03 最悪にして最善

「何やってんだよ! 最初っから最後まで相手のペースに乗せられっぱなしじゃん!」


 コーナーに戻るなり、レオナは乃々美に叱咤されてしまった。

 出された椅子に腰を下ろすと、すかさず晴香が両腕をマッサージしてくれる。氷のうの準備はなかったので、固くしぼった冷たいタオルを首の裏にあてがわれた。


「キック初心者のあんたが相手の流儀に乗っかってどうすんのさ? 邪流の空手屋なら邪流らしく、もっと素っ頓狂な動きで試合をかき乱しなよ!」


「邪流邪流と連呼しないでください。それってけっこう胸をえぐられるのです」


「ふん!」と鼻を鳴らしながら、乃々美はペットボトルを突きつけてくる。

 レオナは口の中を洗い、最後の一口だけを咽喉に通した。


 大きなダメージはないが、精神的には疲弊しきっている。そして、精神と肉体というのはおたがいに小さからぬ影響を与え合うものだ。その結果として、レオナは実際に消費したスタミナ以上の疲弊感を覚えてしまっていた。


 そんなレオナの両足の間に腰をおろした乃々美が、左右の腿をぐにぐにともみほぐしながら顔を寄せてくる。


「あんたね、自分らがどんだけ異様な試合をしてるかわかってんの?」


「はい? 異様な試合ですか?」


「あんたも相手も、一発のジャブも出してないんだよ! 三分間、どっかんどっかん大砲を撃ち合うばっかりで、こんな馬鹿げた試合は見たことないよ!」


「はあ……それならおたがい邪流ということになるのでしょうか?」


 ヘッドガードの上から、ぺしんと頭を叩かれた。


「あいつは自分に不都合がないから、そうしてるだけだよ! 中間距離からミドルキック、距離が詰まったらクリンチか首相撲。あんだけ背が高くて手足が長かったら、そいつが一番有効な戦い方だからね。……だからって、ここまで極端な試合になっちゃってるのは、あんたの側までパンチを出してないからでしょ? それが相手の土俵に乗っかってるってことさ!」


「はあ……」


「あんただって、景虎にアウトボクシングを極めるべきってアドヴァイスされてたんでしょ? あいつはもうずっと前からそいつを実践してたってことさ。その割にはお粗末なフットワークだけど、あいつは前後のステップと蹴り技で相手を寄せつけないってことに特化したんだろうさ」


 それはいかにも石狩エマらしい戦法であるように思えた。


「それぐらいのこと、ちょっと考えればすぐわかることじゃん。なのに、相手の一番得意な距離でおんなじように蹴り技を狙うばっかりでさ。どうして事前にアウトボクサータイプの対策を立てておかなかったわけ?」


「私と遊佐さんだけでは、そこまで考えが至りませんでした。言われてみれば、納得ですね。彼女は私とほぼ同じような体型をしているのですから、同じような戦法になるのが当然ということですか」


 呼吸を整えながらレオナが応じると、乃々美は「ちぇっ」と舌を鳴らした。


「だったら僕にも連絡をよこせばいいじゃん。遊佐のやつ、気がきかねーなー」


「え、何ですか?」


「何でもない! とにかく相手の土俵に乗っかんな! そんで、邪流の空手が嫌なんだったら、まともなキックの試合をしてきな!」


 乃々美の小さな手の平が、レオナのグローブをぎゅっとつかんでくる。


「あんたの得意なパンチはフリッカーだろ。リーチは負けてないんだから、蹴りじゃなくパンチの間合いでやりあうんだ」


「はい……ですが、ボクシンググローブは重たいので、私もパンチはなおさら出しにくいのですよね。それに、相手はしっかりガードを固めてしまっているので、これではまともに当てられるかどうか……」


「自分で選択肢をせばめてどうすんのさ! ロクな回し蹴りも蹴れないくせに、蹴り合いでどうやって勝つつもりなの!? あっちは距離の取り合いも首相撲の技術もあんたの上を行ってるんだよ!?」


