーツ用品店ぐらいあるでしょ?」


「ええ、でもやっぱり、東京のほうが品揃えがいいのかなって思って……」


 彼女はプロテストに合格したお祝いに、新しいトレーニングウェアを購入する小遣いを親から獲得したのだという話だった。

 当然のこと、乃々美もプロテストには合格を果たしている。というか、あの日のテストで不合格の人間は一人もなかったとの噂をすでに聞いていた。


(だから、ぎゃあぎゃあ騒ぐような話じゃなかったんだよ)


 テスト合格の発表が為されたとき、ジムの門下生たちは盛大にお祝いの声をあげてくれていた。その中で、MMA部門の三人娘はとりわけやかましく騒ぎたてていたのだった。

 そのときの情景を思い出して、乃々美が溜息をつきかけていると、山里リンがひかえめに笑いかけてきた。


「それに、買い物はついでです。今日は、その、蜂須賀さんと会うのが目的だったわけですし……」


「ああ、そっか。合格の連絡が来たのは、一昨日とかだったもんね」


 歩きながら、乃々美は横目で山里リンを見る。


「そういえばさ、僕に何の用事だったの? まさか、おしゃべりするためとかじゃないんでしょ?」


「え? わたしは、あの……ただ会いたいなと思って、お誘いしただけなんですけど……」


「……あっそう」と乃々美は肩をすくめてみせた。


「なんでもいいけど、あんたって喋り方が馬鹿丁寧だよね。お嬢様学校にでも通ってんの?」


「い、いえ、わたしはその、十三歳までタイに住んでいたので、身の回りに両親ぐらいしか日本語を喋る人間がいなかったのです。だから、母の口調がそのまま残ってしまって……」


「ふーん。ずいぶん丁寧な口調のお母さんだったんだね」


「はい。日本の女性は、みんなこういう喋り方なのかと思っていました。学校の友達にも、よくからかわれます」


 山里リンは、何やら心配げな面持ちになってしまっていた。

 乃々美はもう一回、肩をすくめてみせる。


「好きなように喋ればいいよ。別に、不自然なわけじゃないし」


「はい、ありがとうございます」


 ほっとしたように、山里リンは微笑んだ。

 あの、トンチャイとよく似た笑い方だ。


(……ま、悪い人間ではなさそうだよな)


 それでもこれが石田碧のように騒がしい人間であったら、たぶん乃々美も自分の時間を割く気にはなれなかっただろう。たとえ悪い人間でなかったとしても、騒がしい人間はもう十分に間に合っているのである。


「あの、本当に今日はありがとうございます。わたしなんかのために時間を作ってくださって」


 と、乃々美の心を覗いたかのようなタイミングで、山里リンはそのように述べてきた。


「別にいいよ。今日は夕方までジムに行くつもりもなかったしさ。……普段の土曜は昼から顔を出してるんだけど、今、MMAの連中が追い込みの真っ最中なんだ」


「MMAというのは、総合格闘技のことですよね。ムエタイだけじゃなくMMAや柔術まで教えているなんて、立派なジムなのですね」


「そう? 最近じゃ珍しくもないと思うけど」


「そうなんですか。わたしが通っている『ロムパット・ジム』は、ムエタイだけを教えている小さなジムなんです。女子の選手は、わたししかいませんし」


「うちのジムでも、女子でプロライセンスを取ったのは僕が初めてだよ。元プロ選手は、ひとりだけいるけどね」


 こういう話題ならば、乃々美もすらすらと応じることができた。

 それに、自然と興味を抱くこともできる。


「『ロムパット・ジム』って聞かない名前だけど、埼玉のジムなんだよね? 男子ではプロもいるの?」


「はい、二人います。どちらも『M・ドライブ』の所属選手ですけど」


「それじゃああんたは、どうして『M・ドライブ』にしなかったの?」


「はい。『M・ドライブ』には、わたしと同じ階級の女子選手が一人か二人しかいないという話だったので、『G・ネットワーク』を選びました」


 ならば、乃々美とまったく同じ理由だ。

 石田碧に聞かせてやりたいところであった。


「公式試合の経験はどれぐらい? 『M・ドライブ』にアマ部門とかあったっけ?」


「はい。いちおうそちらの系列で、二試合ほど。……もう少しアマチュアの舞台で経験を積むべきじゃないかとも思ったんですが、コーチの勧めでプロテストを受けることになりました」


