第17話 家族だもんね
「はぁ……駄目だな、あたし。真人がお父さんをよく思ってないこと、知ってたのに……」
莉奈の潤んだ瞳を夕日が赤く照らした。
「真人……怒ってたな。ううん、違う。あれはあたしに怒鳴ったことを後悔してる顔だった……。帰るの嫌だな……、今の真人と何を話せばいいのよ」
深く考えずに、思ったまま口に出してしまったことを後悔して、莉奈は大きく溜息をついた。
「はぁぁ……」
振り返っても、そこには誰もいない。
あの後、すぐに追いかけてくれたのなら、とっくに追いついているはずなのだ。
追いかけて来てくれるかもなんて、期待してしまった分だけ溜息の数が増える。
――タッタッタッタッ。
誰かが走って近づいてきている。
「……どうせバスに乗り遅れそうな誰かが走ってるだけに決まってる」
期待したところで、虚しいだけだ。
「真人は、あたしをなんとも思ってないんだから……」
小さな声で呟くと、莉奈が今、聞きたくて堪らなかった声が遠くから聞こえてきた。
「……奈! 莉奈! おい、ちょっと待ってって……! もう、走れねぇ……!」
「真人……?」
莉奈が振り返ると、そこにはぜぇはぁと息を切らして、膝に手をついている真人が立っていた。
沈み始めていた夕日が、真人の真っ黒な髪を赤く染め上げる。
「……さっきは怒鳴って悪かった!」
真人が勢いよく頭を下げる。
「本当にどうかしてた。莉奈がそんなつもりで言う訳ないのわかってるのに……。親父のことになると、ついカッとなっちまった」
「……もういいよ。あたしはわかってるから」
怒鳴られたことは怖かったけれど、それは嫌われたくないからであって、真人が怒鳴りたくて怒鳴ったわけじゃないことくらいわかっていた。
優しく微笑む莉奈の顔が、夕日に照らされる。
「……いつもサンキューな、莉奈」
「…………もう、何言ってんの! あたしはいつでも、何があっても真人の味方だよ! だって……」
莉奈の表情が一瞬曇ったことに、真人は気がつかない。
「だって、あたし達……。家族だもんね」
無理矢理作った笑顔を貼り付けて、莉奈はいつもの調子で笑った。
「そうだな。莉奈は、俺の大事な妹みたいなもんだからな」
「大事にしてよ、お兄ちゃん?」
「普段からお兄ちゃんって、呼んでもいいんだぞ?」
「やーだーよっ、と! 真人は真人だもん、お兄ちゃんにするなんて、お断り!」
あはは、と声をあげて真人が笑う。
普段からひねくれている真人が、そんな笑い方をするのも、莉奈と二人でいる時には珍しくない。
「ねぇ、真人。思い出話をしてもいい……? 明日、皆に話す前に、真人に聞いてほしいの」
「……いいよ。何度でも聞いてやる」
少し不安そうな表情で真人の袖を掴む莉奈を安心させるように、真人は莉奈の頭をぽんぽんと優しく撫でた。
「……うん、ありがと。……あたしにはお父さんはいなくて、でも初等部に入るお金もなかったのか、家がないからお母さんと二人で路頭を彷徨ってたって、言ったでしょ?」
「あぁ……」
「……だけど、あの雨の日に、突然お母さんは息をしなくなって、話しかけても返事をしなくなっちゃった」
その時のことを思い出すように、莉奈の瞳に悲しみが
「わんわん泣きじゃくったの。あの時の異常な悲しみと不安感は、今でも覚えてる」
「……うん」
「なのに。それなのにね、あの時の怖さを覚えているのに……どうして泣いていたのか、あたしはもう思い出せなかった」
この思い出だって真人から聞いた事実を知っているだけで、記憶があるわけじゃない、と莉奈は自嘲気味に笑った。
「あの日、真人があたしのことを見つけて、拾ってくれて。あそこに倒れてる人が、あたしのお母さんだって教えてくれても、あたしは思い出せなかった……」
「……うん」
「ねぇ……。今まで、あの日のことを詳しく聞けなかったんだけど……あの時、あたしに何があったのか、真人は知ってるんでしょ?」
僅かな沈黙をやぶって、真人が淡々と語り出す。
莉奈を傷つけないように、慎重に言葉を選びながら。
「……あの時、倒れてる女の人の前でお前が泣いていた。慌てて駆けつけて、何があったのか聞いてみても、お母さんがお母さんがってずっと言って泣いていた」
長話になりそうだ、と真人が通りかかった公園のベンチに座ろうと指をさした。
「どうしていいかわからなくて、とりあえずお前を落ち着かせようと思って背中をさすってやってたら、急に泣き止んで、ぼーっとしたかと思うと、お前はお母さんのことを忘れていた」
「うん。あたしには、お母さんとの思い出も何も残ってない。全部、全部忘れてる。覚えているのは、あたしには帰る家がないことと、あの日、真人に拾われたことだけだもん……」
ひよこが親鳥を見つけた時のような、刷り込まれた愛情なのか、自分を救ってくれた相手への好意なのか。
それはきっと、一目惚れによく似ていた。
「だから……。あの時の不自然な忘れ方を、俺はよく覚えてる」
真人の表情が暗くなる。
「俺は、目の前でお母さんがって言いながら泣いているのを見てた。子供心に泣き続けるお前が心配で、最後には俺も泣き出していた」
もっとなにか出来たのではないか、子供だから何も出来なくて当たり前だ、そんな答えの出ない自問自答が、あの日からずっと真人の頭の中をぐるぐると回っている。
「それなのに、お前は『どうして、あたしは泣いてるの? あなたは、どうして泣いてるの? どうして、あたしは今、こんなに怖いの?』って聞いてきたんだ」
「それは、あたしも覚えてる……。真人が『お前が悲しそうだから、俺も泣いてるんだ」って言ってくれたんだよね」
「その後のことは覚えてるか?」
「その後は……あたしに帰る家がないこと、ひとりだってことを言ったら、真人が拾ってくれて。真人の家に連れていってもらったんでしょ?」
「やっぱり……。覚えて、ないのか」
そう呟くと、夕日とともに、真人の表情は沈んでいった。
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