第79話 父さん
『KIKYOU』を接続した装置が音を立てて動き出す。
システムの表示には、プログラムが上書きされていっている様子が写し出されている。
「母さんのプログラムが……動き出した……」
僕を止めることもせずに遠くから眺めていた哉斗が、ゆっくりと拍手をしてみせた。
「おめでとう。これで君達はまた、死の恐怖と隣合わせの地獄へと戻ってきたんだね」
母さんが改竄したプログラムの内容は僕達も知らない。
哉斗も本来の記憶を削除するシステムを削除する為のプログラムだと思っているのか、少し眉をひそめていた。
「それでも、僕は大切な人を忘れていくのは嫌なんだ。……もっといい方法がないか、もう一度始めから、僕と考えてはくれないかな……?」
ダメ元で聞いてみても、哉斗は頑なな様子で言い捨てた。
「今更、だね。……死んだ人間の記憶を削除することこそが最善だって、何度も言っているだろう」
結局、この考えの違いだけはどうにもならないのか。
僕が諦めようとしていると、姫花が何かに気がついたのか、不思議そうに哉斗に訊ねた。
「……貴方は管理者だから記憶は自動で消えることはないって言ってたけど、自分で消すことは出来るんです、よね……?」
「……管理が終わって、必要の無くなった情報は削除しているけど、それが?」
哉斗の言葉に姫花は確信をもったと、問い詰める。
「記憶は削除出来る。それなのに、貴方はまだ桔梗さんのことを覚えている。……忘れたく、なかったんゃないですか? ……それが、答えなんじゃないですか……?」
哉斗の瞳に光が宿る。
自分では気づいていなかったけれど、心の奥底では母さんの『死』がどれほど辛くても、忘れたくないと思っていたのだ。
「この世界の最初に、忘れる選択をしたのは正しかったのかもしれない。……だから、その選択を否定出来なくて苦しんでいたんじゃないですか……?」
姫花の問いかけが、哉斗の心に入り込んでいくようだった。
「……だけど永い時間をかけて、この時代の哉斗さんが桔梗さんを忘れたくないって思ったとしても、それが過去の哉斗さん達を否定することにはならないんじゃないですか?」
哉斗のことを傷つけないようにと優しく伝えようとしているのがわかる。
「本当は、間違えていたかもしれないって不安になることが増えていたんだ。……だけど、過去の世界を思い出す度に、人々の為に僕だけは決してブレてはいけないと……僕だけは一時の感情じゃない、
哉斗が今にも泣き出しそうな声色で言った。
「……この世界を創った僕が……桔梗を忘れたくないなんて、思ってもいいのかな……? 」
姫花の言葉が、長い間哉斗の心を覆っていた雲を溶かしたようだった。
『
無機質な音声が、プログラムが成功したことを告げた。
それと同時に装置の投影システムが作動して、桔梗のホログラムが映し出された。
「……っ、なんで」
どんなに願っても、もう会うことの出来ない相手が映る。哉斗の動揺が空気をつたって僕達にも伝わってきた。
「哉斗。……病気のこと黙っていてごめんなさい。貴方に会いにすら行けなかった時のことを考えて、これを録画しているわ。……こんな形でしか、伝えられなくてごめんね」
映像の中の桔梗が、困ったように眉を下げた。
「プログラムを私が修正したものに置き換えさせて貰うわ。『KIKYOU』は人々を救う為のプログラム。どんなに複雑に暗号化してあっても、私には解けてしまうわ。だって、貴方のつけるパスワードは、いつも私の名前や誕生日、私の事ばかりなんだもの」
愛おしそうな眼差しが、桔梗の深い愛を示していた。
「結論だけ言うわ。私は『KIKYOU』が作動しないようにしたわけじゃないの。今みたいに無差別に記憶を削除するシステムではなくて、選択を出来るように変えただけ。どちらがその人にとっての救いになるのか、私には選べなかったから……」
記憶の削除を自由に選べたのなら。
白か黒か、ハッキリとさせない選択もあったのだと、僕と姫花は顔を見合せた。
「……選択の自由もまた、人類という括りではなく、一人一人の人間へと向き合う、救いの形なんじゃないかしら。……ねぇ、哉斗。一人にしてごめんね。……桜ちゃんのことは許せない、だけど、貴方のことを今もずっと愛しているわ」
そう言うと、桔梗のホログラムは幻のようにふわっと消えてしまった。
「……そうか。……まだ、愛していると、言ってくれるんだね……」
消えていったホログラムを抱きしめるように、哉斗の腕が空を切る。
もうそこにはいない桔梗を想って、哉斗の瞳に涙が滲んだ。哉斗の声にならない叫びに、見ているだけで僕の胸も苦しくなった。
その間にも地下の崩落は進んでいき、ガラガラと音を立てて施設が崩壊していく。
「姫花、僕達も早く逃げよう!」
そう言ってソファの方を振り返ると、姫花の頭上にある電灯がグラグラと揺れているのが見えた。
――落ちるっ……!