「ふーん。きっとあんたの実力はアマチュア級じゃないって見込まれたんだろうね」


「そ、そんなことはないと思います。わたしが真面目にトレーニングを始めたのは、ここ一年ぐらいの話ですし……」


 しかし、十三歳までタイに在住し、遊びがてらにでもサンドバッグを蹴っていたというのは、なかなか得難い経験であるはずだった。そうだからこそ、一年ていどのキャリアでプロテストに合格することもできたのだろう。


「ってことは、あんたがアマの試合に出たのは、ここ最近の話なんだね」


「はい。九月と年明けに一回ずつです」


 ならば、すでに乃々美の目がプロの舞台に向いていた頃だ。

 ゆえに、このように有望な選手が出現していたことに気づくことができなかったのだろう。


「ま、おたがい無事に合格できたんだから、やりあうのは新人王トーナメントだね。同期だと、ぶつかるのは二回戦以降かな」


「どうでしょうね。とりあえず、蜂須賀さんと試合ができるまで勝ち抜けるように頑張ります」


「…………」


「あ、す、すみません。何かおかしなことを言ってしまいましたか?」


「いや、その逆。……なんかツッコミどころがない会話ってのも調子が狂うね。普段はピントのズレたやつとばっかり会話をしてるからさ」


「え? え?」


 事情のわかっていない山里リンは、困惑気味に目をぱちくりとさせている。

 まあ、こちらのジムの内部事情など、説明する甲斐はないだろう。あのピントのズレた娘たちの生態を説明するのには、莫大な時間と手間がかかりそうであった。


 乃々美がそんなことを考えている間に、目当ての店に到着した。

 乃々美の行動範囲内では、一番立派なスポーツ用品店である。トレーニングウェアはもちろん、キック用のグローブや防具でも、ここなら買いそろえることができる。


「うわあ、大きなお店ですね」


 山里リンも、目を輝かせていた。

 店内は、ほどほどの客入りである。土曜日ではあるが、まだ午前の十一時過ぎだ。こんな時間から繁盛するほど、世間は景気もよくないのだろう。


 山里リンはその店で、トレーニングウェアの上下とランニングシューズを購入していた。

 高校生としては、ごく尋常な質と価格の商品だ。レジで会計を済ませた山里リンは、商品の詰められたビニール製の袋をひしと胸にかき抱いていた。


「ああ、なんだかプロテストに合格できたという実感がまたわいてきました。すいません、表で写真を撮ってもらえませんか?」


「写真? なんで?」


「親に画像を送りたいんです。これは親からの贈り物なので」


 あまり気は進まなかったが、山里リンの嬉しそうな笑顔を見せつけられると、なかなか固辞できるものではなかった。

 往来に出て、なるべく人目につかない場所を選び、彼女の携帯端末で写真を撮る。山里リンは片手で袋を抱えつつ、満面の笑みでピースサインをしていた。


(……ずいぶん無邪気なやつなんだな)


 なおかつ、ネズミ花火のようにせわしない柚子とも、また異なる無邪気さである。アレは感情の起伏が激しいので、意外に取り扱いが面倒なのだ。


「あっさり用事は済んじゃったね。これからどうする?」


「どうしましょう。お茶でも飲みますか?」


「お茶するんなら、食事にしたいかな。そろそろ昼時だし」


 ということで、今度は駅前に戻りながら、飲食店を物色することになった。

 イタリア国旗の掲げられたピザとパスタの店がランチタイムであったので、そこに足を踏み入れる。店内は、七割ていどの混み具合であった。


 乃々美は、地中海風のスープパスタのセットをチョイスする。

 山里リンは、ハーフサイズのマルガリータとクリームソースのパスタのセットだ。


 乃々美はニット帽を外し、朝方に寝癖のついていた箇所を指先で撫でつけた。

 山里リンは姿勢よく座席に座り、にこにこと笑っている。


「……僕たち、何をやってるんだろうね」


「はい?」


「先週、顔をあわせたばかりの仲で、特に用事もないのに、なんでレストランで友達みたいに向き合ってるんだろ」


「な、何かおかしいでしょうか?」


「さあね。でも、他の人間が聞いたら、不思議がりそう」


 しかも乃々美は人づきあいの悪さで有名なのだ。山田理沙あたりに知れてしまったら、質問責めにされそうな気がする。

 ちなみに、明日の日曜日は彼女と先約があったために、乃々美は山里リンに会うのを今日にしたのだ。土日連続でトレーニング以外の用事が入るなどというのは、乃々美にしても数年ぶりのことであるはずだった。