 乃々美はいっそういきりたち、晴香が「まあまあ」と割り込んでくる。


「でも、ののっちの言う通りだよ。クリーンヒットなんて狙わなくていいから、とにかく手を出すの。それだけで、パンチ勝負の苦手な相手には充分いやがらせになるんだから」


「はあ……」


「レオっちはパンチ勝負に苦手意識があるみたいだけど、向こうだって蹴り技と首相撲に特化してきたんなら、同じように苦手なはずだよ? それで、ここまでパンチ勝負を露骨に避けてるってことは、きっとレオっちのフリッカーを警戒してるんだよ。……だったら、相手の弱みにはつけこまなきゃ」


 レオナの顔を覗き込みながら、晴香はにっこりと微笑む。

 そのとき、リング下から景虎がピピッと笛を鳴らしてきた。


「はい、セコンドアウト。みんな、リングから降りておくれ」


 レオナは立ち上がり、椅子は晴香に片付けられる。

 そうして最後に、乃々美が背伸びをして耳もとに口を寄せてきた。


「パンチの距離になったら、向こうはローを出してくるかもしれない。それでもしつこく追いすがれば、絶対スキはできるはずだから。大砲は、そのタイミングでぶっぱなすんだよ」


「わかりました」とレオナはうなずいてみせる。

 すると、乃々美の肩ごしに柚子たちの姿が見えた。


 柚子は笑顔で、握った拳を突きあげている。

 いっぽう亜森は、冷徹な無表情のまま、涙目になってしまっていた。

 その手が柚子の空いた手をぎゅっと握りしめていることに気づき、レオナはついつい口もとをほころばせてしまう。


「はい、第二ラウンド」


 景虎が大きめの声で言い、笛を吹き鳴らした。

 黒田会長が「ファイト!」と腕を振り下ろす。


 レオナは柚子たちに軽くグローブを振ってから、リングの中央に向きなおった。

 石狩エマは、変わらぬ調子でじりじりと近づいてくる。


(パンチでやりあえって言われても、正面から行ったらキックで迎撃されるよな)


 レオナは少し迷ったが、左構えでステップを踏むことにした。

 パンチを多用するとなると、自然、ボディのガードは甘くなる。ならば、右の脇腹を相手に向けていたほうが、レバーをミドルで狙われる危険も軽減するはずであった。


(その代わり、膝蹴りや前蹴りには要注意だな)


 相手に距離を詰められない内に、レオナはアウトサイドへとステップを踏んだ。

 さっきは右ミドルで行く手をさえぎられてしまったが、サウスポーの構えから右ミドルを放つには、最初に奥足を踏み込む必要がある。そのときは、右のフリッカージャブで迎え撃つ心づもりであった。


(蜂須賀さんや蒲生さんはキックの大先輩なんだ。あたしがあれこれ考えるよりは、きっと有効なはずだ)


 それで負けるなら、レオナの技術不足ということだろう。

 何にせよ、進むべき方向性が定まっただけで、レオナの心はうんと軽くなっていた。


(射程は蹴りのほうが長いんだから、相手が攻撃のしにくい角度からパンチを撃ち込むってことだよな)


 鉄則は、相手の正面に立たないことだ。

 つまり、服部選手や伊達などが、レオナを相手にするときに見せた動きである。


 石狩エマは、警戒した面持ちでレオナから距離を取っている。

 そのアウトサイドに大きく踏み込み、レオナは牽制の一撃を放ってみた。

 右腕を鞭のようにしならせて、手首から先を相手にぶつける。鶴頭拳を応用したフリッカージャブである。


 まだまだ相手の顔面を狙える間合いではない。頭部をガードした相手のグローブにタッチする感覚で、レオナは右拳を繰り出した。

 おたがいのグローブがぶつかりあい、ばしんっと鈍い音をたてる。

 そうしておたがいが身を引いたので、また両者の間には同じだけの距離が生まれることになった。


(もう一歩半は深く踏み込まないと、相手の顔には届かないか。……だいたい、このグローブってやつは盾みたいなもんだもんな)


