ACT.4
01 集いしものたち
それから一月三日までの二日間は、比較的穏やかに過ぎていった。
もちろん何の波乱もなかったとまでは言えないが、石狩エマの側にも練習試合まで事を荒立てるつもりはないようであったし、それに彼女は夜間にしか九条家に留まろうとしなかったのだ。
「せっかく一日オフなのに、ゴロゴロしてらんねーっしょ。あんたとの試合も控えてるわけだしさ」
一月二日の朝、石狩エマはトレーニングウェアに着替えると、そのように言い捨ててマンションを出ていった。
食事も夕食以外は自腹を切る心づもりであったらしい。彼女が欲していたのはあくまで寝床であり、夕食などは紗栄子の好意に甘えさせていただいている、という気持ちであるようだった。
ということで、彼女がマンションに留まっていたのは元日と二日の夜間のみであったわけだが、その間に柚子はみずからのミッションを完遂させようと奮闘していた。仲良くなってしまえば今後は不埒な真似もできなくなるであろう、という例の作戦である。
「石狩さんって、年代的にはあたしらより一つ上なんだよね。でも、仲良くなりたいからこういう喋り方でかまわないかなあ?」
初日の夜は、まずはそのように第一撃目を放っていた。
「あー? 別に先輩後輩の仲じゃねーんだから何でもかまわないんじゃん? 大事なのは喋り方じゃなく言葉の内容っしょ」
気に食わない言葉を発したら容赦なくひっぱたくぞ、と言わんばかりの口調である。しかしまあ、陽気な気性がぞんぶんににじんでいるので、それこそ伊達や乃々美に比べれば、あまり深刻な感じではないのかもしれない。
床にのべた布団の上で、石狩エマは長い身体をのばしている。布団は紗栄子の夏用のもので、着ているのはレオナのジャージである。彼女は寝間着というものを準備していなかったし、幸か不幸かレオナと似たり寄ったりの背格好であったため、やむをえなく貸し与えたのだった。
可愛らしい黄色のパジャマ姿で石狩エマの枕もとにぺたりと座り込んだ柚子は、天井に向けられたその顔をおそれげもなく覗き込む。
「トビーさんに聞いたんだけど、石狩さんはハーフなんだよね? お父さんとお母さんのどっちがアメリカ人だったの?」
「親父だよ。つっても、ウチは顔すら見たこともねーけどな。母さんと結婚の約束までしてたくせに、任期が終わったらとっとと自分の国に帰っちまったんだってよ」
そんな込み入った話を語るのにも深刻さはない。
また、柚子のほうも「ふーん」と平気な顔をしていた。
「それで石狩さんは家のために働いてるんだから立派だね。あたしも実は不倫でできた子供だったりするんだけど、母さんが亡くなった後に認知をしてもらえたから、あんまり苦労をせずに済んじゃったんだ」
「何だよ、自慢かよ」
「自慢っていうか、負い目かな。自分が苦労をしないで済んだ分、実家の兄さんや姉さんには気苦労をかけることになっちゃったから」
柚子が初対面同然の相手にここまでの内情をさらすのは、常にないことである。やっぱり少し無理をしているのではないかと、傍で聞いているレオナなどはちょっとハラハラしてしまった。
「はん、確かに甘ったれた言い分だな。ま、ウチには関係ねーけどさ」
「うん、だけど『シングダム』に通うようになってからは、すっごく心が軽くなったんだよねー。ひょっとしたら、石狩さんもそーゆーモヤモヤがあったから格闘技とかを始めたの?」
「知らねーよ。ウチは誘われたから入会しただけさ。……何であんたはそんなことを根掘り葉掘り聞くんだよ?」
「石狩さんと仲良くなりたいからだよ。トビーさんの話によると、石狩さんっていい人みたいだし」
そんな風に言いながら、柚子は野ウサギのように丸っこい目で石狩エマの顔をじいっと見つめた。
石狩エマは、その視線から逃げるように寝返りを打つ。
「わけのわかんねー女だな。あんた、そんなにトビーと仲がいいのかよ? まだ二回こっきり会っただけなんだろ?」
「うん、だけどけっこうメールとかはしてるんだよ。おたがいジムの外では格闘技について語り合える友達なんていなかったからさ。……トビーさんって素敵だよねー?」
