第19話 手と手

 



「ふぁぁふ……」


 大きな口を開けてあくびをしながら、僕は研究室のカーテンを開けた。

 それから暫くすると、トントンと軽く扉をノックする音がして、振り返るとそこには姫花が立っていた。


「おはよう。早いね、姫花」


「おはよう……。なんだか、早起きしちゃって。恭哉くんも早いね」


「まぁね。なんだか、目覚めがいい時ってあるだろう?」


「うーん、そうなのかな……? 私は、あんまりないかも。朝は弱くて、なかなか起きられないから……」


「へぇ、そうなんだ。それじゃあ、どうして今日はこんなに早いんだい?」


「それは……」


 少し言いづらそうにしている姫花に、僕は手のひらを突き出して静止した。


「待って!」


 首を傾げている姫花をよそに、僕はうんうんと頷いた。


「うん、当ててみせようか。僕に会いたくて早く来た、とか?」


「えっ、いや……」


 焦りながらも、撤回していいのか迷っている姫花に、冗談だよ、と僕は微笑んだ。


「なんてね。真人のことが気になったんだろう?」


「……うん。やっぱり、真人くんが怒鳴るなんて見たことないから気になって。……それに、あんなことになって、莉奈の様子も気になったから……」


 昨日の帰り際にスタスタと帰ろうとする莉奈を追いかけて、本当に大丈夫かと訊ねたそうだ。


 それでも、大丈夫だからと言って、無理に笑顔を貼り付けると、早く一人になりたいという様子で、見送られてしまったのだという。


「つまり……。真人のことや莉奈のことを、誰かと話したかった。ということは、僕に会いたくてっていうのも、あながち外れてはいない訳だね!」


 びしっ、と効果音がつきそうなポーズで、姫花の顔を指指して言った僕を、姫花は困惑したようにじっと見つめた。


 何も言わずに見つめてくる姫花の様子に、少ししつこくやりすぎたかと不安になっている僕を見て、姫花は俯くと、お腹を抱えてくすくすと笑いだした。


「……そんなに面白かったかな?」


「ふふっ。ううん、そういうわけじゃ……ないんだけど、ね。恭哉くんが、頑張ってるなぁって思って」


 僕が頑張っている、とはなんのことだろう。


「恭哉くんって、そういうことを言うようなキャラじゃないでしょう? だから……、ふふっ、私をなごませてくれようとしているのかなって考えたら……なんだか、嬉しいなって思ったの」


 実際にそうなのだけれど、面と向かってそう言われてしまうと、なんだかとても気恥しい気持ちになる。

 それを誤魔化すように、僕はわざと肩を落として、しょんぼりと落ち込んだふりをする。


「そうか……。面白かったわけじゃないんだね……」


「あっ、面白くなかったって、そういう意味じゃないよ……!」


「ふふっ。わかってるよ」


 どんな言葉も素直に受け止めてくれる姫花を見ていると、また自然と笑みがこぼれてきた。


「まだ、出会ってから日は浅いけれど、姫花がそんな風に笑ってるところ、初めて見たなぁ」


「そうかな? そうだよね、まだ数日しか経っていないんだもんね……。でも、出会ってからすぐに、こんな風に話せるようになったのは、恭哉くんが初めてなんだよ?」


 照れくさそうに微笑む姫花に、僕も頷いた。


「僕もそうだよ。……って、まともに話す相手なんて、真人くらいだったからなんだけどね」


「ふふっ、一緒だね。私も莉奈しかいなかったから」


「案外、僕達は似た者同士なのかもしれないね」


「……そうかも」


 そう言うと、僕達は顔を見合わせて、くすくすと笑い合った。


「……姫花は、そうやって笑ってるほうがいいと思うよ。そのほうが、ずっと魅力的だ」


 思わず口をついて出た言葉に、姫花がおろおろと、恥ずかしそうに顔を赤らめた。


「えっ、あの、えと……」


「ん? 何か変なこと言ったかな?」


「ううんっ、なんでもないよ。……あ! もうこんな時間だね。そろそろ、皆も着く頃かな?」


「あれ、本当だ。まだまだ時間があったと思っていたのに、時間が経つのがあっという間だったね。皆が来る前に、支度しておかないといけないのに」


「恭哉くんと話すのが楽しかったから、時間が経つのが早かったのかな……?」


 僕に合わせて、冗談めかしてそう言った姫花は、初めて会った時と比べると、随分と打ち解けてきたように思う。


「お褒めに預かり光栄ですよ、お姫様?」


「ふふっ、早く来てよかった。また明日も、恭哉くんに会いたくて早く来ちゃうかも……なんて」


「えっ」


 姫花があまりに自然にそんなことを言うものだから、思わず本気にして、僕は固まってしまった。


「えっ、あ、いや……冗談だよ?」


「あっ、そ、そっか。そうだよね。姫花は冗談とか言わなさそうだから、びっくりした……」


「恭哉くんが、冗談ばかり言うからつい、ね。ほ、ほら、早く支度しないと……」


「そ、そうだね。あ、そこに置いてあるメモ用紙をとってもらえるかな」


「う、うん。これ、かな?」


「ありがとう」


 なんだか変な雰囲気になってしまい、お互いに焦っているのか、少しだけ動きがぎこちなくなってしまう。


 メモ用紙を渡された瞬間、姫花の手と僕の手が触れた。顔を上げるとすぐ近くに姫花の顔があって、僕の茶色の髪と姫花の茶色の髪が混ざってしまいそうな距離に思わず僕はのけぞった。

 なんてことないはずなのに、指先から伝わる姫花の体温に、僕はおもわずメモ用紙を掴んだ手を離してしまった。


 二人の手から離れたメモ用紙が、バラバラと音を立てて床に散らばった。


 メモ用紙の床に散らばる音と同時に、自分の心音が高まるのがわかった。


「……ごめん。手が滑ってしまったみたいだ」


 心なしか震えてしまった声を、けたたましく鳴りだした自分の心臓の音が、掻き消してしまいそうだ。


 なんだ、これ。


 心臓の音が、明らかに異常じゃないか。

 情けない声だ。僕らしくもない。いつもの飄々ひょうひょうとした態度はどこへいったんだ。


「……ううんっ。私こそ、離しちゃってごめんね」


 心なしか、姫花の頬も紅く染っている気がする。

 姫花と視線が合わないのも、僕の気のせいではないのだろうか。


「いや、気にしないで。……僕はこっちの書類を整頓するから、そっち側をお願いしてもいいかな」


「……うん。任せて」


 せっかく、普通に会話をしていたのに。

 せっかく、姫花が声を出して笑っていたのに。

 せっかく、姫花の笑顔が見られたのに。


 今は、姫花の顔もまともに見れなさそうだ。

 姫花の手と僕の手の触れたところが、まだ熱くて、火傷してしまいそうだ。


 真人、早く来てくれ……。

 こんなにも、真人の登場を期待したことはあっただろうか。


 どうしてだろう。

 さっきまでは、あんなに短かったはずの時間が、今は時が止まったように、まるで永遠のように永く感じる。

 時間の流れる速度なんて、変わっているわけないはずなのに……。


 こんなことは初めてだった。

 わからないことだらけで、最早わからないことが、わからなくなりそうだ。



 それでもただ、一つ。

 わかることは、この胸に宿った感情の名前を、僕は知らないということだ。



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