02 確執

「なるほど。試合に出場することが決まったので、遊佐さんはそのように浮かれているわけですか」


 翌日の食堂にて、そのような感想を述べたてたのは亜森であった。

 学園の、昼休みのさなかである。八名がけのテーブルには、レオナたち四名の姿しかない。こういう際は、学園内でもそれなりに内密の話にも取り組めるのだった。


「でも、五月の終わりとはずいぶん急なお話ですね。普通は最低でも二ヶ月ぐらい前には決まるものだというお話ではありませんでしたか?」


「うん! なんか色々とトラブルが重なって、予定してた試合がいくつも流れちゃったんだって。そうじゃなきゃ、アマの女子選手を二組も引っ張りだそうなんて事態にはならなかったんだろうねー」


 その体格に見合わない旺盛な食欲を満たしつつ、柚子は笑顔で応じている。


「九条さんがアリースィと試合をしたときも、代役出場だったんだよね。逆に言うと、そういう穴埋めでもない限り、普通はあたしたちなんかにお声がかかるもんではないんだよー」


「ええ。何せ私たちには、実績というものがほとんどありませんからね」


 すると、亜森の隣に陣取っていた咲田桜が「そうっすよねー」と声をあげた。


「でもやっぱ、覆面かぶったアマチュア選手なんて、他にはいないっすもんね! それだけインパクトのある選手だったら、プロの興行でお声がかかっても当然っすよ!」


「咲田さん、お声が大きいですよ。それに、口にものを入れたまま喋るのはマナー違反だと思われます」


「うへー、亜森先輩ってお母さんみたいっすねー」


「……咲田さんのお母様のご苦労が偲ばれます」


 咲田桜は、おおよそ一日置きの頻度でともに昼食をとるようになっていた。そんな生活がもう一週間ばかりも続いているので、亜森とのやり取りもだいぶん板についてきた感がある。


 柔術同好会の発足をあきらめた彼女は、けっきょく柔道部に入部することもなく、ごく平穏に学園での生活を送っているらしい。そうして放課後には『シングダム』に通うようになり、昼休みにはこうしてともに食事をとっている。上級生に囲まれながら、彼女にはまったく臆する様子もなかった。


 思えば、奇妙な縁である。

 しかしまた、第一印象は最悪であったものの、彼女がそれほど害悪な存在でないということはもう明かされていた。いささかならず直情的で、礼儀やマナーの面に関しては亜森から注意を受けることも多かったが、なかなか素直で憎めない人柄でもあるようなのである。それに、腐っても弁財学園の生徒と言うべきなのか、言動の端々には育ちの良さもうかがえるのだった。


「……咲田さんのご実家は、製造業の会社を経営されているのでしたっけ?」


 レオナが問うと、咲田桜は「そうっすよー」と気安く答えた。


「もともとは小さなネジ工場だったらしいんすけど、祖父の代から工業機械の製造がメインになったらしいっす。プレス機とかが必要なときはいつでもお声をかけてください」


「そのような機会はなかなか訪れないでしょうね」


「あはは。そうっすよねー。まあ、会社は弟が何とかしてくれるでしょうから、あたしは気楽なもんっすよー」


 亜森の父親は大きな製薬会社の役員であり、柚子の父親は───何だかよくわからない多角化企業の経営者で、しかも弁財女子学園の理事長までつとめている。世間的には、みんな良家の子女と言える立場であるのだろう。レオナの母親もいちおう雑貨商の経営者であるが、会社の規模などは比較のしようもないのであろうと思われた。


 もちろんレオナは母親の存在を誇りに思っているので、そんなところで引け目を感じたりはしていない。引け目を感じているのは、かつての自分の素行の悪さだ。一見はガサツで無遠慮な咲田桜でさえ、かつてのレオナと比べれば純真無垢のお嬢様と呼べるような存在であるはずだった。


