第44話 先を急いでいてね

 



「恭哉くん、ごめんね。待ち合わせ場所を変えて貰っちゃって……」


 真人へと電話を掛けるより、数時間前。

 僕と姫花は、研究室で待ち合わせをしていた。


 僕の家を知らない姫花に、家の近くの目印を教えて合流することを提案したが、よく分からなかったようで、一番分かりやすく研究室に集合に変更したのだ。


「大丈夫だから、気にしなくていいよ。僕も待ち合わせなんて、久しぶりだったから、説明が下手だったと思うしね」


 そう言って、少しお茶目なポーズでもとって見せたのだけれど、姫花はまだ、待ち合わせ場所がわからずに、待ち合わせの待ち合わせをしたことを気にしているようだった。


(真人、こういう時はどうしたらいいんだ……)


 女の子をいい感じに慰める方法がわからずに、僕はここにはいない親友を思い浮かべてみたけれど、頭の中の真人は笑っているばかりで助けてくれない。


「……そうだ! 姫花は、昔から日記つけてるんだったよね」


「……うん。記憶のことに気づいた時からは、細かい出来事も日記に書いてるよ」


「僕も優人に言われてから、日記をつけるようにはしているんだけれど……。なかなか文章を書くのが苦手みたいでね」


「ふふ。……恭哉くんが苦手だなんて、ちょっと意外かも」


 姫花は僕が頭を悩ませているところを想像でもしたのか、ふふっと小さく笑った。


「そうなんだよね。真人にも、普段喋ってるみたいに書けよって言われるんだけど……。そうすると、長くなりすぎてしまうんだ」


 そう言って、困ったように頭を搔く僕を見ると、姫花はまた、くすりと笑った。


「それで、なんだけど。長くなりすぎず、忘れたくないことを書けるような、日記をつけるコツを僕に教えてくれないかな?」


「うん……! 私でよければ、お手伝いさせて!」


 頼られることがよっぽど嬉しいのか、いつもよりも力強く頷く姫花が、子供みたいでなんだか凄く可愛らしく見えて、思わず僕は笑みがこぼれた。


「お姫様のお手を煩わせてしまうとは……騎士ナイト失格ですが。これでさっきの事は貸し借りなしということで、許して頂けますか? ……なんて」


 一瞬、何のことを言われているのかわからなくて、姫花はきょとん、と目を丸くした。

 けれど、すぐに待ち合わせのことを気にしないようにと、僕がおどけてみせたのだと気づいたようだった。


「ふふ……。ありがとう。恭哉くんは優しいね」


 にっこりと、姫花が微笑むだけで、僕の胸はあたたかくなる。


「はて、何のことでしょうか」


「えーっと……。許してさしあげますわ……?」


「ふふっ。それだとお姫様っていうより女王様だね」


「うん。私もそう思ったんだけど……。お姫様って難しいね」


 他愛のない話。

 顔を見合せて、小さく笑い合うような、この距離感が心地よかった。


 僕も姫花も、出会った頃に比べてよく笑うようになったからだろうか。

 それとも、まだよくわからないけれど、恋心というものが僕の心の中で、今か今かと顔を覗かせようとしているからだろうか。


「それじゃあ、張り切って……。宝探しに行きましょうか、お姫様」


「もう……。恭哉くんってば、そのお姫様っていうの、くすぐったいからやめて、ね?」


 姫花も、遠慮なく僕にやめてと言えるようになったなぁ、なんて呑気に考えながら、僕はごめんごめんと謝った。


 そろそろ僕の家に向かおうか、と研究室の鍵を閉めて、廊下を歩いていると、反対側から早歩きでこちらへ向かってくる教授の姿が見えた。


「教授?」


 今日は大学に顔は出さないと言っていたのに。

 不思議に思って、近付いてくる教授の様子を伺っていると、その表情はなんだか切羽詰まっているようで、酷く焦っているように見えた。


「恭哉くん……。なんだか、教授の様子がおかしい気がする……」


「……うん」


 明らかに、遠くにいた時点で僕と姫花に気づいているようなのに、一向にこちらを見ようとしない教授をいぶかしんで、僕が声を掛けようとすると教授に手で制止されてしまった。


「こちらを見るな」


 教授は短くそう呟くと、僕達の方を一切見ずに、わざとぶつかるふりをして、姫花の持っていた日記帳を地面へと落とした。


「あぁ、すまない。先を急いでいてね」


「い、いえ。こちらこそ、前を見ていなくて……すみません」


 日記帳を拾う教授のわざとらしい芝居に付き合いながら、僕はちらりと教授の表情を盗み見た。

 その表情からはいつもの自信満々な様子はなく、冷や汗が滲んでおり、少し顔色も悪く見えた。


「落としたのはこれだけかな?」


 教授の書いたものだろうか。拾った日記帳に、初めて目にするメモを挟むと、教授はそれを姫花に手渡した。


「……はい。ありがとう、ございます」


「君は、確か……昨日質問をしに来てくれた子だね。私の講義はわかりにくくはなかったかね」


 姫花相手に世間話をする教授の手が震えている。


「いえ、教授の説明は凄くわかりやすいです」


「それならばよかった」


 当たり障りのない会話をして、それじゃあ、とそそくさとその場を後にしようとした教授が、ふらりとよろけて今度は僕にぶつかった。


「だ、大丈夫ですか?」


 心配する僕に、もたれかかるように僕の腕に掴まると、教授は周りに聞こえないように口元を隠して、小声で囁いた。


「……どうやら、私はしくじったようだ。……君達は、今すぐにここを離れなさい」


「……え?」


 その言葉をすぐには飲み込めずに、教授の顔を見つめると、教授は諦めたような表情で微笑んだ。


「すまない。少し外の暑さに参ってしまったようでね。足元がふらつくのだよ」


 何事もなかったように、教授はそう言うと、早足で反対側へと歩いていってしまった。


「……恭哉くん? どうか、したの……?」


 小さくなっていく教授の背中を見つめながら、僕はさっきの教授の台詞を頭の中で反芻はんすうさせた。

 教授の表情を思い出すと、なぜだか、胸がどくんと脈打った。


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