「す、すいません。わたし、同い年でムエタイをやってる女の子を日本で見たのが初めてだったので、ちょっと舞い上がっていたかもしれません。……今さらですけど、迷惑ではなかったですか?」


「迷惑だったら、断ってるよ」


「それなら、よかったです。……でも、蜂須賀さんはそうやって私服の姿だと、とてもムエタイの選手には見えないですね。髪も長いし、とても可愛いです」


「……そういうあんたは、お猿みたいだね」


 乃々美がわざと意地悪なことを言うと、山里リンは「はい」と笑顔でうなずいた。


「よく言われます。というか、リンってタイ語で猿という意味なんです。母が猿を大好きであったもので」


「大好きだからって、娘に猿とか名付けるものなのかね」


「ええ。リンなら日本人としても違和感はないですし……わたしが生まれる前から、両親にはいずれ日本に戻ろうという気持ちがあったので、そういう配慮もしてくれたようです」


 父親が日本人で、母親がタイ人で、いずれ日本に引っ越すことを視野に入れつつ、タイで子を生した。それで母親も日本語が堪能であったということは、きっとこちらで暮らしていた経験があるのだろう。

 どのようなドラマがあるとそういう人生を歩むことになるのか、乃々美にはなかなか想像がつかなかった。


(でも、たしか『フィスト』の竜崎ニーナも同じような境遇だったよな。あっちはアメリカだったけど。……それに、石狩エマってやつもハーフか)


『シングダム』ではトンチャイが生粋のタイ人であるぐらいで、他には外国人もハーフもいないが、格闘技のジムや試合会場ではそういった人々を目にする機会が多いような気がする。

 まあ格闘技に拘わらず、スポーツというのは肉体で語るものであるし、だいたいはルールも共通しているから、言葉や人種の垣根を越えて、さまざまな人間が集まりやすいものであるのだろう。


 そんなことを考えている間に注文の品が届いたので、二人は食欲を満たすことにした。

 実に美味しそうな顔でピザを頬張っている山里リンの姿に、乃々美はふっと手を止める。


「そういえば、あんたは無理なくウェイトを維持できてるの?」


「え? どういう意味ですか?」


「いや、あの日、石田のやつにアトム級から出てくんなとか言われたとき、ちょっと困った顔してたじゃん」


「ああ……」と山里リンは口もとをほころばせた。


「わたし、ちょっとずつですけど、まだ身長がのびているんですよね。年齢を考えると、きっと骨格も変わってくるでしょうから、いつかは階級が上がるかもしれないなあと思って……」


「いつかって、いつ?」


「え? いや、それはまだわかりませんけど……」


「……新人王トーナメントは、アトム級でエントリーするんでしょ?」


「そうですね。今のところは、減量が苦になるようなウェイトではないですから」


 しかし山里リンは、乃々美よりも六、七センチばかりは背が高い。きっと百五十五センチを下ることはないだろう。これ以上身長がのびてしまったら、四十六・二六キログラムというアトム級のリミットを維持するのは困難になってしまうのではないだろうか。