 MMAのオープンフィンガーグローブであれば、どんなにガードを固めたって、なかなかすべての攻撃を防げるものではない。グローブのサイズが小さいので、いくらでも隙間が生じてしまうのである。

 しかしこのボクシンググローブというやつは、十二オンスでも直径が十五センチぐらいはある。左右で並べれば三十センチだ。さらに自分の拳にも同じサイズのグローブがくっついているのだから、これで相手のガードを割ることはなかなかに困難なのだった。


(ま、牽制で撃つなら、これで充分だろ)


 レオナは同じ距離を保ち、相手にカウンターをくらわない角度を確保できたときのみ踏み込んで、フリッカージャブを撃ち続けた。

 石狩エマのグローブや前腕に、レオナのグローブがばしばしと当たる。第一ラウンドでしこたま腕を蹴られてしまったので、それだけの攻撃を放つのも大層しんどかったが、それでも繰り出すフリッカーはすべてヒットさせることができた。

 石狩エマは、しっかりと頭部をガードしたまま、爛々と青い瞳を燃やしている。


(反撃してこないな。こっちの次の仕掛けを待ってるのか?)


 ならばと、レオナは前側にあった右足を横から突き出す。

 龍牙、サイドキックである。

 石狩エマはひたすら頭部を守っていたので、これは有効であるように思えた。


 小指側の側面、足刀で相手のレバーを狙う。

 石狩エマは、獣のような反応速度でバックステップした。

 やはり、前後の動きは誰よりも機敏である。


 レオナは、改めて追撃しようとした。

 とたんに、左のローキックが飛んできた。

 レオナは右足を軽く持ち上げ、その衝撃を受け流す。

 しかしそれでも、骨まで響くような一撃であった。

 足を浮かせていなかったら、靭帯をやられていたかもしれない。


(なるほど、大砲の撃ち合いか。そういえば石狩さんはフェイントも使わないし、一発一発が渾身の一撃なんだな)


 さきほどの三分間の顛末と、乃々美や晴香からもらったアドヴァイスが、頭の中でかちかちと組み合わされていく。


 ジャブも撃たずに距離を計れるというのは、類いまれなる才能だ。きっとこの石狩エマは、空間把握能力が余人よりも秀でているのだろう。格闘技の選手として、それはものすごい強みであるように思えた。

 だけど彼女はその恩恵にぶら下がり、ジャブを撃つという鍛錬をおろそかにしてきたのかもしれない。その代わりに、相手を寄せつけない強烈な蹴り技と、密着しての首相撲という技術を磨いてきたのかもしれなかった。


(相手の土俵に乗るなってのは、そういうことか)


 中間距離の蹴り合いでは、横回転の蹴りがお粗末な分、レオナに分が悪い。そして首相撲に関しても、おそらくレオナと彼女とでは積み重ねてきた年月が違う。彼女は中学時代からキックボクシングの鍛錬を続けており、レオナは入門四ヶ月の新米選手であるのだ。


(それでも、何もかもを完璧にこなせる選手なんていない。パンチの鍛錬を二の次にしたからこそ、ここまで強力な蹴り技と首相撲の技術を身につけることができたってところか)


 では、その二の次にしてきたパンチの技術は、どれほどのものなのか。

 本当にそちらではレオナに分があるのか。

 そこが最初の勝負の際になりそうであった。


(一回のダウンは許されるんだ。ぎりぎりまで相手の力量を見極めてやろう)


 そんなことを考えながら、レオナはひたすらアウトサイドにステップを踏み、フリッカージャブを放ち続けた。

 石狩エマは、明らかに戸惑っている。というか、少し焦れてきている気配がする。下がるか、頭を振るかのどちらかで、蹴りを放とうとも、密着してこようともしなかった。


(いや、前後の動きが鋭いだけじゃあ、こんなジャブだけでも近づきにくいってことか)


