第21話 穏やかな朝

 



 あれからどれくらいの時間が経ったのだろうか。気づかれないように、そっと姫花の様子を伺うが、姫花も僕の方を見ないようにしているのか、作業に集中しているようだった。


 気まずいような、くすぐったいような、妙な雰囲気の中で、僕達は机の反対側に立って、黙々と紙の束を整頓する。


 どうしてか、この雰囲気にこれ以上耐えられそうになかった。お願いだ、誰でもいいから早く来てくれ……!


 僕の願いが通じたのか、ガチャリとドアが開くと、真人が手を挙げて挨拶をした。


「おはよう。お、二人して来るの早いな! ……って、なんだ、その顔は。俺の顔になんかついてるのか?」


 助けを求めるように、じっと真人の顔を見つめてしまったのだが、どうやら勘違いしたようで、真人は自分の顔に何かがついていないかと、ぺたぺたと頬に触って確認している。


「あっ、いや。何もついていないから、安心してくれ。おはよう、真人。ところで……」


 僕の声を遮るように、莉奈の元気な声が研究室に響く。


「おっはよー! 姫花! 恭哉!」


 昨日のことなんて、まるでなかったかのように、満面の笑みで僕と姫花の背中を叩く莉奈は、流れるように真人の肩を叩いた。


「真人! なーに、自分の顔をぺたぺた触ってんの?」


「いや、なんか恭哉が凄く見てくるからさ、何かついてるのかと思って。……ってか、俺には挨拶もなしなのか?」


「だって、真人は外で会ったじゃん!」


「まぁ、そうだけどさ」


 よかった。二人とも、仲直りしたみたいだ。


 そうやって、仲良く話している二人の様子はいつも通りで、僕と姫花はほっと胸を撫で下ろした。


「そういえば、例の教授見たぜ。やっぱり、意識して見てみるとなんか変だな。いつもの堂々とした感じがなくなってた」


「変って、どういうふうにだい?」


「なんつーか、周りのことが気になって仕方ないってふうにずっとそわそわしてる……挙動不審な感じ」


「そんなに厳重注意って感じだったのかな……?」


「まぁ、俺と目が合うと、そそくさと図書館の方に消えていっちまったけどな」


「僕は教授の話、面白かったから……言論の自由を取り戻せるといいけれど……教育者だから難しいだろうね」


 それから、講義の話や論文の話など真面目な話を真人と二人でしていたのだけれど、話題に乏しい僕達の会話がつまらなくなったのか、もっと楽しい話してよ、と莉奈が話を遮った。


「楽しい話題ってなんだよ」


「……趣味の話、とか?」


「俺達の趣味なんか聞いて面白いか?」


「私は面白い、かも。まだ、二人のことをあんまり知らないから……」


 呆れたようにいう真人に、意外にも、姫花の方がその話題に食いついた。

 昨日の出来事をかき消すように、いつも以上に明るく振る舞う莉奈が、テンポよく、くるくると移り変わる会話を回していく。


 これが僕には足りないコミュニケーション能力というやつか、と尊敬の眼差しで莉奈のことを見ていると、コツコツと二人分の靴音が聞こえた。


「皆、おはよ〜」


「……おはようございます」


 そうこうしている間に、優斗と美樹もやって来たようだ。


「おっはよー! あれ? 二人で一緒に来たの?」


「あ、いえ……。外で偶然会ったんです」


「そうなの? チャットの時、二人とも凄く仲良いから、さっそく一緒に来るように約束でもしたのかと思っちゃった」


「やっと……さっき、普通に話せるようになったばかりなんです。わたしが人見知りをしちゃっていたから……」


 申し訳なさそうに優斗の方を見る美樹を安心させたいのか、優斗は両手でピースポーズをつくると、指をひょいひょいと曲げてみせた。


「まぁまぁ、ゆっくり慣れていけばいいよ〜。焦らない焦らない。実際に、会ったばっかりだしね〜。これから、仲良くなっていこ〜ね」


「……ありがとうございます。優斗くん」


 穏やかに微笑み合う優斗と美樹の間で、莉奈がバタバタと手を閉じたり広げたりして主張した。


「こら、そこー! 勝手に二人でほんわかしない! ほんわか条例違反だぞー!」


「ほんわか条例ってなんですかっ……」


「つ・ま・り、あたし達も混ぜろー!」


 どーん、と効果音がつきそうな勢いで、莉奈が美樹へと突進していった。


「わわっ。も、もちろん……。わたし、莉奈さんと姫花さんとも仲良くなりたいです」


 照れながら、それでも自分に自信が無いのか申し訳なさそうな表情で、美樹はそっと莉奈の指を軽く握った。


 ふるふると震え出した莉奈を見て、美樹は慌ててきょろきょろと辺りを見回した。なんとも挙動不審だ。


「あ、あの。わたし、変なこと言っちゃいましたか?」


 その問いにも答える余裕はないようで、莉奈はがしりと姫花の両腕を握った。


「姫花! どうしよう……」


「どうしたの?」


「あぁぁ、もう!」


 美樹を見つめながら莉奈が叫ぶ。


「……美樹が。……美樹が可愛すぎるよーーー!」


「えっ?」


 微塵みじんも想像していなかったであろう、莉奈の行動に、混乱する美樹は小動物のようで愛らしい。


 確かに、小動物みたいでつついてみたい気はするな。と、心の中だけで美樹とハムスターを重ね合わせると、案外しっくり来てしまい、僕は笑いを堪えるしかなかった。


「美樹! 抱きしめてもいい? ……って、いうかもう、抱きしめちゃう!」


 ぎゅうぎゅうと美樹が押しつぶされてしまうんじゃないかと思うくらい、莉奈は頬を擦り寄せながら抱きついた。


「あ、あの……。莉奈、さん?」


「あたしのことは、莉奈って呼んで!」


「り、莉奈……ちゃん。離してください……ね?」


「うーん、莉奈ちゃんか……。まぁ、可愛いから許す!」


 満足そうな莉奈に解放された美樹が、心配そうに二人を見ていた姫花と小さな声で話しているようだ。


「私も、美樹ちゃん……って呼んでもいいかな?」


「はい。大丈夫ですよ」


「ありがとう。私も姫花とか、姫花ちゃんって呼んでもらえると嬉しい、な」


 可愛らしく、こてんと首を傾げる姫花を可愛いと思ったのは、きっと僕だけではないはずだ。そのはずだ。


「とりあえず、全員が集まったわけだけれど……。今日は莉奈の話からでいいかな?」


 僕が話を促すと、すぐにいつも通りの顔に戻ってしまったが、莉奈は少しだけ覚悟を決めたような表情で返事をした。


  「ん。わかった」


 莉奈は深呼吸すると、明るい声で言った。



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