「ふん、ただのおせっかい女だろ」
そういう言い回しは、ちょっと伊達や乃々美に通じるものがあった。
やっぱりこういうふてぶてしいタイプは、他者への善意や好意というやつを素直にあらわすことが苦手になるのかもしれない。
「そういえば、二月に柔術の大会があるんだよね。あたしもトビーさんもそれにエントリーしてるから、すっごく楽しみ! あたし、柔術の公式試合に出るのは初めてなんだー」
「あん? あんたたちって、顔を隠さないと公式試合には出られないんじゃなかったっけ? だからあんたもキックに転向できないんじゃねーの?」
と、いきなり石狩エマはがばっと身を起こし、レオナのことをにらみつけてきた。
「それはまた別件です。柔術は柔道と同じようなものなのだから、と遊佐さんは校長先生を説き伏せたのですよね?」
「うん! 別にテレビとか雑誌とかで取りあげられるわけでもないしね」
柚子はにっこりと笑い、石狩エマは「ちぇーっ!」とまた布団に倒れ込む。
「つまんねーなー。どうせだったら公式試合でリベンジしたかったよ。それなら一ヶ月とか二ヶ月とかでも待ってやったのによ」
「石狩さんも、やっぱりケンカより試合のほうが楽しいんだよね?」
柚子が、ぐぐっと身を乗り出した。
石狩エマは、うるさそうにそちらを見返す。
「別に、どっちもどっちだろ。ケンカだったら七面倒くさいルールを気にする必要もないし、試合だったら相手に逃げられたり邪魔されたりする心配もないし、どっちが上ってことはねーよ」
「でも、道端のケンカとか続けてたら、そのうち公式試合には出られなくなっちゃうんだよ? それって悲しくない?」
ぽんぽんと歯切れよく答えていた石狩エマは、そこで初めて口をつぐんだ。
目覚まし時計の音だけが室内に響き、やがてそこに不機嫌そうな声が重なる。
「試合だけで満足できたら世話はねーよ。公式試合なんて、下手すりゃ何ヶ月も間が空いたりするじゃん。それじゃあ暴れ足りねーんだよ、ウチは」
「ふーん? だけど、ケンカとかってそんなに楽しいものなの? あたしには全然ピンとこないんだけど」
「……楽しい楽しくないでケンカするやつなんているかよ、馬鹿」
「いる」とレオナは心の中だけで答えた。
レオナの父親や兄たちは、ルールに縛られた公式試合というものを軽んじて、路上の格闘こそが真の強さを試し合える場であると認識し、実践していたのだ。
(それじゃあこいつは、親父とかと同じスタンスなわけではないんだな)
むろんそれは、最初からわかりきっていたことであった。レオナの父親たちがそのような心情に至ったのは、多分に環境のせい───路上の格闘が日常化してしまう、あの土地の異常性が根っこにあったはずなのだ。自分がその土地を離れたおかげで、レオナはそういった長年の疑念が事実であったことをより深く理解することができたのだった。
「……それじゃあ石狩さんは、どうして試合中に反則などを犯してしまうのですか?」
そこで初めて、レオナは自分から口を開くことになった。
「ルールを守らないなら、路上の格闘と一緒です。なおかつ、反則を犯して相手を叩きのめしてもルール上は反則負けになってしまうのですから、それでは試合をする甲斐もないのではないでしょうか?」
「別に好きで反則負けになってるわけじゃねーよ。ルールがこまかすぎるのが悪いんだろ」
ぶすっとした顔で石狩エマはそのように言い捨てた。
「ただでさえアマチュアだとルールがこまかいのに、主催する団体によってあれこれ注文をつけられるんだからたまったもんじゃねーよ。やれクリンチからの攻撃は反則だとか、やれバックハンドブローは禁止だとか、いちいちうっせーんだよ」
「ああ、キックはMMAより団体ごとのルールの違いが大きいみたいだね」
興味深げに、柚子も乗ってくる。
「でも、そんなに使い分けが難しいものなの? 団体ごとのルールの違いって、クリンチ、首相撲、バックハンドブロー、あとは肘打ちと、それに顔面への膝蹴りとかぐらいじゃなかったっけ?」
「それだけこまかければ十分だろ。ウチはそこまで器用じゃねーんだよ」
