第34話 大仕事

 昼食を早めに済ませ、夜はまだ誰もいない事務所で一人、準備をはじめた。


 凝り性のトビーから、コーヒーの淹れ方も教わっていた。ドリッパーにお湯をちびちびと差し、コーヒーサーバーに黒い液体が少しずつ滴るのを待つ。これがうまいそうだ。そのあいだにカップも温めないといけない。


 雷神チームのメンバーが続々と、一階のミーティングルームに集まってきた。頃合いを見計らい、夜もコーヒーを持ってミーティングルームに入った。


 全員がそろっていた。長方形のテーブルの両端にトビーとウパニシャッドが座り、奥の窓側に九条とタウチーとアーロン、その向かいに桜花と車椅子の乃雨が座るという配置だった。夜はカップを一人ひとりの前に置いていった。


「うーん、いい香りだ」


 トビーはカップを持ち上げると、立ち昇る湯気の前で恍惚の表情になった。


「この甘く気品ある香りこそブルーマウンテン。まさしくコーヒー豆の女王だ。これがあるから仕事もがんばれる」


「おれは酒のほうがいいがね」


 そう言ったのはアーロンだった。身長一九〇センチを超える黒人の大男が、小さなカップを人差し指と親指だけで、窮屈そうにつまんでいた。


「わかっちゃいないなあ。酒は明日の活力、コーヒーは午後の活力だ」


 たっぷりと香りを楽しみ、ようやくトビーは飲んだ。一口だけでカップを置き「腕を上げたな有村君」とねぎらった。


「ありがとうございます」


 夜は一人だけ立ったままだった。


「きみのようにコーヒーを淹れられる人間は本当に貴重だよ。うちはガサツな人間ばかりでね」


「以前は誰が淹れていたんですか?」


「おれだよ。おいしいコーヒーをみんなに飲んでほしくてね」


「インスタントを飲むと怒るんだぜ。過激派だよ」


 呆れたようにタウチーが言った。


「仕事が終わったら部屋から出ろ」


 油断する夜に、桜花から矢が飛んできた。これまで幾度となく心臓を正確無比に射貫いてきた桜花の矢だが、この日は厚みのある中年太りの体が立ちはだかり、弾いてくれた。


「いいや。今日は有村君にも出席してもらう」


 トビーから座るよう促され、夜は空いていた乃雨のとなりの椅子に座った。


「では、はじめよう」トビーは両手を軽く叩いた。「今日集まってもらったのは『SAKURA』の奪取作戦についてだ」


 来た。夜の胸が高鳴った。


「我々は南条教授を拉致する。もう失敗は許されない」


 ウパニシャッドが言った。背もたれに深く体を預けながら、くるみを左手の中で転がしていた。悪の組織のボスにしか見えなかった。


「しかし拉致しておいて交渉って、本当にうまくいくのかよ」


 アーロンが言う。


「それは風間に言え。あいつのアイデアだ」


 おや? 自分を拉致したときは、ウパニシャッドの案だと風間は話していたはずだが。


「あの弁護士、どうも信用できねえ」


 奇しくも夜と同じ感想を、アーロンは口にした。


「おれも苦手だな」タウチーも同意した。「弁護士ってさ、金さえ出せば殺人鬼や強姦魔だって弁護するんだろ?」


「つまりギャラが支払われているあいだは安心ってことだ」トビーが言った。「それにいま神楽のトップは風間だ。代表が自分の代理に、あいつを指名したからな」


「トビーを指名すればよかったのに」


「おれはそんなタマじゃないさ」


「南条教授の拉致ですが」桜花が切り出した。「私にやらせてください」


「いいや、島の防衛も疎かにできん。九条、タウチー、アーロンの三人だけでやる」


「しかし次は失敗できません」


「桜花さん、おれたちが同じ失敗をくり返すとでも?」


 カップに砂糖を入れていた九条が顔を上げた。


「あ、てめえ! また砂糖なんか入れやがって!」


 トビーは椅子から立つと、九条から砂糖をとりあげようとした。だが九条も「苦いのは苦手なんですよ」と言って抵抗した。


「他にも方法があります」


 それまで静かだった乃雨が発言した。そのせいか他のメンバーの注目が集まる。


「南条教授と平和的に話し合うんです。彼に信頼されている人間なら……」


「まだそんなことを言っているのか」


 桜花が不快そうに乃雨を睨んだ。


「南条から信頼されている人間に心あたりがあるのか?」


 ウパニシャッドから訊かれ、乃雨は夜に視線を送った。


「お、おれなら教授を説得できます」


 ナイスパスだ乃雨。夜はテーブルの下で拳を握った。


「きさまが?」


「おれは教授の教え子です。説得してヘドロ島まで連れてきます」


「いいねそれ。おれたちが楽できる」


 タウチーが指を鳴らした。


「リスクが大きすぎます」桜花がウパニシャッドに訴えた。「もし説得に応じなかったら、南条は警察に保護を求めるかもしれません」


「それは拉致して交渉のテーブルにつかせる場合でも同じさ」砂糖をトビーから守りきった九条が、今度はミルクも足しながら言った。「最終手段として脅迫や拷問は否定しない。けど平和的に交渉できそうなら、まずはそっちに賭けてみるべきだ」


「私も賛成です」乃雨も加勢した。「私たちはテロリストじゃありません。できるだけ平和的な方法を選ぶべきです」


「しかしおれたちの命運だってかかっているんだぜ?」アーロンが反論する。「最近入ったばかりのアルバイトに任せるのかよ」


「意見が分かれたか。なら、いつものやつだ」


 トビーは「従来の作戦」とだけ言った。すると桜花、アーロン、そしてウパニシャッドが挙手した。多数決をとるらしい。


 次に「有村君の案」と言う。真っ先に乃雨が手を上げた。トビーも「おれは人を見る目だけで、ここまでやってきた。有村君はできる男だ」と言って挙手した。タウチーも「べつに楽したいからじゃないぞ」と手を上げた。


「乃雨、情が移ったのか」


 ウパニシャッドだった。こいつ、乃雨にゆさぶりをかける気か? 夜は不安になり、乃雨のほうを見た。するとさっきまで元気に伸びていた右腕が、もう昼間のアサガオのようにしおれていた。


 がんばれ乃雨。いまは耐えろ。


 これで三対三だ。あとは九条だけだった。全員からの注目をものともせず、九条は砂糖とミルクたっぷりのコーヒーを納豆のようにかき混ぜ、ひとくち飲んでから言った。


「おれも有村君を信じる。オーファンズから助けてもらったしな」


「では決まりだ」


 トビーが両手を二度叩いた。桜花からため息が聞こえた気がした。


「さっそくだが今夜、クレイ商会の船が来る。有村君はその船で東京へ向かってほしい」


「クレイ商会?」


 夜は訊ねた。


「なんでも屋みたいなものだ。銃や弾薬、偽造身分証みたいな表じゃ手に入らないものも調達してくれる。クレイ商会なら東京まで安全に運んでくれるだろう」


「車ではダメなんですか?」


「ヘドロ島と東京を結ぶ桟橋には、政府の検問が敷かれている。尾行されるリスクもあるし、クレイ商会に頼むのが最善だ」


「わかりました」


「これがうまくいったら晴れて社員に昇格だ。がんばれよ」


「はい!」


 夜は乃雨のほうを見た。彼女もうれしそうに笑い、見返してきた。


 ようやく安心してコーヒーを飲めた。それまでよくわからなかった味も、ようやく楽しめた。コクのある上品で柔らかな舌触りだ。トビーが愛好するのもわかった気がした。

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