 これがMMAであるならば、おもいきって頭を下げてタックルを狙う、という選択肢もある。しかしキックボクシングの場合は、腰から下に組みつくのも反則行為となってしまうのだ。


「馬鹿、何やってんだよ! 相手のペースにつきあうな!」


「ローだよ、ロー。足を潰せば、仕留められるよー」


 沼上や桐ヶ谷が、逆側のコーナーから指示を飛ばしている。

 下がりかけていた石狩エマは、それでいきなり右のローキックを放ってきた。

 前に出している右足のインローである。ミドルやハイは腰を入れるために軸足を切り替える必要があるが、ローならば足の力だけで蹴ることも可能である。威力は落ちるがスピードに特化した、ジャブのごときローであった。


 これには、反応することができなかった。

 おたがい右足を前に出しているので、腿の内側を蹴られてしまう。分厚いゴムの板で叩かれるような、鋭くて手痛い一撃であった。


 しかしレオナは、めげずにフリッカーを撃ち続ける。

 相手が突進の気配を見せれば、前蹴りか横蹴りで迎撃した。

 こちらも前足の蹴りなので、深いダメージを与えることはできない。しかし、それで距離を保てれば、またフリッカーを撃つことが可能になる。

 そうしておたがいに決定打を欠いたまま、あっという間に一分半が過ぎた。


(時間切れの場合は、引き分けか)


 レオナはそれでもいっこうにかまわない。

 大事なのは勝敗ではなく、自分の持てる力を出しきれるかどうかだ。


 しかし、石狩エマのほうは焦れていた。

「残り半分!」の声を聞いたところで、石狩エマはいきなり横殴りの左フックを繰り出してきた。

 が、フックは肘を曲げるために、射程が短い。レオナはゆとりをもってかわし、ガードの空いた顔面にフリッカーを当て込むことができた。


 それでも石狩エマは怯まずに、今度は右ジャブを放ってくる。

 伊達や乃々美に比べれば鋭さのない、無駄な力のこもった攻撃であった。

 しかし、それでレオナの手が止まると、すかさず左のミドルを蹴ってきた。


 ガードした右腕に、電撃のような痛みが走っていく。

 たまらずレオナが引き下がると、今度は右の前蹴りが追ってきた。


(パンチの届かない距離に突き放そうってんだな)


 ならばと、レオナも前蹴りを繰り出した。

 だが、中足で胴体を狙う軍鶏ではない。爪先で下顎を狙った弧月こげつである。

 軍鶏では前面に突き出す足を、弧月ではおもいきり上方に振り上げる。分類としては同じ前蹴りでも、真っ直ぐに突く軍鶏と縦の遠心力を利用する弧月では、まったく異なる攻撃であった。


 レオナはあまり弧月が好きではない。まともに当たれば、否応なく相手を負傷させてしまうためだ。

 最悪、下顎の骨が砕けるし、路上の格闘ではマウスピースもしていないため、前歯をのきなみ失うことになる。「なるべく相手を傷つけない」を信条とする羽柴塾においては、よほどの危地でない限り、使うことの許されない技でもあった。


