02 再戦
『シングダム』のロゴが入ったTシャツと練習用のハーフパンツに着替え、ウォーミングアップを済ませたレオナは、防具一式を身につけていざリングの上へと足を進めた。
頭を守るヘッドガード、膝蹴りの威力を緩和させるニーパット、蹴り技の威力を緩和させるシンガードの三点セットで、ボクシンググローブは前回と同様の十二オンス。マウスピースもかぷりとくわえて、準備は万端だ。
「ルールもなるべく前回と同じものに合わせたいと思う。さっきトラに確認したけど、三分二ラウンドの10カウント制、一つのラウンドに二回のダウンでKO負け。判定はなしで時間切れの場合は引き分け。禁止事項は肘打ち、バックハンドブロー、顔面への膝蹴り、で間違いないかな?」
「はい、それで合っていると思います」
レオナの返答に、レフェリー役をつとめる黒田会長は「ふむ」と髭だらけの丸っこい顔を撫でさする。
「うちのジムでは、バックハンドブローも認めてるんだよな。二人はどちらがやりやすいかね?」
「私はどちらでも」
「縛りは少ないほうが助かるね」
「それじゃあバックハンドブローも解禁ってことにしよう。ただし、それで肘が当たったら反則になるので、その点は気をつけて」
レオナと同じ装備に身を固めた石狩エマは、早くも闘犬のごとき闘志をみなぎらせている。その姿を見下ろしながら、黒田会長はやっぱり大らかに微笑んでいた。
「反則については、公式試合と同じレベルで厳しく取るからね。悪質な反則は即時で失格にするから、そのつもりで」
「わかってるよ。クリンチや首相撲がOKなら、ウチはそんなに問題ないさ」
「それじゃあコーナーに戻って。あ、インターバルの間、リングに上がれるのは、二人のセコンドだけだからね?」
「はい」とリング下から『横須賀クルーザー・ジム』の面々が声を返してくる。そちらのセコンドはキックの選手である桐ヶ谷あかねと沼上宏太、こちらは晴香と乃々美であった。タイムキーパーは、景虎だ。
「九条。まさかあんた、負けたほうが面倒が少なそうだとか考えてないだろうね?」
と、まだコーナーポストの後ろに居残っていた乃々美がひそひそと耳打ちしてくる。そちらに向かって、レオナは「まさか」と首を振ってみせた。
「手心を加えたりしたらいっそう彼女は面倒なことを言いだしそうですし、そもそもわざと負けるなんていう器用な真似は、私にはできそうにありません」
「だったらいいけどさ。あんたが負けたりしたら、ほんとに伊達がしゃしゃりでてきそうだから、きっちり決着をつけてきな」
長い髪をポニーテールにした乃々美は、ぴしゃんとレオナの背中を叩いてからリングを降りていった。
セコンドならぬ柚子や亜森たちは、レオナから見て左手側に、『横須賀クルーザー・ジム』の面々は右手側に陣取って、リングの上を見守っている。他のみんなは私服姿のままで、自分だけが試合を行うという、これは何とも奇妙な感覚であった。
「では、始めるよ。……ファイト!」
黒田会長が、右腕を振り下ろす。
それと同時に、レオナは前回と同じ構えを取った。
身体の右側面を相手に向けた、左構えの乱戦の型だ。右の腕はだらりと下げて、左の拳は腰に溜める。足は肩幅、腰をやや落とし、膝にはクッションをきかせてリズムを取る。
いっぽうの石狩エマは、何やら前回と様相が違っていた。
左の手足を奥にしたサウスポーのスタイルはそのままであるが、グローブをつけた両拳を顔の前まで上げ、かなり上体を起こしている。いわゆるアップライトという構え方である。
レオナもそんなには体勢を低くしていないし、もとより身長も同じぐらいなので、頭の高さもほぼ同じぐらいだ。小刻みにステップを踏む様子はないが、頭はゆらゆらと動かしている。
(さすがに前回の猪突猛進は反省したってわけか)
それでもフットワークを多用してこないなら、あまり危機感はかきたてられない。上体を起こしている分、胴体は狙いやすいように思えるし、とにかく的が大きいのはレオナにとってありがたかった。