「そっかー。でも、それを言ったら、九条さんなんてもっと窮屈な思いをしながら試合をしてるんだよね。コーチ陣からこっちのプロフィールは伝わってると思うけど、九条さんは十年以上の空手のキャリアがあって、今はまったくルールの違うMMAに取り組んでるわけだからさ」
「……ウチとの試合はMMAじゃなくってキックだったろ」
「うん、だけど九条さんの習ってた空手はキックにも応用しにくいようなルールだったんだよ。たとえば玄武館とかだって、キックとは全然ルールが違うでしょ? あんな感じでさ」
玄武館というのは、かつてレオナの父親が喧嘩を売ってしまった国内最大の空手流派である。フルコンタクトというジャンルに分類される玄武館においては、防具などをいっさい使用しない代わりに、拳による顔面への攻撃が禁じられていたのだ。
いっぽう、伊達が通っていた武魂会という流派などは、空手着にグローブだけを着用したキックボクシング同然のルールであったらしいし、それ以外にも、寸止めか、あるいは全身に防具を纏って有効技のポイントを取り合う伝統派の空手というものも世間には存在する。空手というのは、キックボクシング以上にルールの多様化した競技であるのだ。
「そんな九条さんでもルールを破らないことを第一に考えてるんだから、石狩さんも明後日の試合では気をつけてほしいなって思うんだけど……どうかなあ?」
「だから、ウチだって好きでルールを破ってるんじゃないっての。どうせ練習試合だったら、この前と同じぐらいのこまかいルールで縛られるんだろうしさ」
「それでも、ルールを破ったら意味がなくない? 九条さんはルールを厳重に守りながら、公式試合でも練習試合でも結果を残してるんだよ? そんな九条さんを相手に反則を犯すぐらいなら、試合をしないほうがマシに思えてきちゃうなあ」
いつになく厳しい柚子の弁である。
レオナは何が起きても対処できるよう気を張っていたが、石狩エマは不機嫌そうに柚子をにらみつけるばかりで、身を起こそうともしなかった。
「要するに、反則抜きで勝ってみせろって煽ってるわけか。可愛い顔して、なかなかしたたかな女だね」
「あたしは気持ちよく試合をしてほしいだけだよ。九条さんは大事なジム仲間だし、石狩さんは、大好きなトビーさんのジム仲間だからね」
「ふん、ウチの知ったこっちゃねーよ」
けっきょくその夜は、それで就寝することになった。
柚子があれこれ仕掛けたわりには、まあ平和裡に終わったと言えるだろう。
翌日の夜などは、あまり立ち入った方向に話が流れることもなく、おたがいのジムやジム生の様子が話題の主流となり、さらになごやかに終えることができたように思う。
それでわかったのは、やっぱりこの石狩エマという娘が自分のジムにそれなりの愛着を持っていることと、一部のジム生とはきわめて良好な関係を築いているようである、ということぐらいであった。
一番仲がいいのは飛川とアベリィで、桐ヶ谷や沼上ともそれなりの親交があるらしい。というか、桐ヶ谷と沼上は同じキック部門で体重も近いので交流が深まるのも当然であり、競技も階級も異なる飛川やアベリィとは純粋に友人として絆を深めている、という印象であった。
なおかつ、門倉コーチというのは彼女を『横須賀クルーザー・ジム』に引き込んだ張本人であるらしい。
彼もまた専門は柔術であったが、石狩エマの働く店でたまたま知遇を得て、そんなに力が余っているなら格闘技ジムに入門しては如何かと誘われたのだそうだ。
「そういえば、石狩さんって何のお店で働いてるの?」
「基地の近くのバーだよ。金が足りないときは倉庫とかの仕事も手伝ってるけどな」
そういえば、彼女は大晦日から元日の朝まで働いていた、とも言っていた。どうも労働基準法というやつを何重にも犯している気配が濃厚であったが、レオナたちも私生活にまで口出しをする気持ちにはなれなかった。
それにどうも、石狩エマの家庭環境というやつは、いささかならず複雑であるように見受けられる。父親については昨晩に語られた通りであるし、母親のほうもそんなには保護者としての責務を果たしていないようなのだ。レオナは自分の意志と関わりなく荒っぽい人生を歩むことになっていたが、彼女はむしろ自分の鬱憤を晴らすために荒事を求めているような、そんな気配がまざまざと伝わってくるのだった。
