第48話 記憶の削除

 



 掌から血が滴るのもお構い無しに、姫花は自分の意思で動かせるようになった両手で、ずるずると恭哉を茂みへと引きずり込んだ。


「……ここなら、見えないよね」


 着ていた上着を脱いで枕にすると、そこへ恭哉を仰向けに横たわらせた。

 校舎側に立って、茂みから恭哉の姿が見えないことを確認すると、姫花は恭哉の隣にうつ伏せで寝転んだ。少しでも、姿が見えないようにと周りの草をちぎっては、自身と恭哉の身体へと被せていく。


「あ、あとは……そう、日記。……このままじゃ、教授のことを忘れちゃう。……少しでも手がかりを残しておかないと……」


 自分が動かなければ、二人とも捕まって記憶を消されて何もかも忘れてしまうかもしれない。その状況が、逆に姫花を落ち着かせたのか、余計なことなど一切考えることなく、すっきりとした思考が冷静にやるべき事をまとめていった。


 教授が話したこと、メモを渡されたこと、教授の様子、漏れがないように一言一句を思い出しながら、一分一秒でも時間が惜しいといった様子で日記帳へと殴り書きをしていく。


「……私は、しくじった。……それから、逃げなさい。……やっぱり、教授は誰かに突き落とされちゃったのかな……」


 涙声で訊ねてみても、返事をする人間はいない。

 姫花は気を失っている恭哉を見つめて、小さな声で呟いた。


「……恭哉くん。ねぇ……。いつもみたいに、応えてよ……」


 ぽろぽろと涙で視界が滲んでしまう。

 泥と血で汚れた手で、そっと涙を拭った。


「……っ、痛っ……!」


 急に、ズキズキと激しい痛みが走り、ぐらりと視界が揺れた。


 これが、『記憶の削除』だ。


 このタイミングで訪れた頭痛に、倒れる直前の恭哉の様子を思い出すと、漠然とこれがなのだと姫花は確信した。


「……っく」


 最後の力を振り絞って、持っていたペンを走らせる。


『見つかるな』


 そう書いた日記帳のページを拡げたまま、痛みに耐えきれずに姫花は頭を抱えて地面へと突っ伏した。

 目の前にいる恭哉の姿を目に焼き付けて、姫花はぎゅっと恭哉の手を握る。


「……恭哉くんは、私が……守る……の……」


 頭の中で、カチリ、と音が聞こえたような気がした。

 一粒の涙が頬をつたい落ち、地面を黒く濡らす。


「……あれ? 私、なんで泣いていたんだろう……」


 ごしごしと頬を擦ると、掌に鈍い痛みを感じて、姫花はぱっとその手に視線を落とした。


「……血? えっ、恭哉くん!?」


 視線を落とした先に横たわる恭哉。血塗れの掌。そして、開いたままの日記帳には大きな文字で『見つかるな』と書いてある。

 乱暴に書かれているが、それは確かに自分自身が書いた文字だった。警告ともとれる身に覚えのない走り書きに、姫花はさああと青ざめた。


「……ど、どうすればいいの……。こんなところで、見つかるなって、何から……?」


 得体の知れない恐怖に、姫花はぶるりと身体を震わせた。身をかがめながらも、きょろきょろと周りを見回してみたが人の気配はなかった。


「何か、他に手がかりになりそうなことは書いてないの……?」


 危険を察した時、自分だったら全てを書き残すはず。そう考えて、姫花は日記帳を捲った。


「……あった!」


 何かに急かされるように、日記帳に書かれた内容に目を通していくと、そこには教授から警告を受けたこと、そして『教授が死んだこと』が記されていた。


 恐らく、直近の出来事である、黒服から逃げていたことが書かれているページまで読み進めると、姫花は無我夢中で読み進めていく。


「……教授が、死んだ……?」


 姫花が、小さな声でぽつりと呟いた。


 ――ガサガサッ。


 日記帳を読むのに夢中になっていたからか、突然すぐ近くから聞こえた枝をかきわける音に、姫花の肩がびくりと跳ねた。


(嘘っ……! なんでこんな近くに……。さっきまで誰もいなかったのに……っ)


 さくり、さくりと地面を踏み鳴らす足音が、徐々に姫花達の元へと近づいてくる。

 恐怖で叫んでしまいそうな自分の口を両手で塞いで、姫花は茂みの中でじっと息を潜めていた。


(……嫌だ。怖い。怖いよ、恭哉くん……)


 一刻も早くこの場から逃げ出したい気持ちから、姫花は無意識に足音のする方向から遠ざかろうと、じりじりと後退りをした。


(……お願い。早く、あっちへ行って……)


 ――パキン。


 そんな願いも虚しく、しんと静まり返った空間に、姫花が踏んだ細い枝の折れる音が、無慈悲に響いた。


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