「だけど、また試験期間と重なっているというのは心配ですね。九条さんは、大丈夫なのでしょうか?」


 と、亜森が心配げな眼差しを向けてくる。

 レオナとしては、「はい」とうなずいてみせるしかなかった。


「確かに苦労は増してしまいますが、去年にも同じような日程を体験していますので、何とか乗り越えられるかと思います」


「先月も、試験が終わってすぐに試合という日程でしたよね。不運な巡り合わせで、心中お察しいたします」


「でも、試験の直前とか試験の真っ最中じゃなかっただけ、まだマシなんじゃないっすかねー。九条先輩だったら、きっと大丈夫っすよー」


 そんな風に述べてから、咲田桜が身を乗り出してきた。


「それにしても、九条先輩が学年二位の成績ってのはびっくりしちゃいました! 文武両道で、お見事なもんっすねー」


「ああ、咲田さんの親御さんは、文武両道が信条なのだというお話でしたね」


「はい。あたしは柔道、弟は剣道を習わされてたんすよね。父親自身も、いちおう柔道の有段者でしたし。けっこう無茶な働き方をしてるから、身体が資本って考え方なんでしょうね」


 新顔で、なおかつ能動的な気性をしている咲田桜であるので、彼女が会話の中心になることは少なくなかった。だいぶん気心は知れてきたとはいえ、まだおたがいに不明な部分も多いのである。


「九条先輩と亜森先輩はそれだけ成績優秀なんすから、大学も選び放題っすよねー。もう志望校とかは決めてるんすか?」


「いえ。なるべく学費の負担が少ないように、としか考えていません」


「それじゃあ、国立っすか。まあ、九条先輩の成績だったら、どんな大学でもよりどりみどりっすもんねー」


「そんな簡単にいったら苦労はありません」


 何の気もなしにレオナがそう答えると、咲田桜はきょとんと目を丸くした。


「え、それじゃあもしかして、海外の大学でも狙ってるんすか?」


「どうしていきなりそうなるのですか? 話が飛躍しすぎです」


「だって、国内の大学なら、よりどりみどりでしょう? まあ、狙う学部によってはそう簡単にはいかないかもしれないっすけど」


 レオナは、眉をひそめることになった。

 咲田桜ばかりでなく、亜森や柚子もきょとんとした顔で自分を見つめていたからである。

 その中で、口いっぱいに頬張ったチキンステーキを呑みくだしてから、柚子が発言した。


「九条さんってさ、編入以来、学年二位をキープしてるでしょ? その成績だったら、確かにどんな大学でも選び放題だと思うよー?」


「ど、どんな大学と言っても、際限はあるでしょう?」


「ない! ……と思うんだけど、実際はどうなんだろう?」


 柚子が亜森に向きなおると、勤勉なるクラス委員長は生真面目な顔で「そうですね」と言葉を探した。


「確かに咲田さんの言う通り、学部しだいというのが正しい表現かもしれません。瑣末な例ですが、K大の医学部などであれば、この弁財女子学園でも数年に一人しか合格者は出ていないはずですから」


「でもきっと九条さんなら、K大でもT大でも合格できるよね?」


「学部を選ばなければ、いくらでも。T大の理Ⅲともなれば、さすがに難しいかもしれません」


 三人の表情を見る限り、どうもレオナをからかっているわけではないようだった。

 こらえかねたように、柚子はくすくすと笑い始める。


「ほんとにすごいなー、九条さんって! 格闘技とか料理とかでもそうだったけど、自分のすごさを自覚してないところが一番すごいよ」


「へー、九条先輩って料理もお上手なんすか?」


「うん、もうプロ級の腕前だね! お金を取れるレベル!」


「ほえー、神様ってのは不公平っすねー。いったいどれだけの才能に恵まれてるんすか、九条先輩は」


 すると、レオナの代わりに柚子が「そんなことないよ」と言ってくれた。


「九条さんはそれだけ頑張ってきたんだもん。九条さんと同じぐらいの努力をしてきた人じゃなきゃ、才能だとかいう言葉を使う資格はないと思うよ!」


「でも、こんなに美人なのは生まれついての才能っすよね?」


「ああ、うん、それは否定できないかな!」


「それじゃあやっぱり不公平っすよー。こんなに美人で何でもできて、おまけにちょっぴり天然気質とか、もう無敵じゃないっすかー」


「だ、誰が天然気質ですか。美人というのも心外です」


「ほら、言ったそばから天然発言してるし。まったく、かなわないっすねー」


 レオナは返す言葉も見つけられないまま、食べかけのポテトサラダをつつくしかなかった。

 その間に、咲田桜の照準は柚子のほうへと切り替えられる。


「その点、遊佐先輩は可愛さに全振りしてる感じっすよねー。九条先輩は完璧すぎて、ちょっと近寄り難い感じがするから、たぶん実際にモテるのは遊佐先輩みたいなタイプだと思うっすよー」


