第23話 動かない小指

 



「見ての通り、ボクって絵を描いてばかりいるでしょ? だから、小指だけでも動かないのって少し不便なんだよね〜」


 あまりにものんびりとした口調で告げられた事実は、想像していたよりも重たかった。

 優斗は小指だけ、なんて言っているけれど、指の一本だけでも動かなくなったなんて、普通だったら一大事だ。


「だから、いつも絵を描いてる時に思い出すんだけどね。落下事故だったんだ。ボクは誰かを庇って飛び出しているはずなんだ〜」


「それって……」


 落下事故。その言葉を聞いて、なぜだかズキリと頭に痛みが走る。

 すぐに痛みは消えたけれど、日頃の寝不足が祟っているのだろうか。普通の頭痛とは違った重い痛みに違和感を覚えながらも、優斗の話に僕は思考を巡らせた。


 記憶が無くなっているということは、優斗の庇ったはずの相手に、何かが起こったことは明白だ。


「ボクはその時、誰を庇ったのか覚えてない。流石にさ、そんな重要なこと忘れちゃうはずないでしょ〜? それなのに、何があったのか、誰を庇ったのかも、ボクはわからないんだよね〜」


  そう言うと、優斗はポツリと小さな声で呟いた。


「病院のベッドで目を覚ました時、既に何が起こったのかを忘れてたってことは、そういうことなんだろうけど」


 その先に続く言葉を想像して、しん、と全員が静まり返った。


「今更、思い出してもな〜って思うんだけど……。小指に力を入れても動かせないたびに、あれは誰だったんだろうって考えちゃうんだよね〜」


 僕は、優斗になんと声をかけていいのか、わからなかった。


「そうだ。姫花ちゃんはさ、日記ってまだ書き続けてる?」


「……続けてるよ。なんか、やめられなくなっちゃって……」


 きっと、気づいてしまった日から、誰かが消えてしまうかもしれない。そう思うと、書かずにはいられなくなったのだろう。姫花の言葉に優斗は深く頷いた。


「うん、それは続けたほうがいいよ。……と、いうよりも、皆もつけるようにした方がいいかも。別に何があるってわけじゃないと思うけど、何がきっかけで記憶がなくなるのか、イレギュラーなことがいつ起こっても不思議じゃないからね〜」


 優斗の真剣な眼差しに、どきりとした。

 記憶がなくなる。それは、この中の誰かに何か良くないことが起こるということだ。


 優斗の言うとおり、僕達が知らないだけで、いつ、誰に、どんなイレギュラーが起こるかなんて、誰にもわからない。


 この集まりの中心に僕がいる。

 皆を集めたのが、僕だと言っても過言ではないのだから、僕は常に考えて行動しないといけないんだ。


「……このメンバーで話したこととか、大事なこととか、日記につけよう。真人のお母さんの事もあるからね、用心に越したことはないさ」


 日記が役に立つような、もしもの時が来ないことを祈りながら、僕は皆へと告げた。


「あの……。優斗くんは、日記に書き残していなかったことを、後悔しているの……?」


 姫花の言葉に、優斗が消え入りそうな小さな声で答える。


「…………少しだけ、ね。後悔してるよ」


 珍しく真面目な声でそう呟いた優斗の顔は、どこか少し寂しそうだった。


「……そっか」


「姫花ちゃんはさ、日記をつけていたこと……後悔してる?」


「…………少しだけ、ね」


 優斗の問いかけに、姫花が同じ台詞を返す。


「……そっか。でも、忘れたことに虚しさを感じ続けるよりも、覚えていることで悲しくなるほうが、ボクはずっといいと思うな……」


「うん。それは少しだけ、わかる気がする……」


 それはきっと、姫花と優斗だけではなくて、皆が抱えていることで。それでも、少しだけでも覚えていられたら、その方が後悔は少なくなるような、そんな気がした。


「ボクの話は、こんな感じで終わりだよ〜」


 話し終えた途端、ゆったりとした口調で通常営業に戻った優斗の落差に、拍子抜けしてしまう。


「お、おう。いきなり終わったな……。まぁ、とりあえずは、これからは俺達も日記をつけることは必須だな」


「うん。忘れたくないことは、なるべく書いておいた方が良さそうだね」


「そうだな。莉奈の腹が鳴った、とか、恭哉が今日の朝から凄く挙動不審だった、とかな?」


 場を和ませようと、冗談を言い始めた真人に、優斗が乗っかった。

 僕のくだりも本当に冗談で言ってるのだろうか。にやにやと僕の方を見てくる真人を、僕はキッと睨んでみる。


「それは大事だよ〜。絶対に、書いておいたほうがいいね〜」


「はぁ!? 何それ! そんなのいちいち書かないでよ! 優斗まで何言ってんの! っていうか、あたし、お腹なんて鳴ってないし!」


 一息でまくし立てる莉奈を、にやにやと真人が揶揄からかっている。このやり取りも、最早、様式美と言えるほどに僕も見慣れてきていた。


 それよりも、僕が挙動不審だったなんて、本当に書かれてしまっては適わない。

 僕は慌てて訂正すると、話を逸らすように空になったティーカップを持ち上げた。


「ま、真人。何を言っているんだ……?」


「なんだ。別に、俺が来た時のお前は、なんだか様子がおかしかったなって思っただけだぞ? それとも、なんか心当たりでもあったか? 恭哉くん?」


 あぁ、嫌だ。こういう時の真人は、玩具を与えられたばかりの子供のような顔をする。


「僕は別に挙動不審になんてなってないよ。……それよりも、ポットの紅茶も冷めてしまったし、そろそろ休憩を挟もうか」


 僕の言葉に、莉奈が勢いよく賛同した。


「ほら、一回休憩! 姫花、美樹、紅茶淹れるの手伝って!」



 そう言うと、莉奈は返事も待たずに、姫花と美樹の腕をぐいぐいと引っ張って、二人を引きずるように給湯室へと姿を消した。



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