「……蜂須賀さん、何か怒ってます?」


「別に、怒ってないけど」


「でも、なんだか不機嫌そうに見えます」


「不機嫌そうな顔は生まれつきだよ」


 言いながら、乃々美はムール貝の身を乱暴に噛みちぎった。

 もやもやとしたものが、胸の奥にわだかまっている。スープパスタとミニサラダ、食後のアイスティーまですべて腹に収めても、その感覚が消えることはなかった。


「……ねえ、腹ごなしに、身体を動かさない?」


「え? ああ、はい。まだ帰らなくていいのなら、嬉しいです」


 持ち前の無邪気さで、山里リンはにこりと微笑んだ。

 というか、乃々美が不機嫌になってしまったので、もう帰れとでも言われるかと思っていたのだろうか。

 乃々美としては、まったく正反対の心境であった。


「僕の通ってるジム、ここから歩いて十分もかからないんだよ。そこで、スパーでもしない?」


「ス、スパーですか? でも、そんな勝手なことをしたら、ジムのみなさんのご迷惑になってしまいませんか?」


「そんなことないよ。出稽古で余所の人間が来るなんてしょっちゅうだもん。……それとも、僕に手の内を知られるのは、気が進まない?」


 普通に考えれば、同じトーナメントに出場する予定の選手とスパーリングなどするべきではない。

 しかし山里リンは、乃々美の言葉を聞くと嬉しそうに目を細めた。


「わたしには、隠すような手の内はありません。蜂須賀さんとスパーができたら、とても嬉しいです」


「よし、じゃあ行こう」


 二人は料理店を出て、いざ『シングダム』へと足を向けた。

 どうして乃々美がいきなりスパーリングをしようなどと言い出したのか、山里リンは問おうともしない。彼女が会いたいと言い出したとき、乃々美がその理由を問おうとしなかったのと、同じようなものなのだろうか。


(こういうのも、相性がいいって言うのかな)


 乃々美は、無理なくこの娘とコミュニケーションすることができていた。

 なおかつ、山里リンのほうにも無理をしている様子はなかった。

 気性などは真逆であるようにも思うのだが、マイペースという意味では似た部分があるのかもしれない。おたがいが自分のペースで無理なく振る舞い、それが自然に合致しているのだ。


 こういうタイプの人間は、これまで周囲に存在しなかった。

 しかも彼女は、同性で同い年で、おまけに同じ階級だ。そのような素性でこのような性根の人間と巡りあえたというのは、ずいぶんな運命の悪戯であるように思えてならなかった。


 そうして二人は、『シングダム』に到着した。

 キッズクラスの講習は午後からであるのに、靴入れには何足ものシューズが見える。予想通り、それはほとんどが女物のシューズであった。


「あれ、ののちゃんだ! こんな早くに、どうしたの?」


 トレーニングルームの扉を開けると、柚子の声が飛んできた。

 当然のこと、追い込みのメンバーは全員が顔をそろえている。それに加えて、晴香と隆也とトンチャイの姿もあった。


「おや、友達連れとは、珍しいね」


 九条レオナと壁際で取っ組み合っていた景虎が、身を起こしながら笑いかけてくる。

 そちらに向かって、山里リンは深々と頭を下げた。


「し、失礼します! わたしは『ロムパット・ジム』の山里リンと申します! 練習の最中にお邪魔してしまって申し訳ありません!」


「なんだ、お友達じゃなくて余所の門下生さんかい。『ロムパット・ジム』って、聞かない名前だね」


 景虎の視線を受けて、トンチャイも不思議そうに小首を傾げる。


「ヤマザト選手って、この前のプロテストを受けてた人だネ。どうしてノノミと一緒にいるのかな?」


「出稽古に来たんだよ。スパーをしたいんだけど、かまわないよね?」


 乃々美の言葉に、トンチャイは微笑んだ。


「こちらは別にかまわないヨ。でも、そちらのジムはどうなのかな?」


「あ、うちのコーチでしたら、たぶん了解してくれるはずです!」


「それなら、電話を入れてもらえるかな? それで、ボクにも話をさせていただくヨ」


 山里リンは大急ぎで携帯端末を引っ張り出し、自分のコーチへと電話をかけ始めた。それからトンチャイの手に携帯端末が渡り、さほど待たされることなく、また同じ微笑みが乃々美たちに向けられてくる。