「何それー! 格闘技の才能がないって言いきられてる気分なんだけど! それが事実だとしても、ちょっとひどくない?」


 柚子は、ぷうっと頬をふくらませた。

 この一週間で、咲田桜ともこれぐらいは明け透けな会話ができるようになったのだ。


「あ、いえ、もちろん格闘技の腕前もお見事っすけどね。そういう意味じゃなくって、異性にモテそうなのは遊佐先輩のほうってことっすよ! 九条先輩は美人っすけど、そこらの男性より背が高いぐらいですもんね」


「咲田さん。あなたは今、全方向に喧嘩をお売りになっているという自覚をお持ちですか?」


「そ、そんなつもりはないっすよー! あれー、おかしいなあ」


「いいもん。あたしだって、来月の試合で結果を出してみせるから!」


 柚子はぷりぷりと怒りながら、ビーフシチューのジャガイモを頬張った。


「そりゃあ確かにあたしなんて、一戦一敗の超初心者だもんね。五月の試合で、一勝一敗のタイにしてみせるよーだ」


「そんなすねないでくださいよー。可愛いお顔が台無しっすよー?」


「可愛くなくていいもーん!」


「ああもう、まいったなー。先輩がた、何とかしてくださいよー」


「あなたは発言が軽率すぎるのです。たとえ悪気がなかったとしても、それでは反感を買ってしまうのが当然です」


 亜森はクールに咲田桜の懇願を一刀両断にした。

 レオナはそこに、追撃をしてみせる。


「柔術に関して言えば、遊佐さんは四勝一敗の戦績で、しかもガロ級の優勝と無差別級の準優勝を果たしているのですよ? しかもその過程では、体重で大きく上回るMMAのプロ選手をも下しています。二年足らずのキャリアでそこまでの結果を出した遊佐さんに、あなたは容姿にしか取り柄がないと言ってのけたことになりますね」


「そ、そんな理詰めで追い込まないでくださいよー! あたしはただ、遊佐先輩の愛くるしさを褒め称えようと思っただけなんすからー!」


「そんなことは周知の事実なのですから、ことさら口に出す必要はないと思います」


「九条さんまで、やめてよー。九条さんのほうが、絶対美人だから!」


「……あの、食事の際にはもう少し声を落とすべきでは?」


 亜森の仲裁が入り、ようやく場が静まった。

 確かに今のは、弁財女子学園の生徒として、いささかはしたなかったかもしれない。


 それでも柚子は「でもさー」と食い下がろうとした。

 その目がハッとしたように見開かれるのを見て、レオナは不審の念を覚えた。


 柚子の視線を追ってみても、とりたてておかしなものは見当たらない。

 ただ、一人の女子生徒がこちらに向かって近づいてくるのが確認できた。


「どうしたんすか?」と咲田桜が首をねじ曲げる。

 が、彼女は何事もなかったかのように、またレオナたちのほうを向いてきた。


「何もないじゃないっすか。遊佐先輩、幽霊でも見たようなお顔っすよ」


 その言葉に、今度は亜森が後方を振り返る。

 亜森はそのまま硬直し、レオナたちに後頭部を見せながら「遊佐先輩……」と低くつぶやいた。


「おひさしぶりですね、亜森さん。お元気そうで何よりです」


 ついにレオナたちのテーブルにまで到着した女子生徒が、鈴を転がすような声でそう言った。

 とてもなよやかでほっそりとした、いかにもお嬢様といった容姿の娘である。


 弁財女子学園の制服が、これ以上ないぐらいよく似合っている。艶やかな黒髪をかなり長めにのばしており、びっくりするぐらい色が白い。背丈は人並みであるが、乱暴に扱ったらすぐに壊れてしまいそうなぐらい華奢な体格をしており、それでいて均整は取れている。何となく、人形じみた美しさを持つ娘であるようだった。