(こっちは直線的な攻撃が多いから、左右にステップを踏まれるのが一番厄介だしな)
そのように思いながら、レオナは意識を集中させた。
また短時間で試合が終わってしまったら石狩エマを怒らせることになってしまうかもしれないが、手を抜くつもりはないし、また、手を抜けるような相手でもない。彼女は、完全に入ったと思われた最善の一手をぎりぎりのところで回避できるような身体能力を有しているのだ。下手に試合を長引かせれば、マットに沈むのはレオナのほうであろう。
(この前の試合は左の
相手との距離をはかる過程で、レオナは右構えにスイッチしてみせた。
石狩エマもまた、前後に少しずつ足を動かしつつ、慎重に間合いをはかっている様子である。
(踏み込みのスピード自体は、伊達さんや服部選手とも大差ないんだ。油断しないで、初撃に集中する)
撒き餌をする感覚で、レオナは軽く左足を踏み込んだ。
が、石狩エマはすかさず後方に引き下がってしまう。
予想以上に慎重な対応である。
彼女もまた、相手に先に手を出させて、後手の先を取ろうとしているのだろうか。
(だったら牽制の前蹴りでも出して、相手の動きを誘ってみるか)
レオナがそのように考えたとき、石狩エマがぐいっと踏み込んできた。
一息で、おたがいの間合いの内である。
レオナは最大限に意識を研ぎ澄まし、左足で前蹴りを放った。
狙うはみぞおち、急所の水月だ。
レオナも十分に備えていたので、精度は申し分ない。
前回は奥足からの逆軍鶏であったが、今回は前足からの軍鶏なので、タイミングも異なっている。腰が入らない分、威力は若干落ちてしまうが、その代わりにクリーンヒットを狙える公算は高かった。
しかし───レオナの蹴りは、空を切ってしまった。
当たると思った最善の一手が、今度は完全に回避されてしまったのだ。
極限まで研ぎ澄ました意識の中、レオナは石狩エマの背中を見た。
前に踏み出した右足を支点にして、石狩エマは横回転していた。
かつての試合の中で服部選手も見せたことのある動き、バックハンドブローである。
横回転しながら、のばした左腕をレオナに繰り出してきている。
レオナの腕は、下がったままだった。
服部選手のバックハンドブローも、レオナは後方にのけぞって回避したのだ。
同じ動きで身体を倒しながら、レオナは(しくじった───)と内心で叫んでいた。
それと同時に、痛烈な衝撃が左のこめかみに走り抜けていった。
射程距離に関しては、服部選手と大差はない。しかし、石狩エマはスピードと精度とタイミングにおいて、服部選手を上回っていた。
服部選手は乱戦のさなかにあの攻撃を放っていたが、これは狙いすました一撃であったのだ。
気づくと、二度目の衝撃がレオナを襲っていた。
今度の衝撃は、背中と後頭部であった。
知らず内、レオナは背中からマットに倒れ込んでしまっていたのだった。
「ダウン!」
黒田会長の声が遠くに聞こえた。
攻撃をくらってからマットに倒れるまでの記憶がない。ほんの数瞬とはいえ、意識を飛ばされてしまったのだろう。
とっさに首をひねって衝撃を逃がしたつもりであったが、目の奥に火花が散っていた。
レオナは大きく息をついてから、マットに手をついて上体を起こした。
カウントは、フォーまで進んでいる。
レオナは軽く首を動かし、視界が揺れないことを確認してから、ゆっくりと立ち上がった。
カウントは、セブンで止まった。
「やれるか?」と黒田会長がグローブをつかんでくる。
レオナはうなずき、拳に力を入れてみせた。
黒田会長はレオナの瞳を覗き込んでから、手を離して引き下がった。
「ファイト!」
いつの間にやらニュートラルコーナーまで下がっていた石狩エマは、猛々しく笑いながら進み出てくる。
「そーそー、これぐらいでストップはかからねーよな。うちのジムは、ストップが早すぎんだよ」
視界ははっきりしているし、石狩エマのふてぶてしい声もよく聞こえる。
