第51話 五億円の男
大学の建物の屋上にヴァルナは着地した。
「急いで。きっと警察はここにも来るわ」
乃雨は二人を地上におろした。
「すぐに戻る。通話は切らないでくれ」
「了解」
屋内に通じるドアがあった。
夜はマギに合図し、そこまで走った。
ドアの向こうは階段で、夜は駆け下りる。南条の研究室は二階だ。
遅い時間だから誰ともすれちがわなかった。
研究室のドアを開けると、ちょうど帰り支度をしていた南条がいた。
「先生、『SAKURA』のことでお話があります」
「おお、有村君か」
一瞬驚いた表情を見せた南条だったが、すぐに笑顔でとりつくろった。だが左手をさりげなくスマホの入ったポケットに近づけたのを、夜は見逃さなかった。
「本当に三億円をもらうだけもらって、トンズラする気なんですか?」
「あ、ああ。風間さんも疑っていない。チョロいもんだよ」
南条は肩をすくめ、にやにやしながら続けた。「それより有村君、きみはもう楽しんだかい? ヘドロ島の女。あれは最高だった。ヘドロみたいにベッドの上でからみついてくるんだ」
「……考えなおしてくれませんか、先生」
そのとき正面のドアが開いた。となりの部屋から現れたのはハム子だった。
夜のことを認めるやいなや、指をさして「あーっ! サボり魔みっけ!」と素っ頓狂な声をあげる。
「いままでどこにいたんですかあ、有村さん」
袖までまくり、のっしのっしと彼女は肩をいからせながら近づいてきた。
「ごめんハム子ちゃん、いまはそれどころじゃないんだ」
「どういう意味ですか」
「有村君はテロリストの仲間になったんだよ」
南条の言葉に、きょとんとするハム子。
「『SAKURA』の保管場所を教えてください先生。三億円は必ず渡します」
「ならゲームをしよう。勝てば『SAKURA』はきみのものだ」
「ゲーム?」
「ここに鍵がある。この鍵で開く場所に『SAKURA』を隠した」
南条はポケットから鍵をとりだした。
「ヒントは東京のどこかだ。コインロッカーや貸し倉庫、いくらでも候補はある。どうだい、おもしろそうだろう?」
「そんな時間はない」
マギだった。
南条のもとまで歩くと、彼を見上げながら言う。
「おまえは一度ウソをついた。私はウソをつくのが好きだから、他人のウソを見破るのが得意だ。いま言ったことも、ウソだろう」
「け、警察に売ったことは謝るよ」
「それで次は警察も裏切るというのか? 信用のならん男だ」
なにも言い返せなくなり、南条はバツが悪そうに目をそらした。
「あのう……いったいなんの話をしているんですか?」
ハム子は鼻をひくひくさせた。さらに両手を胸の前で畳み、きょろきょろと周囲を見まわす。ハムスターが立って警戒するときの仕草とそっくりだった。
「こうしよう。五億円でどうだ、それなら譲ってもいい」
「そういう話は先日しておいてくださいよ」
「気が変わったんだ。現金で五億円。帰ったら風間さんに伝えてくれ」
「もう時間がないんです」
「じゃあさっさと戻って、話をつけてこないとな」
とりつく島もない。南条は勝利したような顔になり、鞄を持って帰ろうとした。
「お望みどおり、さっさと帰るわよ」
スピーカーを通した乃雨の大声が、研究室の窓ガラスをびりびりと揺らした。
ふり返ると、ヴァルナの顔が窓に張りついていた。
ハム子が「きっ」とハムスターそっくりの悲鳴をあげた。
南条も声こそこらえたが、驚いた拍子に机の上のマグカップを床に落とした。
「夜、南条をこっちまで連れてきて。私がヘドロ島まで案内するわ」
「僕の仲間です先生、敵じゃありません」
夜は言うが、南条はへっぴり腰で目を見開いていた。
「安心しなさい、生卵みたいに優しく扱ってあげる。ムカつくけど、あんたがいないとヘドロ島は守れないから」
「先生、いっしょに行きましょう」
夜が窓を開けると、そこから下りられるようにヴァルナが両手を置いた。
「こ、これに乗るのか!?」
「あんたが交渉を持ちかけたんでしょう。だから連れて行ってあげるって言ってんのよ」
「し、しかし――」
「『SAKURA』も持ってきて。向こうで五億円を現金で渡すわ」
「先生、『SAKURA』はどこにあるんです」
夜が訊ねると、観念したように南条は一度大きく息をつき、それから白状した。
「財布の中だ。ヘドロ島の件があってから、肌身離さず持ち歩いている」
財布の中からUSBメモリをとり出し、高く掲げた。
それをもとに戻してから、南条は続ける。
「僕はここで待つ。ヘドロ島にはきみたちだけで行ってくれないか」
「それは無理よ。私たちの前でプログラムを起動してもらうわ。こっちは現金で支払うんだから、そっちも誠意を見せて」
正論だ。
お手上げのポーズを作り、南条はしぶしぶ歩きだした。
まずマギが、窓からヴァルナの手に乗り移った。
夜も続こうとすると、心配したハム子から「大丈夫なんですか、有村さん」と呼び止められた。
「ごめんハム子ちゃん、コンテストは手伝えそうにない。望月先輩にも伝えておいてほしい」
ヴァルナの手に全員が乗ると、ヘドロ島へ向けて出発した。
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