第46話 君がいるから

 



「姫花、ごめんっ。走って……!」


 今にも足を止めてしまいそうな姫花を、無理矢理引っ張りながら、僕は無我夢中で走っていた。

 黒服達のいた方向から遠ざかろうと、焦るあまり自分がどの道を走っているのかすらわからなかった。


 校舎から離れて、木々の並んだ手入れのされていない道に入ると、でこぼこと飛び出している根っこにつまずきそうになる。

 足場は悪いけれど、今は人気のない道を走るのが最前に思えた。


「……恭哉、くんっ。教授は、どうなっちゃったんだろうっ……」


「それは……」


 姫花の悲痛な問いかけに、僕は答えることが出来なかった。いや、答えたくはなかった。


 姫花を離さないように、掴んでいる手に力を入れる。

 意識して力を込めらければ、震える僕の手はすぐに離れてしまいそうだった。

 後ろから、苦しそうに嗚咽混じりの姫花の呼吸が聞こえてくる。


「もう……走れないよっ……ねぇっ、恭哉くん……」


 それはきっと、体力だけの問題ではないだろう。


 おとぎ話のように、お姫様抱っこをして走って逃げてあげられるような王子様になれるはずもなくて、手を離してしまえば立ち止まってしまいそうな姫花を励ましながら、姫花自身の足で走ってもらう他なかった。


「……はぁっ。ここまで来れば、少しくらい休める、かな……」


 豆粒ほど小さくなった校舎を見つめて、ぜぇはぁと荒げた息を整えようと、僕は木陰に座り込んだ。

 隣では姫花が木にもたれかかって、涙を流していた。


「なんで……教授があんな……」


 さっきまで話した教授の顔を思い出して、僕は震える拳を握り締めた。

 中庭に倒れた教授の姿が、鮮明に脳裏にこびりついている。がくがくと震える肩を自身で抱き締めて、僕は小さく身震いした。


「恭哉くん……。教授は、もう……?」


 あんなに高い所から落下したのだ。軽い怪我ですんでいるはずがない。大怪我のその先、それがきっと『死』ということなんだろう。


「……教授は、死んだ。……今は、僕達の身の安全だけを考えよう」


 噛み締めるように告げた僕の言葉に、姫花が大きく目を見開いた。


「……なんでっ。なんで、恭哉くんは、そんなに冷静でいられるの……っ! もう、教授に会えないんだよっ……!」


 目にいっぱいの涙を溜めて、僕の胸を叩いてくる姫花の両手を静かに掴んで、僕は真っ直ぐに姫花の瞳を見つめた。


「……冷静なんかじゃないよ。ほら……。ずっと、手も足も震えてる。僕だって、泣いて逃げ出したくて堪らない。だけど……。君がいるから……」


「……わた、し……?」


「……姫花だけは、何があっても逃がしてあげたいんだ。その想いだけで、僕はいくらだって、冷静を装うことが出来る。だから、君は……僕の救世主だね」


 ははっ、と力なく笑ってみせると、姫花は小さな声でごめんね、と謝って項垂れた。


「おかしな事が起こりすぎていて、僕も姫花も疲れてるんだ。今は……ここから離れることだけを考えよう」


「……うん」


 ぎゅっと膝を抱えて小さく丸まっている姫花が、いつもよりも小さく見える。


「……ねぇ、恭哉くん。さっき掴まっていた子は、どうなっちゃうんだろう……。私達、これからどうすればいいんだろう……」


 ぽつりと呟く姫花に、中庭で黒服に捕まっていた生徒達のことを思い浮かべて、嫌な想像が頭をよぎる。


「……中庭にはあんなに大勢の生徒がいたんだ。滅多なことにはならない、と思いたいよ……」


「……うん」


「……そういえば、僕達はまだ、教授のことを覚えている。……すぐに記憶が消えるってわけじゃない、のかな」


 僕の言葉に、姫花がばっ、と顔を上げた。


「……違う! これ、莉奈のお母さんの話と同じだよ。すぐに消えるわけじゃない、だけど、今にも教授のことを忘れちゃうかも……!」


 そう言うと、姫花は持っていた日記帳を乱暴に開いて、急いでペンを走らせた。


「……恭哉くんも書いて! 少しでも、沢山の情報を残さなきゃ……! 教授が何を伝えようとしていたのか、手がかりを残さなくちゃ……!」


 忘れてはいけない。それが、姫花にとって最も重要なことなのだろう。姫花の剣幕に気圧されながら、僕も手近にあったペンを握って、この目で見た出来事をメモ帳へと書き殴っていく。


 様子のおかしい教授とすれ違って、姫花が教授から何か書かれたメモを渡されて、しくじったから逃げろと言われて……。

 そして、教授は中庭へと落下した。


 あれは事故だったのか、誰かにやられたのか。それとも、教授が自ら飛び降りたのか。出来るだけ手がかりになりそうな事を残そうと、僕は必死でその時の様子を思い出そうとした。


「……うぁっ!」


 ズキン、と頭に激痛が走り、まるでスローモーションのように、落下する映像がフラッシュバックした。

 教授が落下する映像と、見ず知らずの男の落下する映像が、重なるように頭の中で流れてくる。


「……なん、だ。この記憶は……」


 頭が割れてしまいそうな激痛の中で、僕の知らない記憶が次々と頭の中で溢れ出した。


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