ダメージがないわけではなかったが、限りなくフラッシュダウンに近かったのだろう。身体の隅々にまで意識を巡らせてみても、とりたてて異常は感じられなかった。
(でも、キックやらMMAやらで意識が飛んだのは初めてだ)
グローブが重ければ重いほど、脳震盪を起こす危険は増すのだと景虎や黒田会長は言っていた。それでもレオナはスパーでも試合でも一度として意識を失ったことはなかった。というか、これまでの荒くれた人生の中でも意識を失うほどの攻撃をくらったことなど二、三回しかなかったし、その相手はすべて父親や兄たちだった。
(やっぱりこいつは、他の連中と何か違うんだ)
乱戦の型を右構えで取りながら、レオナはそのように考えた。
しかし、何が違うというのだろう。
筋力などは、どうあがいたって男性のほうが強いはずだ。
キックボクシングのテクニックは乃々美のほうが上であろうし、伊達と比べたってそこまで差があるとは思えない。むしろ、伊達や服部選手などには満足な最善の一手を打ち込むこともかなわなかったのだ。
だけどこの石狩エマは、こちらが十全の態勢で最善の一手を打ち込めるようなスキがある。フットワークを使おうとしないし、的も大きいので、やりづらさなどはまったく感じない。
しかし、そうであるにも拘わらず、最善の一手が決まらないのだ。
それは筋力的な身体能力ではなく、むしろ、集中力だとか反射神経に由来するものであるように思えた。
つまり、精度とタイミングだ。
レオナが完璧な精度とタイミングで繰り出した攻撃を、彼女はその上をいく精度とタイミングで回避した。レオナには、そうとしか考えられなかった。
(いくら出せる技に制限があるからって、そんなことが可能なのか?)
これが路上の格闘であれば、レオナは相手の足もとを狙うことができる。軌道が小さいその攻撃を見切るのはなおさら難しいはずであるし、たとえクリーンヒットできなくても、次の攻撃につなげることは可能だ。そういう意味で、石狩エマが父親や兄と互角以上の技量を持っている、とまでは思えなかった。
しかし、たとえキックボクシングという限定されたルールにおいてでも、レオナの攻撃を完全に見切って、後の先を取れる集中力や反射神経を有している、というのならば───この石狩エマは、潜在的にレオナよりも能力が高い、ということにならないだろうか?
悪寒のようなものが、ぞくぞくと背筋を走り抜けていく。
レオナは、はっきりと戦慄させられていた。
(そんなやつは、今まで親父や
石狩エマが、じりじりと近づいてくる。
グローブの隙間から見えるのは、火のように燃える青い瞳だ。
その瞳を真っ直ぐに見返しつつ、レオナは手が出せなくなってしまっていた。
前蹴りは、危険だ。
横蹴りや掛け蹴りで距離を取るか、あるいはフリッカージャブで牽制するか───
(それでも、後の先を取られるかもしれない)
ならば、こちらが動き回って、相手の挙動の隙をつくか。
レオナがそのように考えたとき、石狩エマがまた大きく踏み込んできた。
奥の左足を踏み込んでの、右のミドルキックだ。
力強くもシャープな蹴りが、レオナに襲いかかってくる。
レオナはとっさに左腕を固め、脇腹を守りつつ、その衝撃に耐えた。
すかさず、左のストレートが顔面を追ってくる。
下がる余裕はなかったので、とっさに首を振ってその攻撃を回避した。
すると、驚くほど相手との距離が詰まっていた。
ストレートを放った石狩エマの左腕が、そのままレオナの肩をつかんでくる。
これは首相撲やクリンチが許されるルールである。
レオナは相手の首を抱え込もうとしたが、そこでも遅れを取ってしまった。
相手の右腕が内側から潜り込んできて、レオナの首の裏に回されてくる。
左の膝が、ななめ下から飛んできた。
右脇腹のレバーを狙おうという攻撃だ。
レオナは腕を下ろし、右の前腕でその攻撃をガードした。
電撃のようなものが肘の近くに走り抜けた。
なおかつ、首を引かれて体勢を崩されてしまう。
完全に後手に回されていた。