(そういう意味では、あたしの親父や兄貴たちとは全然違ってるよな。あいつらは鬱憤どころか、心の底から楽しそうだったし)
だけどそれもやっぱり環境の差なのだろうか。普通は腕っ節の強さがそこまでのステータスになったりはしないだろうと思えるのだが、羽柴塾のあったあの町は、閉鎖的かつ封建的な土地柄であった。平穏を望む人々から疎まれることを考慮しなければ、「喧嘩に強いこと」が絶対的なステータスたりえたのである。
だけど石狩エマは、自分の人生に納得しているようには見えなかった。自由奔放に生きることで鬱憤を晴らしているようだが、根底の部分にはそれで解消できないものを抱えているように思えてしまう。どんなに腕っ節が強くとも、現在のような生活を続けていれば、いずれジムを辞めさせられてしまうし、下手をしたら裁判沙汰なのだ。そんな人生を心の底から楽しめるような気性ではない、ということなのだろう。
(きっとそれが普通なんだよな。普通じゃないのは、親父たちのほうなんだ)
ある部分では父親たちと似ているようであり、別のある部分ではまったく似ていない。二日目の夜にレオナが得た結論は、そんなようなものであった。
そして、一月三日である。
黒田会長との約束は午後の五時であったので、レオナはなかなか落ち着かない気持ちで半日を過ごすことになった。
石狩エマは紗栄子に丁寧な礼を述べて、やはり朝の内にマンションを出ていった。もうこの場所には戻る理由もないので、荷物もすべて持ち出している。レオナと柚子に対しては、「じゃ、また夜にな」という言葉をふてぶてしい笑みとともに残していった。
昨日も今日も、レオナはロードワークと補強運動、それに軽いシャドーぐらいしかこなしていない。スパーもミット打ちもかなわない環境であるのだから、せいぜい身体がなまらないように努める他なかったのだ。
「よく考えたら、むこうは試合の映像を観てるのに、こっちは情報ゼロなんだよね。これってけっこう不利じゃない?」
すべてのトレーニングを終えて自宅に戻り、時間が経つのを待っている間、柚子はそのように言っていた。
確かに練習試合においてもあっという間に決着がついてしまったので、石狩エマがどういうファイターなのかを知ることもできなかったのだ。わかるのは、彼女がサウスポーである、ということぐらいであった。
「九条さんも左がまえが多いけど、基本的にはどっちもいけるんだよね? ていうか、九条さんはどっち利きなんだっけ?」
「右利きか左利きか、という意味ですか? それなら、わたしは両利きです」
「うん。でも、たしか箸とかペンとかは右だったよね?」
「それはそのほうが自然に見えるだろうと思ったからです。子供の頃は、どちらも偏りなく使えるようにと修練させられましたよ」
それは祖父の代から続く羽柴塾の教えであった。少なくとも、レオナと二人の兄は左右どちらでも箸や筆が取れるように修練をつまされている。
「ひょえー、それもすごい話だね! ……で、相手がサウスポーである場合はどうするべきなんだろうね? やっぱり向こうも右利きの相手に慣れてるだろうから、サウスポーで迎え撃つのが正しいのかなあ」
「どうでしょう。景虎さんは、頻繁にスイッチしたほうが相手を惑わせることができると仰っていましたし。私としても、あまり左構えに固執しているつもりもなかったのですが」
そんな会話を繰り広げている内に、ようやく日は暮れてきた。
見物に行きたいと述べたてる紗栄子を必死の説得でマンションに残し、午後の四時二十分にレオナと柚子は玄関を出た。
「あ、もう明かりがついてるね」
約束の十分前に『シングダム』に到着すると、薄闇の中で入口に照明がついていた。
しかし、トレーニングルームに黒田会長の姿はなく、その代わりにちょっとひさびさの顔ぶれがずらりと立ち並んでレオナたちを待ち受けていた。
「やあ、明けましておめでとさん」
景虎と伊達、晴香と乃々美、それに隆也少年と竹千代まで顔をそろえている。「明けましておめでとうございます」と応じながら、レオナは動揺を隠すことができなかった。