僕は思いっきり強く地面を蹴った。
目一杯腕を伸ばして、姫花を突き飛ばす。全身の勢いを殺さずに強い力で突き飛ばされた姫花は、ソファへぶつかるように尻餅をついた。
――ガシャン。
硝子の割れる音がする。
それと同時に、うつ伏せになった僕の左足に鈍い痛みが走る。
痛みのせいで、自分の叫ぶ声も聞こえなかった。
頭の中は真っ白になり、周りの音が一切聞こえない。あるのは、焼けるように熱く感じる左足の酷い痛みだけだった。
「……恭哉くんっ……!」
姫花の悲痛な声で我に返る。
周りの音が聞こえ出す。
「……退くんだっ!」
駆け寄ろうとする姫花を押し退けて、哉斗が僕の足の上に落ちてきた電灯を持ち上げて、僕の足を引きずり出した。
嫌な汗が額をつたう。
哉斗は近くにあった鉄の棒を僕の足に巻き付けると、強く縛って止血していく。
意外な姿に僕は思わず呆けてしまい、ぼんやりと手当てをする哉斗のことを見つめていた。
「……ありがとう」
僕のお礼に何故か顔を逸らして、哉斗はそそくさと装置の方へと移動した。
自暴自棄になっていた自分が起こしたことだけれど、母さんの話を聞いて、母さんが創り直したプログラムを守ろうとしてくれているのだろうか。
哉斗は装置を何やら頑丈そうなシェルターへと運び込んでいく。
「恭哉くん、掴まれる……?」
折れていることは確実だろう足を引きずって立ち上がる僕を支えようと、姫花が肩を差し出した。
僕は遠慮がちに姫花の肩に腕を乗せて、哉斗の方へと視線を送る。
装置の避難が終わったのか、哉斗はぼんやりとシェルターの中を見つめたまま動かなくなっていた。
「……貴方も早く逃げよう! 今度こそ、母さんの創ったプログラムで、僕達と一緒にこの世界をもっといい世界に変えようよ!」
手を伸ばす僕を見て、哉斗が微笑んだ。
それは今まで見た空虚な笑みではなくて、憑き物が落ちたような爽やかな表情だった。
「……君がいれば、この世界はもう大丈夫。これは僕のしたことだ、責任逃れは出来ないよ。……この世界に、僕はもう必要ない。僕の人生は、ここで幕引きさ……」
どうして、この人はこんなに簡単なことがわからないんだ。
どうして、こんな風に終わらせようとすることしか出来ないんだ。
「……何が責任だ。貴方はやっぱり無責任だ。責任なら生きて取れよ! ここで『死』んでどうするんだ!」
「……だけど」
この人と話していると強く感情が揺さぶられた。怒りを感じた。紳士であろうとした、僕らしくない。それは、真人が長い間父親のことを許せなかったように、僕もこの人を父親だと認めているからなんだろうか。
「……助けてって言ってくれればいい! 母さんの変わりにはなれないけれど、僕が貴方を支えるから……一緒にこの世界を救おうよ……! 父さん……!」
哉斗が大きく目を見開いた。
その感情が、どんなものだったのか僕には分からないけれど、少しだけ口元が緩んだような、そんな気がした。
――ピシッ。
父さんの頭上の天井に亀裂が入っていく。
気がついていない父さんに駆け寄ろうと足に力を入れる。潰れかけた左足の痛みで、それ以上前へ進むことが出来なかった。
駄目だ、落ちる……。
「……父さんっ……!」
天井から降り注ぐ瓦礫が、ゆっくりと父さんを覆い尽くしていく。
その一瞬が、スローモーションのようにやけにハッキリ見えた。
崩れる瓦礫が、僕の視界を奪っていった。
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