「オッケーだネ。午後の講習でリングを使う予定だから、それまでには終わらせてネ?」


「うん、わかった。更衣室はこっちだよ。……あ、晴香、練習着って余ってないかな? 僕のだと、ちょっときつそうだから」


「ああ、大丈夫だよ。たー坊、ちょっと待っててね」


 晴香は隅のほうに置いていたトートバッグからロッカーの鍵を取り出すと、一緒に更衣室までついてきてくれた。

 山里リンは、好奇心に目を輝かせながら、ずっときょろきょろと周囲を見回している。


「とても立派なジムですね! それに、女性の方がたくさんいて、びっくりしてしまいました」


「来週の土日に本番を控えてるから、女子MMAの選手が全員そろっちゃってるんだ。あたしは子供の早練におつきあいしただけなんだけどね」


 そのように言いながら、晴香はいつもの表情で山里リンに笑いかけた。


「あたしはキック部門の蒲生晴香だよ。このジムでは、ののっちの後輩ね」


「あ、よろしくお願いします。山里リンです」


「リンちゃんか。可愛いお名前だね。ののっちとは、どういうご関係?」


 ごく当然の質問なのだろうが、こちらにしてみれば答えにくいことこの上なかった。


「……この前のプロテストで知り合ったんだよ。階級も、僕と同じアトム級なんだ」


「へえ、たった一週間足らずでののっちを攻略しちゃったの? やるねえ、リンちゃん」


「あ、いえ、その……攻略?」


 戸惑う山里リンに、晴香はにこにこと微笑みながら練習着を受け渡す。


「はい、Tシャツとハーフパンツと、ついでにタオルもつけておくね。他にも何か必要かな?」


「いえ、大丈夫です。ありがとうございます。あとで洗ってお返ししますので」


「いいよいいよ。自分や子供の分と一緒に洗っちゃうから、手間は変わらないさ」


 そのように言いながら、晴香は後ろから乃々美の髪に手をのばしてきた。

 晴香が練習前に髪を結ってくれるのはいつものことであるが、山里リンの前だといくぶん気恥ずかしく感じてしまう。


「同期で、しかも同じ階級かあ。プロに上がるなり、ののっちにライバルが登場したってわけだね」


 晴香の声を背後に聞きながら、乃々美はカーディガンとブラウスのボタンを外した。練習着は、朝の行きがけに運び入れていたので、それをロッカーから引っ張り出す。


「そういうのって、ワクワクするよね! あたしも同期にそういう人間が一人いたから、最初から最後まで意識しっぱなしだったなあ」


「あ、蒲生さんもプロで活動していたのですか?」


「うん。七、八年ぐらい前に引退してね。二年ぐらい前に、アマとして活動を再開させたの。子供が大きくなったから、二人一緒に入門させてもらったんだあ」


「お子さんと同じジムに通ってらっしゃるんですか。それは、素敵ですね」


 晴香から借り受けた練習着に袖を通しつつ、山里リンも微笑んだ。


「ひょっとしたら、さっき一緒に練習していたのがお子さんですか? ずいぶん大きかったみたいですけど」


「大きいかな? この春で二年生に進級するところだよ。あたしもこの春でついに三十路にリーチがかかっちゃったしさ」


「みそじ?」


「うん、三十歳のことね。あたしは一歩手前の二十九歳」


「二十九歳なんですか! 全然見えませんね!」


 当然のように、二人は最初から打ち解けた感じで言葉を交わすことができていた。

 まあ、どちらも乃々美のように気難しい人間を問題なくあしらえる性格なのだから、何も不思議なことはないだろう。


「あ、ウォーミングアップの前に、おトイレをお借りしてもいいですか?」


「うん。表の連中に場所を聞いてね。こっちはもうちょっとかかるから」


「はい。それじゃあ蜂須賀さんも、またのちほど」


 そうして山里リンが更衣室を出ていくと、乃々美の髪をいじりながら晴香が顔を寄せてきた。


「素直で可愛い娘さんだね! あれならののっちが一週間足らずで心を開いたのも納得だよ」


「……別に、そういうわけじゃないけど」


「そういうわけじゃなかったら、わざわざジムまで連れてこないっしょ? ののっちなんて、ナワバリ意識の権化みたいな性格なんだから!」


「…………」


「ああいうコが同期で同じ階級なんて、ラッキーだったね。これから思うぞんぶん、切磋琢磨できるじゃん」


 言いながら、晴香がぽんと乃々美の頭を叩いてきた。

 髪のセットが終了したのだろう。「ありがと」と短く告げてから、乃々美はボタンを外しておいた衣服を脱ぎ捨てる。


(そんなんだったら、あいつをここまで連れてくる気にはなれなかったかもな)


 山里リンは、いずれ階級が変わってしまうかもしれない───そんな言葉を聞かされたからこそ、乃々美は自制がきかなくなってしまったのである。

 新人王トーナメントでは、どちらかが敗退すれば対戦の機会も得られないまま終わってしまう。その後ですぐに山里リンが上の階級に転向してしまったら、もう二度と対戦できなくなってしまうかもしれないのだ。


 あの娘とは、本気で力を比べ合ってみたい。

 乃々美はどうしても、その気持ちを払拭することがかなわなかったのだった。

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