「みなさん、いったいどうされたのですか? 今日まではまだ休館日のはずでしたよね?」
「柚子に連絡をもらったから見物に出向いてきたんだよ。ジムの鍵ならあたしもスペアを渡されてるからさ」
昨日の昼間に新年の挨拶に来た竹千代を除けば、いずれも五日ぶりの再会であった。練習日ではないのでみんな私服姿のままであるが、誰も変わりはないようだ。
「トラさんから連絡もらってびっくりしちゃったよ。あのコ、今日の朝までレオっちの家にいたんでしょ? ほんとに大変だったねー」
「ええ、まあ、はい」
「ふん。あんな大馬鹿は放っておきゃよかったんだよ。家にあげるなんて、どういう神経してんの?」
「私だって、好きで招待したわけではありません」
晴香も乃々美も相変わらずのようであった。
伊達は仏頂面で、隆也少年は心配そうに、そして竹千代はにこにこと笑いながらレオナのことを見つめてきている。
そこでトレーニングルームの扉が外からノックされたが、入ってきたのは黒田会長でも石狩エマでもなく、亜森であった。
「あ、眼鏡オンナじゃん! 何であんたがこんなとこに来てんのさ!」
たちまち乃々美が尖った声をあげ、亜森はそちらにしずしずと頭を下げる。
さすがに本日は和装ならぬ、普通のシックなコート姿である。
「九条さんと遊佐さんのクラスメートで亜森紫乃と申します。ご迷惑かとも思いましたが、九条さんの身が心配であったため、本日は同席させていただきます」
亜森との関係が修復されたことについては、いちおう報告済みである。それに、石狩エマが来訪した際に亜森が居合わせていたことも、柚子から景虎に伝えられていたのだろう。乃々美以外は、べつだん驚いている様子もない。
「ちなみに、問題の石狩さんは誰よりも早く到着してたからね。今は更衣室でお着替え中だよ」
景虎がそのように言ったとき、まるでその言葉を聞いていたかのようなタイミングで更衣室の扉が開かれた。
タンクトップにハーフパンツ、右肩の大きなタトゥーをむき出しにした石狩エマが、不敵に笑いながらレオナをにらみつけてくる。
「やっと来たかよ。とっとと着替えて始めよーぜ」
「いや、肝心の会長がまだ到着してないんだよ。責任者抜きでは始められないから、のんびりアップでもしてておくれ」
景虎の言葉に、石狩エマは「はん」と鼻を鳴らす。
「休日出勤をさせちまって申し訳ないけど、あんまり焦らさないでほしいなあ。こっちはもうさっさと決着をつけたくてウズウズしてるんだからさ」
「自分の非常識を棚に上げて勝手なこと言ってんじゃねえよ。なんなら、九条の前にアタシが相手になってやろうか?」
伊達が険悪な声で言い、石狩エマは肩をすくめる。
「あんたもウェイトは合いそうだね。そっちのそいつをぶちのめした後だったら、いくらでも相手になってやるよ」
「人のジムで調子づいてんじゃねえよ。アンタの勝手な行動がどれだけ他人の迷惑になってんのかわかってんのか?」
「うっせーなあ。口喧嘩なら買うつもりはないよ。そういえばあんたは怪我人だったもんね」
言いながら、石狩エマはひたひたとサンドバッグに近づいていった。
「お言葉に甘えてアップさせてもらうよ。こいつを蹴らせてもらってかまわないよね?」
「かまわないけど、バンテージは?」
「蹴るのにバンテージは必要ないっしょ」
言い捨てざまに、石狩エマは左足を振り上げた。
奥足からのミドルキックである。鍛え抜かれたすねの骨が革のサンドバッグを叩く音色が、トレーニングルームに重く鋭く響きわたった。
男子選手にも負けない、派手な音色である。これだけで、彼女が女子選手としては規格外のパワーを有していることが知れた。
(あんな蹴りをレバーにでもくらったら立てないかもしれないな)
晴香や乃々美は体重で負けているし、伊達は現在リハビリ中、そして景虎はキックよりもパンチを得意にしている。そう考えたら、『シングダム』でこれほど重いキックを蹴ることのできる女子ジム生は存在しない、ということだ。
そんなことを考えていたら、いつのまにかレオナのかたわらに近づいてきていた乃々美にくいくいとコートの裾を引っ張られた。
