第74話 桔梗
僕達は日記の頁を捲った。
世界の謎を知る為、母の人生を知る為に。
「私はデータを信じている。だからこそ、たった一つのボタンで全てが消えてしまうことも知っている。この手書きの日記が、私の日常を遺してくれますように」
母さんの日記は、そんな書き出しから始まっていた。
「これが、母さんの過去……」
僕はおそるおそる、次のページを読み進めた。
日記には、真人から聞いた、真人の母親が死んだ日の出来事が綴られていた。
この日記は、きっとこの
丁寧な文字で記された不穏な文字列に、僕の心臓がどくんと脈打った。
『愛する子を授かって、愛する友人を失って、愛する人を終わらせる』
――これが、
*
息を引き取る桜を、突然愛する人を失ってしまった真司を、
(もうすぐ……真司さんは、桜ちゃんのことを忘れてしまう。私は、どうすればいいの? 桜ちゃん……忘れられても、忘れられなくても、生きていくのが辛すぎるわ)
返ってくることはないとわかっていながらも、桔梗は心の中でこれから消えていく桜へと告げた。
「桔梗さん……!」
真司の声にびくりと肩を震わせて、桔梗は子供のように怯える。
自分がこれから言われるであろう罵詈雑言を、覚悟していたのだろう。
「桜を……、桜を……、少しの間、頼みます……!」
「どういう、こと……」
「こんな、冷たい所に……寝かせるわけにはいかないでしょう……!」
半ば無理矢理、桔梗に桜の身体を押し付けて、抱き抱えさせると、真司は近くの電灯の下へ走っていって何かに取り憑かれるかのように手帳を取りだして書き始めた。
「それって、日記……なの……?」
真司から返事は返ってこない。
いつ、桜のことを忘れてしまうのかわからないこの状況で、一心不乱に書き殴っている。
(今の出来事を忘れてしまっても、知っていられるように。真司さんは桜ちゃんとの約束を守る為に、記憶も感情も、心さえも……この小さな手帳の中に残そうとしているのね)
それならば、と桔梗は拳を握りしめた。
記憶を失うことの無い桔梗がこの状況でしなければいけない事は一つだ。
この辛い状況から目を逸らさないで、この光景を、この感情を、余すこと無く記憶することだ。
全てを忘れてしまった真司さんに何を言われたとしても、全てを受け止めて……全てを話す為に。
どれくらいの時間が過ぎたのだろう。
はた、と真司の動きが止まった。
「真司、さん…………?」
真司はゆっくりと桔梗の方を振り返ると、抱えられて息絶えている桜のことをじっと見つめた。
その手には、しっかりと手帳が握られている。
「桔梗、さん……? なんで、こんな時間にこんなところに……? 今日は会う予定はなくて……」
混乱する記憶を整理しようと、真司が思いついたことを口々に言葉へ変えた。
「あぁ、そうだ。真人が五歳になって、結構話せるようになったんですけど……恭哉君に会ってみたいって言っていて……それで……会うのは来週で……それで俺はその日に仕事だから……だから? 誰が、真人を連れていくんだ……?」
真司の様子に、桔梗は思わずぱしん、と口に手を当てた。嗚咽が……涙が溢れ出してしまいそうだった。
どうして、こんなに辛い事に気付かなかったのか。
けれど、愛する人を忘れていく人を、この目で見た事がなかったのだ。
忘れたくないと抗いながらも忘れていく人を……どうか忘れて欲しくないと思いながら、こんな気持ちで見ていたことはなかった。
優しい世界を創ったつもりだった。
誰も苦しまない世界を創ったつもりだった。
けれど、実際は忘れられる人も、忘れてしまう人も、誰もが苦しんでいる。
いつの間に、こんなに残酷な世界に変わってしまっていたのだろう。
「真司さん……。私、決めたわ。私が哉斗を止めないと」
「哉斗、さんを……」
冷たくなってしまった桜の亡骸を、そっとベンチに横たわらせた。
本当は眠っているだけなのではないか。
そう思わせるほど、まだ生きていた時のままの桜の姿を月明かりが照らしている。
「俺はこの人の事を知らない……。俺は、真人の母親が誰だったのかわからない。……心に穴が空いたみたいに、ぽっかりと無くなっているんです」
横たわる桜を見下ろしながら、真司がぽつりと呟いた。
「彼女は……俺が、愛した人……なんですね……」
切なげな、けれどどこまでも穏やかな真司の声に、ぎゅっと胸が締め付けられた。
「……そうよ」
「彼女の、名前は……?」
「……桜よ」
「……桜。優しそうな彼女に似合っている名前ですね」
「……そうね」
どうしても他人事のように桜の話をする真司に、自分が泣く資格はないと思いながらも、涙を堪えて平静を装うので精一杯だった。
「素敵な、人だったんですよね……」
「素敵な人よ……。優しくてあたたかくて、周りを笑顔にしてくれるお花みたいな人」
「……綺麗、ですね。まるで、眠っているみたいだ。……これで、死んでいるんですね」
「……埋葬は、私がするわ」
「いえ……。俺にさせて下さい。そうしなければいけないんです。だって……俺、覚えてないのに……名前も呼べないのに……口を開いたら何かが溢れ出しそうなくらい……ずっと胸が、痛いんです……」
眉間に皺を寄せて、真司が縋るような瞳で桜を見下ろした。
「泣きたくなるほど苦しいのに、涙は出るのに……言葉が出てこないんです。……俺の感覚がこの人のことを覚えているのに、言葉になる前に……消えてしまうんです……っ」
やり切れない想いをどうしていいのかわからずに、だん、と真司がベンチの隅を叩いた。
「俺は、彼女をなんて呼んでいたんですか……?」
「桜、って……呼んでいたの」
「桜……。桜……! ……桜、ごめん。忘れてしまって……本当に、ごめん……っ」
桜が最期に流した涙を、真司がそっと指で掬いとる。
空気の澄んだ、月の綺麗な夜だった。
「今日は、一度帰りますね……。真人が家に一人なので……早く帰らないと。桔梗さんは……これから、どうするんですか? 恭哉君も、あの家にいるのに」
「私の事なら心配しないで。……って、心配なんて……してないわよね」
そう言って桔梗が自嘲気味に笑うと、その気持ちを察した真司が穏やかに諭す。
「桔梗さん。俺に恨まれてるって怯えてるのかもしれないですけど……そんな寂しいこと言わないで下さいよ。……こんなことになってしまって、罪悪感があるのは分かります。だけど、これは桔梗さんのせいじゃない」
「けれど……! 私に出会わなければ、桜ちゃんは死ななかったわ! 全部、私のせいよ……」
「桔梗さんに出会っていなければ、俺と出会う事もなかったはずです。そうしたら、真人も存在していなかった」
そんな問題でないことは桔梗だってわかっていた。それでも、全てが自分のせいであるように感じたし、吐き出してしまった言葉が戻ることは無い。
自暴自棄ともとれる桔梗の腕を掴むと、真司は真っ直ぐ桔梗の目を見つめて言った。
「俺も、貴方も、この
「真司さん……」
「哉斗さんのことは、きっと恨むことになるでしょう。でも、桔梗さんと哉斗さんは夫婦であっても別人だ。俺には貴方を恨む理由がない」
「でも……私は……!」
(まだ、哉斗の事を……愛しているのに……)
裏切り者のような気持ちでは、桜と真司のことを真っ直ぐに見つめることは出来ない。
「……大丈夫です。俺が恨む相手が、貴方の愛する人だった。それだけです。……おばあちゃん、なんでしょう? ……しっかりして下さいよ」
真司の優しさが今の桔梗には辛く、ただ、笑い返すことしか出来なかった。
「そうね。おばあちゃんなんだもの……。ずっと年下に甘えていちゃ駄目だわ」
桔梗は目尻に滲んでいた涙を拭うと、震える掌を握りしめた。
「私は家に帰って恭哉を連れ出すわ。きっと、今帰っても哉斗は家にはいないから」
喧嘩をした日には、研究室に籠ってしまって家には帰って来なくなる。
昔から、そうだったから。
「それじゃあ、また……話、聞かせて下さい」
「ええ。……おやすみなさい」
桜を抱えて歩く真司の後ろ姿が見えなくなるまで見送った。今晩、彼を襲う哀しみを想像すると吐きそうになる。
(私にとっても、たった一人の愛する友人だったの。だから、愛する友人を奪った、愛するあの人を……私がこの手で終わらせてあげないと)
「いない、わよね……」
静まり返った家の中で、小さな明かりが一箇所だけ灯っていた。
「いつもと同じ……。こうやってメモを残して、私とは向き合うこともせずに出ていくのね」
『こんなことになるのなら、記憶を先に消してあげればよかったね。君を悲しませるつもりはなかった。だから、勝手に記憶を消すこともしないよ。君が許してくれるまで僕は研究室で過ごすから、君は
失った記憶とともに、哉斗は心も失っていったんだ。
自分自身も桜が粘り強く
管理する側になってから、永い年月をかけて、
とっくに居なくなっているはずの私達も、この記憶を削除する『
研究室にはもう戻れない。
この身体をメンテナンスをせずに使い続ければ、私の寿命はもっても五年。
あと、五年の間に『
だって、全てが始まったあの日に、哉斗が私の名前をつけてくれた人々を救う為のプログラムなのだから――。
だから、それまでは……。
もう少しだけ、恭哉と過ごすことを許して。
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