第9話
「……あまり思い出したくはないものだけどな」
脳裏に過ぎる最期の光景は、例えまだ経験してないものだとしても不快なことに違いはなく。息を吐き、胸に手を当てて呼吸を一度整える。
その最中、
キーン、コーン、カーン———
学校のチャイムが鳴る。最初の授業が始まる五分前に鳴らされる予鈴だった。
連絡端末を取り出し、時刻を再度目視でも確認する。せっかく余裕をもって登校してきたというのに、遅刻しては早起きも無駄になるとシストへ顔を向け、固まる。
否。
シストに体の向きは向かっていれど、その視線は下に落ちて意識は一つの事柄へ。
———おかしい。何かが、おかしい。
違和感が突如として菊の身体を包む。
「…………桜蓮に、会っていない?」
じっとりと汗が滲む。油を含んだ嫌な汗が、背中を一筋舐めた。
連絡を取ろうと動かす端末に触れる手、その震えは止まらない。
ワンコール、ツーコール。……出ない。
「? きっくー、どうかしたの? question」
シストが顔を覗き込んでくる。が、その微笑が数秒後には心配の面持ちに変わる。
「落ち着いて、落ち着いてきっくー、どうしたの、話せば少しは整理される、chillout」
「いや、大丈夫……シストは早く校長室に行かないとまずいだろ、初日から問題行動は印象が良くない」
「でも……」
「少しさしこみが来ただけだ、少しすれば収まる。ま、遅刻にはなりそうだけどな」
空元気を見せる。シストでなくても直ぐに分かってしまうような誤魔化し方ではあったが、全てを飲み込んで頷いてくれたシストは、時折こちらを振り返りながら校長室へと向かっていった。
「大丈夫だ、あれが無駄だったとしても、最悪にはならない。桜蓮がいるなら、大丈夫」
よろよろと立ち上がった菊は、学校に入って廊下を歩いていく。チカチカ、チカチカとめまいが押し寄せ、不安感が身を纏っては消えてくれない。
クラス・シックス。菊のクラスであり、該当するのはシックス以上のランクを担っている精鋭のみ。即ち、ここに上司の桜蓮もいるはずであった。
ガラガラ———
すっかり重くなった腕で、扉を開ける。教壇に立つ教員と、座るクラスメイトの視線がこちらへと集まった。
「北山くん、遅刻です。が、顔色があまり良くないようですね。保健室へ行きますか?」
「……結構です」
酷い顔色。そんなことは、自身が一番よく分かっている。
だが、心配の声はその一言のみ。代理保護者として必要最低限の確認は取った、とばかりに教員は「では、席に座りなさい」と抑揚のない言葉を放つ。
ふらふらと自席へ向かう。日頃から、こんな調子だ。潔白を証明できても、長らくスパイ疑惑をかけられている者の扱いなどこんなもの。
そして。
「……あの、鏡桜蓮は今日はお休みですか」
桜色が映える肩まで垂れた髪に、緑色の瞳。手入れを怠っていないことが伺える彼女を見逃す、あろうことか忘れる事なんてあり得ない。
その姿は、このクラスの何処にも存在は見当たらなかった。
ただ一つ、プリントの束や教科書が置かれている未だ誰も席に座っていない机を除いて。
「……は? かがみ、かれん、ですか?」
その机は、確かに彼女がいつも座っていた場所だった。その証拠に、物置に使われるにしては不思議なくらいに綺麗に拭かれていて———
「そんな人、このクラスにはいませんが……」
中途半端に開けられた窓の隙間から、突風が流れ込む。
荒らされた前髪に、視界が黒く染められた。
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