 その技を、レオナはフェイントとして使った。

 狙ったのは、石狩エマが装着しているヘッドガードの頬の部分である。

 石狩エマが首の角度を二十度ばかり右に傾け、数センチほど前進してこない限りは、下顎も歯も守られるはずであった。


 むろん石狩エマがそのように不自然な動きをすることはなく、彼女はただ後ろにのけぞった。

 その結果に満足しつつ、レオナは蹴り足をそのまま踏み込み、渾身の力で右の中段突きを放った。


 最善とは言い難い精度とタイミングである。

 しかし、石狩エマの左胸下部をえぐることはできた。

 グローブをはめていなかったら、肋骨をへし折ってしまっていたかもしれない。

 石狩エマはうめき声をあげ、そのまま力なく崩れ落ちた。


「ダウン!」


 黒田会長の声を聞きながら、レオナはニュートラルコーナーに引き下がる。

 味方陣営も相手陣営も、ものすごい勢いで声をあげていた。

 そんな中、黒田会長は落ち着いた声音でカウントを数え始める。


『横須賀クルーザー・ジム』ならば、ここでレフェリーストップであっただろう。

 いや、きっとその前に、第一ラウンドのダウンでレオナの敗北が宣告されていたに違いない。


(ひょっとしたら、練習中の事故や怪我っていうものに敏感になってるのかな。……石狩さんっていう問題児を抱えてるおかげで)


 ともあれ、ダウンを先取することができた。

 第一ラウンドではあれだけ苦しめられたのに、第二ラウンドに入ってからはほとんど攻撃をくらうことなく、自分の攻撃ばかりを当て込むことができたのだ。


 すべては乃々美と晴香のおかげであった。

 闘争本能というやつにリミッターをかけて、詰め碁のように試合を進めようと試みているレオナには、戦術や戦略というものが何より肝要であったのだ。


 しかし、これで勝利を獲得できたとまでは思えなかった。

 急所を外した一撃で、この石狩エマという娘の強靭な心を折ることができるはずはない。

 そんなレオナの思いに応じるかのように、石狩エマはカウント7でのそりと立ち上がった。


「やれるか?」


「当たり前じゃん!」


 石狩エマの青い瞳が、今まで以上に爛々と燃えていた。

 そこに晴香の「残り三十秒!」の声が響く。


「ファイト!」


 黒田会長の声とともに、石狩エマが突っ込んできた。

 頭は、しっかりとガードしている。

 胴体はがら空きだ。

 しかし、軍鶏や龍牙を放ったら、またバックハンドブローを繰り出してくるかもしれない。


 レオナとて、六分近くを闘い抜いて、消耗している。

 もしも石狩エマのほうに余力があったら、最善の一手でも回避されてしまうことだろう。


(だったら───)


 レオナは集中し、一歩だけ右足を踏み込んだ。

 それと同時に、左足をマットの上ですべらせる。


 蹴りの間合いに入ったところで、石狩エマのほうは左足を振り上げようとした。

 やはり彼女がもっとも得意としている、ミドルキックである。


 しかし、タイミングはレオナに分があった。

 レオナが狙ったのは、相手の右足の足首だ。

 ローキックよりも低い軌道、相手を転倒させるための技、回風かいふうである。


 左ミドルを放とうとしていたために、石狩エマの体重は完全に右足に乗っていた。その右足を、レオナは真横からなぎ払うことができた。


 石狩エマの身体が、ぐらりと傾く。

 しかし、足払いで倒しても、キックボクシングにおいてはポイントにならない。また、時間切れは引き分けというルールであるのだから、そもそもポイントを取り合う意味がない。