レオナがわずかに心を乱した隙に、たたみかけられてしまっている。
今度は真下から左膝が迫ってきた。
右胸の下、肋骨の一番下のあたりを鋭角にえぐられた。
レオナは、相手の胴体を抱きすくめる。
首相撲の技術においても、この娘に勝てる気はしなかった。
「ブレイク!」
MMAとは異なり、クリンチで膠着状態になってしまったら、すぐに引き離されてしまう。
レオナは後方にステップを踏み、ほうほうの体で距離を取った。
「九条! 半分だよ!」
そこに乃々美の声が響き渡る。
半分───まだ一分半しか経過していないのか。
それほど動いた覚えはないのに、レオナはすでに息が切れてしまっている。何だか悪い夢でも見ているかのようだった。
(慌てるな。とにかくこっちが後の先を取るんだ)
石狩エマは真っ直ぐ接近してくるので、レオナは自分の左手側にステップを踏む。
すると、石狩エマはまた軸足を切り替えて、右のミドルを繰り出してきた。
間合いが遠かったので当たりは浅かったが、左腕の同じ場所に攻撃をくらってしまう。
ただでさえグローブで拳が重いのに、このままでは一発のパンチを放つことなく、腕が上がらなくなってしまいそうであった。
しかも、そんな風に右ミドルを蹴られると、相手のアウトサイドに回り込むこともできなくなってしまう。
(そういえば、こいつは全然ジャブを出してこないな)
ジャブも出さずに、どうしてここまで正確に距離をはかれるのか。乃々美でも晴香でも伊達でも、まずはジャブで段取りを整えるのが普通であるのに、石狩エマは遠慮なく初撃からミドルキックを蹴ってくる。それがレオナには、たいそうやりづらいように感じられてしまった。
(くそっ! ジャブやフットワークを使われるほうが苦手だったはずなのに、どうしてここまで一方的にやられちまうんだ?)
乃々美や晴香のアドヴァイスも「足を使え!」というのがほとんどになっていた。
レオナなりに、足は使っているつもりである。しかしそれでも、石狩エマの動きに対応できないのだ。その膝小僧や下腹部に蹴りを叩き込むことができたらどんなに簡単かと、レオナはそんなことまで考えるほど追い詰められてしまっていた。
距離を取ろうと、前足でサイドキックを放ってみる。
しかし、石狩エマはバックステップでそれをかわし、また同じ位置にまで詰め寄ってくる。
左右にステップを踏まない代わりに、前後の動きは非常に俊敏な石狩エマであった。
(だったらこっちも連携技で───)
レオナはインサイドに回り込みつつ、同じ間合いでもう一度サイドキックを繰り出した。
その蹴り足でマットを踏み、腰に溜めた右拳で中段突きを狙う。
が、そのときにはもう左肩をつかまれていた。
再びの首相撲だ。
レオナはとっさに相手の胴体を抱きすくめる。
たちまち「ブレイク!」の声が響きわたった。
黒田会長の太い腕が、二人の身体を分けてくる。
「残り、四十五秒!」
レオナは左構えに戻し、可能な限り、こまかくステップを踏んだ。
とにかく今は、第一ラウンドを乗り切りたかった。
このラウンド中にもう一回のダウンをもらったら、それで試合は終わってしまうのだ。なおさら危険は犯せない場面であった。
「はん!」
レオナの弱気を見て取ったかのように、石狩エマがまた大きく踏み込んでくる。
ミドルキックだと思い、レオナは後方に引き下がった。
が、石狩エマはそのまま跳躍した。
跳躍し、左の飛び膝蹴りを叩き込んできたのだ。
レオナはとっさに腹部をガードした。
その右腕に、石狩エマの左膝がめり込んだ。
たまらず後方に吹っ飛ばされ、倒れかかったところをロープに救われる。
しかし、レオナが体勢を整えるより早く、石狩エマが左のミドルキックを叩き込んできた。
右腕の骨が、みしりと軋む。
このままでは、両腕を潰されてしまいそうであった。
「九条! 距離を取れないならガードを上げろ! そろそろハイも飛んでくるよ!」
歓声の向こうから、また乃々美が声をあげてくる。
気づけば、誰もが大きな声をあげていた。