「アップの前にサンドバッグを蹴るなんて、見え見えのパフォーマンスだね。あんたもあんなのに気圧されんなよ?」
「ええ、承知しています」
普通は筋肉や関節をほぐす前にサンドバッグを蹴ったりはしない。だけど石狩エマの場合は、示威行動ではなく単なる衝動でサンドバッグを蹴っているように感じられた。
(そういうところが、羽柴塾の門下生とかぶるんだよな)
この石狩エマというのは、スポーツとしての格闘技を楽しんでいるわけではないのだろうか。
やっぱり、何やら胸が騒いでしまう。
「それでは、私も着替えてきますね」
と、レオナが足を踏み出しかけたとき、また扉の開く音がした。
今度こそ黒田会長の登場か、と振り返ったレオナは仰天してしまう。入室してきたのは、『シングダム』の門下生ならぬ部外者たちであったのだ。
「えっ! 何であんたたちがこんなところにいるんだよ!」
石狩エマが惑乱した声をあげると、その一団の先頭に立っていた人物が苦笑まじりの声を返した。
「何でって、エマちゃんを追っかけてきたに決まってんでしょ。ったく、どこまであたしらに心配をかけたら気が済むのさ?」
それはトビーこと、飛川美月であった。
そこに現れたのは、『横須賀クルーザー・ジム』の面々であったのである。
アベリィ・グリーン、桐ヶ谷あかね、沼上宏太までそろっている。かつて五対五の練習試合に臨んだメンバーが、ここに勢ぞろいしてしまったのだ。
「カドクラサンがレンラクくれたんだよ。カドクラサンはアシタまでモドれないから、かわりにエマのメンドウをみてくれってさ」
独特のイントネーションを持つ日本語で、アベリィ・グリーンが補足する。そばかつの目立つその面には、とてもにこやかな表情が広がっていた。
「お前、勝手な真似すんなよな。そんなのが許されるんだったら、俺だってリベンジしたかったよ」
「ほんとだよねー。ま、あたしは東京を観光したかったから、そのついでで寄ってみただけだけど」
不機嫌そうな顔をした沼上宏太とつかみどころのない笑みを浮かべた桐ヶ谷あかねも言葉を重ねて、石狩エマをいっそう困惑させた。
「何だよ、あんたたちには関係ねーだろ? 邪魔くせーから、出てってくれよ」
「関係ないってことはないでしょ。エマちゃんの問題はうちのジムの問題なんだから」
叱りつけるように言ってから、飛川美月は景虎に向かって深々と頭を下げてきた。
「あの、このたびはうちのエマちゃんがお騒がせしちゃって申し訳ありませんでした。こんな非常識な申し出を受け入れてくださって、本当に感謝しています」
「いやあ、受け入れたのはうちの会長と九条さん本人だからね。感謝も謝罪もそっちにお願いするよ」
「はい、もちろん。……九条さん、本当にごめんなさい。それに、ありがとうございます」
「え、ああ、はい」
「試合が終わったら、エマちゃんはあたしたちが責任をもって連れ帰りますから。どうかくれぐれもよろしくお願いします」
柚子によると、この飛川美月という女性はこの春で短大に進学するという話であったから、レオナたちより二歳年長であるはずだった。そのわりにはずいぶん幼げにも見える小さな顔に、彼女は心の底から申し訳なさそうな表情を浮かべていた。
(うちのジムの誰かが問題を起こしたら、景虎さんたちだってこういう風にふるまうんだろうな)
それがどれだけ幸福なことか、石狩エマにはわかっているのだろうか。
見てみると、石狩エマは苦い顔で栗色の頭をひっかき回していた。
そこで、最後の役者が登場した。
「おお、何だ、ずいぶんな大人数だな。正月早々、みんなご苦労さん」
黒田会長である。
ビヤ樽のような身体をダウンのコートとスラックスに包んだ黒田会長がのしのしとトレーニングルームに踏み入ってきて、その場に集まった十数名の人間たちを笑顔で見回していく。
「さ、それじゃあさっそく始めようか。二人とも、準備をお願いするよ」
そうして石狩エマとの二度目の練習試合は、粛々と開始されたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます