第59話 帰り道
「恭哉くん! ちょっと待って!」
皆が帰っていくのを見届けて、研究室の戸締りをしていた僕を呼び止めたのは、向こうから走って戻ってくる姫花だった。
「姫花? どうしたの、忘れ物かい?」
「ううん、そういう訳じゃないんだけど……。あれから、美樹ちゃん達が行方不明になっちゃって、落ち着いて話せなかったから……少し、恭哉くんと話したくて」
「……そうだね。そういえば、久しぶりにゆっくり出来る気がするよ」
僕がそう言うと、姫花はそっと僕の隣に並んで、とたとたと小さな歩幅で歩く速度を合わせようとしているのが見えた。
それがなんだか微笑ましくて、僕はくすりと笑みをこぼすと自身の歩く速度を姫花に合わせてゆっくりと歩く。
「……あのね、私も恭哉くんも覚えてはいないと思うんだけどね。それでも、お礼が言いたかったの」
「お礼?」
「教授が死んじゃってからすぐ、動けなかった私を引っ張って逃げてくれたこと。危険を察して、先回りして動いてくれたこと。……恭哉くんがいなかったら、きっと私はそのまま捕まって、何もかも記憶にも記録にも残せないまま教授のことを忘れちゃってた」
そう言うと、姫花はありがとう、と深くお辞儀をするものだから、僕は慌ててそれを止めた。
覚えてはいないはずなのに、きっと姫花がいたからこそ、どうにかして助けたくて、格好つけて強くあろうとしたのだと思った。
「お礼を言うのは僕のほうだよ。途中で倒れてしまった僕を、姫花が助けてくれたんだから。……ありがとう」
僕は姫花の手を握って、そっとその傷跡を撫でた。ぴくり、と姫花が手を引っ込めようとするのを引き止めて、僕はぎゅっとその手を包み込んだ。
一人きりになってしまって、どれだけ怖かっただろう。自身を奮い立たせる為に噛みちぎった傷跡が、痛々しいカサブタとなって残っていた。
僕があの時に気絶なんてしていなければ、こんな怪我を姫花に負わせることも、一人で心細い想いをさせることもなかったのだと思うと、僕は不甲斐のない自分のことを到底許す気持ちにはなれなかった。
「本当に、一人にしてごめんね……。今度こそ、僕が姫花を守るから」
決意するように、真っ直ぐと姫花の瞳を見つめて宣言をする。夕日のせいなのか、姫花の頬が赤らんでいるような気がした。
「……あり、がとう。……恭哉くん、その、手……」
おずおずと繋がれた手を引っ込めようとする姫花に、思わずぱっと手を離してしまい、ほんの少しだけ繋いだままでいればよかった、と僕は後悔をした。
「……ごめんっ、つい」
「そ、そういえば、莉奈と真人くんの雰囲気、少しだけ変わった気がしない? その、なんか真人くんも少しづつ意識してるような……」
照れ隠しなのか、わざとらしく話を逸らそうとして言いかけた姫花が、しまった、という表情で顔をしかめた。
男女を意識してしまうようなシチュエーションで、自ら親友の恋の行方について話し始めてしまい、僕達の間に気まずい空気が流れた。
「そ、そうかな……。僕には至って真人はいつも通りに見えたんだけど」
無理矢理繋いだ会話も虚しく、沈黙がその場の空気を支配した。
「きゃっ……!」
突然、建物の角から飛び出してきた車に、姫花が小さな悲鳴をあげて身体を強ばらせた。
「危ないっ!」
咄嗟のことに、僕は姫花を抱きしめるようにして壁側へと寄せて庇った。
気づけば、壁に押し付けるようにしていた為に、触れてしまいそうなほど近い距離に姫花の顔があり、僕は思わず顔を背けた。
「あ、ありがとう……」
「……大丈夫? 怪我はないかい?」
高鳴る鼓動が、通り過ぎる車の音をかき消していく。
「あの、恭哉くん……。もう、大丈夫だから……」
背けていた顔を戻すと、姫花も同じように顔を背けていた。その頬は赤く染っているのは、僕の気のせいではない様な気がした。
認めよう。
僕は姫花のことが気になっている……。
いや、好きなんだ。
認めた心が、姫花も同じ気持ちであって欲しいと、都合のいい解釈を促してくる。
「近づきすぎてしまってごめんね」
上手いことの一つも言えない僕に、姫花が無言でこくりと頷いた。
好きな人と触れるほど近くにいる。こんなチャンス、普通の人ならなんて言って距離を縮めるのだろうか。
今までに恋愛小説の一つも読んでいなかったことを悔やみながら、僕はそっと姫花から距離をおいた。
なんとなく気まずい空気が流れ、その沈黙を破ったのは、思わずこぼれてしまった僕の疑問だった。
「ねぇ、姫花は、その、好きな人……とかいるのかな」
なんて馬鹿な質問だろう。ここに真人がいたら、なんだその捻りも何も無い質問は、それじゃあお前の気持ちがバレバレじゃないか、と言って大爆笑していることだろう。
逃げ出してしまいたいくらいの恥ずかしさから、みるみるうちに顔が熱くなっていく僕を、ぽかんと目をまん丸にした姫花が見つめている。
「えっ……? 私の、好きな人……? 莉奈じゃなくって?」
「……うん。いや、莉奈の好きな人なら知ってるから……」
「そ、そうだよね。恭哉くんがそんなこと言うなんて、ちょっと意外で、びっくりしちゃって……。えと、その……私の好きな人……」
その返事に期待して、聞きたいのに聞きたくなくて、僕の神経が姫花の言葉に集中する。
「……好きな人、なのかな。まだ、好きなのかはわからないけど……気になる人は、いるよ……?」
上目遣いでこちらを見上げる姫花の眼差しに、どくんと心臓が脈を打つ。
自惚れでなければ、その視線の先が僕なのだと思ってしまってもいいのだろうか。
気になる相手というのが誰なのか、問いかけようとする僕の言葉を遮るように、姫花がその言葉の先を続けた。
「……でも、まだ……内緒。その人のこと、好きだって、これが恋なんだって、胸を張って言えるようになったら……聞いてくれる?」
「……! 勿論だとも!」
「……じゃあ、その時は……恭哉くんの好きな人も、教えて欲しい……かも」
「……約束する。その時は、一番最初に姫花に伝えるよ」
まるで、告白同然な僕の答えに、少しだけ満足そうに微笑むと、姫花はくるりと
「……恭哉くん、手、握ってもいい、かな。……その、少しだけでいいの」
自分達が、いつ、どうなってしまうのか怖いの、と小さな声で漏らすと、恥ずかしげな表情のまま、姫花が震える手を差し出した。
「……うん。……いいよ」
つかの間の平穏なのかもしれない、そんな共通の想いを感じ取り、僕達はそっと手を伸ばして握りしめた。
この温もりを逃したくは無い。
何処か寂しくて、くすぐったい気持ちのまま、繋がれた左手に僕はぎゅっと力を込めた。
地面に映る影が、寄り添うようにくっついているのが、なんだか少し気恥ずかしい。
夕日が、僕達二人を赤く、照らしていた。
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