「お、おひさしぶりです、遊佐先輩。食堂でお会いになるのは、珍しいですね」


「ええ。わたしは普段、屋上の庭園か教室で食事をとっていますので」


 すると咲田桜が、「ああ!」と手を打った。


「誰かと思ったら、遊佐先輩っすか! あー、ご姉妹がそろっちゃうと、ちょっとややこしいっすね!」


「……あなたもどこかでお会いしたでしょうか?」


「あ、いえ! あたしが一方的に知ってるだけっすよ! 中等部の頃、遊佐先輩は生徒会長でしたもんね」


 咲田桜は、にこにこと笑っていた。

「柚子は家族仲に問題がある」としか聞かされていないのだから、これが当然の反応なのだろう。


 しかしレオナは、平静を保つことが難しかった。

 この数ヶ月、まったく存在を感じさせなかった柚子の姉が突如として姿を現したのだ。これで驚かないわけにはいかなかった。


 見れば見るほど、似ていない。共通点は、色の白さぐらいであろう。どちらも容姿には恵まれているが、それは取りすましたシャム猫と野原を駆けるウサギぐらいかけ離れた雰囲気であった。


 レオナは無表情を保ったまま、こっそり柚子のほうを盗み見る。

 柚子は、感情の欠落した面持ちで姉と相対していた。

 何というか、魂の抜けてしまったような虚ろさである。柚子のそんな表情はこれまでに見たことがなかったので、レオナはいっそうの焦燥感をつのらせることになってしまった。


(何だよ、この人は何のためにわざわざ近づいてきたんだ?)


 柚子の半分だけ血の繋がった兄や姉たちは、柚子のことを毛嫌いしているのだと聞いていた。だからこそ、柚子は家でも離れに引きこもり、孤独な毎日を送っているのである。

 家庭の事情に首を突っ込むつもりはないが、レオナは柚子の家族たちに反感以外の感情を持ち合わせていなかった。よって、かなうことなら一生顔をあわせたくないぐらいの気持ちでいたのだった。


 そんなレオナの心情も知らぬげに、柚子の姉───遊佐文香は、ゆったりと微笑んでいる。

 その目は亜森や咲田桜に向けられたまま、いっさい柚子を見ようとはしなかった。


「実は、亜森さんにお話があったのですけれど」


「は、はい、何でしょうか?」


「急な話で恐縮なのですが……亜森さんに、生徒会の書記をつとめていただくことはできませんか?」


 いつも以上に背筋を真っ直ぐにのばした亜森は、「え?」と困惑したように目を細めた。


「わたしが、生徒会の書記を? ……でも、生徒会の選挙は三月に行われて、すでに各役員も決定されていますよね? 遊佐先輩が立候補されなかったので、わたしはとても驚かされたのですが……」


「はい。高等部では学業に専念しようと思い、あえて立候補はしなかったのです。でも、生徒会長に選ばれた方が突然体調を崩されて、長期入院することになってしまったのです。それで、急遽わたしが代役を果たすことになってしまったのですよ」


「さ、再選挙ではなく、代役ですか?」


「はい。校長先生からじきじきに頼まれてしまったので……それでは、無下にお断りすることもできないでしょう?」


 遊佐文香は、にこりと微笑んだ。

 虫も殺さないような、可憐な笑顔だ。

 こんな穏やかな人間が、半分とはいえ血の繋がった妹を毛嫌いしたりするのだろうか、と疑わしくなるようなたたずまいであった。


「で、ですが、入院されたのは生徒会長であった御方なのですよね? それでしたら、わたしが割り込む隙などないのではないでしょうか?」


「ええ。ですが、書記の方も本当は学業に専念されたかったらしくて……できることなら、他の方にその座をお譲りになりたいと仰っているのです」


「そうですか……」


 亜森は、軽く唇を噛んでうつむいてしまった。

 それを見下ろしながら、遊佐文香はまだ優美に微笑んでいる。


「中等部の頃も、わたしが生徒会長で亜森さんが書記だったでしょう? ですからわたしも、まずは亜森さんにお声をかけさせていただこうと思いたったのです。亜森さんほどその役に相応しいお人はいないと思います。……そして来年は、ぜひ亜森さんに生徒会長を担っていただきたいと考えています」