 よってレオナは、左の回風を放つと同時に右フックのモーションに入っていた。

 身体を前側に倒しながら、回転力と体重の両方を右拳に集中させた、大きく振りかぶるオーバーフック。羽柴塾では虎爪こそうと呼ばれる、渾身の一撃であった。


 時間的に、これが最後の一撃だ。

 まともに入ればレオナの勝ちだし、かわされたら引き分けだろう。


 そのように考えたとき、静電気のような感覚が背筋を走っていった。

 レオナの五感が、何か危険信号を送ってきている。


 スローモーションのように感じられる世界で、何かが顔の下側から迫ってきていた。

 青いグローブに包まれた、石狩エマの右拳だ。

 軸足を払われて、大きくバランスを崩しながら、石狩エマがアッパーカットを狙ってきているのだった。


 恐怖にも似た感覚が、レオナの全身に駆け巡っていく。

 大きく振りかぶったレオナの右フックより、もともと前側にあった石狩エマの右アッパーのほうが、標的に近い。

 もうコンマ何秒かで、その拳はレオナの下顎を撃ち抜いていくことだろう。


 レオナは全身全霊で、首を左側によじっていた。

 ぎゅ、と何か鈍い音色が聞こえたような気がした。

 それは、石狩エマのグローブがレオナのヘッドガードに触れる音色であった。


 ヘッドガードの左頬の部分に、石狩エマの右拳が触れている。

 なんとかその軌道上から下顎をそらすことに成功できたのだ。

 そのまま石狩エマの右拳は、レオナのヘッドガードをぎゅぎゅぎゅと擦りながら上方に駆け抜けていった。


 合皮の生地が擦れあって、瞬間的に焦げるような臭いを発したような気がした。

 ここまで時間の経過を遅く感じ、そして、ここまで物事の細部を知覚できたのは初めてのことだっただろう。それぐらい、レオナの意識は限界まで研ぎすまされていたのだった。


(本当に大した女だよ、あんたは)


 レオナは、右の拳を石狩エマの横っ面に叩きつけた。

 右アッパーをかわすために首を動かしたので軸がぶれてしまっていたが、そんなことはかまいもしなかった。


 拳に、衝撃が爆発する。

 それと同時に、手首と肘と肩におかしな痛みが跳ね上がった。

 体勢が崩れたので、あちこちから力が逃げてしまっているのだ。

 最善どころか、最低の一撃であった。

 しかし、今この瞬間におけるレオナにとっては、この最低な一撃が最善の一撃なのだった。

 あちこちの関節がぴしぴしと軋む音色を聞きながら、レオナは右腕をおもいきり振り抜いた。


 石狩エマは右肩からマットに墜落し、大きくバウンドしてから、横にごろごろと転がった。

 そしてレオナもまた、踏ん張りがきかずに半回転して、背中からマットに倒れ込んでしまった。


 右腕全体が、ぴりぴりと痺れている。

 幸い、骨が外れたり靭帯がちぎれたりはしていないようだった。

 天井を見上げて大きく息をついてから、レオナはゆっくりと身を起こす。

 石狩エマは腹ばいでうずくまったまま、「うー」とうめいていた。


(これでも意識を失わないって、耐久力も化け物レベルだな)


 レオナは座り込んだまま、黒田会長の顔を見上げる。

 黒田会長は、図太い両腕を頭の上でぶんぶんと振っていた。


「二回のダウン先取で、九条さんのKO勝ちだ! おーい、誰か彼女を介抱してくれえ」


 それでようやく我に返ったらしい『横須賀クルーザー・ジム』の面々がリングになだれ込んできた。


「ちょっとエマちゃん、大丈夫!?」


「マウスピースを出して! 意識はあるよね? 死んでないよね?」


「うっせーなー! これぐらいで死んでたまっかよ!」


 石狩エマも身を起こしたが、そのまま飛川にへなへなともたれかかってしまう。


「くっそー、負けちまったー! 最後のアッパー、決まったと思ったのに!」


 意識を失うどころか、大したダメージも負っていないようだ。

 その間に、こちら陣営のジム生たちもリングへと這いあがってきた。


「九条さん、お疲れさま! いやー、ものすごいフィニッシュブローだったねー」


「九条さん、お怪我はないのですか? ああ、こんなに内出血が!」


 柚子は歓喜の表情で、亜森は半分泣きべそだ。

 レオナは何か返事をしようと思ったが、呼吸が苦しくてそれもかなわなかった。自分がぜいぜいと荒い息をついていることに、レオナはそれで初めて気づくことができた。


 しかたないので、レオナは何とか微笑んでみせた。

 柚子はいっそう嬉しそうに笑い、亜森はついにぽろぽろと涙を流してしまう。


 そんな彼女たちの肩ごしに、他のみんなの姿も見えた。

 さらにその向こうには、石狩エマたちの姿も見えた。

 ヘッドガードを外された石狩エマは、飛川の肩に顔をうずめて、泣いてしまっているようだった。

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