第45話 ここを離れなさい

 



「ごめんね、なんでもないよ」


 不安そうに僕を見上げる姫花を安心させるように微笑むと、僕は姫花の手を握って、早歩きで廊下を歩いていく。


 明らかになんでもないといった様子ではない僕に、姫花は黙ったまま、手を引かれて歩いてくれた。

 何が起こっているのかはわからないけれど、今はこの場を離れるのが最優先だ。僕は前を向いたまま、姫花に声を掛けた。


「姫花。少しだけ、何も聞かずに急いで歩いてくれ。こちらを向かないで、前だけを見て歩いて」


 切羽詰まった様子の僕を横目で確認すると、姫花は小さく頷いて歩く足を早めた。

 無我夢中で歩いて中庭に出た僕と姫花は、校舎の壁際の木陰で一度息を整えた。


 きょろきょろと周りに不審人物がいないことを確認すると、ようやく僕は重い口を開いた。


「とりあえず、ここなら少し休めるかな」


「さっき、教授に何か言われていたのって……」


 どうやら、聞こえてはいなかったようだけれど、何かを言われていたことには姫花も気づいていたようで、僕は教授に言われたことを話した。


「それが……私はしくじった。君達は、今すぐにここを離れなさい。って言われたんだ」


「しくじった、って何を……」


「僕にもわからない。だけど、今は考えるよりも、この場を離れよう」


 さっきの教授の様子はどう考えてもおかしくて、監視の目を掻い潜って、僕達に何かを伝えようとしていたのがわかる。


「まずは、簡単にこのことを真人にも連絡を入れて……。とにかく、大学の外で落ち合おう」


 真人への連絡を手早く済ませると、行こうか、と僕は姫花の手を取った。

 と、その時だった。


 中庭にまばらにいた生徒達が、ざわざわと校舎の上を指さした。


 グシャ。


 次の瞬間、トマトが潰れたような音とともに、硬いものが砕けるような酷く鈍い音がして、それに続いて女生徒の張り裂けるような悲鳴が中庭に響いた。


「…………え?」


 僕達の隠れていた場所から正反対の方向に、校舎から白衣を着た人が落下するのが見えていた。


「教、授……?」


 叫びながら逃げ惑う生徒達の隙間から、さっき見たばかりの教授が倒れているのが見えた。

 遠過ぎて顔までは見えないはずなのに、あらぬ方向へと曲がった首がこちらを向いているようで、教授だったものと目が合ったような気がして、僕は咄嗟に悲鳴を飲み込んだ。


「…………ひっ」


 僕の腕をぎゅうと強く掴んで、叫びかけた姫花の口を僕は必死で塞いだ。

 ここで叫んだら駄目だ。そう、直感が告げていた。


 恐怖と理性の狭間で、姫花のことを気遣う余裕もない僕は、姫花の口を強く塞いだまま、姫花を引きずるようにガタガタと震える足で校舎の壁へと隠れた。


 動揺を発散させたい衝動に駆られて、自らも叫びそうになるのを腕を噛んで堪えながら、僕は荒い息で壁へと寄りかかった。


「……っく」


 姫花の口を塞いでいる僕の腕に、ぼろぼろと姫花の大粒の涙がつたう。

 ぺたん、としゃがみこんで、声を出さないようにと、必死に声を殺して泣いている姫花を、僕は口を塞ぐ手を緩めずに見つめていた。


(なんなんだ、何が起こっているんだ。教授はどうなったんだ。僕は、何をすればいい。何が最善なんだ)


 ぐるぐると、頭の中をまとまらない思考が駆け巡る。

 冷静になんて、なれるはずがなかった。


「何っ!? やめて!」


 女生徒の叫び声で、僕は無理矢理、現実へと引き戻された。

 何が起こっているのかと、恐る恐る壁から向こう側を覗くと、中庭にいた生徒達の周りを黒服の男達が囲んでいた。


(……教授を見張っていた黒服だ)


 黒服の男は暴れる女生徒の腕を乱暴に掴むと、何かを使って気を失わせているようだった。


『今すぐにここを離れなさい』


 教授の言葉が、頭をよぎる。

 ここを離れないと。


 まだ、何も終わっていない。

 僕は震える足を強く叩いて、無理にでも歩き出そうと足に力を込めた。

 僕の服の裾を握りしめて、立ち上がれないと涙を流して首を横に振っている姫花を、僕は強引に立ち上がらせると、引きずるように走り出した。


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