「いえ、わたしはそんな……あ、ありがとうございます」


 亜森は、明らかに動揺していた。

 亜森はむしろ、彼女に好意を抱いていたはずだ。そのせいで、遊佐家の名を貶める柚子に対して普通以上の反感を抱くことになってしまったのである。


 しかし亜森は、つい先月に柚子から遊佐家の裏事情を聞いてしまっていた。父親の不貞を怒った遊佐文香たちが、その激情を父親ではなく柚子に向けて、救いのない冷戦状態に陥ってしまったことを知らされていたのだ。なまじ遊佐文香と面識があった分、亜森はきわめて複雑な気持ちを抱くことになったはずであった。


「いかがでしょう? 来年以降のことは置いておくとして、今期の生徒会にお力を貸してくださったら、とてもありがたいのですが……」


 亜森は黒縁眼鏡の向こうでまぶたを閉ざし、考え込んだ。

 それから、やがて決然とした口調で「いえ……」と言った。


「申し訳ありませんが、わたしも茶道部の副部長となってしまったので、生徒会との両立は難しいと思います。お力になれず、申し訳ありません」


 遊佐文香は、悠揚せまらず「そうですか……」とさらに微笑んだ。


「それでしたら、しかたありませんね。でも、部長ではなく副部長なのですか? そちらのほうが不思議に思えてしまいます」


「はい。わたしよりも部長に相応しい方がいらっしゃいましたので」


「そうですか。亜森さんより部長に相応しい方など、なかなかわたしには想像ができません」


 そうして遊佐文香は、空気も乱さぬ静けさで小さく頭を下げた。


「突然無理なお願いをしてしまって申し訳ありませんでした。どうかお気になさらないでくださいね」


「い、いえ、とんでもありません。こちらこそ、お力になれず申し訳ありませんでした」


 亜森も席を立ち、遊佐文香に向かって深々と頭を下げた。

 その姿を見守ってから、遊佐文香は一歩後ずさる。


「それでは、お食事のお邪魔をしてしまって申し訳ありませんでした。他の方々も、どうぞお食事をお続けください」


「いえいえ、とんでもないっすよー」


 咲田桜は無邪気げに、座ったまま頭を下げている。

 しかたなしに、レオナも会釈しておくことにした。


 そうして、遊佐文香はきびすを返そうとして───その途中で、ぴたりと足を止めた。


「ああ、そうだ……柚子さん、ちょっとお話があるのですけれど、いま大丈夫でしょうか?」


「はい」と柚子は感情を覗かせない声で応じた。

 テーブルには、まだ食べかけのランチが三割ほど残されている。


「ごめんなさいね。そんなに長くはかからないと思うから……皆さん、柚子さんを少しだけお借りしますね」


「はいはい。食べかけのお皿はあたしたちが見張ってますから、ご心配なくー」


 柚子は、音もなく立ち上がった。

 その顔には、やはりいかなる表情も浮かんでいない。

 レオナはどうしても辛抱ができず、遊佐文香には見えない角度で柚子のスカートの端をつかんでしまった。

 柚子は、ちらりとレオナを見て───それから、目もとだけで微笑んだ。

 それはとても弱々しい笑い方だったが、レオナの知っている柚子の表情だった。


 レオナはそれで何とか自分を納得させて、柚子のスカートから手を離した。

 柚子は普段よりも小さな歩幅で、姉とともに食堂から立ち去っていった。


「なーんか妙な雰囲気っすねー。仲が悪いとは聞いてましたけど、ずいぶんよそよそしくないっすか?」


「……ええ、そうですね」


「それに、やっぱり全然似てないっすよね! あんなに似てない姉妹も珍しくないっすか? 顔立ちだけじゃなくて、雰囲気からして似てないんすもん」


 それは別々に暮らしているのだから、雰囲気が似ることもないのだろう。人間というのは環境で変化するものだとレオナは思っていたし、また、それを自らの生活で体感してもいた。


(家ですら顔をあわせたくないとか言ってたはずなのに、どうして学校で近づいてくるんだよ。そんなの、おたがいに嫌な気分になるだけなんじゃないのか?)


 苦手な姉から遠ざかれば、柚子もまたいつもの明るさを取り戻すだろうか。

 いや、取り戻してもらわなくては困る。気分がふさいでいるようだったら、亜森と二人がかりで何としてでも笑顔を作らせてやるつもりだった。


 が───そんなレオナの思いもむなしく、柚子が食堂に戻ってくることはなかった。

 それどころか、柚子は放課後になっても姿を現さず、レオナはひさかたぶりに一人で『シングダム』に向かうことになってしまったのだった。

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