第50話 嫌な予感
薄暗い通路を抜けて、真人の父親の会社へと辿り着いた一同は、緊張の糸が途切れるように、へたりと地面へ座り込んだ。
そこは今は使われていない仮眠室のようで、真人がガチャリと内側から鍵をかけた。
「……ここまでくれば、大丈夫だろう」
真人は抱えていた恭哉を、そっと簡易ベッドに寝かせた。ふぅ、とため息をついた真人の額には汗が滲んでいる。
「……とりあえず、上だけでも脱がしておくか」
吐瀉物と土で汚れている恭哉の服を、テキパキと脱がすと、落ちていたブランケットを乗せる。
「……姫花も、あたしの上着貸してあげるから着替えよう。真人、ちょっと奥の方を借りるから来ないでよね」
極度の緊張から解放されて放心している姫花を、莉奈が引きずるように部屋の奥へと促した。どろどろの服が、一人きりになった後も、姫花が恭哉を必死で守ろうとしていたことが伺えて、莉奈は自分の不甲斐なさに唇を噛んだ。
「……ありがとう、莉奈」
「お礼なんかいらないけど……。って、何よ、その手! 怪我してるじゃん!」
ぱっと、姫花の手を取ると、自分で噛んだのか、痛々しい歯型と血の跡がついていた。
「だ、大丈夫だよ。その……私も覚えてはいないんだけど、これは多分、私の覚悟だったんだと思うから……」
「……覚悟?」
「日記に震えた字で書いてあるの。怖がる私を恭哉くんがずっと助けてくれたんだって。……でも、恭哉くんが倒れた後から、私の字は震えていなかったの」
「……書き残す為に、無理矢理、手の震えを止めたってこと?」
「うん。きっとそう。その時のことを書き残せるのが、私だけしかいなかったから。だから、莉奈。真人くん。見て欲しいの。私達に何が起こったのか」
莉奈に借りた上着のチャックを上まで閉めると、姫花は大切に抱えていた日記帳を開いてみせた。
「……俺達と同じ。それ以上に、この世界の真相に近づいていた教授、か。その人が姫花達の前で死んだ。そして目撃者が次々と黒服に捕まるのを見て、お前達は逃げてきた」
日記に記されている内容を要約する真人に、姫花がこくりと頷いた。
「姫花達は、黒服には姿を見られていないんだよな?」
「見られていないはず。教授が……死んじゃう前に逃げなさいって忠告をしてくれたから」
「……そうか。きっと、慎重な人だったんだろうな」
真人はそう言うと、何一つ覚えていない教授という人間に思いを馳せた。
「でも、一体何をしくじったんだろう……」
「そうだ! 教授に渡されたっていう、メモはっ……!」
真人の疑問に、渡されていたというメモの存在を思い出して、姫花はばさばさと日記帳を逆さまにして揺すった。
ぱさっ、と小さく折られた三枚ほどの紙の束が、日記帳から地面へと落ちる。
「これ、かな……?」
姫花が落ちた紙を拾うと、それは何かの紙の切れ端のようで、破かれた跡が残っていた。
相当焦っていたのだろう。どうやら、文献を破ってメモ代わりにしていたようで、両面には何やら物語が書かれていた。
「……なんだ、これ? 小説みたいだけど……」
横から覗き込んだ真人が、さっと文章に目を通して言った。
その切れ端の下側には、おそらくその小説の題名らしきものが書かれていた。真人は、その題名を見て、訝しげに眉をひそめた。
「シェイクスピアの四大悲劇……? そんな話、聞いたことがないぞ」
「何? 真人、その……シェイクスピア? っての知ってるの?」
「あぁ、数少ない娯楽小説の中で、シェイクスピアシリーズは有名どころだからな。だから、俺もある程度は読んだことがあるんだが……。悲劇、なんて題材は見たことがないんだ」
真人はそう言うと、破かれた紙の裏側に書かれている文章をざっと読み上げた。
「毒を飲んで死んだふりをするジュリエット。恋人が死んだと思ってしまい、絶望したロミオはジュリエットを追って死んでしまう。ジュリエットが目を覚ました時には、ロミオの命は失われるところで……ジュリエットもまた、そんな世界では生きてはいけないと、短剣を突き刺して死ぬことを選んだ……」
「それって、まさか……」
「あぁ。美樹の言ってた、図書館の隠し部屋に隠された、『死』に関する小説だったのかもしれない。つまり、教授は……隠し部屋に入って、何かを知ってしまったんだ」
姫花が、深刻な表情で折り畳まれた紙の切れ端を開いて、教授の書き残したメモを読み上げていく。
「私はしくじったようだ。図書館の隠し部屋へ入った。本棚で埋め尽くされた階段を進むと、この時代のものとは思えない程の巨大な施設が拡がっていた。そこで私は黒服に目撃されてしまった……」
「巨大な施設って、何よそれ……」
「……これは罠だった。図書館には決して近寄るな」
読んでいた姫花の顔が、みるみるうちに青ざめていく。
「やつらは、我々のような鼠が入り込んでくるのを待っている。子供でも辿り着くことがある手軽さを疑うべきだった。この隠し部屋は、この世界に疑問を持った者がいずれは辿り着くように出来ている、巨大な鼠取りなのだ……」
図書館の隠し部屋は、捕まえる為に仕掛けられた罠だった。
姫花は神妙な面持ちで、鞄につけていたキーホルダーを見つめた。
「……私は逃げ出した。この情報を君達に託そう。私が消されるのが先か、自ら命を絶つのが先か……。これはやつらとの勝負、なのだ……」
しん、と静寂が部屋を包んだ。
その時、いつの間に意識を取り戻したのか、ベットに寝ていたはずの恭哉が、弱々しくも焦った声で叫んだ。
「……っ、今すぐ、優斗と美樹に連絡をとってくれ……! このことを伝えないと……! 二人が、危ないかもしれない……!」
恭哉の言葉に、はっとして真人と莉奈がそれぞれに電話を掛けた。けれど、どちらも電源が入っていないようで、電話に出ることはなかった。
「……くそっ! なんで、二人とも出ないんだよ!」
真人は荒々しく叫ぶと、近くにあったテーブルをドンッ、と強く叩いた。
「……美樹達は調査の宛がないから、午後からの合流、のはずだったよね。図書館に行くことはないはず。……そのはずだけれど」
美樹の図書館に固執している様子を思い出して、恭哉はぎり、と拳を握りしめた。
「……なんだか、凄く嫌な予感がするんだ」
ざわざわと胸の奥に感じる得体の知れないざわめきに、恭哉は力無く俯くだけだった。
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