(そんな付け焼刃のガードが通用する相手じゃない)
ならば、距離を取るしかないだろう。
レオナはほとんど走るような勢いで、相手のインサイドに回り込んだ。
そして、追撃をくらわぬ内に、後方へと逃げる。
「逃げるだけじゃあ、ウチには勝てないよ?」
威嚇するように、石狩エマが左ミドルを放ってきた。
距離が遠いので、これは当たらない。
レオナも同じ位置から、上段の掛け蹴りを放ってみせた。
羽柴塾の技、
これも遠いので、かすりもしない。
(最後に一発、勝負をかける)
その蹴り足を下ろしてから、レオナは再び意識を研ぎ済ました。
残り時間は五秒か十秒。石狩エマの動きに備える。
今度こそ、後の先を取るのだ。
それでこのラウンドを乗り切ってみせる。
(どんな攻撃が来てもそれをすかして、最善の一手を叩き込んでやる)
石狩エマは、同じリズムで踏み込んでくる。
速いが、単調なリズムだ。
まだ拳の届かない距離で、石狩エマの右足が緊張をはらむのを察知することができた。
(左の蹴りだ)
ハイなら、スウェーでかわす。
ミドルなら、右腕で受ける。
そののちに、左の拳か膝を叩き込む。
石狩エマの左足が、マットから離れた。
長い足が、するすると顔のほうまでのびてくる。
左のハイキックである。
妙にのろのろと感じられる世界の中で、レオナは首をのけぞらした。
自分ものろのろとしか動けないので、ひどく焦れったい。
だけどもう、その攻撃は回避できる、とレオナの神経が伝えてきていた。
(このタイミングなら、左の拳だ)
腰に溜めた左拳を、グローブの中でぎゅっと握り込む。
グローブの内側の生地とバンテージのこすれる感覚までもが伝わってくるようだった。
レオナの意識は、かつてないほどに研ぎ澄まされている。
(最短距離で、脇腹を叩く)
もはや、考えながら動いているのか、動いてから考えているのかも判然としない。ほとんど自動操縦のようなものであった。
石狩エマの左足が鼻先を走り抜けていく。
その足がマットへと戻っていく間に、レオナは後ろに倒していた上体を元の位置に戻した。
戻しながら、体重を右の前足にかける。
腰から肩、肘、手首へとひねりを加えていき、左の中段突きを放つ。
その途上で、石狩エマの姿が大きくなった。
石狩エマは、左ハイキックの挙動を終えるなり、前進してきたのだ。
(前進? なんで?)
このタイミングでは、もうレオナの中段突きもまともには当たらない。充分な威力を生み出すための距離を潰されてしまったからだ。
だけどそれは、石狩エマのほうも同様であるはずだった。
この距離とタイミングで打ち込めるのは───頭突きか、肘打ちぐらいのものである。
もちろん、今日のこのルールにおいてはどちらも反則技だ。
(まさか、反則を?)
石狩エマの顔が目前に迫ってくる。
もはや肘を打てるだけの隙間もない。
身長は同じぐらいなので、先に頭突きを繰り出したほうが、相手の鼻を叩き潰すことがかなうだろう。
一瞬の半分ほどの時間を悩み、レオナは自制した。
反則をするぐらいなら、反則を仕掛けられて負傷したほうがマシだ。
せめてダメージを軽減しようと、レオナは可能な範囲で顔を背けた。
すると、思わぬ衝撃が身体の前面部に伝わってきた。
それと同時に、奇妙な圧迫感に包まれる。
気づくとレオナは、マットの中央で石狩エマに抱きすくめられていた。
「ブレイク! そら、手を離して」
黒田会長の腕が、石狩エマの身体を引き剥がしていく。
何のことはない。彼女はクリンチしてきただけのことだった。
(いや、だけど、あのタイミングでこっちの挙動が読めたはずはない。それじゃあ、ハイキックを打ったらすぐにクリンチをするって決めてたのか)
石狩エマは「ふん」と鼻を鳴らしている。
そのとき、リング下から景虎がホイッスルを鳴らしてきた。
第一ラウンドが終了したのだ。
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